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そうめん滝から弥高山・広峰神社へ



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平成16年10月3日(日)  メンバー 私だけ

弥高山 やたかやま 339.7m

2万5千分の1地形図「姫路北部」を参照すること。


先週の増位山・広峰山

先週の日曜日にも増位山と広峰山に登ったが、健全なハイキングコースを忠実に歩いたためか、山行記録を書いていても 面白くない。

それでも一つだけ面白い事があったのでここに書いておく。14時過ぎに増位山西尾根ハイキングコースを白国に向け下山を始めたころ、増位山山上駐車場から自動車の小回りの修行する派手な音が聞こえてくる。

しばらく「グィーン・ヴィーン・キキキキー、ヴィーン・キキー」と山中に鳴り響いていた音が、「バッシャーン」という音を最後に静かになってしまった。車と駐車場山側擁壁が仲良くなったようだ。

駐車場まで戻り人命救助に当ろうかなと一瞬思ったが、自業自得の事故責任。車の速度は小回りの修行なので遅かったろうし、たとえ怪我をしたとしても、たいしたことはなかっただろう。ただし精神的な怪我は深刻なものだろうが。

という訳で、先週の増位山・広峰山の山行記録は写真の選定と、各種案内文の打ち込みまで行ったところで中止することにした。


今日は「そうめん滝」から

本日は砥堀のそうめん滝キャンプ場から、北北西方向の緩やかな谷を行ける所まで登り、その後はその時決めるというかなりいい加減な計画だ。

10:15
砥堀の大歳神社近く(JR播但線の西を行く県道のバス停「上砥堀」)まで妻その1に送ってもらう。県道からそうめん滝に向う道の擁壁には


そうめん滝
(キャンプ場)

と表示されている。

10:17
道を少し入ると道路右側になにやら案内板がある。

権現山古墳

昭和48年4月6日付け姫路市指定重要有形文化財(史跡)に指定。
横穴式石室古墳としては市内最大規模。封土が著しく削られているが発掘調査から一辺30m余の古墳時代の方墳と考えられる。
南方に開口する片袖式の石室は全長14m。玄室は長さ3.8〜4.1m、幅1.9m〜2.0mで、羨道は長さ10m、幅1.7m〜1.8mであり、かなり長い形をしている。出土遺物は不明である。

平成15年12月  姫路市教育委員会

権現山古墳の羨道
羨道・石室は出入り自由

道路下の住宅地の中に上砥堀児童公園があり、その中にある小山が権現山古墳で、玄室には巨大な岩が使われている。古墳近くにも案内板があったのでそれも載せておく。

姫路市指定史跡 権現山古墳

5世紀になると、大陸から進んだ文化が次々と伝わってきた。やがて6世紀に入ると横穴式石室をもつ古墳が作られはじめた。
石室は、羨道(通路)と玄室(棺を置く部屋)とからなり、全体を土でおおう形のものである。この権現山古墳は後世に古墳の上に神社が建てられたので、いくぶん低くなり東側も削られ丸くなっているが、調査してみると西側の山と古墳の間には、濠があり盛土の裾が直線であったので、もとは方墳であったことがわかった。石室は全長14mあり、市内最大のものである。

平成4年3月  姫路市教育委員会

10:31
住宅地の中を行く狭い道から林の中の舗装林道に入ると、右側を流れる渓流の中の苔むした大岩の上に「砂防竣工記念」の石碑が載っている。

砂防竣工記念碑
いきなり薄気味の悪い石碑出現

薄暗い渓流の中の見上げるような大岩の上に建てられた、三角形の石碑を見て宗教関係のものかなと思った。この類の石碑は日当りのよい地面に建てられるのが一般的だと思うが、これは一風変わっている。

