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5年ぶり4回目の高御位山



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平成16年2月8日(日)  メンバー 私だけ

高御位山 たかみくらやま 299.8m

2万5千分の1地形図「加古川」を参照すること。


ふるさと兵庫50山、高御位山

高砂市と加古川市の境に位置する「高御位山」は「ふるさと兵庫50山」に選ばれた、県内でも有名な山でWEB上にも山行記録が数多く発表されている。いまさら私の高御位山の記録を出してもしょうがないような気もするが、せっかく高御位山に登ってきたのだから記録をまとめることにする。

高御位山に登るのは5年ぶりの4回目で、今日のルートは西側の鹿嶋神社から登り始め、百間岩から地徳三角点、稜線を東へ進み高御位山頂上へ。頂上から南に岩尾根を下り長尾へという極普通のものとした。


鹿嶋神社から百間岩

9:48
最近では珍しく自分で車を運転して、鹿嶋神社のチタン製大鳥井横の駐車場に到着。日曜日なので参詣客の車がたくさん止まっている。

駐車場から「国威宣揚 武運長久」と両柱に彫られた「鹿島神社」の扁額がかかる石鳥居を抜け、両側にかしわ餅屋が並ぶ参道を行く。帰りにお土産にかしわ餅を買って帰ろう。

神社の入口に縁起書が掲示されている。

鹿嶋神社縁起について

この部落は元禄2年(1689年)編纂の「姫路御領内村々控」の中にはじめて地徳新村として記載されておりますから村として認められたのはそんなに古いことではありませんが、只今の部落東方約700mの字西坂(香呂山)と言うところに大日屋敷と言う地名が残っており、かってはここに今の阿弥陀部落西端にあります岩尾山大日寺の前身であるお寺があったことが言い伝えられておりましてその遺跡から今日尚発掘されます瓦の鑑定の結果では藤原時代のものとされております。また他の史実によりますと「天正の頃阿弥陀村香呂山字大日屋敷に大日山構居あり」とあってそこには当時の三木城主別所長治の幕下蔭山某がおったと伝えられておりますところから考えますと、この地には寺院もあり砦もあって盛んだったことが偲ばれるのであります。
寺院には鎮護として境内に守護神を祭ることは当時の慣わしであり武士の構居のあった当寺院にも武神武甕槌命、経津主命が祭られておりました。ところがその後、天正6年羽柴秀吉の軍が志方神吉の城を攻略いたしました際にこの地も戦火を蒙って灰じんに帰したといわれております。こうしてこの地は戦国末期に一時荒廃していましたが私どもの先祖はこの地を慕って再開発を志しましたのが寛文の初め頃(300年前)と推定され、寛文5年の初頭には時の藩主榊原忠次公の命により奉行安藤左近右ヱ門、冨塚久右ヱ門の両名が実地見聞吟味の末願出の通り許可になったことが書残されております。
やがて開発が進み住みつく人々の数が増えるにつけ鎮守の宮建立のことが義に上がり只今の社域景勝をもって聞こえる鷹の巣掛山の栄をトして社を建て、かつての祭神即ち武甕槌命(たけみかづちのみこと)経津主命(ふつぬしのみこと)を勧請いたしました。尚、社殿の建設に際し当時の藩主松平直矩公にはこれを奇特のこととして各種の資材を寄進されております。
かくして当社は代々の姫路藩主の祟敬篤く元禄元年(1688年)の再建に当っては境内地として50間四面の土地が献ぜられ社地を免除地とされたことが古文書に残っており、また祭礼の時には藩主より特使が派遣されて奉斉されることが例となっておりました。この間に神威のあらたかなことが次第に遠近に聞えて「鹿嶋大明神」としてあらゆる階層の人々が親しみ詣でて今日に及んでおりますがその間の消息が古い絵馬や今日社務所に所蔵しております「鹿嶋大明神」という享和元年(1801年)の圓誉上人の書になる掲額を見ましても窺えるのであります。
当社はその信仰の面からは一人一願を心定めてお詣りする時の霊験の著しいことを以って一願成の神として聞こえております。また神社前にて香をたくと言う珍しい慣わしがありますが、これは戦国時代武将が出陣に臨んで神社に詣で甲(かぶと)に香をたきこめた勇ましくも床しい故事が慣わしになったと伝えております。 何時の頃よりかお礼詣りする人々が常緑樹の苗木を奉納することが例となり一名青木の神とも言われて来ておりますが現今ではその常緑うっそうして神域の荘厳を加えております。
以上極めて簡単でありますが当社の縁起を述べさせて頂きました。私共は先祖の霊眼によって名付けられたこの「地徳」の村の名をはずかしめぬよう、いよいよ神意に添い奉って御参詣の方々と相共に弥栄えゆきますよう奉仕の誠を尽くさんことを期しております。

