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姫路市超低山五連発「裏山主義」
景福寺山・男山・八代山・八丈岩山・蛤山



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平成23年3月19日(土)  メンバー 私だけ

姫路城〜景福寺山〜男山〜八代山〜八丈岩山〜蛤山(振袖山)〜(神姫バス)〜姫路駅北口


播磨国風土記から

 東を市川、西を夢前川、南を播磨灘、北を広峰・増位山塊に囲まれた姫路平野には、幾つもの丘が点々と散らばり市街地の中に浮かぶ島々のよう。

 奈良時代に編纂された播磨国風土記の神話世界のことだが飾磨郡伊和里の条に、大汝命(おほなむち・大国主の別名)とその子の火明命(ほあかりのみこと)との壮大な親子げんか抒情詩があり、そのときに泥海の中にこれらの丘々が出来たという。

 大汝命の子である火明命は乱暴者であった。そのことを憂いた大汝命は置き去りにすることを考えた。因達神山まで来たところで、火明命に水を汲みに行かせ、その間に船を出して大汝命は逃げてしまった。置き去りにされたことがわかった火明命は怒り狂って波風を立たせ、大汝命の船を転覆させてしまった。船・波・船から落ちた積荷にちなみ十四丘の名前が付けられた。

ウィキペディア・播磨国風土記より

 因達神山と十四丘の比定地として種々の説があるようだが、大まか次のようになっている。

因達神山(いだてのかみやま)…八丈岩山(172.9m)…火明命が置き去りにされたところ
船丘(ふなおか)…景福寺山(51m)…船が沈んだところ
波丘(なみおか)…名古山(42.3m)…火明命が波を起こしたところ
琴神丘(ことかみおか)…薬師山(45m)…琴が落ちたところ
箱丘(はこおか)…男山(59m)…箱が落ちたところ
匣丘(くしげおか)…船越山(61m)あるいは鬢櫛山(200.3m)…梳匣が落ちたところ
箕形丘(みかたおか)…秩父山(約20m)…箕が落ちたところ
甕丘(みかおか)…神子岡山(38m)…甕が落ちたところ
稲牟礼丘(いなむれおか)…稲岡山(68.3m)…稲が落ちたところ
冑丘(かぶとおか)…冑山(36m)…冑が落ちたところ
沈石丘(いかりがおか)…比定地不明…沈石が落ちたところ
藤丘(ふじおか)…姫路市街の二階町あたり…綱が落ちたところ
鹿丘(しかおか)…比定地不明…鹿が落ちたところ
犬丘(いぬおか)…比定地不明…犬が落ちたところ
日女道丘(ひめじおか)…姫路城がある姫山…蚕子が落ちたところ

 今回の姫路市超低山巡りでは因達神山(八丈岩山)・船丘(景福寺山)・箱丘(男山)の三山と、もう二つの山(八代山・蛤山)を巡ることにする。


一山目は景福寺山(51m)

姫路城三の丸広場から景福寺山・男山へ

 世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約) は1972年にパリで開催された国際連合教育科学文化機関(UNESCO)総会において採択された国際条約だ。最初の批准国はアメリカで、条約採択翌年の1973年に批准している。そして1975年には締約国が20カ国になり、条約が発効した。

 しかるに、日本が批准したのは条約採択から『なんと20年後の1992年』。現在の加盟国187カ国中125番目で、先進国といわれている国の中ではびりっけつ。1993年に姫路城が法隆寺とともに世界文化遺産に、そしていまは文化遺産・自然遺産合わせて14件が登録され世界遺産ブームとなっているが、経済活動ばかりを重要視し文化的には発展途上国というよりも最後進国だな。

9:26
 今回の出発地点は、世界文化遺産にして国宝でもある姫路城大天守を間近に望む姫路城三の丸広場だ。ただし、大天守は保存修理事業のための素屋根に覆われ、今は見ることも登閣することも出来ない。再び大天守から姫路の町並みを眺めることが出来るのは、4年後の平成27年になる予定だ。

