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さようなら ありがとう 姫路城 あれぇ??



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平成22年4月11日(日)  メンバー おひとりさま

自宅〜徒歩〜姫路城


また会えたらいいな 姫路城

国宝にして世界文化遺産でもある姫路城。爆破シーンで死傷者を出し「ろの門」(重要文化財)まで壊した衣笠貞之助監督作品の「大阪夏の陣」(1937年)、エキストラが投げた手裏剣が白壁(重要文化財)に刺さったイアン・フレミング原作の映画「007は二度死ぬ」(1967年)、吉川英治原作のNHK大河ドラマ「武蔵」(2003年)や「暴れん坊将軍」、「水戸黄門」、「大奥」などなど、時代劇の舞台として活躍してきた姫路城だが、とうとう天守閣の一般公開の最終日を迎えてしまった

昭和31年から昭和39年にかけて行われた「昭和の大修理」(大天守を部材にまで解体し、不等沈下対策に礎石方式からコンクリート基礎に、内部が腐っていた西の心柱を交換)には遠く及ばないが、平成21年から平成26年までの予定で行われる「平成の修理」においても大天守を素屋根で覆ってしまう。素屋根の工事が本格化する明日から、素屋根が完成するまでの約10ヶ月のあいだ、来年の1月末まで大天守への登閣は出来ず、平成26年に修理が完了し素屋根が撤去されるまで大天守の姿を見ることもかなわない。

そんなこんなで3月下旬から姫路城を訪れる「見納め」と「お花見」の観光客の人数は半端なものではなく、週末になると観光バスが何百台も押し寄せ、姫路駅も大混雑と凄まじいことなり、はっきり言って姫路市中心部で生活している私にとっては迷惑なことだが、それも今日までで、明日からは平穏な生活がおくれそう。

だが毎年1回ぐらいは訪れて大天守から自宅を眺めるのを楽しみにしているのが、明日からは登れないと思うと、居ても立っても居られなくなり私も観光客に混じって、小雨のなか行列に並んできた。

なお、明日からも天守閣へは登閣できないが、千姫ゆかりの西の丸をはじめ多くの国宝・重要文化財に指定されている城郭は見学可能で、おまけに入城料も大人600円から400円と減額されるという。


姫路城最後の日は雨だった

7:51
普通なら姫路城開城時刻は午前9時だが、3月20日から午前8時に繰り上げられている。土日はおろか、平日も大勢の団体客が押し寄せ、驚いたことに6時過ぎにガイドさんに引き連れられて大手門から入って行くのを目撃した。

でも、今日は昨日と打って変わっての悪天、小雨が降るなか誰もまだ来ていないのではと行ってみたら、すでに10台ほどの観光バスが大手門駐車場に止まっていて、行列は大手門の外まで延びていた。でも、大丈夫。姫路城のキャパシティは膨大でこれぐらいの人数なら一飲みだ。

内濠にかかる「桜門橋」
工事資材搬入路の上にはクレーン車が

7:53
大手門外の行列最後尾に並ぶ。日本中から早朝、いや前夜から長時間を費やしてやって来た観光客は「やっと姫路城に着いた。早く近くから見たいな。どんな城なんだろう。」などなど、心は昂っていることだろう。それに反し徒歩10分の私は何も感じない。

普段の姫路城は土日祝日でも、入城待ちの行列など見たことはなく広い城内も閑散としている。こんな地元民にとっても珍しい姫路城の情景を記録保存し、そして公開せねばと思う一心でやってきた。しかしながらこの情報が役に立つのは、私の死とともにこのウェブサイトも消滅した後の、次の大修理までないのではと。つまり、しょうもない役に立たないことをしようとしていることは、すでに分かっている。

内濠と「大手門」
開城前の行列の最後尾に並ぶ

8:12
8時の開城とともに列は動き始め、そして止まることもなく10分ほどで料金所前まで辿りついてしまった。ほとんどの人々はツアーの団体だったのか、入城券を買うことも無くそのまま城に入っていく。そのため自動入城券販売機の前に列もなく、すんなりと600円の入城券を買い求めることができた。

実は昨日の快晴の土曜日も、入城までの1時間待ちを体験したくてこの行列に何度も並んだのだが、列の長さは短く10分も待たずに料金所前に着いてしまった。で、入城しても城内の大混雑は体験できなかろうと、今日に持ち越したのだが、拍子抜けしてしまった。