10:33
舗装林道から一段下の河原に「白姫大神」の石碑が立っていて、その先の渓流に橋が架かった対岸には古ぼけた建物群がある。

静かな一戸建貴方の別荘 冷暖房完備
旅館そうめん滝デラックスバンガロー
年中無休・御休憩・お食事お気軽に御利用下さい

という立て看板があるが、残念ながら「本日休業」の立て看板も出ている。今風のバンガローとは全く雰囲気が違い、もしかすると使用目的も違うものかもしれない。


蜘蛛の巣だらけのそうめん滝ハイキングコース

10:35
「近畿自然歩道」の標柱と「そうめん滝ハイキングコース」の案内図がある。渓流の中の大岩の上には「不動明王と二童子」の石仏が祀られている。この大岩から渓流の対岸に渡りハイキングコースを歩いてみる。

大岩の上の不動明王
右側の合掌しているのは矜羯羅童子だが左は誰かな

そうめん滝ハイキングコースは舗装林道とは反対側の渓流左岸を行く。歩く人は今はほとんどいない感で、くもの巣もいたるところにあり、枯れ枝でくもの巣を払いながら進む。古そうなコンクリートベンチなどの休憩施設や坂道には石段が整備されていて昔は賑わっていたのかもしれない。この前の台風で倒木が一部あるが、下草はきれいに刈られ現在も管理がしっかりなされている。

そうめん滝
落差1m未満

10:52
「そうめん滝」に到着。「何でも昔、姫路城の殿さんが上流から素麺を流して下流でそれを食べたことがあるといわれがあるのでこの名がついたともいわれています」(近畿自然歩道の案内より)という由来があり、そうめんの様に細い流れの滝という意味ではない。しかしながら落差は1mもなく、案内がなければ見落としてしまうだろう。(右岸の車道側には案内はない)

ハイキングコースはそうめん滝で右岸の舗装林道に渡るが、すぐに飛び石伝いに左岸に戻りそうめん滝キャンプ場まで続く。途中で渓流に架かる赤い「岩滝橋」を舗装林道側に渡ると、近畿自然歩道の解説や地図・写真の案内板が有り、そこから随願寺へと道が山の中に登っている。今回はそうめん滝キャンプ場からさらに奥へと渓流を遡上する計画なので、ハイキングコースを直進する。

そうめん滝ハイキングコース
よく整備され歩きやすいが
天候のせいもあるだろうが雰囲気が暗い

11:10
姫路市立そうめん滝キャンプ場に着いた。バーベキューでも楽しむ人のか、車が6台ほど止まり駐車場はいっぱいだ。

キャンプ場管理事務所の前に「左 広峰神社方面」の赤い矢印型案内が木に付けられている。橋を渡り地形図にもある破線道を登ると、「一本松」という札の下がる峠を通り、広峰神社や随願寺へと行くことが出来る。しかし今回はキャンプ場から北北西に延びる谷を登るのが目的なので、さらにキャンプ場のメインストリートを直進する。


渓流沿いの道を行く

11:14
キャンプ場の端で、工事現場で使っているような簡易フェンスが道を御座なりに塞いでいる。ここが今日の実質的な登山口となる。

キャンプ場最奥の登山口?
道はさらに奥まで続いている

入口には案内も目印も全くないが、この道が北元(研究室)のホームページにようこその「兵庫県300山登山ルート紹介」に出てくる木馬(きんま)道なのだろうか。

11:18
渓流沿いに予想外によい道が続く。キャンプ場から4分ほどで、細い流れの渓流を渡渉し左岸に渡るが状態のよい道は続いている。渓流と雑木林に挟まれた中を行く道は緩やかな登りのはずだが、それを感じることが出来ないほど緩やかな道だ。

渓流沿いの道(木馬道?)
この道は、WEBで紹介されていないような気がする

11:33
足跡は付いていないが、誰かが通ったのか蜘蛛の巣は全くない。渓流を渡るが本流ではなく339.7m三角点のある山の谷からの支流のようだ。

11:36
明確な道が続いていたが、20分ほど歩くといきなり背の低い笹に行く手を阻まれた。笹薮を抜けるのは簡単だが、左手の開けた疎らな雑木林の中へ明確な踏み跡が続いている。渓流から離れ行ってみると、石を組んで作られた囲炉裏や、丸太を立木に縛り付けて作られたたベンチがある。誰も来ないだろう、この山奥に誰が作ったのだろうか。ベンチは詰めれば10人ぐらい座れそうだし不思議なところだ。