素屋根(天空の白鷺)に覆われた大天守の見送られ
姫路城三の丸広場からスタート

9:32
 登山開始時刻としてはちょっと、いや大分遅いが、エスケープルートが無数に存在する、今日の山行内容から判断してなにも問題はないかと思う。

 本日一番目の山は姫路城から西へ、好古園前を通り船場川に架かる市之橋を渡った先の景福寺山(51m)だ。南麓に景福寺があるので景福寺山、かつては嵐山・西岸寺山・孝顕寺山・増位山とも呼ばれていた時代もあるという。

 幕末の混乱期には、この景福寺山と次に登る男山に陣を構えた岡山藩兵が放った、たった3発の砲撃により、姫路城は無血開城したという。西の諸藩ににらみを効かせ、難攻不落を誇った姫路城も時代の変化の前には藁の家よりも脆く、まさに平家物語の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし」だ。

好古園前を通り西の景福寺山を目指す

9:39
 景福寺山の登山口は南側の景福寺境内の中にある。こんな車も通れないような路地を行かなくともよいのだが、これが一番近い道だ。

景福寺へ続く路地 黄色い建物は幼稚園だ

9:41
 景福寺の入口。神社なら鳥居があるところだが、この両脇に立つ2本の柱はなんと呼ぶのだろうか。

 景福寺は保育園も経営していて、境内も園丁と化し子供たちが走り回っているが、見るからに怪しげな私が入っていっても別段とがめられることも、呼び止められることもない。

景福寺 とまっているのは景福保育園の通園バス

景福寺前 (けいふくじまえ)

 姫路城の西方にある小丘(景福寺山)の南山麓一帯で、江戸時代には武家の居住地であったところ。
 この丘、南山麓には代々の姫路藩の菩提寺が設けられ、初期には吉田町に属していたが、寛延2年(1749年)、前橋の酒井家が姫路に移封された時、菩提寺とした、坂田町より景福寺を移したので、門前町を景福寺前と呼んだようである。明治初期に正式な町名となった。景福寺以前には西岸寺や孝顕寺(こうけんじ)などがあり、この辺りはその名を付して呼ばれていたようである。


●姫路藩主・酒井家の墓所●
喜代(きよ)姫(晴光院)・喜曾(きそ)姫(喜光院)・婉(えん)姫(貞勝院)の墓

 酒井家は、江戸時代の中期から明治初年まで姫路藩主となりました。酒井家のうち姫路藩主の最初は忠恭(ずみ)で、1749年(寛延2年)に前橋から移封されてきました。いか二代忠似(ざね)・三代中道(ひろ)・四代忠実(みつ)・五代忠学(のり)・六代忠宝(とみ)・七代忠顕(てる)・八代忠積(しげ)・九代忠惇(とう)・十代忠邦(くに)と続いています。
 喜代姫は五代忠学夫人(11代将軍徳川家斉(なり)の娘)、1868年(明治1年)に亡くなりました。
 喜曾姫は六代忠宝夫人(忠学と喜代姫の子、城主忠宝は養子)、1870年(明治3年)に亡くなりました。
 婉姫は八代忠積夫人で1862年(文久2年)より姫路の東屋敷に住み、5年のちに亡くなりました。
 3人の夫人の墓所は、ここ景福寺の境内ですが、3人の城主の墓は前橋や東京にあります。横の小さな墓碑は、酒井家の子どもたちのものです。
 裏山の山頂には、姫路藩主松平明矩の墓所もあります。


景福寺(曹洞宗)

 古くは摂津国にあったが、天正年中に戦火をさけて姫路へ移り、池田輝政の築城の時、坂田町に寺を建てた。
 寛延2年(1749年)松平朝矩(とものり)が前橋へ移封されるにさあたり、菩提寺の孝顕寺も移り、その跡地である現在地へ、藩主酒井忠恭(ただずみ)の命で景福寺が移り、酒井家の菩提寺となった。境内には、藩主酒井忠学(ただのり)の室となった11代将軍家斉(いえなり)の娘、喜代姫及びその娘喜曽姫(藩主酒井忠宝(ただとみ)の妃)、藩主忠積(ただしげ)の室婉(えん)姫の三人の墓がある。北の景福寺山には、姫路城主松平明矩(あきのり)の墓所と姫路藩士たちの墓石がある。
 明治11年に六郡立の姫路中学校も景福寺に間借して誕生した。

