山行記録にもどるホームにもどる



世界遺産姫路城十景「景福寺山」公園



スポンサード リンク




平成16年2月22日(日)  メンバー 私だけ

景福寺山 けいふくじやま 51m

2万5千分の1地形図「姫路北部」を参照すること。


午後からの降水確率80%

天気予報では雨が降ると言っているが、昼を過ぎても空は明るく降りそうにない。今からではどこの山にも行けないので、近所の丘に登ってみることにした。

姫路城から見て南西方向にある、標高51mの「景福寺山」で、「播磨国風土記」の伊和の里十四の丘の一つ「船丘」に比定されている丘だ。東西に長く、南側は古くからの墓地、北側は公園になっている。


南側の景福寺から登る

景福寺山の南側には山名の元となった景福寺がある。境内の入口脇には次のような解説板が立っている。

姫路城主・酒井家の墓所

喜代(きよ)姫<晴光院>・喜曾(きそ)姫あ、喜光院>・婉(えん)姫<貞勝院>の墓

酒井家は、江戸時代の中期から明治初年まで姫路城主なりました。酒井家のうち姫路城主の最初は忠恭(ずみ)で、1749(寛延2)年に前橋から移封されてきました。以下二代忠以(ざね)・三代忠道(ひろ)・四代忠実(みつ)・五代忠学(のり)・六代忠宝(とみ)・七代忠顕(てる)・八代忠積(しげ)・九代忠惇(とう)・十代忠邦(くに)と続いています。
喜代姫は五代忠学夫人《11代将軍徳川家斉(なり)の娘》、1868(明治1)年に亡くなりました。
喜曾姫は六代忠宝夫人《忠学と喜代姫の子、城主忠宝は養子》1870(明治3)年に亡くなりました。
婉姫は八代忠績夫人で1862(文久2)年より姫路の東屋敷に住み、5年のちに亡くなりました。
3人の夫人の墓所は、ここ景福寺の境内ですが、三人の城主の墓は前橋や東京にあります。横の小さな墓碑は、酒井家の子どもたちのものです。
裏山の山頂には、姫路城主松平明矩の墓所もあります。

2枚目。

景福寺(曹洞宗)

古くは摂津国にあったが、天正年中に戦火をさけて姫路へ移り、池田輝政の築城の時、坂田町に寺を建てた。
寛延2年(1749)松平朝矩(とものり)が前橋に移封されるにあたり、菩提寺も移り、その跡地である現在地へ、藩主酒井忠恭(ただずみ)の命で景福寺が移り、酒井家の菩提寺となった。境内には藩主酒井忠学(ただのり)の室となった十一代将軍家斉(いえなり)の娘、喜代姫及びその娘喜曽姫(藩主酒井忠宝(ただとみ)の妃)、藩主中績(ただしげ)の室婉(えん)姫の三人の墓がある。北の景福寺山には、姫路城主松平明矩の墓所と姫路藩士たちの墓石がある。
明治11年に六群立の姫路中学校も景福寺に間借りして誕生した。

平成4年3年 姫路教育委員会

仁王門の右手には解説板にあるお姫様の墓が並んでいる。しかし何故かお墓の手前に柵があり近づくことはできない。

姫路城のお姫様たちのお墓

景福寺の仁王門をくぐった先の境内は本堂や庫裏や保育園に完全に囲まれている。「兵庫の山々 山頂の記録」によると本堂左手の引き戸を開けると景福寺山への道があるとのことで、おそるおそる引き戸を開けてみると情報通りそこには墓地があった。

狭い墓地には古いのから新しいものまで窮屈そうに立ち並び、本堂の裏手には古い墓石・石仏が集められている。墓地の管理も永い年月が経ると、捨てることができない墓石が集積し大変そうだ。

墓地の奥から景福寺山に登る九十九な道が始まり、道の脇の斜面には石仏や墓石が草木の中に隠れるように立っている。山登りというよりは墓参りのようだ。

西国三十三霊場?の石仏が点々と
草が茂っている


景福寺山上は墓地が広がる

山上は東西に長く、墓石が草木の中に点々と立っている。今風の公園墓地と違い整然とした感じは全くなく、墓石が倒れているものもあり荒れ果てた感じもする。

景福寺山、山上墓地を行く
いつどうして倒れたのだろう

天保(1644〜1647)・文政(1818〜1829)・嘉永(1848〜1853)・文久(1861〜1863)などの数百年前からの年号が刻まれた墓石もあり、姫路藩の武士のお墓なのだろうか。

山上中央に、ひときわ大きなお墓がある。寛保元年(1741)に姫路城主となった松平明矩の墓所だ。寛延元年(1748)に亡くなったが、その翌年から松平家に代わり酒井家が姫路城主となり明治元年まで続く。

そのために墓所を守る人もいなくなってしまったのだろう。それ以来250年が過ぎ五輪塔こそ倒れていないが、門の石扉は倒れて割れ、墓所を囲む石柵もことごとく倒れている。五輪塔の土台石もかなり歪んでいて、塔自体も数百年後には今の姿を保ってはいないだろう。

墓碑銘は硬い石に細かい字で彫られ、今でも明瞭に読み取ることができる。しかし、如何せん平仮名のない漢字だけの文章で今の私には理解できそうもないし、白っぽい石で写真写りが悪くここにその墓碑銘を再現することもできない。

姫路城主、松平明矩の荒れ果てた墓所
復元するにも莫大なお金がかかるだろう


北側は景福寺公園

山上墓地の北東の端近くから、景福寺山北側の中腹にある「景福寺公園」に下りる小道があり、「展望広場」へと下る階段の上に出る。展望広場からは姫路城天守閣がきれいに見え、ここは「姫路城十景」の一つになっている。

前にこの公園に来た時は草が茂り荒れていたが、展望広場に下りる階段の脇に急なスロープが付けられるなど整備がされていてきれいになっていた。しかし相変わらず誰もいない淋しい公園だ。私は見たことが無いが、この辺りにはホテルロンドンの焼け落ちた廃墟が永くあったところでその影響もあり、近所の人は近づかないのだろうか。

景福寺公園からみた姫路城
降水確率80%の空

世界遺産姫路城十景

姫路城は平成5年(1993年)12月に世界遺産として登録されました。これを記念して姫路城ビューポイントを公募し、その結果をもとにして、「世界遺産姫路城十景」を決定しました。姫路城が最も美しく見える10ケ所です。

景福寺公園

景福寺公園は、平成6年3月31日に都市公園として一部供用を開始し歴史的にも由緒ある景福寺山にあります。景福寺山は播磨風土記の十四の丘の一つである「船丘」がこの山であると推定されています。その後西岸寺山・孝顕寺山・嵐山・郡鷺山などと呼ばれてきましたが、山下の寺が景福寺となってから今のように呼ぶようになりました。

姫路市

景福寺公園の入口にはトイレもあり駐車場も整備されている。しかし今は近くの建築工事現場の車が止められていて利用できない状態だ。



スポンサード リンク



山行記録にもどるホームにもどる本ページのトップ