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住吉道で登れるか六甲最高峰



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平成19年9月29日(土)  メンバー 私だけ

住吉台エクセル東〜住吉道〜六甲最高峰〜有馬温泉

2万5千分の1地形図「西宮」、「宝塚」を参照すること。


ハイカーの友、住吉台くるくるバス

天気予報は曇りで降水確率も思わしくないが、明日の日曜日はさらに悪そうだ。

5月12日の書写山敗退からの4ケ月半の長きにわたる深き眠りからの目覚めには、目の覚めるような秋晴れの青空の下での山登りをしたかった。でもようやく心の底から湧き上がってきた山登りモチベーションはこの機会を逃すと、二度と浮上することなく水面下にズブズブと沈みそうな予感が。こうなったら雨が降っていても登るぞ。

「五助山を通って、有馬に行く」と言い残し六甲山中を八日彷徨った末、無事に自力下山したハイカーの足跡をたどり五助山へと登ろうかとも思ったが、冬場でも頭上を越していたササを思うと、私の大事なところに取り付いていたマダニ(ササダニとも言うらしい)を見つけた時の驚愕が昨日のことのように思い出されてしまう。

結局、この時期は道幅の広いメジャールートに限ると思い直し、まだ歩いていない住吉川左岸道から六甲山最高峰へと登り、下山は魚屋道でそして生まれて初めての有馬温泉入浴というゴールデンプラン。どこが。

7:45
JR住吉駅南の国道2号線バス乗り場から乗車した「住吉台くるくるバス」は15分ほどで終点の「エクセル東」に到着。

平成17年から走り始めたくるくるバスは車両が更新され、かつての車いす用のリフトが後部に装備された車両から超低床のノンステップ式に変わっている。扉は2枚あるが前乗り前降りの、料金は200円均一で前払い方式。運行ヘッドは15分。標高50mの住吉駅から250mの住吉台をつなぐ地域住民の足として発足したくるくるバスだが、住吉道を歩きたいハイカーにとっても非常に便利な公共交通機関だ。

終点のエクセル東で下車


住吉道を行く

7:49
バス停からほんの少しで地形図では実線となっている、車も入れそうな幅広の地道の「住吉道」で、入口の古い消えかけた看板は「太陽……一般バイクは進入禁止……」と書かれている。太陽……は「太陽と緑の道」のことで、昭和47年に神戸市が「市民が自然と親しみながら気軽に歩けるハイキングコース」として設定したのもで、総延長200km近くに及ぶ自然歩道全体の呼び名であり、ある特定のハイキングコースを示すものではなく、表示されていても役立たずのものと、私は理解している。

7:52
数分行くと住吉川の方へと下る細い道があり「住吉・御影(住吉道)」と標柱に表示されている。本来の住吉道はこの細い道を登って来ているようだが、住吉道の完全トレースはくるくるバスに乗った時点でとっくに諦めていたので無問題。

また、この分岐点には「くるくるバス」への案内板が立っている。初めてここまで下りてきたた人なら、細くなるが住吉道を迷わず選択して進むだろうが、二度目の人は「くるくるバス」に乗ることをお薦めする。ここから数分でJR住吉駅へのバスが15分おきに出発しているのを知ってしまったら、さらに住吉道をたどり住吉駅や阪急御影駅まで歩こうなどとは思うまい。

くるくるバスへの案内板

7:58
さらに数分進むと、かの彷徨ハイカーが自力で下りついたという住吉霊園が山中に見えてくる。自然の中の展望抜群の霊園だが、夜には訪れたたくないところだ。近所の人たちなのか時どき手ぶらの人とすれ違う。

住吉道近くに見える住吉霊園

8:03
左:石切道、右:打越山への十字路分岐点だ。写真撮影中に単独男性ハイカーは石切道へ、軽装の夫婦は打越山へと別れて行く。石切道からここに下りてきたことがあるが、打越山へは未踏のルートでそのうちに行って見たいと思っている。

私は住吉道を直進、
カップルは打越山へと右折


五助ダムから住吉川左岸道へ

8:11
五助砂防ダム(高さ30m、長さ78m、昭和32年完成)に着いた。砂防ダムからの落水量は少なく、五助山へ登るとしたら最初の渡渉は容易そうだ。そしてこの地点が、JR住吉駅から歩いてきたのなら六甲最高峰との中間地点で、あと4,5kmで最高峰だ。

五助ダム

五助砂防堰堤(ダム)

