山行記録にもどるホームにもどる



置塩山から南条山・棚原山へ



スポンサード リンク




平成16年3月20日(土)  メンバー 私だけ

置塩山 おきしおやま 370m+
南条山 なんじょうやま 439.8m
棚原山 たなはらやま 400m+

2万5千分の1地形図「前之庄」、「姫路北部」を参照すること。


三山一日

凡太郎の山歩き「夢前町:棚原山〜谷山〜置塩城址」と、
兵庫の山 写真帳「谷山」で置塩山から南条山へ尾根伝いに直接行ける事を知った。

置塩山(置塩城跡がある山で、地形図では西側のピークが「城山」となっている)と、置塩山から東に尾根続きの南条山(地形図には山名は記載されてなく、二等三角点「谷山」がある)と、南条山から北に尾根続きの棚原山(地形図に山名は記載されてなく、三角点もない)は2002年に別々に登ったことがあるが、今回まとめて登ってみた。

置塩山から南条山への尾根には明確な踏み跡があったが、もうすぐゲートが下りてしまう。そこではイバラという名の手強いゲートキーパーが目を覚まそうとしていた。

過去の私の山行記録
2002年 9月 置塩山 夢前町の赤松氏城跡、置塩山
2002年11月 南条山 暮坂峠から南条山まで往復
2002年10月 棚原山 緑の登山道、棚原山


置塩山へ

妻の運転する車で送ってもらい、夢前町宮置の置塩城跡登山口に着いた。櫃蔵神社の南、夢前川左岸の登山口駐車場は車が20台は止められる広さがある。

8:56
登山開始。登山口には城跡の案内図や石碑、案内柱などが立っている。

置塩城跡登山口
城跡の案内図がある

史跡 置塩城跡   夢前町

別名を藤丸城、後期赤松氏を再興した播磨、備前、美作の大守赤松政則が文明元年(1469)に築城した。
後期赤松氏の本城で本丸、ニの丸、三の丸をはじめ幾多の砦、土塁、空掘り跡が残り中世山城の壮大な城域が偲ばれる。五代則房が天正5年(1577)羽柴秀吉に服して開城、阿波国加嶋へ移るまで百余年間続いた。
標高370m。城域は山上約6ha。これより本丸まで徒歩約60分、途中に門の跡なども見られ、城跡からは四方の展望がすばらしい。

登山道は良く整備されている。急なところは九十九に登り、全て緩やかな登りになっている。ごく一部は植林だが、ほとんどは雑木林の中を登っていく。しかし常緑広葉樹が多い暗い雑木林で面白みに欠けるのは少し残念だ。

登山道の脇には夢前ライオンズクラブが設置した丁石があり、登山口が一丁、城跡が十八丁となっている。あとどれくらい登ればいいか分るので便利だ。九丁の手前に展望地があるが、それ以外は黙々と登るだけだ。

五合目(九丁)
丁石は一本50kg以上あり、設置時の苦労が偲ばれる

9:44
登り始めてから約50分。ようやく置塩城跡に着いた。本丸跡まではもう少しあるが石垣・曲輪・土塁跡があり往時の置塩城の規模の大きさを感じられる。

姫路城の材料とするため置塩城は解体され運ばれたというが、今でこそ機械力を総動員すれば可能だろうが、全て人力で山から降ろし10km以上の距離を運んだなど信じられない。

置塩城跡案内図
平成8年と少し古く
最近の発掘調査の成果が反映されていない

案内図の右下や各所にある警告板。

遺物持ち帰り
禁 止
夢前町教育委員会

百年間続いた城跡なのでどこを掘っても何か出てきそうだ。城跡愛好者なら時間をかけて巡るところだが、登山家?の私は真っすぐに目的地の本丸跡を目指す。

10:00
本丸跡に着いた。いたるところが発掘されその跡にブルーシートがかけられている。何が出たのだろうか。

次の目的地、南条山が近くに見える
シートをめくったら何があるのだろう

本丸跡にアセビの木が1本あり、地味だがよく見ると可憐な小さな花がたくさん咲いている。フキノトウも芽吹き春はもうすぐだ。


南条山へ

置塩城本丸跡から東へ70mほど下り、140mほど登り返せば南条山に行けるのだが、見た限りでは道や切り開きはないようだ。本当に行くことが出来るのだろうか。

10:26
どこから下ればいいか皆目分らないので、少し左側から下りて右に回りこむようにして、あるかもしれない踏み跡を探すことにする。しかし、山城の本丸跡だけのことはあり、周囲は非常に急勾配で下るのも横に回りこむのも困難だ。それでも木につかまりながら回りこんでいくと、あっさりと踏み跡を見つけることが出来た。

