槻折山・槻坂の現道トンネル・旧道隧道・
そして古道の切り通し
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平成18年8月13日(日) メンバー 私だけ
槻折山 つきおれやま 80mくらい
2万5千分の1地形図「龍野」を参照すること。
槻折山は
『つきおれやま』と読みます。山といえば山なんですが、実は峠の名前なんです。姫路市とたつの市の境に、山陽自動車道とJR姫新線そして県道が集中し、その全てがトンネルで越える峠があります。地形図で『槻坂(けやきざか)』となっていて、古くは古代山陽道も越えた由緒ある峠です。
槻折山だけでは物足りないので、近くの破磐神社とその起源といわれる『われ岩』を紹介していきます。といっても歴史に興味があるわけでも、何千年も生きてきたわけでもないので、現状の上っ面を紹介できるだけです。
最初は破磐神社に
行ってみた。いつもならバスを使うところだが、今回の地域はバス通りから離れているし、熱いしで車で行ってしまった。国道29号線で姫路から追分峠を越えて行くと、右手に「とんがり山」が見えてきて「石倉」交差点だ。交差点から右に戻るように青い欄干の橋を渡ると「とんがり山・峰相山」の登山口があるが、今日は交通案内標識にもある破磐神社へと左へ曲がる。
10:18
経過時刻は今回の山行記録?に不必要なものだが、いつもの癖で入れてしまった。山陽自動車道の高架を過ぎて、右手に入ると破磐神社参拝者用の駐車場がある。
見た目はごく普通の神社で、予想外に規模は大きく、またきれいに手入れされている。山裾にあるので参道・境内・拝殿・本殿が雛壇状に建っている。
ウェブで調べてみると、『神社の夏越の行事の1つ「千燈祭」では、竹筒の中できらきらと輝くろうそくの明かりが訪れた人々を幻想的な世界へといざない、また、秀吉によって焼き討ちに遭った峰相山鶏足寺の死者を弔うための火祭り「奉点燈祭」では、燃え盛るたいまつが夏の夜を彩ります』(広報ひめじ2006年3月号ー再発見ちょっといい姫路−太市周辺より)や、『元々料理の修行をされていた宮司さんと奥さんのコラボレーションで正式参拝の後に供される「おさがり膳」は一流料亭顔負けの美味しさです』(ウェブサイト行政書士中井勉事務所より)とある。
普通なら由緒を記した案内板が立っているはずなのだが、境内中を探してもない。そこで過去に撮った案内板の写真から起こしてみた。
破磐神社
御祭神
息長帯日売命(神功皇后)
帯中津日子命(仲哀天皇)
品陀和気命(応神天皇)
須佐之男命(明治40年合祀)由緒
応昔息長帯日売命が三韓を討征し凱旋された時、忍熊王の難があったので御船を妻鹿の湊に寄せられ三野の荘麻生山で天神地可祇に朝敵退治を祈られ麻積速祖笠志直命に弦を求めるように仰せれれたところ大巳貴命の神託により一夜の中に麻生をその麻を弦として三本の矢を試射された、第一の矢は印南郡的形に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石に中って磐を三つに破った。神功皇后これを吉兆して、この地に矢の根を祭られ後に仲哀天皇、応神天皇、御ニ柱を崇め奉り破磐三神に称し奉った。この地は当神社より西南1.7kmの地にあって現在宮ケ谷とよばれている。破れた大磐石は現存し、その大きさは高さ6.5m、前巾5.5m、後巾6m、奥行7.5mで、その容姿は神化を思わせ見る人をして驚嘆させるばかりである。この山地は狭盆で祭事に煩があるので徳川初期現在地に遷座し奉った。
神仏混淆の世になり三尊の弥陀を前に安置し三所大権現と称し奉る様になったが明治戍辰の神仏分離令の布告により仏体は取り除かれ神功皇后、仲哀天皇、応神天皇並びに矢の根を尊祟、明治2年9月旧号破磐神社に復した。明治7年2月郷社に列し、明治40年建速神社を合祀し現在に至っている。この破磐神社の起源について
神のさち吹風弓のかぶら矢と
いかで岩をも通さざらめやと詠まれている
例祭 10月18日 千燈祭 7月31日 奉点燈祭 8月15日 厄除祭 2月18日