遠来のツアー客も時間切れで入城を諦めたという、1週間前の恐ろしい大混雑のときに挑戦するべきだったのかと後悔したが、時を遡ることはできない。

料金所の奥は「菱の門」


「菱の門」から「西の丸」へ寄り道

8:15
広々とした平らな三の丸広場から、緩い坂道・数段の階段を登ると登閣口(料金所)、そしてまた緩やかな直角に曲がった坂道の先には日本一大きな櫓門の「菱の門」が待ち受けている。

しかし姫路城にあっては「菱の門」など取るに足らない一建築物に過ぎないが、国指定の重要文化財であり、もし他所の城跡にあれば、これだけで主役を務められるだけのものがある。でも、入城者は天守閣を目指して足早に通り過ぎるのみ。

「菱の門」 国指定重要文化財

8:16
「菱の門」を抜け、正面に天守閣を見た人々は、百人が百人ともそのまま直進してしまう。でも私はいつもの習慣で、左手に引き返す感じの坂道の先にある「西の丸」の「長局(百間廊下)」・「化粧櫓」を目指してしまう。

真っ直ぐは天守閣 左は西の丸

8:17
ほぼ雨が上がりかけた、広々とした西の丸庭園には人影が少なく、閑散としている。

4月2日(金)から4月11日(日)まで、ここ西の丸庭園を舞台に夜間(18時〜21時)に無料開放し「花あかり」姫路城夜桜会が行われた。普通のと、そして光色が変幻自在に変化するライトアップに浮かび上がる西の丸庭園の100本の桜が幻想的な空間を演出していた。

私も一夜訪れたが、いかんせん人が多すぎるし、技巧的過ぎるライトアップも不自然さが満ち溢れ桜の本来の美しさをスポイルしていた。そんな不快感を感じたのは私一人だけだろうか。

満開の桜が彩る「西の丸」庭園

8:18
天守閣保存修理工事に先立ち、西の丸の隅櫓や渡櫓に足場が掛けられ工事の真最中だが、いつも通りに見学可能だ。「ワの櫓」の屋根瓦の目地は白漆喰が半分ぐらい塗り込められ、屋根全体が異様に白くなっている。天守閣も同じような技法を施されるだろうから、修理工事が終了した暁には壁も屋根も真っ白な、のっぺらぼうのメリハリのない姿になってしまうだろう。

修理工事中の「ワの櫓」 国指定重要文化財
屋根瓦の目地が漆喰で固められている

8:26
スリッパに履き替えて入った渡櫓には、人工照明は一切なく、窓から差し込む外光のみで薄暗い。西の丸庭園の無節操なライトアップ夜桜会など我関せずの潔さが好ましく感じられが、これは現状変更が難しい重要文化財指定のためもあるが、電気漏電火災を100%根絶する最良の手段だ。

でも、全く現状変更がないかというとそんなことはなく、煙感知器や炎感知器、屋内消火栓やスプリンクラー設備などの消防用設備は設けられている。ただ火災時の避難方向を示す誘導灯や、停電時のための非常灯は見当たらないのは電気設備を設けられないためだろう。

薄暗い西の丸百間廊下

8:30
西の丸は、徳川家康の孫娘「千姫」が城主本多忠政の嫡男忠刻に嫁ぐ際の莫大な化粧料により造営されたもので、姫路城の城郭群の中にあっては築392年の最新の建造物群だ。その中の化粧櫓だけは畳が敷かれ、内装もなされ城らしさを感じられない。

そこでは千姫と娘の勝姫が愛猫に見守られながら、貝合わせの真剣勝負を繰り広げている。姫路城管理事務所には楽しい方がいるようで、貝の配置と猫の位置がときどき変わる。今日の猫は千姫の左側で緋毛せんに上半身を載せ、18枚の貝は1枚を中央に残り17枚は円形に並べられている。

これまでの貝の配置は、千姫から見て横5列、縦4列に並べられ、そのうちの中央手前と奥の2枚が無いパターンが多かったが、この円形パターンは初めてで、なにか重要なメッセージが隠されているのではと思う。

化粧櫓で貝合わせをしている千姫と娘の勝姫
この円形の貝配置は珍しい


たくさんの門を通り天守閣へ

8:38
いつもだと西の丸の化粧櫓から出ると、「いの門」、「ろの門」をパスして「はの門」に直行するのだが、工事の関係で西の丸の北が通行止めとなっていて、仕方なく「菱の門」まで来た道を戻る。

「菱の門」裏側に戻り「いの門」へ

8:39
今の姫路城内には21の城門があり、すでに通った「大手門」・「菱の門」と、「い〜への門」、「との一、二、四門」、「ち〜ぬの門」、「るの門(埋門)」、「水一〜五門」、「備前門」と名前が付けられている。でも徳川家康の次女督姫を妻とした池田輝政の築城時には84もの門があったという。その当時も付けられただろう門の名前と、現在の名前は一致するのだろうか。

