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西国三十三箇所番外「花山院菩提寺」裏参道



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平成21年5月23日(土)  メンバー おひとりさま

尼寺北口バス停〜裏参道〜花山院〜表参道〜花山院バス停



5月2日の有馬富士縦走を終えてから、すぐ近くの山上に建つ西国三十三箇所番外「花山院菩提寺」の存在を知った。西国三十三箇所中興の祖たる「花山法皇」が、出家後に花山院菩提寺で14年間の隠棲生活を送ったのち、41歳の生涯を閉じたことから、三十三箇所巡礼の成就を願って参詣する番外寺院となった。

寺社仏閣巡りを趣味に加えてもよいかなと地形図を見ると、車が通れる表参道以外に東からも破線道が登っていて、ウェブで調べてみると、いくつかの山行記録も存在する。舗装された表参道を登っても野歩記にならないだろうが、この裏参道コースなら野歩記の範疇に十分入ることだろう。

山行概念図(2万5千分の1地形図:藍本)


尼寺北口バス停から十二妃の墓

9:12
花山院菩提寺へバスで訪れるなら、表参道入口の「花山院」バス停ではなく、一つ手前の「尼寺(にんじ)北口」バス停で降りることを強く薦める。

この「尼寺北口」バス停から西へ入るとすぐに、花山院菩提寺の歴史を学んだものなら絶対に行きたくなる「十二妃の墓」があるからだ。

尼寺北口バス停から北へ走り去る神姫バス

JR三田駅前から花山院へは、1時間に1本ほどの神姫バスの便があり、ローカル路線なのに本数は多い。神姫バスの時刻表などの詳細は時刻・運転検索 のぞみNaviで調べてもらうとして、三田駅前から乙原(おちばら)バレー行きに乗車して、15分ほどで尼寺北口バス停に着く。後乗り、前降り、料金は後払いで340円。

9:14
バス停北の三叉路(狭い道を入れたら四叉路かも)の「←十二尼妃の墓(大型車駐車場有り)30M」の案内に誘われ、左に入るとすぐに「十二妃(ひ)の墓」がある。

天皇が政争に破れて退位し、そして出家して法皇になったりとダイナミックだった天皇制が、わずか千年で崩御するまで退くことが許されない現在のスタティクな天皇制に変わってしまったのが信じられないが、天皇の妃だった人の墓がかくも質素というか侘しいというか、そして山上にある花山法皇の墓所も同じく簡素なことに驚いてしまう。

けれども、千年の月日を経ようとも共に廃れることもなく、地元の人たちが何十世代にも渡り、連綿とお世話を続けてきたことにも驚いてしまう。

竹垣に囲まれた質素な十二妃の墓

花山院・十二妃の墓

 花山(かざん)天皇(在位=寛和元年(985)〜2年(986)は、藤原氏との政争に敗れ退位した後剃髪し法皇となった。やがて弘法大師が巡ったという西国各地の寺院を巡拝したことが西国観音霊場巡りの始まりと伝えられ、隠棲生活を送った花山院は札所の特別番外とされ、今も参拝者が絶えない。
正式な寺名は東光山菩提寺
 山麓の集落尼寺(にんじ)には、都より法皇を追ってこの地に来た弘徽殿女御(こうきでんのにょご)と女官たちが、女人禁制の山中に入れず草庵を結び暮したと伝える。山中で修行する法皇に聞かせたいと登り口の坂で琴を弾いたことから、参道の坂を琴弾坂と呼ぶ。
 中央の五輪塔は弘徽殿女御のもので、周囲の十一基の石塔とあわせて十二妃の墓と呼ぶ。

三田市観光協会



不動尊まではよい道が

9:26
集落の中を通ることなく、尼寺北口バス停から三田駅方向へ少し引き返して、地形図の実線道を行くのがポピュラーだが、本来の裏参道は集落の中の破線道だ。

でも集落の中のを行くと、洩れなく住宅の庭先に入り込んでしまう。「困ったな、やっぱり実線道しかないのか」と地形図を見ていると、「石垣沿いに行くんだよ」と庭先で草引きをしている奥さんに教えられた。

「ありがとう」と答えたが、半信半疑で、踏み跡も何もなくきれいに草が生え揃った石垣沿いを行くと、前方の林の中に続くはっきりとした道が見えてきた。私の行き先も知らないはずなのに、あの奥さんは弘徽殿女御の生まれ変わりに違いない。

この草生した道?が参道とは

9:28
林の中を行く暗い旧参道は、二番目の溜池の手前で車道に出てしまう。本当の旧参道を歩くことが出来て感動していたのだが、少し暗すぎる道で、前方が明るくなってホットした。