踏み跡は非常に明確なもので本丸跡から真っすぐに尾根に向かって下っている。本丸跡のどこから下っているのか確かめようかなと思ったが、あまりにも急なため戻るのは諦める。踏み跡には古いものだが目印も付けられている。

10:40
鞍部付近は枯れたススキの中に踏み跡が延びている。日当りも良さそうでイバラも混じるこの鞍部を冬場以外に通過するのは困難だろう。

鞍部は雑木とススキの籔だ
冬場の通行は問題ない

踏み跡には赤プラ杭が所々に打ってあり、真っすぐに南条山へ登っていく。雑木の中の猛烈に急な登りになるが一応切り開きがあるので、籔漕ぎにはならない。しかしここの登りもイバラが目立つ。

11:10
置塩城本丸跡から下り始めて40分、ようやく南条山から西に延びる尾根の肩に着いた。そこは植林の中で、木札が2枚下がっている。しかし、吊位置が少し高いため見過ごすところだった。

(西向きに)置塩城跡

(東向きに)谷山三角点経由棚原山

11:14
尾根にテレビの共同受信用アンテナが立っている。メンテナンスのためにここまで誰かが来るのだろうが大変な仕事だ。

三角点までの尾根は予想外にひどい籔で、踏み跡は尾根の中心を外し南側に付いている。

11:30
籔を掻き分けようやく439.8m二等三角点(点名:谷山)がある南条山の頂上に到着。プレート類はO柿さんの2002年「mTB登山」のものだけが下がっている。展望はよくなく、ブールーシートの青色が目立つ置塩城本丸跡が見えるくらいだ。

南条山から見た置塩山
ここに来るのは2回目だ


棚原山へ

11:44
三角点から東に植林(不自然に平らだ)の中を2分ほど進むと、案内板が3枚木から下がっている。三角点の西にあった案内と同じ人が吊るしたようだ。

(南向きに)暮坂峠

(西向きに)城山、(北向きに)棚原山

(西向きに)三角点経由城山、(北向きに)棚原山
(違う人の字で)暮坂峠から丁度2時間

こんなとこまで来る人にとっては、不必要な案内だろう。

11:48
平らな頂上付近は踏み跡も薄く少し分りにくいが、少し北に進むと大岩がある。

その先の尾根には明確な切り開きがあり(落ち葉が積もり踏み跡はない)、赤プラグ杭が打ってあり、目印のビニール紐・テープも十分あり地図を見なくても間違いなく棚原山まで行けると思う。しかし枝尾根にも赤プラ杭があり目印も付いてるかもしれないので、現在位置の確認を怠る事は出来ない。

尾根の両側は雑木林で、今の時期なら周りの景色を垣間見ることもできるが、枝葉が茂ると現在位置の確認は難しくなるだろう。

棚原山への尾根道
左は落葉樹が、右は常緑樹が多い雑木林だ

12:09
木にピンク色のテープが巻いてあり、文字が書かれている。

(北向きに)棚原山・塩田林道、(南向きに)暮坂峠<悪路>

南条山から南の暮坂峠までは途中に少々籔っぽい所もあるが、目印も赤プラ杭もあり慣れた人なら問題はないかもしれないが、普通のハイカーが歩く道ではない。

12:17
またテープに文字が書かれている。

(北向きに)棚原山・塩田林道、(南向きに)暮坂峠

12:23
386m標高点の少し南か、左手の雑木越しに西側を見ることが出来た。同じような雑木の尾根道が緩やかに上り下りする特徴のない、進む方向もあまり変化のない尾根が続くので、今どこを歩いているのか分らなくなってきた。(正しい道を進んでいるのは分っているのだが。)

歩きやすい尾根道が続く
展望は期待できない尾根道

12:41
左側は相変わらずの雑木林だが、右側がヒノキの若い植林になった。尾根が広くなり見通しが悪くなってきたが、相坂からの尾根が見え始め棚原山頂上が近いのが分る。