両側を石垣に挟まれた「いの門」を通り抜けるが人の数が少なすぎて、登閣口で入城規制が行われているのだろうか。

押し合いへし合いの満員電車の様相を期待していたのだが、そんな群集事故一歩手前の状況は管理側の望むところではなく、9年前の2001年7月21日に、姫路市と同じ兵庫県の明石市で起こった、JR朝霧駅から大蔵海岸へ渡る歩道橋で死者11名、重軽傷者247名を出す大惨事となった「明石花火大会歩道橋事故」の教訓が生かされているのだ。

これも国指定重要文化財の「いの門」

8:40
次は「ろの門」で、普段ならこの門から天守閣への一方通行になるのだが、対面通行となっていて早々と天守閣から下りてくる人がいる。おまけに二の丸東側の「お菊井戸」方向へ迂回しなくてはならず、目の前の「ろの門」を通り抜けることが出来ない。

「ろの門」表側から東へ大迂回

8:42
いつもなら、大天守の急な階段の登り下りに疲れた足を引きずりながら、もう天守閣でお腹が一杯なり、なにを見てもなにも感じない状況で下りてくるのが「ぬの門」だ。でも元気な今日は、「ぬの門」がこんなにも立派なものであることに初めて気が付いた。

「ぬの門」 これも国指定重要文化財
というか建物と塀の全てが重要文化財なのだ

8:43
迂回路の折り返し地点は、夜な夜な「一枚、二枚、三枚………八枚、九枚.........、一枚足りない」と恨めしげな声が聞こえてくるという「お菊井」だった。でもなぜか誰もお菊井に注意を払う人はなく、覗き込もうとする人もいない。

お菊井

8:44
お菊井に対して無関心な理由は、「ぬの門」裏から行列が並び始めているのが見えるためかも。お菊井の少し先には「りの門」が見えているが、誰も行こうとしない。確かに姫路城内はどこを向いても国宝と国指定重要文化財ばかりだが、この「りの門」も国指定重要文化財であり非常に価値の高い建築物なのは間違いない。築400年の門などめったにお目にかかれないものなのに、姫路城内にあるばかりに日陰者のような存在になっていることに同情を禁じえない。

天守閣保存改修工事のために通れない「りの門」

8:50
さて、私も「ぬの門」から始まる行列に並ぶとしよう。

結局、この門から始まった行列は大天守最上階まで続いていたのだが、満開の桜に彩られた城郭を眺めながらゆっくりと進むので飽きさせないし、列から離れるのも自由でじっくりと写真撮影もできる。

「ぬの門」裏から始まった行列に並ぶ

8:55
ここは三国濠の北側。今は消防用水として水が湛えられているが本来は乾濠で、「菱の門」から攻め込んできた敵兵を追い詰め落とし込み、二方を囲む白漆喰の土塀に開けられた狭間から雨よ霰と矢を射掛け、火縄銃を打ち込み、血の池にしようという恐ろしい仕掛けなのだ。

この左側が「三国濠」

8:59
ようやく「ろの門」表まで戻ってきた。この「ろの門」には悲しい物語が潜められている。それも江戸時代でも明治時代でもない昭和12年3月18日に起こったことなのだ。

その当時、松竹映画「大阪夏の陣」のロケが行なわれていて、大阪城落城の場面を迫力あるものにするために石垣に詰めた爆薬で爆破したのだ。それが意図した小石が飛ぶ位の小規模な爆破なら問題なかったのだが、大岩が空中を舞いロケを見物していた女性に当たり、不幸にもなくなってしまった。

ある悲劇の舞台になった「ろの門」

9:00
「ろの門」の次は誰もの予想通りの「はの門」だが、この先に通りがたいところがあるのか行列は遅々として進まない。でもこの石垣と土塀に囲まれた緩やかに登る細道の雰囲気が大好きなので、遅ければ遅いほど好ましい。

「はの門」が見えてきた

9:03
「はの門」は、ここまでの門と比べると狭く、通路も土塀と石垣に挟まれて狭苦くるしい。江戸時代になってから築城された今の姫路城は、一度も戦いの場にならなかった「不戦の城」だが、仮に攻撃側が門を打ち破るべく丸太をぶち当てようにも、手前で登り坂の通路は曲がっているので勢いはそがれるし、矢弾が降り注ぐし、大変だな。

時代劇の舞台のような「はの門」

9:12
次は狭い路地の先に、お先真っ暗なトンネルのような「にの門」だ。実際この門は短い地下道のような感じで、固く閉じられた門扉を打ち破ることができても、頭上からの攻撃に注意しなければならない。