さて次は、由緒書きにも記載されている、破磐神社の起源たる「われ岩」を訪ねてみた。
「破磐神社起源のわれ岩」の案内に
従って入っていみたが、それらしきものはなく、溜池があるだけだ。それはそうと、ここはJR姫新線太市駅の南側の、槻坂を越えてたつの市へと向かう県道姫路上郡線の、槻坂トンネル東側の交差点「丸山」から南西へと集落の中を通る道に入ったところだ。
実は、われ岩がどこにあるのか全く分からず、「えい、この辺りだろう」と目星を付けて入ったところが、ピッタシカンカンで大正解で、大きな案内板を見つけたまではよかったが、その後がさっぱりだ。
案内に従って脇道に入り真っ直ぐ行くと溜池しかない。看板からすぐのところを右に入ると墓地になっていて、諦めて帰ろうとしていると墓参りの人が来たので聞いてみた。
われ岩は、墓地の左手の道を入ると、すぐに右手に見えるという。車は墓地の入口の六地蔵前に止めさせてもらう。
10:45
言われたとおりに、墓地の左側の道を行くと、ほんとにすぐにわれ岩が右手に見えてきた。注連縄を巻かれた割れた大岩が少し高いところに鎮座している。
破磐神社起源の大磐石(われ岩)
このわれ岩は神功皇后が放たれた、第三の矢が当たって破れたと今に伝えられる破磐神社起源の大磐石です。その昔、神功皇后が、三韓征討より凱旋の時、忍熊王の難がありましたので、御船を妻鹿の湊に寄せられ、三野の荘麻生山で朝敵退治を天神地祇に祈られ天に向かって矢を放たれました。第一の矢は印南群的場にあだ矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に落ちてしまいましたが第三の矢は太市郷西脇山中のこの大磐石にあたって磐石が三つに破れました。皇后はこれは吉兆であると、大層お喜びになりこの地に矢の根を祀られ、後に仲哀天皇、応神天皇の御ニ柱を合せ祀り破磐三神として崇め奉るようになりました。
この地は非常に狭隘で祭事に煩いがあるというところから中世当地より東北1.7キロ離れた適地に神社を御造営し大神をお遷し申し上げ現在の破磐神社となっております。
破磐神社の起源について
かみのさち吹く風弓かふら矢と
いかで岩をも通ささらめや
と詠まれています。破磐神社鎮座地、姫路市西脇字浄安寺
このわれ岩を見た人はほとんどいないと思う(ヤッフーで「破磐神社 われ岩」を検索してもわずか2件しかヒットしない)。所在地は分かりづらいし、存在自体も知れ渡っていないし、けれども写真からは感じることのできない感動を与えてくれる岩だ。大きな岩が好きな人(大岩愛好家、大岩マニアという人は実在するのだろうか)ならずとも近在に住んでいる人なら足を運んでも損はしない。
さて次は、本日の本命、槻折山・槻坂だ。
槻坂トンネルを抜け、たつの市側の
旧道への入口に着いた。午前11時だが、気温はとっくに30度を越えて茹だるような熱さだ。この旧道入口は「たつの市一般廃棄物最終処分場」への進入路にもなっているが今日は閉まっていて、どこに車を止めようとかまわなそうだが、道端の日陰に止めておく。旧隧道へは柵が設置され車は入れないようにしている。しかし、頭の不自由な人がどかして通り抜けたのか、車一台分ほど開いたままになっている。
こらから現在から過去へと時代を遡るようにして、槻坂を三回越えようと思う。まずは現道の「槻坂トンネル」だ。
トンネルに入る前に、道路の脇に太陽電池パネルが並んでいるのを見に行く。今はやりのエコなんとかだろうが、太陽電池を造りここに設置し、これからの維持管理に要するエネルギー以上のものを、得ることが出来るのか、疑問だ。制御盤の表示は「現在の発電量8.0KW、年間発電量9841KW」と表示している。
それでは入ってみる。なにも言うことのない近代的なトンネルで、歩道の幅がなんと3m(緊急車両の通路を兼ねているのか)もあり、トンネルが曲がっているため入口から出口を見通すことはできない。ただ、トンネルの中に入るとデジカメのピントがどうしても合わないのが不気味だが。
槻坂トンネル
2005年8月
兵庫県
延長 349.7m 巾 11.75m 高 4.7m
施行 青木あすなろ・みやもと 特別共同企業体
