「天神の小道」と吉島古墳(新宮町)
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平成17年5月3日(火) メンバー 私だけ
天神山 | てんじんやま | 167.8m |
2万5千分の1地形図「安志」を参照すること。
今日は新宮町の低山だ
JR姫新線新宮駅の北側に西の高倉山へと続く山塊が横たわっている。その南東端近くの尾根に、銅鏡が6面も出土した国指定史跡「吉島古墳」が、麓の宮内地区にも史跡が集中し古代史愛好者にとっては面白いところだろう。また西播磨文化会館周辺には野外彫刻がたくさん展示されている。
山名を知っているのは、播磨新宮駅北の大鳥山と宮内天満神社北の天神山の二山で、天神山だけ登ってきた。
目的を忘れ彫刻巡り
9:55
妻その1に送ってもらい播磨新宮駅に到着。駅前に観光案内図があり、吉島古墳へ行くには駅から少し離れた西側の踏み切りを渡り北に進めばいいようだ。
10:09
踏切から7分も北へ大鳥山の東裾沿いの道を行くと、大きな石の鳥居が立っていて、横に「宮内周辺史跡案内」が掲示されている。鳥居をくぐり真っ直ぐ行くと「宮内天満神社」、左は「兵庫県立西播磨文化会館」へ行く道だ。
左側写真、正面の尾根に木がまばらな生えている所が吉島古墳だが、地形図の三つの点の史跡印よりもかなり上部に位置するように見える。また史跡案内のイラスト風地図の山岳部は、思いっきりデフォルメされていて役に立たない。それよりも右下の正確そうな地図をデジカメで大きく撮っておくと山行中役にたつだろう。
宮内周辺史跡案内
【大寺山廃寺】(伝 城禅寺開山堂・鐘楼)
中世の山岳寺院で、尾根上・山腹・谷部に4箇所の平坦地があり、基壇跡や礎石等が残る。
五輪塔の破片や中世の土器片等が付近には散布している。【大寺山城】
南面する尾根上に5段の連続する削平地を設けている中世の山城遺構であるが、文献等にはまったく現れてこない。【吉島《よしま》古墳】国指定史跡
古墳時代前期の前方後円墳(全長約30m)で、竪穴石室からは播磨地方では最多となる6面の銅鏡が出土している。この鏡の中には三角縁神獣鏡が4面含まれており、同笵鏡が大阪府・奈良県・京都府・滋賀県・群馬県・静岡県などで見つかっている。播磨最古級の古墳で、大和政権との密接な関係がうかがえる。【宮内古墳群】
宮内村北側の山麓には、約30基の古墳がある。大半が古墳時代後期の横穴式石室で、西播磨文化会館西方の古墳群は古墳公園としいて整備されている。この中の1号墳の横穴式石室は町内屈指の規模をもつ。【梅岳寺】
14世紀後半に城山城の鬼門を護る寺として建立された城禅寺が当寺の始まりで、江戸時代に現在地へ移転し、寺名も梅岳寺に改められた。境内には、霊岳宗古禅師(開山住持)の無縫塔や千本ヒノキ(町指定文化財)、新宮藩主池田薫彰の五輪塔・高野の仇討ち参加者の墓などがある。【天神山古墳】県指定史跡
古墳時代後期の円墳(径約20m・高約4.5m)で、横穴式石室は揖保川流域で最長の規模(全長11.5m)をもつ。【宮内天満神社】国指定重要文化財
14世紀後半に赤松氏が宮内村に建立した城禅寺の開山住持であった霊岳宗古禅師の夢枕に天神が現れたことがきっかけとなり、天神を城禅寺鎮守として祀ったのが、当社の始まりである。嘉吉の乱(1441年)の時に当社を含めた城禅寺一帯は兵乱に巻き込まれ衰徴するが、天文13年(1544年)に龍野城主の赤松氏が中心となり当社を再建する。再建にあたった大工は円教寺や斑鳩寺で活躍した藤原新右衛門尉光重父子で、一間社流造り竪板葺の社殿は貴重な建物であることから国指定重要文化財になっている。毎年2月25日は天神さんの縁日で境内は大変賑わう。【新宮町歴史民俗資料館】
町内の出土遺物や昔の生活道具などを展示している。土・日・祝日のみ開館。平日の見学申込みは教育委員会まで。【古新宮焼き窯跡】
近年発見された窯跡で、窯の上部がわずかに残存している。試掘調査により江戸時代末期の磁器のみを焼いていた窯であることがわかった。何の記録も残っていない窯であるが、ほぼ同時代と思われる新宮八幡神社東側の新宮焼窯跡のものより若干古い様相が見られるので古新宮焼と名づけた。【新宮宮内《しんぐうみやうち》遺跡】国指定史跡
弥生時代中期を中心とする縄文時代〜平安時代の複合遺跡で、近年の発掘調査で多数の竪穴住居址・溝、方形周溝墓・円形周溝溝墓などが見つかっている。現在史跡公園として、「円形周溝墓」・「弥生戦士の墓」などが復元されている。【大鳥山】標高187.4m
東方から眺めると神奈備型の美しい三角形の山容を誇る山で、「播磨国風土記」には鳳がここに棲んでいたことにより名づけられたと伝えている。平成16年3月 新宮町教育委員会 宮内自治会