石畳が真新しい鹿嶋神社
登山口はこの先

9:58
あの有名な法則「登山口は神社の裏にある」はここでも当てはまり、石段を登った社殿の左に「鹿島自然公園入口 展望台・児童遊園・桜並木」の案内がある。赤い「八秀稲荷大明神」の木の鳥居を抜け石段が登っているのが、高御位山への登山口だ。

10:02
石段を登って行き、左からの道と合流した先に左手に階段状になった岩がある。多くの人が歩いたためか岩が磨耗している。ここを左に入ると児童公園?・展望台から百間岩に行くことができる。直進して百間岩の上部に出る道へ行ってもいいし、谷をぐるりと巻いて反対側の馬の背から登ることもできる。

普通の人はここから百間岩へ行くのだが、何一つ案内がないのが不思議だ。

10:07
南の中所登山口からの道、西の別所高校からの道との十字路を北に行くと、児童が遊んでいるのを一度も見たことない「児童公園」の先に「展望台」がある。20人ほどの人が百間岩を登っているのが見える。早くも暑くなってきたのでここで服を一枚脱ぐ。

百間岩は名前の通りの巨大な一枚岩の斜面で、傾斜は30度ほどだが摩擦係数が大きくぐいぐい登っていける。しかしこの岩場は写真を撮る度に急になっていくのは気のせいだろうか。

撮る度に急になる「百間岩」
次はオーバーハングになるかも

10:29
ようやく百間岩を登り終えた。趣味の写真を撮らないで、普通に登ればこんなには時間はかからない。百間岩で追い抜いていった人たちは岩に這いつくばって写真を撮っている私を見て変に思ったことだろう。


三角点ピークから高御位山へ

10:38
「姫路火力東線32」の送電線鉄塔の先に近畿地方建設局の「別所奥山反射板」ある。ここは「別所奥山」なのだろうか。西側一帯は山火事から回復することができずに禿山状態になっている。表土が薄く保水力がなく植物にとってはきびしい環境なのだろか。西の209m標高点へ行く踏み跡が延びている。

北西の264.2m三角点ピークと手前のピークが双耳峰のように見え尾根筋に白く道が延びている。高御位山までの稜線に三角点ピークを含め数ケ所のピークがあり、そのピークの名前に関心を持つ人たちがいる。そのような微細地名さえも話題になるとは、さすが「ふるさと兵庫50山」に選ばれた高御位山だ。

三角点ピークへの登り
面白い山だ

11:01
264.2m四等三角点ピーク(点名:地徳)に着いた。ここには「鷹ノ巣山 山頂 山を美しく! (ゴミは、各自持ち帰りましょう)」という表示がある。道もはっきりしていて迷いようがないのか高御位山には古く文字がかすれた道標しか立っていない。

休憩中の団体を追い越し、桶居山への分岐点の先の急な下りを終えると、その先は高御位山頂上まで比較的緩やかな上り下りとなる。

11:39
高御位山頂上西の260mほどのピークに着いた。頂上の西側にある電波反射板が見え、頂上の賑わいを予測してかこのピークで昼食をとっている人たちが大勢居る。

高御位山の頂上が見える
もうすぐ頂上だ

11:52
関西電力の電波反射板に着いた。反射板を囲むフェンスの東側が長尾への下山口で、そこには古い鳥瞰図があるが残念ながら文字は薄れ読み取るこができない。

その横には「平成6年7月 高砂市制40周年記念」の山名方位盤がある。西の方から書写山、後山、氷ノ山、雪彦山、段が峰、笠形山、千ケ峰、篠ケ峰、白鬚山、大野山、六甲山、麻耶山、山上ケ岳となっている。播州の外れだけあり東半分は登ったことのない山が並んでいる。

また、その横には「天乃御柱天檀」と彫られた円柱の建つ高御位神社の礼拝施設がある。

高御位山の頂上

頂上は東西に岩場が続き南側は断崖となっている。麓から見上げるとこの岩場がひときわ目立つ。299.8m三等三角点標石(点名:高御位)は岩場下の高御位神社の拝殿の脇に頭だけを出し埋まっている。高御位山の最高地点は300mを越えているのは間違いない。

高御位神社
車道のない山頂の神社の中では大きいほうだろう

東向きの神社から東に石段を下りると由緒書きの石碑がある。

高御位神社由緒略記

一.創立   欽明天皇 10年3月6日 伝
ニ.再建  本殿社務所 昭和58年4月火災焼失
            昭和58年12月吉日再建
三.御祭神 高御位大神 大己貴命 大国主命とも云う
            少彦名命 淡嶋神とも云う
四.御祭禮   春期祭 4月21日
        夏期祭 7月21日
        月次祭 毎月21日

往昔、高御位山は大己貴命、少彦名命二神が天津神の命を受け国造りのため御降臨の所と謂われ、このニ神のなせる業を偲び高御位大神として御社が建立されたと伝えられている。
高御位神社は御山全体を御神体として庶民の祟敬を集め神の鎮り給う霊域清澄神気透徹する境地である。播磨国神名帳にも当地方大社二社の内の一社なりと明記されている。
高御位大明神は静かに微笑み下界を見下し諸人をお守り下さる広大無限の大神である。見下ろされる神と仰ぐ人との心が一脈通じ連綿として古代より現在へと受け継がれてきた。
そこに高御位大神のゆるぎなき尊厳がある。
神人一如是高御位大神の御姿である。