二番目の溜池の手前で舗装道路と合流する

9:34
ここは三番目の溜池で、この先に市之瀬への道と、花山院の東側を回る道との分岐点があるはずだ。

三番目の溜池

9:37
分岐点だ。正面の市之瀬への道は幅広いが、今は通うものが絶え草が茂り道を隠そうとしている。花山院へと分岐する道は少し狭くなるが、今も利用する人がいて轍がある車も通れる普通の林道だ。

三番目の池の先の分岐
直進は市之瀬、左が花山院

この分岐点には「是より花山院」の石の道標があるはずなのだが、見当たらない。探し方が足りなかったのか、はたまた誰かがお持ち帰りしてしまったのか。でも、なぜもっと徹底的に探そうとしなかったのか、姫路からのあまりにも長かった電車とバスの旅に疲れていたのか、なんか今でも釈然としない。

道標は探し出すことが出来なかったが、両方の道に「入山禁止」の警告が張り出されている。檻やワナを背負っているわけではなく、このまま進んでも問題はないだろう。

入山禁止

無断にて当山林内に檻・ワナの設置を厳禁す。 尚、不審者は三田警察へ通報する。

地主

9:41
分岐から数分で、不動尊のお社が左手に現われた。境内の落ち葉は掃き清められ、すっきりとしている。ここもまた十二妃の墓と同じく、信仰心厚き地元の人に守られている。

花山院東麓の不動尊


荒れ果てた裏参道で花山院へ登る

9:47
よく手入れされていた不動尊までの道と打って変わり、落ち葉や土砂が積もり木々も倒れかかる廃道の様相を示す道になってしまった。かつては村々を結び多くの人々が行き来していただろう幅広い道だが、もうその栄華を取り戻すこともなく、時たま私のような物好きが通るだけだ。

不動尊から奥は荒れ果てた道

9:53
地形図に描かれた花山院へと登る破線道の分岐点よりも幾分手前のような気もするが、道端の木にマーキングが施され、掘割のようになった道の左側に切れ目がある。正面の道は木々が茂り狭くなり、行く手を遮るように木が置かれている。ここが花山院へ登る分岐に間違いないだろう。

花山院へ登る道へ入る

9:57
人が歩いた形跡は感じられないが、しっかりとした道型が続きマーキングもちらほらと付けられている。地形図の破線道は尾根北側の谷から南側の尾根に登るが、実際は尾根南側の谷から北側の尾根に登るように感じたが、文明の利器GPSをいまだに手に入れてないので定かではない。

道型が二股に分かれる場面もあるが、片側には木枝が置かれているので間違って入ることはないだろう。

植林の中に続く明確な道型を辿る

9:59
倒木の直撃を食らったのか、首から上が折れた石仏だ。日当たりの悪い林の中にあるので風化は進まず、コケが生えているぐらいで、銘文もはっきり読めるのに残念だ。

可哀そうな石仏だが、毎日お参りしてくれた信仰厚い人の身代わりになったに違いない。

道端の首折れ石仏

10:04
尾根を目指し、細かく九十九に登る参道を辿るのは難しくはない。ただ、最近は手入れが全くされていないため、参道にも草木が生え始めていて踏まないように足元に注意しながら登らなければならない。

自然に帰ろうとしている裏参道

10:09
この道は登山道ではなく、元々が誰にでも登れる九十九折れの緩やかな参道として開かれているので、少しの整備で見違えるようになるだろう。そうすれば、現状の急な面白くない舗装参道を登るしかない参詣者に人気が出るかなと思う。

道の形は崩れずに残っている

10:15
光背が欠けた小さな石仏が足元に、台座もなしに祀られている。首折れ石仏といい、この光背欠け石仏といい、石材自体に割れやすいという宿命的な脆さを持っているのだろうか。

でもこの石仏、変。安定した山側に祀るのが普通だと思うが、谷側にぽつんと置かれている。どっかから持ってきたのか、上から転げてきたのか。

足元に光背が欠けた石仏が

10:21
花山院境内の一番奥、トイレの裏に登りついた。境内との間には柵があり、裏参道とはつながっていない。何も案内はないし、花山院としてはこの裏参道は認知していない。

裏参道らしく隠れ裏口から花山院に入る


三角点標石(点名:花山院)へ

真っ白な巡礼装束に身を固めたお年寄りの一団が、ちょうどお参りに来たところだ。だが私の巡礼の目的地はここではなく、この山の木々に囲まれ展望も何もない頂上だ。

今日から私はピークハンターnoarukiになるのだ。

きれいに掃き清められた花山院境内

10:25
トイレの向かいの開閉式アルミフェンスが頂上への入口だ。頂上へ続く道脇には祠が点々と祀られているが、閉じられたフェンスに遮られお参りするものは絶えてしまった。稀に通りかかるのは私のようなピークハンターだけだ。