地下道のようなトンネルのような「にの門」

9:15
「にの門」を抜けると少々広々としたところに出た。正面に見えるのは「乾小天守」で、乾は“いぬい”と読み、北西の方位を意味する。つまりこの乾小天守は、大天守から見て北西方向にあり、その延長線上には城乾(じょうけん)中学校や、城乾小学校や城乾幼稚園があったりする。

三つの小天守のうち、乾と東小天守は春と秋の特別公開時に内部も見ることができたが、今年は特別公開はなく当分の間ないのではないだろうか。

「にの門」を抜けると「乾小天守」が目前に

9:16
「ほの門」「油壁」「水一門」を飛ばして、「水二門」に到着。狭い通路を一列の対面通行にしているが、スイスイと進んでしまい写真を撮る暇がない。列から離れればいくらでも写真を撮れるのだが、目前に迫ってきた天守閣が立ち止まるのを許してくれない。

「水二門」
天守閣が近くなるに従い狭くなるな

9:19
いよいよこの「水五門」を抜けると国宝に指定されている連立式天守閣の中へ足を踏み込むことになる。門の上は「大天守」と「西小天守」間の二層の渡櫓になっている。

ここまでで「菱・い・ろ・は・に・ほ・へ・水一・水二・水三・水四・水五」と11番目の門となり、十一は「士(さむらい、武士)」に通じ、また十一の口は「吉」となる。

連立式天守閣の中庭に通じる「水五門」


大天守を登るぞ

9:23
その前に、靴をスリッパに履きかえなければならない。恒久的な建物を建築できない区域なのか、透明波板の屋根に掘っ立て柱(いや掘ることはできないので置いてあるだけかも)の小屋掛けした、世界文化遺産にして国宝の姫路城には似つかわしくない場所でスリッパに履きかえる。

履いていた靴はポリエチレンのコンビニ袋(使用後には、一枚一枚裏返し砂埃を払い、汚れていたら拭き取るという、永久リサイクルを繰り返している)に入れるのだが、今日は傘もあるし、靴も持つと、カメラは片手で構えなくてはならない。それなりの光量のガイド43のストロボとバッテリーグリップを付けたデジイチを片手で構え撮り続けたら、最後は腕がプルプルしてきてしまった。

ここでスリッパに履きかえる

9:24
下足場から階段を登り、最後の「水六門(天守閣の玄関なので門の数には入れないようだ)」を抜けると、そこは穴蔵と呼ばれる姫路城大天守の地下1階だった。地下1階は天守台の高さ14.5mの石垣の中なので、窓はなくとても暗い。

さまざまさ仕掛けが施された姫路城なので、この地下1階のさらに下に隠し部屋がありそうな、さらには秘密の抜け穴が絶対にあるはずだ。それらは昭和の大修理で礎石をコンクリート基礎に変えた時に発見されているはずなのだが、なぜ公にしなかったのだろう。

とても暗い「大天守」地下1階 一休み一休み

9:24
大天守内の階段はこれでもかとというほど急なのは、つとに有名なことなので詳述しないが、元々は一箇所だけだった階段では観光客を捌ききれないため、床に穴を開けてもう一つ階段を増やしていて、登りは古来よりのもの、下りは増築分の階段を使うようになっている。改変することなどもってのほかの国宝に階段を増やしたり、元々の階段にも手摺を付けたりと手を加えたのは「昭和の大修理」のときなのかな。そして、ユニバーサルデザイン全盛の今日この頃、「平成の修理」が終わったらエレベーターが付いていたりするかも。

地下1階から1階へ登る階段

9:25
大天守は姫山(姫路城の名前の由来とも言われ、頂上には45.49m三等三角点“点名:姫路城”がある)という小山の上に築かれた高さ14.5mの天守台の上に載っているので、ここが1階なのかと誰もが訝るほどの高さで、大天守よりも高い高層建築物を建てるのが暗黙の禁止事項になっている姫路市街を見下ろすことができる。

すでに全面的に立ち入り禁止となっている備前丸(本丸)では、資材搬入用鉄骨組が完成し、明日からの素屋根工事の準備が整えられている。でもこの鉄骨組も素屋根も地面を掘っての基礎工事など不可能なので、置くだけの自重頼みの構造物になる。