昭和58年12月吉日

また次ぎのような奉加の協力を求める趣意書も掲示してある。

趣意書

当高御位神社は、今から1450年前の欽明天皇10年3月6日にこの高御位山のお山全体をご神体とし、小さな祠が造られ、その後、江戸時代の中頃に新しく作り替えられるなど、山岳信仰の名残りを止めながら神人一如の守り神として、この地方の多くの人びとに、崇められ、親しまれ、山頂のこのお社と下界の人の心が、一脈相通じ、古代より現代へと、今もなお、連綿と続いております尊い神社でございます
不幸にも去る昭和58年4月に不慮の火災のため焼失してしまいました。これは千載の痛恨事でございましたが、その後、麓の成井部落が中心になりまして三千有余名の方々から御浄財を仰ぎこのように立派に再建させて頂いたところでございますが、近年になりまして、山頂特有の風雨が災いして、本殿の柱の腐食が甚だしく、このまま推移すれば、折角の由緒ある歴史と遺構を傷うことが懸念されるところでございます。
つきましては、この際、本殿の一部を修復致し、以って御神徳を顕楊し奉ることを期したい所存でございます。
願わくば、趣旨をお汲み取り下さいまして、何分の御奉加のご協力を賜りますよう、伏して、懇請申し上げる次第でございます。

平成15年8月吉日 高御位神社運営委員長

半年がたち、まだ目標金額が集っていないようだ。

山頂の東端には「飛翔」と名付けられた顕彰碑がある。

「飛翔」碑
ここから飛ぶなんてすごいな

先覚があった
彼を渡辺信二といった
志方町の人である
大正10年(1921年)10月17日
彼自らが創作した滑空機に
彼自身が搭乗し天空を目指
してここから飛んだ
滑空距離300メートル
時に21才であった
ここへの搬上は下之丁青少年が
かってでた その実行にあたって
は渡辺準 竹内忠雄 藤本和蔵
池沢徳次 平田重成等がすすんで
力をかした つまり協力してその
滑空機を持ちあげ臂力のみ
で放った
関西における実に最初の
飛翔であった

「飛翔」渡辺信二飛行士 顕彰碑

  碑銘   航空局長 倉持繁文
  碑文   藤本和蔵
  飛翔像  東村正久
  空輸   大阪エアーウエーズ 井上長一
  施行   前川甚三郎
  奉仕   成井及下の町 其他有志
  篤志者  四百五拾余名

 昭和56年10月17日建立
 番茶クラブ 志方町

東へ300m飛んだと仮定すると標高100mほどの山中に降りたことになる。その標高差は200mで滑空比は1.5となり、かなりの急降下だったろう。怪我をしなかったか心配だ。

滑空した日から60年後に建てられた顕彰碑で、碑文に傷が多く写真から解読するのに小一時間かかってしまった。


下山は長尾へ

12:38
昼食後、頂上西の電波反射板横から下山を開始する。デジカメの電池が冷えてしまいシャッターが切れなくなってしまった。しかし、電池を取り出しポケットに入れしばらく暖めたら使えるようになった。

13:00
南への岩尾根を下り「姫路火力東線36」の送電線鉄塔に着いた。前に来た時はそのまま南に下りた記憶があるが、東側にも道が延びている。

13:08
シダと雑木の斜面を下ると「DOH断食センター」の最上部に下りてしまった。「時 聖業開闢 自然調和世界開顕之大聖業発祥」のブロンズ柱が建つ、ある宗教団体が運営する施設で人気のない木造の平屋建てが数棟並んでいる。

13:23
表通りに出ると、高御位山頂上から見えていた池の中に円形の半島が出ている溜池がある。名前を「阿弥陀新池」といい円形半島部分は公園で、半分は駐車場になっている。一般の人も車を止めてもいいみたいだ。

農林水産省補助事業 阿弥陀新池

阿弥陀新池は高砂市阿弥陀町の地名から親しみを込めて名づけられ、地元の住民の大切な水源となっています。
池の中にある公園は、上から見ると丸くまるでてんとう虫の形にも似ています。
この池が所在する高砂市は播磨臨海工業地域にありながら、池付近は自然に恵まれています。
北側には岩山や丘陵が連なっており市民のハイキングコースになっています。

事業主体:兵庫県三木土地改良事業所
ため池管理者:高砂市阿弥陀東部水利組合

阿弥陀新池の北側には「長尾登山口 高御位山まで40分」の道標が立っている。

13:41
馬の背の尾根を下るハイカーを見ながら、鹿嶋神社の駐車場まで戻る。お土産にかしわ餅を買って帰途につく。



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