このベンチはだれが作ったのだろう
ごみは全く落ちてなく
炉も最近使われた形跡はない

踏み跡をたどっていくと西の谷からの渓流に出会った。この支流沿いにも明確な道が付けられている。北北西からの本流をさらに遡れば送電線・250m+の鞍部を越えて「奥須加院ノ池」まで行けそうだが、この支流の道も気になる。


渓流沿いの荒れた道を行くと

計画を変更し(本当は計画など何もなかったりして)支流を遡ることにする。支流脇の道はそれなりに急で、昔はよかったのだろうが、今は土が流されて溝の中に石がゴロゴロしていて歩きにくい。

支流脇のゴロゴロ石の道
今はどこを歩いているのだろう

初めは右岸を行き、左岸に渡りまた右岸に戻るが、最後は左岸へと3回渡渉する。最後の渡渉地点が不明確で、いつの間にか道が途絶えてしまい戸惑うが、対岸を見ると道らしきものがある。

谷筋で見通しが利かず現在位置が明確に分からない、おまけに天候のせいで少し薄暗く、マーキングの全くないこの道を予備知識もなく一人で歩くのは、私にとっても結構辛いものがある。

12:00
渓流右岸の不明確な道を辿り登って行くと、石を組んで作られた小規模な砂防ダムのようなものがある。何のために作られたのか分らないが、その上から道は明確なものとなりほっとする。

石組みの砂防ダム?
なんなんだろう

12:04
ほっとしたのも束の間、谷はほとんど平坦な地形に入り、左右に分かれてしまった。道は右に続いているように感じられ極めて古い布の目印も右にあるが、道も踏み跡も雑木林の中に消えてしまっている。

左側の谷を探るが何も感じられない。正面の尾根を見ると下草もなく疎らな雑木林で簡単に登れそうだ。踏み跡は無いが登っていくと頭を赤く塗られた古い木杭が打たれていて、その横には新しそうな緑色のお茶の空き缶が捨てられている。誰かがここを最近訪れたようだ。山の中にごみを捨てるのは困るが、この空き缶はごみというよりはマーキングの役目を果たしているように私には見えた。

雑木尾根を登る
踏み跡は無いがたやすく登れる

12:21
木々の隙間から市川と甲山が見え、現在位置を確認することが出来た。予想してはいたが339.7m三角点のある「弥高山」頂上の近くにいる事が分った。

12:24
シダを乗り越えさらに登ると、見覚えがある山道に出た。弥高山の三角点標石から4mほどの地点だった。

弥高山頂上に数年前に来たときは裸地が広がり痛々しかったが、今は草が繁り地面を覆い隠している。それでも石を組んだ囲炉裏・ブルーシート掛けの壊れた物置小屋・隠れ家風庵の廃屋が今も残り、自然豊かな広峰山のシミとなっている。ようやく自然が覆い隠し始めたが、あの良識ある広峰還暦登山隊の目も届かなかったのだろうか。

弥高山から南を見る
空港建設の気象観測塔は消えたようだ


梅田新道と近畿自然歩道で広峰神社へ

12:48
弥高山で昼食をとり、ここから始まる「梅田新道」で地形図上の「そうめん滝キャンプ場」と「広峰神社」を結ぶ破線道のほぼ中間地点となる「一本松峠」に抜けることにする。

ただし弥高山頂上から梅田新道への案内は全くない。だが頂上南に栗の木が一直線に植えられていて、その方向に進むと自然と梅田新道に入ることが出来る。

梅田新道は弥高山から南東に緩やかな広い尾根を行く道で、地形図には載っていないが明確なしっかりした踏み跡が続き、一人で歩いていても楽しい道だ。ただし展望は良くない。

