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野見宿祢墓から登る的場山



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平成17年6月12日(日)  メンバー 私だけ

的場山 まとばさん 394.2m

2万5千分の1地形図「龍野」を参照すること。


三回目の的場山

4年前はNTTの専用道路を登り、3年前は鶏籠山との間の両見坂から近畿自然歩道を登り、そして三回目の今日は南側の「野見宿祢墓」から登ってみた。

野見宿祢墓の裏から、頂上近くの国土交通省の無線中継所まで登る登山道があることは知っていたが、地形図に載ってないし。ウエブでも紹介されていない。踏み跡程度の道なのだろうか、真っ直ぐに頂上を目指すとすれば、いきなりの激登りか。

9:21
妻その1に送ってもらい、的場山の南麓にある「龍野公園」まで送ってもらう。動物園の鹿に見送られ「赤とんぼの碑」へと向かう。

赤とんぼの碑

碑の前に立つと、どういう仕組みか知らないが、三木露風作詞の「赤とんぼ」のメロディが流れてくる。

「赤とんぼ」は龍野市が生んだ天才詩人三木露風先生が大正10年に作詞され昭和2年斯界の第一人者山田耕筰先生によって作曲されました。この歌は童謡の中の傑作として多くの人々に愛され親しまれています。
ここに両先生の歌曲を記念して碑を建てました。

昭和40年5月  龍野観光協会

赤とんぼ

夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を 小籠に摘んだはまぼろしか
十五で姐やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた
夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先

「赤とんぼの碑」の先にも三木露風のブロンズ像が立ち、少し歩くと「龍野神社」や「聚遠亭」がある。龍野城・武家屋敷跡・童謡の小径・醤油資料館など見所いっぱいの龍野市を一日かけて歩いてみたいが、今日は山登りに専念しよう。

と言いつつ、まずは、前回は休館日で中にはれなかった「聚遠亭」を見に行こう。まずい、観光モードに突入か。
聚遠亭の茶室

龍野市指定文化財第1号

史跡 聚遠亭

所在地 龍野市龍野町中霞城6番地
所有者 龍野市
指定日 昭和48年3月17日

概要
聚遠亭は、前庭からの展望絶景をたたえ「聚遠亭」と名付けられ、その扁額が茶室にかかげてある。
茶室は、江戸時代末期の建築。書院造を加味した風雅な数寄屋風の建物で、心池上の浮堂として、庭園、池、杉垣などとよく調和している。
亭内の北東に位置する藩主の「御涼所」は18世紀後半に建てられ、茶室建築時を始め数回の増改築がなされたと考えられる。質素勤倹のなかにも雅趣のある接客、居住部門などの間取りや意匠、構造に特徴があり、また床下の抜け穴などにも当時の面影が残っている。
池のほとりには、龍野が生んだ詩人、三木露風の「ふるさと」詩碑や、井原西鶴の句碑などが建っている。

1995年3月設置 龍野市教育委員会

9:48
聚遠亭の入口(龍野神社側の裏口)近くから「野見宿祢墓」へと続く道が始まり、「野見宿禰塚」と刻まれた石柱が立っている。だらだらとした階段道が続き、散歩なのか散策なのか登っていく人がそれなりにいる。「←野見宿祢神社」の案内もあり、墓なのか神社なのかどちらなのだろう。

野見宿祢の墓または神社への階段道

9:56
尾根を乗り越えるところに着いた。右手は野見宿祢の墓または神社への急な石段、左は展望台となっていて、正面の道は尾根の反対側に下っていく。山陽自然歩道の文字が消えかけた古い道標が立っていて、表示は次のようになっている。ここから的場山に登る道も山陽歩道だったのだろうか。

東 三坂神社0.8KM 両見坂峠0.8KM
西 赤トンボ碑0.3KM 国民宿舎赤トンボ荘0.6KM
北 野見宿祢墓0.1KM 的場山1.2KM

展望台から南へと、どこに下るのかは知らないが道が付けられていて、ここは地元の人にとっては人気の散策コースになっているのだろう。ただ、展望台の周囲の木々が育ちすぎて眺望は今ひとつだ。

展望台から龍野市街地を(見えないな)

夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か

童謡「赤とんぼ」の作詞者、詩人三木露風(操)は、この町に生まれました。
露風が7歳のとき、幼稚園から帰ってくると、母(かた)は離婚し、弟勉を連れて鳥取の実家に去っていました。母を恋う操は、淋しくなると、一人この裏山に登り、遠く彼方を見つめていたといわれています。
後年、露風は「子供の時に見た自然が詩の道を歩ませた」と語っています。

吾れや七つ母と添寝の夢や夢 十とせは情け知らずに過ぎぬ  露風

霞城文化自然保勝会

急な石段を登り野見宿祢墓へ

その先には開かずの石扉が

10:03
野見宿祢墓は急な石段の先にあり、開かずの石扉の中には丸い鏡が埋め込まれた石の祠が祀られている。振り向くと揖保川の東側に広がる龍野市街地が見える。

なぜ龍野市に野見宿祢の墓があるのか、龍野神社にあった解説板を読めば分かるだろう。

野見宿禰神社

野見宿禰《のみのすくね》といえば、相撲の元祖とか、相撲の神様といわれていますが、この野見宿禰神社には、大相撲の黄金時代を築いた有名力士たちがたくさん参拝しています。
横綱、千代ノ山、吉葉山、若乃花、栃錦、大鵬、柏戸、佐田山、朝潮、栃ノ海など地方巡業で龍野を訪れた力士たちが角道隆盛を祈願しています。
神社には、明治から大正にかけて日本の相撲ファンをわかした、84名の力士や行司が寄進した玉垣があります。

野見宿禰

第11代垂仁天皇(神話時代)のとき、天下の力持ちを豪語する大和国(奈良県)の当麻蹴速(たいまのけはや)と、出雲国(島根県)の野見宿禰が、天皇の御前で「力くらべ」をして、蹴速を負かし、天皇より恩賞として領地を与えられ、宿禰は朝廷に仕えました。(これが相撲の始まりといわれています)
宿禰が朝廷に仕えていたとき、天皇のおきさき日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなりました。当時は高貴な人が亡くなると、お側近くに仕える者は、すべて後を追って殉死する習わしでした。
主君を守りお供えをするということで、主君とともに墳に埋められることになっていました。
このような風習に天皇は深く心を痛められていたとき、宿禰は、「妙案があります」と、申し出て、出雲よりたくさんの土器を作る人を呼び寄せ土で人形や馬、器物(埴輪)を作らせ、生きた人たちに代えて陵墓のなかに埋めることを提案しました。天皇はたいそう喜ばれ殉死をすることを禁じ、この方法を取りいれるよう命じられ、宿禰を朝廷の葬送の儀礼を執り行う役に任じました。

龍野の地名

朝廷に仕えていた野見宿禰が出雲国に帰る途中、日下部里(くさかべのさと)と呼ばれていたこの地で病気になって亡くなりました。報せをうけた出雲の人たちがたくさんやって来て、川原の石を手渡しで運び上げ、墓を作り、その墓を出雲の墓屋と呼びました。石を運ぶたくさんの人たちが、、「野に立つ」姿から、人々は「立野」と呼ぶようになり、後に、「立野」が「龍野」と改められたといわれています。

明治36年土屋善之助氏ら有志が奔走し墳墓、参道を整備し野見宿禰神社となっています。

霞城文化自然保勝会

なんと龍野の地名は野見宿禰と関係があるのだ。しかしこの墓は後世に手が加えられてなかったら、ただの円墳のままだったろう。その丸い墓を巡る道があり、右回りでも左回りでも、正面へ戻ってくることができる。


ようやく登山口だ

10:08
野見宿祢墓を半周すると、墓の真裏から始まる的場山への登山道があり、思いのほかしっかりした道が一直線に登っている。

野見宿祢墓から的場山への登山道入口付近

雑木林の尾根に付けられた道は、九十九に折れることを潔しとせず、まっしぐらに登っていく。地形図を見ると300mほどの水平距離で高度差が150mもある。

急だがゴツゴツした岩が手頃な段差で続いていて、ヒョイヒョイと登ることができ、明るい雑木林の中を登るのが面白い。しかし好事魔多し、近頃とみに低下気味の体力が、一気に雪崩を打つように弾けてしまった。つまりバテてしまった。