六甲山系は、武庫川右岸の山麓から六甲山、摩耶山、再度山などの山並みを連ねて、東西に約30km南北に10kmの地域で、大部分は花崗岩で形成されているが、風化が進んで崩壊しやすい状況となっている。
昭和13年7月5日に発生した阪神大水害は、下流の神戸市、芦屋市。西宮市の市街地一帯を泥海に変え土石流で埋めた。
当時の惨状は、谷崎潤一郎の名作「細雪」にも描写され、また、住吉川の川沿いには、流失した巨大な転石で建立された、水害記念碑によって語り継がれている。
六甲山系の直轄砂防事業は、この阪神大水害を契機に始まり、現在までに住吉川流域では45基の砂防ダムが建設されている。
なかでも、この五助ダムは、六甲山(標高931.3m)を源とする住吉川と、支流五助谷とが合流する位置に、8年7ケ月の長年月をかけて昭和32年3月に完成した、高さ30m、計画貯砂量374千立方mの、六甲山系では最大級の重力式砂防ダムである。
昭和42年7月に発生した豪雨に際して、上流からの流出土砂12万立方mを、一挙に貯留してくい止め砂防ダムの効果を遺憾なく発揮して、下流沿川の災害を未然に防いだのである。
花崗岩の割石を美しく積み上げて、水通しからきれいな水が流おちるようすは、周囲の風景によく溶け込み、四季を通じてハイカーの憩いの場として親しまれている。

建設省六甲砂防工事々務所

住吉道

表六甲と有馬を結ぶ道としては、魚屋道が一般に利用されていたが、明治7年、東京−神戸間に鉄道が開通し、住吉駅が出来てから有馬への道として、この住吉道が脚光を浴びた。しかし、明治40年に阪鶴鉄道(今の国鉄福知山線)が開通してからは三田駅が有馬の表玄関となり、住吉道は衰徴そ、そのうえ昭和13年の大水害でひどく損壊したが、その後、自然歩道として復活し、今日では数多くのハイカーに親しまれている。

昭和60年8月 神戸市

堰堤越えの階段を登ると、砂防ダムの上流側は塞き止められ堆積した土砂で湿地となっていて、その中を木道で行く。木道が終わった先の道の左側に木道の残骸が放置されていて、そこが五助山への最初の取り付き地点だが、草が茂り見事にカモフラージュしている。他にも五助山への取り付き地点はあるが、かのハイカーは五助山に登る前に彷徨し始めたような気がしてならない。

五助ダム堰堤上流の木道を行く

今「五助山」で検索するとGoogleでは1位、Yahooでは11位に私の山行記録が出てくる。読み直して見ると、面白おかしく誰にでも容易に、迷うことなどなく登れるかのように書いている。わたしのHPを見て登ったわけではないと思いたいが、実際にあの山域で遭難者が出たことを思うと複雑な心境だ。

8:22
きれいな池があるが、下流側から流れ込み下流側へ流出するという不自然な状況から、誰かが水溜りに流を導いたものだろう。でもそのおかげで常に水の入れ替わりがあるのでよく澄んでいる。

この池には名前が付いているのだろうか

道は池の向こう側へと続き、ベンチのある休憩所を過ぎると石畳の道となる。かつての住吉道は、解説板にあったが昭和13年の大水害まではこのような道が続き、明治40年の福知山線開通までは大勢の人々が有馬温泉への湯治の行き帰りに利用したのだろう。当時の人々の有馬温泉入湯への熱望は信じられないほど強かったのだろうが、山越えまでして行っていたことが信じられない。

かつての住吉道の名残の石畳

8:30
住吉川右岸道へ左岸道との分岐点。右岸道へは細い道を左にはいり、流を渡る。当然ながら橋などなく整備された飛石もないので増水時には右岸道へは行きにくい。私はまだ住吉川左岸道を歩いたことがないので直進する。

左:右岸道、直進:左岸道

8:33
石畳の道が途切れ途切れにある道を行くと「黒五谷・打越峠・芦屋ゴルフ場」への道が右へと分かれていく。未知の打越山・七兵衛山方向へ行く道で行ってみたいが、今日は住吉川左岸道の日なので入るわけにはいけない。

後から男性ハイカーが付いてきたのだが、どこかで分かれ道に入ったのかいつの間にかいなくなってしまった。

8:37
左側を流れる住吉川へ下る小道があり、対岸に右岸道が通っているのが見える。「左:谷沿い、直進:山腹 を通り合流・最高峰」の標柱があり、ここは真っ直ぐ行くが、初めての道で地形図もまともに見ないで歩いているので、すでに自分でもどこを歩いているのかはっきりしない。