弥高山から梅田新道を行く
人気があるルートのようだ

道端に咲くハギの花
ピントが甘いな

13:13
30分もかからずに地形図の破線道に出た。分岐地点の道標は

<南西方向> 広峰神社0.9Km
<北東方向> そうめん滝0.9Km
<南東方向> 随願寺1.0Km
<北西方向、手書きで> 弥高山(梅田新道)

となっていて、近くの木には「弥高山→」と「ここが一本松峠」の札も下がっている。注意しないといけないのは、ここの分岐は少し複雑で、随願寺から広峰神社に行く本道の北側に短い迂回路があり、その迂回路に「そうめん滝」と「弥高山」への分岐があることだ。

本道には次の案内板が下がっている。ここが「一本松峠」だと主張したいのだろうが、掲示者名も明らかでないこの類の私設案内板は信頼していいものか判断に迷い困ったものだ。

近畿自然歩道の一本松峠に下がる案内板
何を主張しているのか良く分らない案内板だ

「そうめん滝キャンプ場」、「随願寺」「広峰神社」のうち、どこに行こうか梅田新道を歩きながら考えていたら、広峰神社近くの中継鉄塔に行った事がない事を思い出した。

広峰神社への道は昔からの参詣道で近畿自然歩道にもなっていて歩きやすいが、ほとんどが植林の中の道で面白さに欠ける。

向山国有林

1、自然の景観を大切にしましょう
1、ごみは自分でかたづけましょう
1、木をけづったり・枝を折ったりしないようにしましょう
1、土砂や植物の採取はやめましょう
1、たき火はしないで下さい
1、たばこのすいがらは必ず消しましょう

兵庫森林管理署

森林管理署の看板があり、増位山と広峰山の間を「向山」というのだろうか。

谷側は石組み、山側はコンクリートのU字溝という普通の山の中には在り得ない道が続くが、その道の中にまで植林がなされている。まさか植林した後にこの道を作ったわけではないだろうが、その当時は植林第一でほかの事は目に入らなかったのだろう。

道の中まで植林されている
参道の固い土を掘り、苗木を植えたのだろうか

一旦下り、細い流れを渡り、右手が荒れた竹林の「私有地につき立入禁止」の看板が立つ石段を登ると広峰神社はもうすぐだ。

13:42
左手に高い石垣が現れ、広峰神社の本殿東側のトイレと霊木の間に出る。

近畿自然歩道 深山と広峯神社を訪ねる道
広峯神社周辺案内図

遣唐使として中国へ渡った吉備真備が、奈良時代の天平5年(733年)に創建しました。本殿と拝殿は、室町時代中期に建築され、国の重要文化財に指定されています。その他に、県、市の重要文化財に18指定されています。

広峰神社は、京都の八坂神社の本社
貞観年間(876年)、畿内外に10余年にわたり疫病が大流行して死人数知れずと言われ、清和天皇の夢枕のお告げにより、広峯神社の御分霊を京都にお迎えして祈願されると疫病が鎮まり、都の人々は大いに喜び盛大な祭をしたのが祇園祭の始まりであり、それによって建てられたのが八坂神社です。

霊木の由来
息吹木(いぶき)

昔より之を千年松と云う。
其幾千百年を経るを知らず。年は幾度過ぎ経しも人の言は変わることなく幾年たてども今も昔も千年松と称ふるなり。
伝説久しく人の心にしみわたるが故に千年松と云えば、この地の地名ともなれり。今昔、円融天皇の天緑3年(972)社殿を白幣山(現在、吉備神社の鎮座地)より現社殿の地に遷されるとき、この地には付近一帯に此の木が多く繁茂せしこと知られたり。宮殿建設に障りなき東隅のこの木を残されしもの。今に至るまで青々と繁り栄えて幾千年を経来しものなるべし。