10:23
石鳥居から左の道を行き、山門の屋根に生えたぺんぺん草が印象的な「梅岳寺」を過ぎ、西播磨文化会館に着いた。
西播磨文化会館では長年「西播磨彫刻シンポジウム」を開催しており、石彫りの作品が沢山置かれている。日本画の二人展も行われていて、山登りを忘れて1時間以上もここで過ごしてしまった。
とりあえず天神山を登るぞ
11:44
目的を果たし播磨新宮駅に戻ろうとするが、山へ登るために来たことを思い出した。天神山の南裾にある天満神社方向への道に次のような道案内がある。
→
国重文 宮内天満神社
町指定文化財 天神山古墳
歴史民俗資料館
新宮中学校
11:49
山側の石鳥居の奥に神社が見える。「宮内天満神社」かと思い入って見る。史跡案内イラストにあった『神社の裏から始まる登山口』を探すがないようだ。変だなと思い道標を見ると「宮内八幡神社」となっている。
11:55
「宮内八幡神社」の東側は広場になっていて、西隅に木造建築物がある。鎮守の森の中の玉垣に囲まれた境内に神社の拝殿・本殿があるというイメージが頭の中にあって、これが「宮内天満神社」とはすぐに気がつかなかった。
重要文化財 宮内天満神社
天神(菅原道真)を祀ったこの神社は1369年に創建され、それより170余年後、当時書写山円教寺の大塔を建てた棟梁藤原新右衛門光重によって再建されました。
こらが現在の社殿で様式は「竪板葺一間社流造」といい当時の代表的な建築様式で日本社寺建築史上貴重なものです。
本殿は国の重要文化財、御神像は県の重要文化財に指定されています。新宮町教育委員会
11:58
天満神社本殿と広場を挟んで反対側にある「歴史民俗資料館」の脇に天神山への道があった。誰も歩かないのか草が茂る道の脇に「天神の小路」の道標が立っている。
「天神の小路」は雑木林の中をジグザグと登っていく。急なところは階段になっているが、造られて以来、整備することもなかったのか雑木の丸太は朽ち始めている。
12:13
15分ほどで、日の丸と新宮町の旗がたなびく天神山頂上に到着。標柱が立っているだけで、山名板や登頂記念プレートはない。
天神山(標高167.8m)
『播磨国風土記』の飯盛山に比定。
讃岐より飯盛大刀自が移住したことに由来。
南側の展望がよく、空気が澄んでいたら播磨灘も見えるだろう。ここで昼食にする。妻その1が中学生のころ通っていたという麓の新宮中学校からは野球の練習をする声が聞こえてくる。
次は吉島古墳だ
12:28
天神山山頂から北の峠に下る道は、南側のジグザグ道とは異なり真っ直ぐで、新緑の雑木林の中の幅広の道を気分よく下っていく。
12:32
天神山北側の峠には、北側と南側(下ってきた道)と西側には道があるが、東側には踏み跡もない。そこには次のような標柱が立っている。標柱の後ろの盛り上がりが「宮内常吉8号墳」だ。
(北)吉島古墳
(南)天神山
(西)西播文化会館、宮内古墳群
(ここ)宮内常吉8号墳
12:36
北に数分進むと今度は、北と東に別れる分岐がある。東へ進むと尾根道になり「吉島古墳」から「大寺山廃寺」へと登り、谷道を下りここに戻ることになる。ご飯のとき好きなものから食べる人は東の尾根道から、好きなものを後にする人は北の谷道から巡るのがよかろうと思う。
(東)吉島古墳
(南)天神山、西播文化会館
(北)大寺山廃寺
東への道は、山裾の150m等高線付近を水平にどこまで行くのかと思うほど続く。道はそれなりの幅があるが、通る人もまれなのか草が茂り道らしさを失いつつある。怖がりの人だったら昼間でも一人で歩くのを嫌がりそうだ。
12:45
新宮中学校東側の尾根との交点に分岐がある。この道のよいところは、全ての分岐地点には公設の明確な道標があるところだ。
(北)吉島古墳
(西)宮内古墳群
(東)吉島地区
普通なら尾根に道を通すのだろうが、そうすると勾配が遊歩道設置基準を超えてしまうのだろう。斜めに戻るように緩やかにそして真っ直ぐに通された道を、雑木林の新緑に囲まれて登っていくと自分の体も緑色に染まりそうだ。
後半はジグザグで少しだけ急になるが、階段道になっていて楽に登ることができる。
13:01
吉島古墳に到着。地形図ではかなり低い位置にあるように読めるが、実際は標高250mほどの地点で、麓から150mは登らなくてはならない。ここにもしっかりと道標が立っている。
(北西)大寺山廃寺
(南)宮内古墳群・天神山
(東)吉島
南には大鳥山から亀山・的場山が、東には新宮町と安富町・姫路市の境界となる山々が連なっている。
木々がまばらな吉島古墳の上からは予想以上に展望が広がっていて、登ってきたかいがあった。ただ私は実は古代史にはほとんど興味がなく、この古墳の価値も分からない。