急になった登りの先は急な下りでなかなか高度を稼ぐことが出来ず、こんなことではいつになったら魚屋道に合流するのか心配になってしまう。

登るかと思えば、同じだけ下ってしまう

緩やかで雰囲気抜群の道を行く

8:54
住吉川の岸まで下りてしまう。住吉川右岸道は常に川岸か近くを行くのだが、左岸道は川のそばには寄ることなく、ここで初めて流に触れることが出来る距離に近づいた。

住吉川の流が近くに


左岸とは上流から見て左側、それを渡ったら右岸道だ

8:58
それなりの幅があった道はいきなり狭い道になってしまう。対岸を見るとよさそうな道が見えていて、「そうかここを渡るんだ」と思い込んでしまった。後から来たカップル(中年夫婦)ハイカーがそのまま左岸の細い道に入っていくのも、案内の標柱がないことにもかまわずに、飛石もなく渡渉しにくかったが対岸に渡ってしまった。

「思い込みほど怖いものはない」とは、その時の私のことを表すために存在してきた表現方法ではないかと思う。

住吉川の右岸へと渡渉
おいおい、左岸道を行くんじゃなかったのか

9:01
右岸を少し行くと「渡渉するならここしかない」というところがあり、「右岸上流へ:本庄橋跡を経て六甲最高峰4.1km、西おたふく/渡渉先の左岸:本庄橋跡を経て六甲最高峰4.1km/右岸下流へ:五助ダム1.8kmm住吉・御影4.7km」の標柱が立っている。

「ふーん、このまま行っても本庄橋へ行けるんだ。ちゃんと住吉道を歩いているじゃないか」。関西在住すでに24年近くが経つが、いまだに関西弁を操ることなど出来ず標準語(栃木弁がかなり混じっているを自覚しているが)でしか話すことの出来ない私は、当然独り言も標準語だ。標柱の「西おたふく」の文字は見えていても認識できなかったようだ。

9:12
極普通の歩きやすい山道を登って行くと見覚えのあるところに出てしまった。一度歩いた道でも逆方向に歩くと初めて歩く道と感じてしまうとは、自分でも驚いた。

西おたふく山と本庄橋跡への分岐点

標柱は「登ってきた道:住吉駅/直進:西おたふく山/戻るように登る道:本庄橋・最高峰」となっている。かつて西おたふく山から下りてきて、住吉川右岸道を住吉台へと行った道ではないか。


森林管理歩道で本庄橋跡へ

10分ほど引き返せば、本来の目的の住吉道から魚屋道へと歩けるが、ここから本庄橋跡への道も歩いてみたい。『初志貫徹』が私の座右の銘だが、『臨機応変』は先祖伝来の家訓だ。ここは戻らずに本庄橋跡へと歩みを進めることにする。

天候のせいも多分にあるだろうが、山腹を行く道は木々に取り囲まれていて見通しはなく、薄暗く気味が悪い。道自体は土嚢がこれでもかこれでもかというほど路肩や山側の斜面に積まれていて、よく整備されている。

写真に撮ると明るくなるが
日暮れよりも暗い道を行く

9:22
明るい尾根道に出た。「こんな尾根道が本庄橋跡まで続いていたらいいな」などと、ないことを願いながら進むと10分後にはまた暗い中腹道になってしまう。

明るい尾根道はすぐ終わる

六甲の山道に付きものの、過剰と思える標柱は全くなく一般ハイカー道ではないが、石段や石垣おまけに石畳の道さえあり、かつてはそれなりの通行量のあった道だったように見える。

古そうな石垣もある

ごく一部に南側の視界が開け大阪湾を望める地点もあるが、日当たり良好でもあり草々が茂り道を覆い隠して、いや道にも草が生えている。そこには秋の草花が咲いているが、どんよりとしていた曇り空から、とうとうポツポツと雨が降ってきた。ザックに入っているマクロレンズを取り出して撮影中にザッーと降ってきたらと思うと、今回は花はなし。

日当りの良いとこは草藪になっている


魚屋道に合流

9:57
魚屋道に合流した。住吉川を離れてから誰にも会わなかったが、こんな天気でもさすが六甲のメインルート魚屋道、何人ものハイカーが歩いている。

合流地点の標柱には「ここまで来た道:森林管理歩道、住吉川西岸を経て五介ダム・住吉・御影/魚屋道南側:住吉道、五介ダム・住吉・御影/魚屋道北側:住吉道、六甲最高峰(本庄橋を経て)」と表示されている。