広峰神社の霊木(ビャクシン)
千年前の広峰山を見てみたい

大昔はこの霊木の仲間達が広峰山を覆っていたのだろうか。一度で良いから見たかった。

記念碑

碑前に置かれてある力石は米一石四斗(約210Kg)の重量をもつ自然石であるがこの石は、当山麓北平野町住人で関取平野川儀蔵氏が明治27年5月にかつぎ上げ、当廣峯神社に奉納したものである。続いて仁豊野の住人尾田徳次死(当時26才)が大正8年4月18日怪力を発揮して、この石を念願通り頭上高くもち上げた。
しかしその後現在に至るまで誰もこれに成功したものがいない。よってここに平野川、尾田、両氏の壮挙を顕彰し、記念するものである。

昭和46年3月吉日

衆議院議員 松本十郎

力石「記念碑」の番犬こじろう君
何歳になったのかな

広峰神社拝殿
高さはないが幅が広い

屋内無料休憩所からガラス越しに外を見ていると、意外と空気がすんでいて、家島・小豆島はもちろん淡路島から四国まで見える。目をこらすと市川河口にある関西電力姫路第二発電所の煙突の上にかすかだが橋が見える。休憩所にある双眼観光望遠鏡(株式会社コバック製造、2分100円)に100円玉を入れ覗き込むと間違いなく「大鳴門橋」だ。明石海峡大橋は播州の山から見ることが出来るが、大鳴門橋を肉眼で確認できたのは初めてだ。

広峰神社から見えた大鳴門橋

上の写真は双眼観光望遠鏡にデジカメを当てて撮ったものだが、直線距離で70Km以上離れた大鳴門橋が肉眼で見えるとは思わなかった。思わずこの双眼観光望遠鏡で300円も散在してしまった。

14:02
随身門から石段を下りると教育委員会が掲示している解説板がある。

本殿(国指定重要文化財)

現本殿は文化元年(1444年)再興の建物で、檜皮葺きの入母屋造、正面11間(約20m)側面は庇を含めて4間の大建築である。
ここに社殿が建てられたのはかなり古く、京都祗園の八坂神社は貞観11年(869年)ここより遷座されたとされている。なお、本殿床下には平安時代初期のもので一間社流造社殿の掘立方柱の遺構がある。
正面を見ると向って右端2間を区画して神饌所・供物所・納殿等に、左端2間を区画して詰所等に使われ、残りの中央7間が社殿で、奥より2間を内内陣として床を高め、その前を内陣、その前を外陣としている。内内陣は2間の神座が3室と。1間の空間(納殿)1室に区画されている。
各神座の内、真ん中及び西の神座は向って左寄りに、東の神座は右寄りに一間社流造の宮殿を置いて3社が平行の形をとっている。各神座が2間で内広がりに造られているのは、空いている右もしくは左の1間に祭神と同じ本地仏を併祀しようとする意図から構成されたものと解される。
本社殿は、建立年代が明らかな上に類例の少ない神仏習合神殿として特異な建築構成をもった、極めて価値の高い貴重な遺構の一つである。

拝殿(国指定重要文化財)

桃山時代の建立。現拝殿は寛永3年(1626年)姫路城藩主本多忠政が再建した物である。
本殿の全面に軒を接して建つ正面10間、側面4間の大建築で本殿に向って上り斜面をもつもので、建物前面は一種の舞台造りとなっている。
本殿に相応した大規模な建物で柱筋はほぼ本殿に合わせているが、本殿に比べて右端が1間狭くなっている。

このような特異な形式を持つ拝殿と本殿が相関連して現存していることは珍しい例であり、貴重な遺構である。

平成9年10月  姫路市教育委員会

市指定重要文化財(昭和58年(1983)2月3日指定)
広峯神社摂社・末社11棟

一間社隅木入春日造柿葺……荒神社(17世紀前半)
一間社隅木入春日造檜皮葺……蛭子社(1849)
一間社流造本瓦葺……地養社(1678)・天神社(1724)大鬼社(1735)・庚申社(1751)・山王権現社(1777)・冠者殿社(17世紀初頭)
一間社流造銅板葺……軍殿八幡社(1711)
一間社切妻造本瓦葺……稲荷社(1761)
三間社流造本瓦葺……熊野権現社(1868)