右側がヒノキの植林になった
もうすぐヒノキの花粉の時期になる

12:53
南条山から1時間10分、ようやく棚原山頂上に着いた。展望のない尾根道から、いきなり大展望地に飛び出した。頂上に着く頃から薄日が差し始めたが、なぜか雨がポツポツと降りは始めた。しかし雨はこれ以上強くはならないだろう。ここで少し遅い昼食にする。

棚原山頂上
天気が良ければ大展望なのだ

頂上には「棚原明神旧鎮座跡」の石柱があり、石の小さな祠もある。頂上に登る3本の登山路には注連縄が張られ結界が結ばれている。


下山は北の坂地峠へ

13:37
北の林道塩田線の坂地峠へ向け下山開始。

町界の緩い尾根を下る道は驚くほど広い。

坂地峠への道
遊歩道みたいだ

峠への道は少しだけ急になると尾根の切り開きは思いっきり広くなり、その中を道は左右にクネクネとスラロームを描くように下っていく。

13:56
峠に登ってくる車の音が聞こえてきて、本日の山行はもう少しで終了だ。林道塩田線に下りる前には石積みの祠に地蔵が祀られている。祠の石組みに食い込んでいる右側の木は枯れて左側の木にもたれかかている。このままにしておくと、木が倒れるとき祠を壊さないか心配だ。

坂地峠のお地蔵さん
右側の木は枯れて幹は今にも折れそうだ

登山口は坂地峠から少しだけ香寺町側にあり、柱に「自然歩道」と書かれた道標がある。林道塩田線は完全舗装された車道となっている。

(西は)塩田温泉、(東は)薬師寺、(南は)棚原山頂

帰りのバスに乗るため東の塩田温泉へ林道塩田線を下る。

県道まで下り塩田の信号から南に行くと石段の上に「寛延義民社」という神社があり、次のような解説文が掲げられていた。かの一部地方(千葉県)では有名な佐倉惣五郎の将軍直訴から約100年後の出来事のようだ。

姫路藩寛延一揆のあらまし

1749年寛延2年今から250年前、姫路藩は極端な財政不振を抱え江戸の豪商より、年貢米を担保に多くの金を借りていた。その負担は百姓達にかかったのである。加えてこの年はことのほかの風水害があり、米は稔らなかった。無理にも取り立てようとする藩に対して、百姓達は年貢の減免・延期を願い出たが減免されることはなかった。藩の命を受けた庄屋達は、屋財家具を売っても納めさせようとした。恨は藩に代わって無理に年貢を徴収する大庄屋達に集った。大庄屋達の家々を打ち壊すことに、年貢徴収の機能を停止させようとしたのである。加古郡・印南郡で火の手が上がり、手柄山周辺でも騒ぎが起き、あちこちでも一揆が頻発した。寛延2年正月28日置塩郷の百姓達は日頃人望のあるなめらの甚兵衛を先頭に塩田の利兵衛・又坂の与次右衛門のもとに結集し、恨の的となっている庄屋々敷を打ち壊した。そして神崎郡一揆と合流し一万人を越える大群衆となる。ここでも甚兵衛の人望は厚く頭目に推され、藩兵を蹴散らし、姫路城下を席巻する形で進軍した。2月2日蒲田村誓福寺で藩依頼の船場本徳寺の使僧が御蓮枝の意向を伝え漸く解散した。その間大庄屋その他関係屋敷59軒を打ち壊した。しかし甚兵衛も捕われる日が来た。1年半に及ぶ取調べの結果、一揆の主だったもの達は遠島・所拂となり、故郷をはなれて行った。大阪奉行所に捕われた者345名・磔・獄門・死罪7名入牢中の病死32名、寛延3年9月22日、利兵衛・与次右衛門は大阪で打首となり、首だけが送られ、甚兵衛は翌23日市川川原で磔にかけられ首は獄門台に曝された。

その尊い志は郷土が生んだ義民として未来永劫に至るまで誇りとして語り伝えたい。

昭和63年9月 寛延義民顕彰会之書

これでようやく3年越しに、南の暮坂峠から北の坂地峠まで夢前町と香寺町の町界を辿ることが出来た。南条山から南は籔もあり少し歩きにくいが展望岩がある。北側は籔は無いが展望もほとんどない。通しで歩いたら4時間(休憩時間は含まず)ほどの行程だろう。



スポンサード リンク



山行記録にもどるホームにもどる本ページのトップ