「そうか森林管理歩道を歩いてきたのか、あれ、この辺は魚屋道=住吉道なんだ」。何回も歩いた魚屋道だが、始点を変えると新しい発見があるものだ。

魚屋道と合流

10:01
本庄橋跡をショートカット(短絡路は下って登るから、ほぼ登るだけの本庄橋跡ルートの方がショートカットのような気もする)する道には行かず、本庄橋跡に到着。初めての道を歩き異常に高揚した精神はようやく平常に戻りつつあるようだ。

本庄橋跡

川岸の小広場には、本庄橋に使われていた石材がいくつか残されていて、私の乗っている石材には『右から「圧」の字の「土」の下横棒を取り左右を反転させた「石屋さんのトレードマーク」か、真ん中は「本」、左側は石材が折れてしまい「庄」の右半分』と右横書きの文字が刻まれている。

本庄橋跡

本庄橋は、魚屋道が住吉川の上流を渡るところにかけられた石橋でこのあたりが本庄九ケ村(東灘区東端の村々)の入会地だったことにちなんで名づけられたのだろう。     魚屋道は江戸時代初期から灘地方と有馬を結ぶ東六甲最古の山越え交通路で、当時の絵地図によると今の登山コースとほぼ一致して、東灘区森で西国街道からわかれて山に登り、風吹岩・東お多福山・本庄橋・一軒茶屋・的場山々腹、有馬のルートを通っていた。     幕府が灘から有馬への正規の街道を、西宮・宝塚・蓬莱峡・船坂・有馬と定めた後も、遠まわりを嫌って人々はこの道を利用しつづけた。そこで、街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は、これを「抜け荷の道」と称して大阪奉行所へその通行止を訴え、しばしば紛争がおこった。
この本庄橋自体の建設年代は不明だが、文化3年(1806)に灘と有馬の人々が道筋を大改修した記録がある。

(田辺真人記)

10:08
本庄橋跡から急な石段を登り、本庄砂防ダム(高さ20.0m、長さ102.65m、昭和44年12月完成)を左に見ながら進むと、土樋割峠からの林道終点広場だ。砂防ダムを造るための通された林道なのだろうが、この広場は植生も回復させることなく何のために残されたのだろうか。新たなダムを造る計画があるのだろうか。

土樋割峠からの林道終点広場


七曲を経て六甲最高峰

広場から北に降りると本日最後の渡渉ポイントだ。六甲のメインルート魚屋道だけあり大きな飛石が完備されている。

広場から降りて本日最後の渡渉

最高峰へは七曲を残すのみ。標高差はまだ340mもあるが、始めこそ急な七曲だが名前が示すとおり折り返しながら登っていくので、大体は緩やかな登りで難所はもうない。

緩やかな七曲を登る
(本当はもう少し急)

鮮魚を有馬へと運ぶために通された魚屋道がいかに整備された道であったかを物語るような、古風な石段の道がある。でも江戸時代の遺物がそのまま残っているはずはないので、後世に整備されたものと私は思うが、どんなのだろう。

石段の道を登る

10:45
支谷を木橋で渡ると一軒茶屋はもうすぐだ。この木橋頼りなさそうに見えても桁は鉄骨を用いた頑丈なもので、大人数の団体同士がすれ違いの大渋滞を起こしてもびくともしないだろう。

もうすぐ一軒茶屋だ

10:51
六甲全山縦走路が通る一軒茶屋に着いた。森林管理歩道から魚屋道に出たときは何人ものハイカーに出会ったのだが、なぜか七曲を登っている間は誰にも出会わなかった。また森林管理歩道ではポツポツ雨が降り始めたのだが、魚屋道に出てからはどんよりとした曇り空は変わらないがなんとかもっている。

一軒茶屋前

10:58
まだ時間も早いし、雨はいつ降りだしてもおかしくないし、一軒茶屋に寄り800円のカツカレーを食べるのは止めて最高峰を目指し舗装道路を登ると、誰もいなかった。観客のいない中でのシェーは「クリープの入っていないコーヒー」みたいで感動がなく詰まらない。