トンネルが完成したのは去年の8月のようだが、取り付け道路に手間取ったのだろうか、開通式は今年の4月28日に行われている。トンネルを姫路市側に抜けるとすぐに「槻坂橋」になっていて、下をJR姫新線が通っている。
次は旧道の「槻坂隧道」だ。姫路市・たつの市の心霊ポイントとしてもマニアの間では有名なところだ。
槻坂隧道の前には車両通行禁止の
バリケードがある。しかし、こちら側も頭が沸いているのが車で通り抜けたのか、車の巾分だけ除けられている(きっちりと並べ直しておいたのはいうまでもない)。旧道と現道は姫路市側でも連結されていて、このバリケードまでなら車を乗り入れることが可能だ。
旧道の狭い隧道は真っ直ぐなくせに、前後の線形が悪く見通しが効かず、カーブを曲がりきると隧道が口を開けている。この隧道の完成は昭和30年で、巾は5.5m。車両一般制限の2.5m幅の車両同士の離合は、照明も無かったので困難なものだったろう、いや不可能だったろう。
隧道内のコンクリートはいたるところで剥落していた。おそらく不意に落ちないように人為的に落としたものだろうが、絶え間ざる点検と補修の繰り返しは大変な労力を要したことだろう。
さて、最後は本日の本命の中の真打、大晦日の紅白歌合戦に例えるなら「小林幸子」、「古道の切り通し」だ。
古道へはたつの市側から
が入りやすい。古道といっても、今から51年前に槻坂隧道が完成した昭和30年までは利用されていたので、そんなに古いものではないが半世紀の年月と後の道路工事のために現道・旧道とはつながっていない。
切り通しへ登る前に、旧道の横を行くJR姫新線のたつの市側のトンネル入口を見に行く。旧道と掘り下げられている線路の間は夏草が茂りまくっているが、保線用なのか草が刈られ通路ができている。
昭和6年に余部〜東觜崎が開業しているので、そのときからのトンネルと思うが、当然ながら単線の小さなものだ。そして『姫新線全線電化』の暁には架線が張れるよう拡幅することだろう。
この鉄道トンネルと旧道隧道の開通までに24年も差があり、切り通し越えを嫌ってこのトンネルを歩いて抜けた人も大勢いたことが想像でき、その中の何人かは真暗なトンネルの中で真っ黒の蒸気機関車と鉢合わせした人もいただろう。その辺から槻坂隧道の心霊話が始まっているのだろうかと、想像してみた。
今の姫新線は1時間に上下合わせて4本、15分間隔でトンネルを気動車が抜けていく。最古の槻坂トンネルの探索は非常に危険が伴うし、鉄道営業法第三十七条で罰則が定められている。さらに困難なのは二番目に新しいトンネルの歩行探索だが、高速自動車国道法第十七条により禁止され罰則も定められて、物理的な障害もあるのでこれも諦めた方がよい。
11:36
いよいよ古道に突入する。槻坂隧道のたつの市側の下の写真のところから草むらに入り、真っ直ぐに登っていくと平らな道跡に出る。
草木、特にササが茂っているが、誰が見ても道跡と分かる??ものが左右に延びている。東へ進むと峠の切り通し、西に進むと道はなくなる。
11:45
ヤブと藪蚊がひどく、半袖シャツで着たことを後悔し始めるころ、ヤブが途切れ眼前に大規模な切り通しが現われた。ここが槻坂峠で槻折山でもある。
ここに来るのは二度目で、最初に北側の山中から下ってきたときは突然行く手に深い溝が現われビックリし、切り通しに降り立てその規模に感動したが、今回は薮蚊の対応に追われ早々に退散を決定。
帰り道だが、通り抜けるのがこういう探索では常識になっているが、姫路市側は古道と現道の高さに差があり、そこを下るよりは引き返した方が幾分容易そうだ。
12:04
ピストンも悔しいので近道をしようとたが叶わず、登り返したら道跡を横切り登りすぎたりして、なんでこんなところで迷うんだとぼやきながらも、無事に入山地点へ出ることができた。全身汗まみれで埃まみれ、お昼時になったがこの姿ではどこにも寄ることもできないので、自宅に直行しシャワーを浴びてさっぱりとしよう。
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