石仏の祀られる祠がぽつぽつと

10:28
道は、砂防工事用の索道跡と思われる幅10mほどの切り通しに出る。その先は雑木が茂る急斜面となっていて取り付けそうもなく、切り通しの西側にはベンチが置かれ展望所のようになっている。

切り通し西の展望所

ベンチの山側に「三田市防災行政無線 尼寺中継所(防災三田尼寺局)」の小さな局舎が有刺鉄線に守られたフェンスの中に設けられている。無線中継所なのにアンテナ塔がなく変だなと思いながら裏側に回ると、保護管2本に収められたアンテナ線が山頂方向へ延びている。

三田市防災行政無線 尼寺中継所

10:31
アンテナ線保護管を辿っていくと、頂上手前に高さが20mもありそうなパンザーマストが立っていた。鋼管の太さに比べ取り付けられた八木アンテナは小さなもので、釣り合いが取れていない。

防災無線アンテナ鉄塔

10:34
アンテナ塔の奥がこの山の頂上で、四等三角点標石(点名:花山院)が埋設されている。うわさどおりに周囲は木々に囲まれ展望は皆無。でもこんな頂上でも登ってくる私のような好き者がいるようで、登頂記念プレートが2枚下がっている。

二つ目のプレートにあるメールアドレスは西宮市に存在する明珠工業株式会社のものだが、わざわざ個人情報付きのゴミを残していくとは何を考えているのか。プレートの内容から調べてみると、すぐにピークトレックというHPを見つけた。その中に花山院への登頂記録「929花山院 登頂」がある。

山崎独歩会も同じだが、誠に困ったピークハンターだ。私は「とっていいのは写真だけ、残していいのは思い出だけ」教の中で「足跡も残してはいけない」派に属し、私のように自己顕示欲を満たすのはHPの中だけにして欲しい。

私の老い先の如く展望のない山頂


花山院で過ごした1時間35分

10:45
このまま表参道を下れば11時7分の三田行きバスに間に合うが、花山院自体をまだ何も見てないし、お参りもしてない。だが次のバスは1時間43分後の12時50分までない。もう花山院を訪れることもないだろうし、この後の予定を考慮しても時間は有り余っている。ここでゆっくりすることにしたが、唯一お昼ごはんを用意してこなかったことだけが悔やまれる。

ここが花山院の本堂で「花山法皇殿」の札が下がっている。隣に建つ西国薬師霊場21番となっている薬師堂もあまり大きさに変わりなく、巨大寺院の大伽藍のような威圧感がなく、花山法皇の慎ましさを好ましく感じた。

花山院菩提寺本堂に参拝する

秋に登ったら紅葉がきれいだろうな。でも、今の季節の赤い実を付けた生き生きとしたみずみずしいイロハモミジの若葉に、若かりし頃の私の姿を重ね、……いかん花山法皇ならぬ徳仁親王になるところだった。

時間を持て余し芸術的写真を撮ってみたり

ここが花山院御廟所というが、小規模で質素なものだ。法皇の少し前(300年ほど)までは、己の権威を示すために在位中から巨大な古墳を築いていたのに、右へ倣え式に一斉に行動様式を変えるのは日本人の特質なのだろうか。

花山院御廟所

花山法皇を慕いまつる    児玉尊臣

山の鳥木々のしげみに啼きヽほひ
みささきの邊のすがしあさかも

 奈良朝の頃大和長谷寺徳道上人は西国三十三所観音の霊場を開いた。その後三百年のあまりを経て花山法皇がその滅びようとする霊場を再興されたその高徳は大きい。
 名僧の誉れ高い河内石川寺、佛眼上人、書寫山円教寺、性空上人を戒師とし、紫雲山中山寺、弁老上人を先導としてあらゆる雑苦をなめて、これを再興され晩年棲みつかれたのがこの東光山菩提寺である。
 この法のみ山には幾多の悲話哀話が残され、曰く琴弾坂、曰く十二尼妃の奥都城、曰く尼寺(にんじ)という地名の起源などすべて情緒練綿として汲めども謁きぬ、なまめかしくもも悲しき物語がある。
 今日はこの追慕の情切なる法のみ山に辱知の厚意によって拙き歌の碑が建った。無常の光栄というか。