広峯神社摂社・末社はいずれも江戸時代に属する神社本殿の建築で、17世紀前半の荒神社から19世紀後半の熊野社まで、江戸時代の全時代を通じた遺構群である。
各建築とも小規模ではあるが造作は丁寧で、時代の特徴をよくあらわし、技法・建築史的にも優れたものである。
近世の神社本殿建築は各地に存在しているが、広峯神社のように一か所にまとまって存在している例は極めて稀である。また、各時代の様式技法の変遷が明らかにされる点で文化財的価値は大きい。特に中期から後期にかけて変化の多い時期の様式を年代別に細分できることが重要である。
全体的で特徴は、小規模な本殿では縁束を立てずに腰貫で縁葛を支える手法を取っている。組物は出三ッ斗を組む。平面的には身舎は内外陣の区画をし、三方廻縁で正面に木階を付けている。ただし、荒神社は浜縁を設けている。

平成7年12月  姫路市教育委員会



中継鉄塔・広峰展望台に寄り道し下山

14:11
車道を通らずに、崩れかけた土塀の残る道を行き広峰神社駐車場まで行く。駐車場には「緑の十景」の案内板や

緑の十景

増位・広峰連山(そうめん滝を含む)
(姫路市制施行90周年を記念し昭和54年4月1日制定)

まちの背後につらなる贈位(ママ)・広峰の山なみは西播磨丘陵自然公園の指定を受けハイキングコースで結ばれています。
木立ちも変化に富み隋願寺(ママ)・広峯神社の建造物等文化財が自然と調和して訪れる人の心を安らげてくれます。増位山につづくそうめん滝は市内唯一の清流の渓谷で豊な緑に包まれています。
このかけがえのない緑豊な自然を市民の財産として後世に継承するため大切に守っていきましょう。

姫路市

探しています

2003年8月3日 昼頃 広峰山 駐車場大鳥居前にて失踪
(トヨタ シルバーのヴィッツをおいたまま失踪)
特徴……35歳 慎重165cm体重72kg やや難聴気味 大きな声で話す 足を擦って歩く癖があります
失踪時の服装……半袖ベージュ系のTシャツ 紺色のジーンズ スニーカー 眼鏡
心当りある方は姫路警察署 0792-22-0110 までご連絡をお願いします
この写真を許可なく持ち去る事を禁じます
目撃された方は、ご連絡下さい

という探し人のチラシが掲示してある。1年前の夏に失踪しているが、新聞やテレビで見た記憶もなく事件性が薄い事案なのだろうか。

駐車場から中継鉄塔へ登る短い道の入口には次のような案内があり、ゲートもあり入ってはいけないようだ。案内の連絡先電話番号の末尾は一部消えていて「1」に見間違えそうだが、その番号は京都にあるリサイクルショップにつながるので問い合わせしようとする人は要注意だ。

NTT

日本電信電話株式会社
NTT広峰無線中継所

この道路はNTTの専用道路で、行きどまりとなっています。
このため関係者以外の方の通行を禁止します。なお、この道路についてのお問い合わせは。下記へ連絡して下さい。

連絡先 NTT関西ネットワークセンター
TEL(0120)777-314

14:14
ゲートの脇から入って行き、最初は左側のアンテナ塔に行ってみる。

NTTコミュニケーションズ株式会社

広峰無線中継所

連絡先 NTTファシリティーズ 兵庫支店
TEL078-332-1184

取付道路と中継塔の管理者が違うようだ。アンテナ置場が三段になった大きな中継塔だが一部しか利用されていない。マイクロウェーブ回線が光ファイバー回線に置き換わってしまった現在でもこの中継塔は使われているのだろうか。

右側には2基の中継塔が立っている。奥側は「関西電力株式会社 広峰中継所」で八木アンテナが2基あるだけの簡素なものだ。関西電力の中継所の特徴の「敷地内の建物入口脇の電話ボックス」はここにもある。