「大天守」1階の窓から
「備前丸(本丸)」の資材搬入用鉄骨組

9:27
1階は外回りを廊下に囲まれ、内側は姫路城に関連のある文物が幾ばくか展示されている。その間の鴨居と敷居には溝が施されていて、元来は板戸等の建具があったはずだが、全て消え去っている。1873年(明治6年)の廃城から翌年の帝国陸軍の管轄になるまでの間、あるいは今の三の丸広場にあった武蔵野御殿などなどの建物群を、駐屯地造営の邪魔だからと潰しまくった帝国陸軍が、風呂の焚きつけにでもしてしまったのだろう。

その展示内容は江戸時代という今から隔絶した時代のもので、現代人の興味を引く代物ではない。そして十年一日の如くの展示内容で、入城者に楽しんでもらおうという創意工夫がまったく感じられない。いっそのこと展示など止めてしまったほうが、本来の姫路城天守閣を感じることができるのでは。

姫路城の周辺には、兵庫県立歴史博物館、姫路市立日本城郭研究センターという名だたる施設があり、専門職たる学芸員もいるが、全ては縦割行政のために手も口も出すことができずに、はがゆい気持ちでいるに違いない。

「大天守」1階
入城者は展示物の前を足早に通り過ぎる

9:28
2階へと登る階段も明らかに建築基準法違反の急さで、踊り場もない。こんな急な真っ直ぐな階段で短いスカートを身に着けたお嬢様の後ろなら楽しいだろうな、などと私と同じ不謹慎な考えを持つ人もいるだろう。

だが、スリッパと木製踏段の相性は最悪で滑りやすいし、スリッパは脱げそうになるし、己の注意力の全てを階段昇降に傾注せざる得ない。

1階から2階へ登る階段

9:31
2階へ登ると、近くに3階へ登る階段があるのだが、登閣順路はぐるりと回りこんでいる。

「大天守」2階
3階へ登る階段前には行列ができている

9:32
2階にも展示物があったが、どのような物があったのか記憶にない。

外から見る姫路城は、建ち並ぶ天守閣群が空を舞う白鷺のように見えるので別名「白鷺城」とも呼ばれ、読み方は「しらさぎじょう」ではなく「はくろじょう」だ。

でも内に入ると、優雅にのんびりと水面に浮かぶ白鳥にも水中で水を掻く足があるように、姫路城内部もそれ自身の重みを支えるために太い柱と太い梁が組まれ、桂離宮を代表する書院造の優雅さは微塵もなく、あくまでも戦うための建物だ。

「大天守」2階

9:33
3階へ登る階段の規制が始まってしまった。今は4月でよかったが、クーラーのない姫路城は真夏ならあまりの暑さ息苦しさににクラクラしてしまう。

姫路城の西隣の戦災で炎上した岡山城では、天守閣を復元するに当たり、融通の効かない役人のために建築基準法を遵守せざるを得なくなり、鉄筋コンクリート造のエレベーターも空調もありの外観だけの近代建築物となってしまったのとは大違いだ。でも平成に入ってからは、失われた過去の建物の復元に関しては国土交通省から文化庁の勢力下に入ったのか、方針を180度変針し鉄筋コンクリート造は許されなく、造営当時の木造伝統的工法以外は許されなくなってしまった。

3階へ登る階段は規制中

9:40
私が行列に並び始めて7分、皆さん何も言わずに静かに規制が解除されるのを待っている。まあ、姫路城天守閣の最後の日に登るような人たちは私と同じで、こんな込み具合を期待しているに違いなく、この状態が1時間続いても2時間続いても「これはいい土産話ができたわ」と嬉々としていることだろう。

写真はストロボで明るいが
格子窓から差し込む光だけで薄暗い

9:42
でも、残念なことに10分ほどで規制は解除されてしまった。

規制が解除され3階へ

9:45
3階へ登ると、ほとんどの人々はそのまま4階への階段へと進み、天守閣内部を楽しもうとしない。東西の大柱はもちろん、床板の一枚一枚にも数百年の歴史が染み込んでいて、人目がなけれ頬ずりしたい程なのに。

「大天守」3階
4階へ登る階段には踊り場がある

9:48
一気に大勢が登ったため大天守4階は大混雑。外から見ると姫路城大天守は5層にしか見えないが、内部は地上6階・地下1階になっているので、果たして今いるのはどこなのだろう。

「大天守」4階

9:50
「大天守」5階に辿り着き、あと一登りで最上階だ。

「大天守」5階
もう一登りで最上階の6階だ

9:51
と、また規制がかかってしまった。外観から見ても分かるように姫路城大天守は上に登るほど狭く収容人員は少なくなり、それに反して最上階での滞留時間が一番長くなるのは当然で、ここで規制しなかったら満員電車の窓が割れるように(30年前の東京都心へ向かう通勤通学電車ではよく見かけたが、大阪では一度も見たことはない)、大天守から人があふれ出てしまう。