昭和45年5月   三田市郷土文化研究会議す

花山院の西側、寺務所前に展望所があり、正面には有馬富士から千丈寺湖が、そして澄んだ日には播磨灘に浮かぶ小豆島や家島も見えるという。

花山院展望所

これまでに数箇所の西国三十三箇所霊場を訪れたことがあり、納経帖の存在も知っていた。でも「日本百名山」、「ふるさと兵庫の百山」、「宍粟50名山」などなどを有り難がり、巡礼者のように決められた山々を巡ることを、かねてより嘆かわしいと思っていた私が、寺社に優劣をつけるが如くの西国三十三箇所霊場巡りなど出来るわけもない。

でも君子豹変す。花山院で1時間以上も過ごすうちに、『これまでの思い込みを過去のものとし、新しき生き方を模索しなければ』と低次元な悟りを開いてしまった。

寺務所で「西国三十三霊場納経帖」を求め、東光山花山院の御朱印を頂く。聞くところによると、西国三十三箇所霊場参りを始める前に、最初に花山院を訪れ「無事巡礼を終えられますように」と祈願し巡礼を始めるのが古来からの風習という。

生まれて初めて頂いた御朱印


下山

12:20
三角点への往復を含めて山上生活は2時間となり、名残惜しいがとうとう下山の時間がやってきてしまった。

山門も、山上のお堂と同じく小ぶりなものだ。でも、千年前のトラックもクレーンも何もない時代に、人力だけで用材を運び上げて、これだけのものを山上に築くのは大変だ。そして黙々と巡礼道を歩き続け、花山院への急な狭い参道を登り、この山門が見えてきたときの感動は、車で登ってしまう現代人には到底味わえない。でも表参道を歩いて登れば十分の一、そして私の辿った裏参道から登れば半分ぐらいは味わえるのではないだろうか。

花山院山門

花山院は、麓の駐車場も山上の駐車場も無料だ。但し、自家用車でもタクシーでも参道を登れば、道路舗装協力費500円を御朱印を頂くときに収めなければならない。

この舗装参道の距離はわずか900mしかないが、その急さは半端ではない。麓との標高差は170mほどあり、単純計算で10mで2mも登らなければならない。平均でそれぐらいだから、一番急なところはその3倍の10mで6m登るぐらいの覚悟がいる。

ものすごく急な舗装表参道

いくら急でも、下りなら足を踏み出せば自然と進む。でも登ってくる参詣者は必死だ。ところどころの丁石や石仏に励まされ登るわけだが、その数は少ないし、裏参道と同じで一部が欠けたものが多い。いっそのこと書写山円教寺みたいに三十三体の観音像を30m置き位に並べれば、拝むのが休憩代わりになってよいかも。

数は少ないが石仏が励ましてくれる

12:26
地形図の北に破線道が分かれるところには「琴弾坂」の石碑が立っている。女官たちが山中で修行する法皇に聞かせたいと、ここまで琴を担いで登りそして弾いたところだ。ここからなら花山院まで近く、琴の音が聞こえたことだろう。

琴弾坂の石碑

12:33
急な坂を多くの自動車が行き来して、すぐに傷んでしまうのだろう。コンクリをただ流すだけでなく、舗装の中に鉄筋メッシュを仕込んで補修している。これなら道路舗装協力費を納得して収めることができる。

参道の一部は舗装改修工事中

12:37
山門から写真を撮りながら17分で下りてきたが、登るのは25分ほどかかるという。表通りに出るとバス停はすぐだ。


後日談 善光寺へお礼参り

西国三十三箇所の巡礼を無事に終えて満願となったら、古来から信州長野の善光寺へ満願成就の報告と結願のお礼参りするすることが習わしになっていると、伝え聞いてしまった。私の性格だと、絶対に三十三箇所全てを巡れるはずはなく、中途半端なままで終わるのは目に見えている。善光寺へお礼参りすることなど夢のまた夢だ。それならばと、まだ番外の花山院しか巡っていないうちに、一気に善光寺へお礼参りに行こうと決心した。

夜行バスで行って、善光寺に参拝し、その日の夜行バスで帰ってくるという、まるでドーハへの弾丸ツアーを髣髴させる凄まじい参詣となったが、無事にお礼参りをしてきた。

7年に一度の御開帳が終わったばかりの善光寺は参拝客は少なく、真っ暗闇の「戒壇巡り」で「極楽浄土への錠前」に触れることができ、これで私の極楽浄土への往生が約束された。

お礼参りの善光寺御朱印

納経帖最後のページに善光寺の御朱印を頂き、これで私の西国三十三箇所巡礼は大団円を迎え、誰にも知られることもなく無事に終了した。



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