登りやすい急な岩道

10:35
ヘロヘロになりながらも急坂を登り終えると、一気に緩やかな広い尾根の中を行く道になった。次第に常緑樹が増え薄暗い林の中に、岩がゴロゴロしている。ここで手ぶらの街中を歩くような格好のおっちゃんと擦れ違った。散策の途中なのだろうか。

平坦になり体は楽になったが、なぜか体調は戻らない。頂上に着いてしばらく休んだら下山しようか。天気がよく暑くなりそうなので、飲料水を3リットルも担いできたのが原因だろうか、いや単純に加齢のなせる業だろう。今年も富士山に登るつもりでツアー料金も払ってしまった。私が亀爺にならなければよいのだが。

急坂の先は平坦な雑木林の中を行く

10:52
木が茂り薄暗くなってきた林の先に、肌色の建物が見えてきた。建屋には「建設省近畿地方建設局 的場山無線中継所」と金文字の名前が付けられているが、国土交通省から、名前を付け替える費用も惜しいほどに見捨てられているのだろうか。光の時代になり、いまどきマイクロウェーブ通信など遅すぎて新聞社でも使ってない。

建設省近畿地方建設局 的場山無線中継所

野見宿祢の墓からの道は、中継所前道路の擁壁石垣沿いに回り、両見坂からの近畿自然歩道の階段道へとつながる。そこから近畿自然歩道の階段道を100段ほど登ると的場山の頂上だ。


的場山頂上風景

10:58
的場山頂上に到着。先客は男性が一人だけ、NTT点検道路を登ってきたそうで、近畿自然歩道へと下っていった。

三等三角点標石(点名:竜野)はなぜか周りを石に取り囲まれている。もうすぐ積み上げられてケルンみたいになり、隠されてしまうのではないかと心配だ。

的場山頂上

的場山の頂上にある小物一覧(順不同)。

  1. 木板 「自然はみんなの宝物 小さなゴミも、もちかえろう」
  2. 木板 「しぜんはたから ゴミはもちかえろう」
  3. 木板 「的場山(394.3m)龍野:的場山登山会」
  4. 木板 「(24度を指した温度計付)的場山394.3m」
  5. 木箱 『的場山登山会の回数登山帳入れ』
  6. 紙ビニールパウチ 「城山《きのやま》まで3.5km2時間 祇園嶽《ぎおんだけ》まで5.5km3時間
    自然を大切に…来た時よりも美しく」
  7. 赤い木板 「火の用心2003H.O.K」
  8. 古い道標 「亀山5.0km 両見坂(竜野公園)1.8km 自然歩道」
  9. 新しい道標 「城山城2.5km 三坂神社1.6km 近畿自然歩道」
  10. 鉄板 「鳥獣保護区 兵庫県
    WILDLIFE PROTECTION AREA HYOGO PREFECTURE」

団体による「7」以外には、個人的な登頂記念プレートはないが、にぎやかな頂上風景で、回数登山帳を見ると5名ほどが毎日のように登っている。

あと大物は、近くにはNTT的場無線中継所が、少し離れて「敷地内の建物入口脇の電話ボックス」が特徴の関西電力の中継所が建っている。NTTのは監視カメラは無いように見えるが、二重のフェンスの間に有刺鉄線を巻いた三角形のバリケードがあり、間にはまったら痛そうだ。

NTT中継所の二重フェンスと間の三角バリケード

それから近畿自然歩道の解説板もある。(地図・写真は省略)

近畿自然歩道 16.9km

近畿自然歩道は、私達の生活が近代化する中で、自然の残っている地域や名所・旧跡を帯状に結び、身近に歴史や自然とふれあえるように整備したものです。コースには道標がありますのでそれにしたがってお歩きください。

西播丘陵県立自然公園
当県立公園は、西播地域の三濃山(標高508m)、亀山等を含めた地域と、書写山、広嶺山、的場山を中心とした地域に指定されています。どちらも標高300〜500m級の丘陵地からなり、自然豊かな森林地域となっており、森林浴、昆虫や野鳥の観察、瀬戸内海方面の眺望が楽しめます。