でも、またまた規制が入る

9:52
登り専用階段のはずが、最上階から次々と下りてきた。最上階を総入替制にしているのだろうか。

2本の階段を下りにして
最上階からの人を下ろす

9:55
ここの規制は5分ほどで解除され、最上階へと登り始めた。「頭上注意」表示があるように、普通に登っていくと天井に頭をぶつけてしまうぐらい狭い階段だ。

最上階(6階)へ登る

9:55
最上階には、話しを始めれば一晩はかかる長い由来を持つ刑部(おさかべ)明神が祀られているが、明日からは誰もお参りに来なくなり、祀られている刑部姫もさぞや寂しがることだろう。

姫路城天守閣を舞台に剣豪宮本武蔵と刑部姫とがからむ妖怪退治話が伝わるが、関ケ原の合戦以前の羽柴秀吉の妻(ねね)の兄の木下定家が城主(1585年〜1601年)をしていた、秀吉が築いた3層の天守のころの話のようだ。

「大天守」6階
最上階の刑部明神

天守閣から西側を見ると、西の丸の百間廊下の先に景福寺山が見え、その頂上に姫路城城主であった松平明矩の墓所がある。現在の福島県白河市にあった白河藩から姫路藩に転封してきたためでもあったろうが、朝鮮通信使接待役に命じられ費用を領民からとろうとして大一揆を起こされこともあり、その墓所は他の姫路藩主のものよりも荒れ果てている。

それから私事ではあるが、写真の中に自宅が写っていたりもする。

「大天守」から西側の眺め
正面右は景福寺山で、私の家も見える

歩道を含めて幅50mもある、まるで滑走路のような大手前通りが南側に見える。天気さえよければ播磨灘もその先の四国も北アメリカ大陸も見えるはずなのだが、残念ながらきょうは霞んでいる。

南側の姫路駅へと続く大手前通り

南東側には姫路市立動物園が見え、目を凝らせば平成6年10月に来園したアジア象の2代目「姫子」さんが見えるかもしれない。

資材搬入路に載っているクレーンは、株式会社ミック所有のKOBELCO7080 80tクローラークレーンで、派手な赤・黄・青・緑のカラーリングはドリーミックカラーと呼ばれている。この資材搬入路は、このクローラークレーンが地上からブームを伸ばして組み立てたのだが、どのようにして上に載ったのだろう。

資材搬入路上のクローラクレーン

東側にはレンガ造りの姫路市立美術館が見える。明治38年(1905年)ごろに帝国陸軍姫路第十師団の兵器庫として建設され、戦後の昭和22年から昭和55年まで姫路市役所として利用された後、昭和58年(1983年)に姫路市立美術館として開館した。

東側のレンガ造りの姫路市立美術館

撮るのを忘れてしまったが、北側は増位、広峰の山々が連なっている。

姫路市(合併以前の)は西国街道(白虎)が西へ延び、東を市川(青龍)が流れ、北を増位・広峰の山々(玄武)が連なり、そして南は播磨灘(朱雀)と開け、四神相応の風水都市となっている。そしてその中心に位置する姫路城は、南北朝時代に砦が築かれてから一回も戦場となったことはなく、姫路を焼け野原にした太平洋戦争の空襲でも被害にあわなかった。まさに風水に守られた城だ。


大天守を下り、三つの小天守巡り

10:04
もっとゆっくりできる環境ならそうもしたかったが、次々に登ってくる人で混雑してきたので、10分足らずの滞在時間で「大天守」を下りることにした。

姫路城大天守の階段は古来よりのものと、観光用に増設したものがあることはすでに述べたが、その見分け方をここに大公開しよう。古来のものは、上階の開口部を塞ぐための観音開きの扉が付いていたりするが、登り下りしてみれば誰でも一目瞭然に見分けられる。増設階段を、古来のものと見分けられない同じものにすることは容易なことだっただろうが、わざと似ていないものにしたとしか思えない。

右は本来の階段 左は増設階段

10:06
下りは一度も足止めさせられることもなく、淡々と下りていく。

ここまでは主観的な想いばかりをだらだらと記述してきたが、ここからは客観的な見たままの事実だけに絞って書いていこう。

「大天守」の5階に下りたところだ。

「大天守」5階

10:08
現在位置、「大天守」4階。登りと下りは一応分離されているが、隔てる木柵は低いし隙間もあるし、その気ならどの階からでも、もう一度最上階を目指して登り返せるが、階段の登り下りで足も疲れているしやめておこう。