観客のいない六甲最高峰でシェー

私は極普通の良識をわきまえた中年男性で
いつもこんな事をしているわけではありません


有馬温泉へは一気に魚屋道で

11:17
下りは、魚屋道で有馬温泉だ。マニアックな喘宝寺谷西尾根や変化に富んだ紅葉谷の方が面白いだろうと思う人もいるだろうが、今日は魚屋道を上書きした住吉道の完全トレースがメインテーマなので、だんじて脇道にそれるわけにはいかない。

知らない人はいないと思うが、有馬温泉へのメイン下山道「魚屋道」は、一軒茶屋の向かいの広場から始まっていて、下り口に吊るされた寒暖計は14度を示している。

有馬温泉へ私をいざなう魚屋道

有馬温泉へと下る魚屋道は、詰まらないと言えば全く詰まらない。眺めが良いわけでもなく、本当に緩やかな幅広の道で、登山道と言うよりは遊歩道といった雰囲気で、私の16インチ折りたたみ式自転車でもヒルクライムできるに違いない。

登山道と言うよりは遊歩道のような道

11:50
途中は省略し、噂の「瑞宝寺公園へと下る筆屋道」への分岐点に着いた。神鉄有馬温泉駅まで2.9km約45分、六甲山最高峰まで1.8km約45分の地点で、的場山の東側の谷を下るように思える。

事前知識無しにいきなり新しい道が出来ていたら驚くだろうが、知っていても驚いた。「ウーン、金さえかければこんな所にも道が通せるんだ」いくら掛かったのか知らないが、まだまだ神戸市は金持ちのようだ。

瑞宝寺公園に下りるとバス停までが遠かった記憶があるので、このまま魚屋道を下ることにするが、いずれそのうち歩かねばなるまい。

瑞宝寺公園へと下る筆屋道

利用者の皆様へのお願い

この歩道は、砂防堰堤付近を通過します。そのため、水位の上昇により、歩道尾一部が分断されたり、土砂の流出が発生する恐れがあるため、通行される場合は、十分に注意して下さい。時間に十分な余裕がない場合や、降雨時・降雨後の使用は遠慮ください。また、危険ですので、砂防堰堤には近づかないようにして下さい。

有馬町自治協議会

有馬町自治協議会がこの筆屋道を開設したとは思えないし、責任逃れのこの警告板があろうがなかろうが、神戸市の設置者・管理者としての責任は、土砂崩れなど道が原因となった事故では責任を免れることは出来ないと私は思う。

11:56
的場山を西に巻く道に入る手前に休憩場が出来ている。

「峠の茶屋跡」休憩所

魚屋(トトヤ)道と峠の茶屋

この道は、江戸時代、有馬温泉に神戸(魚崎)の魚を運ぶために使われました。明治になり、県道有馬住吉線として整備され、さらに明治7年大阪・神戸間に鉄道が開通すると、住吉駅が有馬温泉の最寄駅となり、徒歩・馬・駕篭による交通が盛んになりました。
新しい茶屋もできました。もうすぐ有馬、というところでの一服。期待と胸膨らむ至福のほと時だったことでしょう。
いまもトトヤ道として多くのハイカーに利用されています。

お昼になったし、この先に適当なところもないだろうし、この休憩所でお昼ご飯にする。家族で登ってきたハイカーは、お父さんがガスストーブでラーメンを炊き始めたが、私はサンクスで買ってきた「寿司の美登利監修 とろさんま炙り焼寿司 395円(税込)」だけだ。「うん、結構いける」、9月25日から10月15日までの限定販売で全国のサークルK・サンクスで絶賛発売中・なくなり次第販売終了、また来年のお楽しみ。

「峠の茶屋跡」休憩所外観


炭屋道

12:19
峠の茶屋跡休憩所から5分ほど、的場山を巻く道から新しい道が、紅葉谷へと続く林道へ下っている。「炭屋道を経て的場山堰堤0.5km約15分、六甲山最高峰2.2km約50分、神鉄有馬温泉駅2.5km約40分」。

炭屋道の下り口

このまま魚屋道を下っても暗く面白みのない道だし、この炭屋道を下った先は林道でロープウェイ駅へ出でて歩く距離もそんなに変わらないだろうし、予定外の行動を慎むのがハイキングの基本だがこれを下りても遭難する可能性はほぼ零だろうし、「よし、炭屋道を下ろう」。

九十九な階段道

下り始めは急な雑木林の斜面を切り開き、階段道が九十九に付けられている。歴史の重みを感じる魚屋道から、出来立てほやほやの「………の森」風の階段道でその落差は大きいい。