城山城《きのやまじょう》
「嘉吉の乱」で知られる赤松満祐が、室町幕府六代将軍足利善教を暗殺して立てこもった山城で、追討の山名氏の軍勢に攻略された悲劇の歴史があります。山麓の古老には、門の礎石、唐猫谷、兵糧道等が残されています。(資料提供:新宮町教育委員会

磐座神社とコヤスノキ叢林
この神社の境内には、坐光石と呼ばれる巨石があり、背後にある神山にも頂上付近に天狗岩と呼ばれる石があります。これらの石に神が宿ると信じて、信仰してきたのが神社の名になっています。境内にはコヤスノキ叢林が分布しており、兵庫県の文化財に指定されたおり、我が国では、西播地方南部と岡山県東部にしか生息していないという興味深い植物となっています。

奥宮神社(井関三神社の旧宮跡)
祟神天皇が西暦前98年にこの亀の山に天照国照彦火明櫛玉饒速日命を祀られたのが始まりです。現在この神は龍野市揖西町中垣内字井関に遷して祀られ本社として井関三神社と称し、この亀の山には武甕追命が祀られ奥宮神社と称し現在に至っています。この奥宮神社の御神体といわれる巨岩は大昔の自然崇拝といえる信仰形態を現在に残しているものです。

コースの見所

菖蒲谷森林公園
当公園は、自然とのふれあいを通して健康の維持・増進、創造的活動、教養文化活動等を高めていく場として「豊かな自然と文化が交流する龍野しじま(静寂)の森」として整備され、中央ゾーン、冒険の森ゾーン、展望の丘、健康の森等の、六つのゾーンから構成されています。公園内には花菖蒲園、林間広場、山頂展望広場等が整備されています。

的場山
的場山は標高394mあり、山頂からは龍野市南部や、晴天時には、遠方の淡路島まで望むことができます。的場山の南側には原生林に包まれた鶏籠山、龍野公園、龍野城、聚遠亭、龍野神社、武家屋敷跡等、歴史的に由緒ある資源や自然が多く残っています。

矢野の大ムクノキ
この大ムクノキは、根回り4.8m、高さ15mに達し、兵庫県の文化財に指定されています。樹齢推定600年以上といわれ、この地の昔、荒神社の森があって、そのご神木として大切に保護されたため残ったといわれています。

環境庁・兵庫県


兵糧道から下りようか

11:35
頂上から真北に下る階段道があり、城山(地形図の表記は「亀山」)から亀の池へと続く、近畿自然歩道にもなっている稜線を行く道の始まりだ。最初の計画では、城山城跡の南から東側の下野田に下るという「兵糧道」で下山することに決めていたが、どうなることやら。

11:39
急な階段道を下ると点検道路に接近するが、近畿自然歩道は北へと延びている。

点検道路には入らず稜線の道へ

山陽自然歩道時代の古い道標があり「亀山4.9q 的場山0.1q」と表示している。読みは同じ「きのやま」だが山陽自然歩道では「亀山」で、近畿自然歩道では「城山」となっている。

明るい雑木林の稜線には、よく踏まれた道が続き至極歩きやすい。ただ両側の木々のため、景色を眺めながら歩くことはできないが、好展望地が所々にある。花は盛期を過ぎたモチツツジしか咲いてなく少し淋しい。

雑木の間を行く稜線の道

モチツツジの花

11:59
色が抜け真っ白になった関西電力送電線巡視路標識が立つ、410mほどのピークに着いた。送電線巡視路は西側の尾根から登ってきて、近畿自然歩道と合流し北へと続いている。へっぽこな登山道だと、巡視路と合流すると見違えるほどよい道になるのが普通だが、ここでの稜線の道は変化はなく、合流してきた巡視路のほうがへっぽこな登山道に見える。

送電線巡視路はおそらく西の尾根を下り、途中で北西の支尾根に乗り換え、その先は送電線沿いに麓に下るのだろう。この巡視路を下ってみたいが、それでは緻密に立てた?計画が狂ってしまう。振り返ると的場山のアンテナ群がよく見え「城山城1.8q 的場山0.7q」の近畿自然歩道の道標も立っている。

