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姫路城は姫山の展望台



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平成15年7月12日(土)  メンバー 私だけ

姫山 ひめやま 45.7m

2万5千分の1地形図「姫路北部」を参照すること。


世界遺産 姫山?

午前中降っていた雨も上がり、近場で散歩気分で登ることができ、まだ未踏の山はないかと探すと一つだけあった。頂上に大きな木造6階建ての大展望台がある姫山という山だ。普通の人は単に姫路城と呼んでいるようだが。

実は姫路城には数回登っているが、登山対象として登ったことはなく、三角点がどこにあるかも確認していなかった。というわけで今回の登山は三角点標石の確認が大きな目的だ。地形図・点の記によると天守閣南側の広場の隅にあるようだ。

15:18
姫路城の南の入口、大手門に着いた。道を挟んだ南側は工事中で広い公園ができるようだ。土産物屋は姫路城と調和のとれた新築の建物に移転中だが、あのSARSに感染していたという台湾人医師が昼食をとった「高田の馬場」はもうしばらく現在地で営業を続けるようだ。

姫路城南の土産物屋「高田の馬場」

15:19
大手門(近年に作られたもので、姫路城には役不足の感がある)を抜けると三の丸広場の北に姫山が見えてくる。大きな天守閣を乗せられて重そうだ。今日は土曜日だが天気があまり良くないせいか、観光客は少ない。

姫路城大手門
観光門とも言う

三の丸広場
氷ノ山の三の丸とは大違い

三の丸広場の入口近くにある「文化遺産 姫路城」の石碑の裏には次のような解説があった。

世界遺産 姫路城

姫路城は、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約に基づき文化遺産として世界遺産リストに登録されました。
このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを正式に認められたことになります。

姫路城は、城主池田輝政が築城したもので、慶長6年(1601年)から8年余りの歳月をかけて天守など主要部が完成し、さらに元和3年(1617年)に城主となった本多忠政により、西の丸や三の丸が整えられました。
螺旋状に三重の濠をめぐらし、その内部に城下町をとり込んだ大規模な縄張りは、防御に工夫した日本独自の城郭の構成を最もよく示しており、天守群、櫓、門、土塀等の建造物群や濠、土塁などがよく保存されています。
姫路城は、現存する最大の城郭建築で全て木造です。木造の外側を土塁で覆い白漆喰で仕上げています。大天守は五層6階・地下一階で、各層に千鳥破風と唐破風を飾り、最上階を望楼とし三方に小天守を配置した連立式天守でその美的完成度はわが国の城郭建築の中でも最高の位置にあり、世界的にも例をみない貴重なものです。
白漆喰総塗籠の天守群の建ち並ぶ姿から「白鷺城」の名で親しまれており、桃山時代の技巧を駆使した近世城郭建築史上最も優れたものです。

登録年月日 平成5年(1993年)12月10日

世界遺産は文化と自然の部に分かれていて、姫路城は文化遺産になるようだ。ということは姫路城の下にある姫山も世界遺産なのだろうか。あの富士山もなれない世界遺産に選ばれるとは、姫山は日本を代表する名山なのだろうか。

それから、姫路城は「さくら名所100選の地」にも選ばれている。サクラの花が咲く頃は広い三の丸広場に花見客が何万人も来てすごいことになる。今年の4月6日の日曜日、天気もよくたくさんの人々が花見というか人見を楽しんでいた。

今年の姫路城三の丸の花見風景
毎日これぐらい来たらすごいだろうな


姫路城西の大柱

三の丸広場の天守閣寄りに、昭和の大修理のとき取替えられた「西の大柱」を展示している。350年ほど前に修理された部分がよく分かる。当時の冶金技術の粋を集結し帯金を巻き補強しているが、これを見ていると新幹線の高架橋の柱の鉄板巻きの補強工事を連想する。人の考えることは江戸時代と現代でもあまり変わらないようだ。