「大天守」4階

10:16
「大天守」3階。登りは2階で規制されていて、誰も登ってこない。

「大天守」3階
登りは規制中のため誰もいない

10:19
「大天守」2階。登りはまだ規制されている。

ここから登りと下りの見学順路は離れてしまい、「大天守」へ登り返すことはできなくなる。「大天守」2階からは1階・地下1階へ下りずに、「イの渡櫓」で「東小天守」・「ロの渡櫓」で「乾小天守」・「ハの渡櫓」で「西小天守」と巡っていく。

「大天守」2階
1階へは下りずに「東小天守」へと向かう

10:23
「大天守」と「東小天守」を結ぶ「イの渡櫓」への出口は狭く、写真には写っていないが丈夫そうな扉で守られている。

これから向う「東小天守」は、「大天守」、「乾小天守」、「西小天守」、そして天守間を結ぶ四つの渡櫓ともに国宝に指定されている。

「大天守」から「東小天守」へ

10:24
一番短い「イの渡櫓」は地上2階・地下1階の構造で、途中に厳重な扉があるわけでもなく、歩いていてもどこから「東小天守」になるのかは判然としない。

渡櫓の窓から見える「との一門」からは、天守閣西の搦手登閣口へと下り城外へ出られるが、今回の保存修理工事の最初の現場となってしまい、去年の11月から工事が全て終わる5年後の3月頃までは通ることができない。

姫路城があまりにも有名すぎて、姫路市には姫路城しかないと思う人がほとんどだろう。だが江戸時代以前の中世山城跡は沢山あり、この「との一門」は姫路市夢前町にあった置塩城から移築されたものと言われている。

「との一門」は眺めるのみ

10:26
「東小天守」(地上3階・地下1階)の展示品の目玉は、「大天守」の軸組み模型だ。

「東小天守」内の大天守軸組み模型

10:26
「乾小天守」(地上4階・地下1階)へと渡る「ロの渡櫓」(地上2階・地下1階)は、長く幅も広い。昭和の大修理の時に屋根裏などから出てきた、築城時や過去の修理時の忘れ物が展示してあり面白い。

今回の天守閣保存修理工事でも、昭和の大修理のときにわざと置き忘れたあれが出てくるはずだが、どのように対処するのか楽しみだ。

「東小天守」と「乾小天守」を結ぶ「ロの渡櫓」は広く長い

10:28
「ロの渡櫓」突き当たりの窓から外を見ると、また雨が降り始めたようで傘を差して並んでいる。その行列の右側の違和感のある建物は何なんだろう。関係者の休憩やトイレなどの管理用の建物なのだろうか。

「ロの渡櫓」から

10:31
「乾小天守」(地上4階・地下1階)には姫路城の縄張り模型の展示があり、人垣ができていた。

天守閣群は縄張りの西端に寄っていて、隣接する船場川、外濠、中濠に隔てられてはいるが、西側から大砲で狙われたらひとたまりもなく、築城時にはすでに大砲が存在していたというのにどうしたわけなのだろう。

事実、幕末に岡山藩と龍野藩を中心とするわずか1,500人の勤王派に包囲され、象徴的意味合いをもつ、たった3発の砲撃で戦わずして落城と相成ってしまった。

「乾小天守」の姫路城縄張り模型
(画像にマウスポインターを乗せると……)

10:33
イよりも長いがロよりは短い「ハの渡櫓」(地上2階・地下1階)を通り、「西小天守」(地上3階・地下2階)へ行くと、そこは下足場となっている。ここまで手に提げてきたポリエチレン袋から靴を取り出して、スリッパから履きかえるわけで、ようやく荷物が一つ少なくなった。

思うに、ブーツなど履いてきたら、重かっただろうな。

靴に履き替え「西小天守」から外に出る

10:37
「西小天守」と「大天守」を結ぶ「ニの渡櫓」(地上2階)の地階部分は、「水五門」となっている。つまり、大天守と三つ小天守と四つの渡櫓から構成された、連立式天守の全ての扉を開け放てば周回コースとなる。暇を持て余したお殿様の、室内ランニングコースとして雨の日は活用されていたに違いない。

←「西小天守」 「水五門」+「ニの渡櫓」 「大天守」→


さあ帰ろうか

10:39
クランク型に曲がった狭い通路の中にある、写真を撮り難い「水四門」を飛ばして「水三門」。

狭い門を通るたびに傘をつぼめたり広げたりと、大変。この狭さも城を守るための常套手段だろうが、守城側も狭い通路、門がボトルネックとなり、迅速に大人数の移動が難しくなるのでは。