12:15
稜線が送電線と交わる直前で、送電線巡視路は近畿自然歩道から別れ東へと下っていく。東側の雑木がつい最近伐られたようですこぶる眺めがよい。

「觜崎ノ屏風岩」から龍野市神岡町の愛宕山が

ここにも近畿自然歩道の道標と、おそらく公設の道標が並んで立っている。

的場山1.0km 城山城1.5km 近畿自然歩道

東:佐野50分 南:的場山30分 北:亀山55分

道標によれば、送電線巡視路で東に下ると新宮町の佐野へと下れそうだが、兵糧道を下るという目的もあるし悩みつつ、送電線鉄塔を見に行く。鉄塔は「西播線 三七」で、道標の立つ展望地に戻り昼食をとることにする。

コンビニのサンドイッチやおにぎりを食べながら、栗栖川と揖保川の間に広がる水が張られた田植え時期の田や、姫新線の気動車が揖保川に架かる橋を渡り屏風岩南のトンネルに入っていくのをぼんやりと眺める。


送電線巡視路を下り栗栖川へ下る

送電線巡視路はどの辺を下るのかなと、中腹に立つ送電線鉄塔を見ると、送電線鉄塔の天辺に大きな鳥の巣があり、一羽だけ大きな鳥がいるのに気がついた。大きな鳥というだけで種類は分からない上、目を離した隙にどこかに飛んでいってしまった。

送電線鉄塔の天辺に鳥の巣が

12:48
鳥の巣を見に行くため、計画を変更し送電線巡視路を東に下ることに決定。巡視路は、ここまでの遊歩道のような道に比べたら幾分落ちるが、歩きやすく、テープ類は全くないが明確で道を外す心配はない。

送電線巡視路を下る

巣と同じ高さまで下り、10分ほど待ってみたが戻ってこない。近くでウグイスが鳴いているがどこにいるのか姿は見えない。大きな鳥の種類を確認したかったが、諦めて下ることにする。

大きな鳥の巣、直径は1mほどか

13:15
送電線鉄塔「西播線 三六」の真下には木の枝がたくさん落ちている。巣を作るために運んだが、うまく組めずに落ちてしまったものだろうか、もう一つ巣を造れるぐらいの量だ。

中腹の鉄塔まで比較的緩やかな尾根だったが、鉄塔から下は急な尾根になる。そこを送電線巡視路は斜めに下ったり、小刻みに九十九になったりして緩やかに下っていく。

歩きやすい送電線巡視路で下る

13:44
送電線巡視路は尾根から北にそれて谷に出た。細い流れだが、湧き出したばかりの冷たい水で顔を洗いすっきりする。谷を下る道は一部不明確だが、赤テープのマーキングがある。

谷を下る

13:58
谷筋を下ってきた送電線巡視路は、次の鉄塔(35)を目指し南へ登っていくのが「火の用心」標識で分かる。しかし次の鉄塔に行く意思が全くなく、赤テープが栗栖川の岸辺へと誘導している状況では、踏み跡が全く見えない巡視路を見極めることは無理な注文だ。

14:02
コンクリート護岸の栗栖川の岸に出た。草が茂る斜面に、稜線にあった道標に対応するものが立っている。この道標がなかったら、ここから稜線へと続く道があることなど気がつかないだろう。

「つつじ尾根コース」を 南:的場山100分 北:亀山125分

栗栖川の岸辺に出る

下流側は草が茂っているが佐野橋まで行けるだろう。上流側は橋まで遠いうえに岸辺まで木が茂り、行けそうもない。正面の栗栖川は浅そうに見え渡渉できそうだ。水遊びするつもりで渡ってしまうのが正解だったかもしれない。

南の佐野橋へと草をかき分けながら進むと、どうしても通らなくてはならない場所に、イノシシの白骨ばらばら死体が散乱している。上あごに牙が残っているのでイノシシに間違いなさそうだ。白骨化が進んでいて臭いがしないのが幸いだが、毛皮付きの骨をまたがなければならず気持ちが悪い。

14:26
「北龍野墓苑」を通り抜け車道に出て、佐野橋を渡り新宮町に入る。妻その1に電話して迎えを頼み、ぼちぼちと北へ歩いていく。



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