旧西大柱

ここに展示しているのは旧西大柱で、この柱は、かって大天守の地下階から6階までの各階を、もう1本の東大柱とともに些(いささ)かの躊躇(ためら)いもなく力強くつらぬき通し、木造の大きく複雑な重層構造を2本の大柱が構造主体となり、1本が100トンもの重量を支えて350年の長きにわたり大天守を守り続けてきた。
然しその間、両大柱とも明暦2(1656)年(城主榊原忠次)に、柱や土台などの腐朽で床面に高低が生じ、このため大柱の根元を高さ2.4m、柱四面の間仕切り部分を刳り貫き、ここに幅36cm奥行きもほぼ同じ大きさの栂の角材を挿入し、帯鉄巻き止めて固定するという補強工事が行われた。その後、貞享4(1684)年には、先の明暦2年に行われた修理材の上に補強材を加える工事が行われた。
このように築城後350年を大天守と共に歩んできた西大柱が、昭和大修理(昭和31年〜昭和39年)で、柱真に腐れのあることが分かり、取換えを余儀なくされ、新しい柱に事後を託して、今ここに創建材の資料として展示している。

西大柱のこと

旧西大柱の下方は樅材、上方が栂材で3階床上(下方から14.5mの位置)で二本継ぎになっていたが、全長24.7mにわたり、中心部が蒸腐りを起し再用不能で今回の修理では、桧材に取替えることになり、旧東大柱と同様、一本材の柱にすることになった。
ところが、原木を山から搬出途中に破損事故が起こり、修理では元通り3階床上での二本継ぎの柱になった。新しく取替えられた桧材は、下方が岐阜県恵那郡付知町の国有林から、また上方は兵庫県神崎郡市川町笠形神社から伐出されたものである。
ここに展示したのは二本継ぎで使用されていた旧西大柱で、明暦2年と貞享4年の修理の痕をはっきりと見ることができる。

東大柱のこと

もと、東大柱は樅材で、継手なしの通し柱であったが、今回の修理では根元5.4mを台湾桧で根継ぎして再用された。根継ぎのため旧東大柱の根元部(長さ5.4m、太さ横幅95.4cm奥行幅75cm)には、明暦と貞享年間に行われた修理の痕跡が旧西大柱同様に歴然と残されている。(旧東大柱根元の切断された材は、旧状の儘で現在、兵庫県立歴史博物館で展示されている)

旧西大柱の寸法

総長   24.7m
上柱の長さ   12.4m
下柱の長さ   14.5m
根元の太さ   横幅 95.4cm 奥行幅 75cm
末径   54cm角
総重量   約6屯
旧西大柱
350年間立ってたものを寝かしたら
朽ちるのも早いだろうな


これより有料区域

15:25
姫山の困ったところは、あの富士山でも取られない入山料を取られるところだ。大人は600円、子供は200円だ。ただし、4月6日の城の日は無料になる。営業時間などは下記の通り。

姫路城 登城ご案内

入城時間
1月〜5月
9月〜12月
9:00〜
16:00
閉門
17:00
天守閣・西の丸は
16時30分に閉まります。
6月〜8月9:00〜
17:00
閉門
18:00
天守閣・西の丸は
17時30分に閉まります。
登閣所要時間約1時間30分
休城日12月29日〜31日

15:32
姫山頂上へは「菱の門」をくぐり北に直進すればいいのだが、せっかくお金も払ったことだし順路に沿い姫路城を見学することにする。まずは「西の丸」の「渡櫓」と「化粧櫓」に行く。

昼間も暗い照明設備のない「渡櫓」の廊下を行くと小部屋がたくさん並び、その先には「化粧櫓」がある。「化粧櫓」だけ畳があり、千姫が侍女と貝合わせを楽しんでいる風景が再現されている。千姫の横に三毛猫がいて、城内に住み着いている野良猫がこんなところにまで入ってきているのかと思ったが、よく見るとよくできた作り物の猫だった。