狭い「水三門」表側

10:41
「水一門」から「油壁」を巻いて180度方向転換し「ほの門」へと下る。この油壁は秀吉時代からのもので、姫路城ではそれなりの見所なのだが、雨も降っているし皆通り過ぎるだけ。この「油壁」を、油を塗りたくって乗り越えられないようにしたものと思う人もいるかもしれないが、そんなことをしたら火を点けられて、かの善防山にあった赤松氏山城の二の舞になること間違いない。

粘土に豆砂利を混ぜ、米のとぎ汁で固めたものというが、風雨にさらされ続けること400年以上、補修もされていないのにその姿を保ち続けるとは、見上げた壁だ。

左から「水一門」「油壁」「ほの門」

10:42
「ほの門」も狭いし天井は低いし、裏側はすぐに石段だし、ユニバーサルデザインの欠片も感じられない。姫路城全体からも言えるが、足の不自由な人のことなど全く考えられていないし、これまでに車椅子の人は一人もみたことがない。

「ほの門」表側

10:44
「ほの門」手前からは「乾小天守」、「西小天守」、そして「大天守」も少しののぞき見えて、雨さえ降っていなければ記念写真をよく撮るところだ。

「ほの門」と「にの門」の間

10:45
「にの門」から石垣と土塀にはさまれた坂道を下ると、正面に天守が見える。天守から遠ざかるのに、近づいていく。

「にの門」表側の坂道

10:50
180度方向転換し、今度は本当に天守から離れていく。

この辺を歩いている人の頭の中には、あの暴れん坊将軍のテーマソングが鳴り響いているはずだ。無粋な「右側通行 KEEP RIGHT」と表示された真っ赤なカラーコーンと舗装さえなければ、江戸時代そのままの風景なのだが、残念だ。それから、かの有名な写真家の北村泰生氏が力説しているが、こんなにも大きくなる目障りな姫路城を隠してしまう大木を植えなくてもよかったろうに。

もうすぐ「はの門」

10:53
化粧櫓と満開の桜と、そしてカラフルな傘の織り成す風景が美しい。これまでは雨の日なんか大嫌いだったが、悪くないなと思う今日この頃だ。

「はの門」表側の坂道

10:54
土塀や櫓、天守などの壁や窓、そして瓦屋根の目地に塗られた白漆喰の寿命は20年程という。膨大な面積を20年で一巡するようにしているのだろうが、高い石垣の上の土塀や、櫓などの高所作業ばかりで、大変な作業だ。

「はの門」表側、土塀が途切れるところ

10:56
ようやく「ろの門」まで下ってきた。登閣側の行列は遅々として進まず、小雨の降る中をじっと待っている。

「ろの門」表側

10:57
「いの門」を抜けると、最後の「菱の門」が見えてきた。この門は姫路城内で一番大きく、そして櫓門としても日本一大きなものだ。元和9年(1623年)に廃城された、京都市伏見区にあった伏見城から移築されたという。ずいぶん遠くへ運んだなと調べてみたら、江戸城(東京都)や福山城(広島県)へ移築された櫓もあるという。

「菱の門」裏側

10:59
「菱の門」裏側から西の丸への登り坂は、朝は誰もいなかったのが、今は大勢が登り下りしている。

「菱の門」裏側から「西の丸」への登り坂

11:01
「菱の門」付近は、これから天守へと向かう人が誰もいなく、閑散としている。おそらく料金所前で足止めされているのだろう。

「菱の門」表側

おや、「菱の門」の陰でお殿様が雨宿りしているぞ。でも家来も連れずにお一人とは、これから貧乏旗本の三男坊に姿を変え、御幸通りにでも行く積りなのか。

「菱の門」で雨宿りしているお殿様

11:08
有料区域から「三の丸」広場に出ると、そこには雨の中で入城を待ち続ける行列の人、人、人………。

三の丸広場には長い列ができていた

11:11
長い長い列だが、大手門の越えて城外までは延びていない。

大変だな

11:12
この「三の丸」広場は芝生が綺麗に張られた時期もあるが、色々な催し物を繰り返しすたびに擦り切れて、今はこの有様。日本の「桜百選」に選定されている姫路城の桜も、老木が多くなってきている。

「三の丸」広場から見る姫路城天守閣は、天守台の石垣も木々に隠され、まるでジャングルにそびえるお城のよう。「緑を大切に、自然を大切に」の意味を履き違えてはいないかい、姫路城の管理者さん。

なお「三の丸」広場は、始めからこんな風であったわけはなく、帝国陸軍の駐屯地となった際に、邪魔だからと全ての建物が潰されてしまったのだ。

姫路城「三の丸」広場

来年の春に大天守を覆い尽くす素屋根工事が終わり、見学コースが設定されたらまた報告したいと思う。



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