右側手前の中継塔は持ち主を知らせたくないのか表札が出ていない。けれども、間が抜けたことに国有林の借受人標識がフェンスに取り付けてある。

国有林
林 小 班名
梨ケ谷国有林544林班り1小班
用途無線中継所敷
面積316.67m2
貸付の始期
終期および
期間
自平成  年 4月 1日
至平成  年 月31日
借受人 住所
名称
氏名
姫路市峰南町1番70号
陸上自衛隊姫路駐屯地
業務隊長

陸上自衛隊の中継所で、アンテナ塔には幹線中継用4基、姫路駐屯地向き1基の合計5基のアンテナが設置されている。

敷地四隅の柱には監視用カメラ・照明・威嚇用スピーカ、同じく四隅には赤外線多段ビームセンサー、周囲のフェンスにはテンションセンサーのワイヤーを張り巡らし、ゲートにもセンサーが付き、警備は非常に厳重になっている。

侵入方法を研究中
警備は厳重だが、ゲートには南京錠を掛けてあるだけで
進入自体は容易

14:29
駐車場に戻り車道を下っていくと「ハイランド・ビラ・広峰」の向かい側に「広峰展望広場入口 姫路市」の案内板があり階段が登っている。

階段を登った先が展望広場かと思うと、どうも違うようだ。南へと下る道があるが、展望所に行くのに下るとはどういうことだろう。

14:35
下った先は行き止まりの屋根付き休憩所がある「広峰展望台」となっている。結構な眺めだが、左右の木々のため視界は意外と狭く車道の好展望地の方が眺めは良いような気がする。

広峰展望台
車道からの距離もあって誰も来ない

ステンレス板に焼付け印刷された白黒展望写真が、大層なステンレス製箱型架台に納められている。しかし残念なことに写真文字は汚れ・剥離でほとんど見ることが出来ない。

広峰山展望台
広峰山より望む姫路市外

姫路市のすがた

兵庫県西南部、播磨平野のほぼ中央に位置する商工業都市、四季を通じて温暖、市川・夢前川・揖保川等が運んできた土砂で埋積された複合三角州に地形の自然条件が整っており穀倉地帯となり、良質の工業用水に恵まれた都市。

姫路市は古くから山陽、山陰、九州と都を結ぶ陸海交通の要衝として栄え、国府・国分寺が置かれ政治経済の中心地としての位置を占めてきた。
城下町の歴史としては、16世紀に姫山に砦が築かれて以後、羽柴秀吉が城を構え、その後、1601年(慶長6年)に池田輝政が現在の五層の大天守を構築、西国統治の拠点の役割を果たしてきました。1889年(明治22年)市制を施行、1945年(昭和20年)には中心市街地が空襲にあいましたが、戦後の復興は、めざましく、数次にわたり隣接市町村を合併、今日では、近代的高層ビルが林立する播磨の中核都市として発展しております。

平成元年3月

14:49
車道まで戻り、「ハイランド・ビラ・広峰」進入路のすぐ脇を覗くとコンクリート階段があり、昔の参詣道へ続いているようだ。しかし暗そうで下りて行くのがためらわれる。参詣道は次回に残し、明るい車道を下ることにする。

車・バイクで登る人、自転車で登る人、歩いて登る人、走って登る人と交通量は結構多いが、道幅は広く離合の心配をする必要はない。

15:14
山陽自動車道の高架の下を過ぎ住宅地に差し掛かると、石の道標が4本立っていて車道から斜めに参道が別れている。

広峰神社への道標
この道標に対応するものが神社石段の下にある

右から「嘉永7年(1854年ペリーが浦賀に来航した年)」、「大正14年(1925年治安維持法・普通選挙法が公布された年)」、「昭和25年(1950年朝鮮戦争が勃発した年)」、左端の不定形のは文字が読めないが、「嘉永7年」のは折れて修理した跡が残っている。

道標の写真を撮り終えたとき、下る途中に携帯電話で迎えを頼んだ妻その1がグッドタイミングで現れた。送り迎え付きの山行は楽で止められません。



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