貝合わせをする千姫
座布団を使う習慣はなかったようだ

化粧櫓

千姫が本多忠刻(ただとき)に嫁いで将軍家よりもらった10万石の化粧料で、この櫓を建てたと言われています。
階上には18畳、15畳、窓辺に6畳の3室をとって、天井には杉柾張り、壁面はすべて黒い木枠に紙を張ったものをはめ、すみずみまで技巧を凝らした住宅様式になっています。毎朝、千姫は城の西北にある男山天満宮を遥拝したと言われ、そのときの休息所がこの化粧櫓だったと言われています。
武蔵野御殿跡など桃山時代の居館様式を示す建物が姿を消している今、化粧櫓はわずかに当時をしのばせてくれるものだけに、その存在価値は大変大きいものです。

千姫(1597〜1666)

慶長2(1597)〜寛文6(1666)年。江戸幕府2代目将軍徳川秀忠の長女。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大阪夏の陣で秀頼が自害し、死別。元和2(1615)年、本多忠刻に再嫁しました。
ここにある人形は、弘経寺(茨城県水海道市)所蔵の「千姫姿絵」をもとに再現したものです。煙草盆があることから、煙草を嗜んだことがわかります。また情景としては、貝合を楽しんでいるところを想像してみました。

15:53
「化粧櫓」を出て「はの門」、「にの門」を過ぎ「ほの門」に近づくと眼前に「乾小天守」が現れる。この小天守は特別公開のときだけ入れるが、普段は外から見るだけだ。ここから大天守の周りを回り南側の備前丸に向う。

乾小天守
乾とは北西のことだ


三角点標石はどこに

16:00
大天守南の備前丸に到着し、ここが姫山の頂上だ。北は天守に展望を妨げられているが、南には姫路市外が広がっている。

三角点標石を探すがなかなか見つからない。周りはきれいに整地され籔があるわけでもなし、一目で見つかると思っていたが考え違いだったようだ。

備前丸南東側のベンチの近くの敷石の一部に不自然な箇所を発見。敷石になにやら字が彫ってあり左右には持ち上げられるように切り欠きがある。

この下に三角点の標石あり

この下に三角点標石があるようだ
不自然な敷石だ

下に三角点標石の頭があると思い敷石を持ち上げてみた。しかしパイプが埋められていて、15cmぐらい下に底が見えるが土が被さり三角点標石自体を見ることはできなかった。もちろん触ることも出来なかった。

三角点標石は見えない
これを外す人も少ないだろうな

おそらく消防設備などを設置するのに地面を掘ることができないので、設置した設備が隠れるまで土を被せたので、三角点も地中にお隠れになってしまったのだろう。

三角点標石を確認するという目的は半分しか達成できなかったが、とりあえず天守閣にも登ってみることにする。

16:17
急な階段を登り天守閣3階まで登ると、「開かずの間」が特別公開されている。その中ではなんとあの宮本武蔵が勉学に励んでいる。NHK大河ドラマの盛り上がりがもう少しあったら、今頃は押すな押すなの盛況になっているだろうが、子供たちが覗き込んで「こわーい」などと叫び近づこうともしない。

勉学中の宮本武蔵
私の子供もここに閉じ込めたら勉強をするだろうか

姫路と武蔵

剣豪として親しまれる宮本武蔵は姫路城と深い関わりがありました。
兵法者として旅立つのを前に姫路城開かずの間に3年近く篭って万巻の書を読み、城下の花田橋で一途に慕ってくるお通と分かれる小説の感動的な場面は剣に生きる者の厳しさをよく表しています。
城主が本多輝政の頃、天守閣に宿る刑部明神が魔物に化して現れたのを見事に退治する話も武蔵の剣が人間わざを超えていたから伝えられて来たのでしょう。
武蔵は姫路藩高砂に生家がありましたから回国修行の途中にしばしば立ち寄り、時の姫路城主らと親しくしていました。
なかでも城主本多忠政の嫡男忠刻とは剣についてよく語り、その指南を武蔵は弟子三木之助に任せました。白く映える城を背に剣を鍛える忠刻と、頼もしげに眺める奥方千姫の姿は絵姿そのものだったことでしょう。
ところで宮本武蔵と姫路を語るには書写山にある本多家廟所がかかせません。大講堂東手の端正な白壁の塀で囲まれた御廟には姫路藩主本多忠政の嫡男で、徳川家康の孫千姫の主人だった忠刻の墓と、それに沿うようにしてある武蔵の弟子三木之助と、そのまた弟子の角兵衛の墓石がとくに注目されます。
武蔵から忠刻の剣の指南役を命じられていた三木之助は江戸にいて忠刻の死を知り、急ぎ主君中刻の墓前に参上し、切腹して果てました。その死を介錯した角兵衛もまた師三木之助のために殉死するほかありません。
「死にとむな あら死にとむな さりとては 思えば深き君のお情け」と角兵衛は辞世の歌を残しています。武士主従のしきたりだった殉死に非情さがあらためて思われます。