でも、道の両側は常緑低木・下草が刈られ見通しはよく、手作り風の角がなく丸い輪郭の遊歩道は、重機で無理やり山肌を削り取って通した遊歩道を見てきた目から見ると穏やかさ優しさが感じられる。

ここまで自然風に仕上げるには
金が大分掛かったろう

12:34
炭屋道が終わるちょっと手前に炭焼窯跡が残っている。石組みが丸く築かれ焚き口部分だけは口を開いている。窯跡を見るたびに思うのだが、炭焼きシーズンは杣人もこの山の中で暮らしていたことだろうが、どんな暮らしをしていたのか興味がある。

炭屋道の炭焼窯跡

炭焼と里山

ここにある石積みは、かつての炭焼き窯の跡です。炭の材料にする木材は重いものが多いので、木材を焼いて軽くしてから運び出していました。
炭を焼くために木を伐る林は薪炭林と言われます。材料を得るために利用され、人々の暮らしを支えてきたのです。薪炭林は伐採を繰り返されることから木が根元から株立ちになって生えるのが特徴です。
もし、山の中を歩いていて、株立ちの木がたくさん生えている場所に出合ったなら、その林は、かつては薪炭林として利用されていたことがわかります。

12:37
炭屋道の出口だ。川側半周が壁になった東屋が立っているが、中に入ると薄暗くゆったりとは寛げそうもない。でも、厳冬期の氷瀑見物の行き帰りにはホットする風除けになることだろう。

炭屋道の下り口

神戸市北区有馬町


有馬温泉癒しの森

日本三古泉に数えられる有馬温泉。温泉街から少し歩くだけで豊かな自然と触れ合えます。
周辺の山々は、多様な植物や生き物が見られるなど自然の宝庫といえます。アリマウマノススズクサ・アリマグミなどアリマの名がつく植物やコバノミツバツツジ・ヤマアジサイなどきれいな花を咲かせる植物もあちこちに見られます。
この豊かな自然を、より親しんでいただくため、この辺り一帯を「有馬温泉癒しの森」と名づけ、森の散策や、様々な野鳥や草花と出会うことで、心が安らぎ、癒しの効果を得ることができるように遊歩道や休憩所などの整備を行いました。
名湯の温泉浴とともにこの森での森林浴、日光浴、イオン浴などをお楽しみ下さい。また、ウォーキング効果による癒しと健康をあなたのものとして下さい。


有馬温泉癒しの森周辺のみどころ
有馬四十八滝

有馬温泉癒しの森周辺では、七曲の滝や百間滝をはじめ、「有馬四十八滝」と呼ばれる数々の滝が見られます。

特に冬に見られる「氷瀑」は見事で、ツララ状の氷が岩盤を覆い、非常に美しい風景です。近年は、凍ることが少なくなりましたが、年に数度は見ることができます。
時間のある方は、足を運ばれてはいかがでしょうか?



筆屋道

江戸時代、有馬町には筆屋が軒を連ね、筆屋町という地名までありました。この町では、優れた竹と筆の穂先になる、鹿、狸・狐などの獣毛の入手が容易であったことや、湯治客人などの需要が多かったことなどがその要因であり、有馬土産の代表的なものでした。その歴史を偲んでいただこうと、この歩道を筆屋道と名付けました。


魚屋道

神戸(魚崎)の海浜で獲れた魚を魚屋(トトヤ)さんが有馬へと運ぶために利用していたことが、名前の由来です。
江戸時代から明治のころまでは交易の道として、また、現在はハイキングコースとしてよく利用されています。


炭屋道

この辺りには、昭和戦前ごろまでは、多くの炭焼き窯がありました。
この道はそばに今も炭焼き窯の跡が残っています。炭焼きは良好な森を守るという点からの効果が見直されています。このようなことから、この道を炭屋道と名付けました。

12:49
かつては車も自由に入れた林道を10分ほど歩き、ロープイェイ有馬温泉駅に到着。

ロープウェイの駅に到着

このころから再び雨がポツポツしだしてきた。気分よく温泉につかっても出てきたら大雨は困るし、バス出発時刻もあるし、「金の湯」横の足湯につかり、そして家族のお土産に抹茶炭酸煎餅を買い込み、13時50分発のJR三ノ宮行き神姫バス(神姫バスの通勤定期を持っていると土曜・日曜・祝日は路線・距離に関係なく1乗車100円の『環境(エコ)定期券制度』を利用するため。共同運行の阪急バスも阪急バスの通勤定期券を持っていると同様な割引制度がある)に乗り込んで、本日の山行は終了。



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