作家 寺林 峻



姫路城「開かずの間」特別公開中

吉川英治著の「宮本武蔵」光明蔵の章では、武蔵が姫路城天守閣の開かずの間といわれる一室に3年間幽閉され、精神修行を積み、その後、池田輝政から宮本武蔵の名を授かり、旅立っています。
天守閣3階にあるこの部屋は、大正元年の一般公開以来、これまで一度も公開されたことのない開かずの間です。
小説の中に登場する開かずの間の様子は、このような感じだったのではないでしょうか。

ひめじ武蔵観光推進協議会


光明蔵

真っ暗だ。……開かずの間といわれる天守閣の高いところの一室。
ここには暦というものがない、春も秋もない。また、あらゆる生活の物音も聞こえて来ない。
ただ一穂の燈し灯と、それに照らさるる武蔵の青白く頬の削げた影とがあるだけであった。

      (略)

机のそばには、まだ山のように書物が積んであった。和書がある。漢書がある。またそのうちにも、禅書もあるし、国史もあり、彼のまわりは本で埋まっているといってもよい。

吉川英治「宮本武蔵」より

16:21
天守閣最上階に着いた。ここからは四方に展望が開け(窓にはまっている桟が邪魔だが)南には姫路市街地が広がりその先には家島の島々が見え、北を見ると広峰山から増位山、西を見ると私の家が見える。なかなか良い展望台だ。

天守閣より南の展望
瀬戸内海、家島も見える

天守閣最上階には長壁神社が祀られている。大きなものではなく、境内が3m四方程度の非常にこじんまりとした神社だ。

御祭神 姫路長壁大神 播磨富姫神

姫路刑部大神は延喜式に、富姫神は播磨国大小明神社記に記され、古代より姫山に鎮座された由緒ある地主神である。
城主池田輝政が、城内「との三門」の高台に祀り歴代城主は手篤く崇敬する。寛延元年(1748)城主松平明矩のとき長壁(おさかべ)大神と改める。
明治12年(1879)総社に移されたが、のち勧請され天守楼上に祀る。
明治15年城内備前前屋敷の火災、昭和20年7月3日(1945)大空襲には、奇跡的に炎上を免れた。
姫路城の守護神であり火災・災害等にご霊験あらたかで、人々の信仰が篤い。
毎年6月22日、ゆかた祭りとしてご神徳をたたえる。

姫路城を守る会

16:45
天守閣からの下山途中に井戸がある。「一枚足りない」で有名な「お菊井」だ。かなり大きな井戸で、これなら人を投げ込むことができただろう。

お菊井
夜になったら「うらめしやー」と出てきそうだ

お菊井

永正年間(1500年頃)、城主小寺則職の執権青山鉄山が主家横領を企てているのを、忠臣衣笠元信の妾(いいなずけ)で、青山家に住み込んでいたお菊が探知し、元信に知らせて城主の難を救いました。
しかし、鉄山は浦上村宗等の加勢によって則職を追放し、一時主家を横領しました。
村宗等を招いた饗宴の際、お菊を恋慕していた町坪弾四郎は、家宝の十枚揃いの皿の一枚を隠し、お菊を責め殺し井戸に投げ込みました。
その後、毎夜この井戸から皿を数えるお菊の声が聞こえたということです。やがて、元信らが、鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社の境内に祀られました。

17:10
姫路城を後にし帰途につく。

姫路城の近くに住み何度か天守閣まで登っているが、来るたびに新たな発見のある、奥深い城だ。



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