平成4年3月   姫路市教育委員会

9:44
 園児様方が走り回っている境内は、いかな私とて写真が撮りづらく、本堂西端から墓地へと入り、そこで写真を撮ってみた。

景福寺本堂の西端から入り、境内の墓地を通り抜ける

9:47
 景福寺山のそのほとんどは墓地となってる。古い墓標、石仏の多くは傾き、倒れているものさえある。今風な区画整理された公園墓地とは趣が異なり、雑然とした雰囲気がまたよいが、景福寺としてはきれいに整理したい意向のようで、無縁墳墓改葬のお願いの札が墓石や石仏に括りつけらている。

墓石、石仏が立ち並ぶ山道を登る

無縁墳墓等改葬についてのお願い

 当山では、この度適正な墓地管理を行うために無縁墳墓等について改葬することになりました。墓地墓石に関係のある方にご確認頂きたく、墓碑番号のかけ札をしております。主たる使用者以外の方でも結構ですので墓碑番号と共にお申し出て下さい。期日は官報掲載日平成22年1月14日より1年以内です。期日までにお申し出の無い場合は無縁仏として改葬することになりますのでご承知下さい。

平成22年1月14日

 なお、以前にお申し出の方も墓碑番号確認の為、お手数ですが再度かけ札と共にお申し出下さい。

宗教法人 景福寺

9:53
 難所に出会うことも無く、ほどなく山上に到達すると、景福寺門前の解説板にもあった、寛保元年(1741年)から寛延元年(1748年)までの7年間ほど姫路藩主であった松平明矩(まつだいらあきのり)の、荒れ果てた墓所が山上に残っている。場所は山上を東西に延びるメインルートから南に外れていて、少し分かりにくいが、案内板などはまったく無い。

 徳川家康の次男松平秀康を家祖とする、直基系越前松平家4代目の松平明矩は、白河藩から姫路藩へ移封してきたが、延享2年(1745年)に将軍代替わりに伴う朝鮮通信使の接待役を命じられた。朝鮮通信使 の規模は400人と大きく、その接待費用は莫大なものとなり、年貢以外にその臨時の御用金を領民に課した。

 寛延元年(1748年)にやって来た通信使接待を何とかこなしたが、その年の秋に大型台風が来襲し大きな被害を受けた農民達が困惑しているときに、11月16日に松平明矩は36歳で急逝してしまった。後継者の知矩はわずか11歳で、幕府は西国の拠点たる姫路藩の藩主を幼少のものに任すすことは無く国替えは必定。

 国替えに多大な費用を要することもあり、農民達が用立てた御用金が踏み倒されるのは目に見えていて、12月21日から翌年2月まで続く姫路藩史上最大の大一揆が勃発してしまった。その中でも、さすがは越前松平家のお殿様とあって、庶民のものには程遠い立派な墓を景福寺山に造営したが、国替え後にお守りする人も無く、そのとどのつまりが現状の荒れ果てた墓所となった……ということと想像する。

姫路藩主松平明矩の荒れ果てた墓所

9:59
 登ってきた道をそのまま引き返してもよいのだが、景福寺山の北東端から人の寄り付かない「景福寺公園」へと下る秘密ルートが存在する。但し境界にはフェンスが張られ、行き来ができないようになっている。けれども自称上級登山者たる私にとってそんな障害は、いかなごのくぎ煮に混じったイナゴの佃煮のようなもの。栃木県生まれの私にとってイナゴの佃煮は大好物。でも、できたら足と羽根はむしった方が美味しいかも。

 まあどちら側も立ち入り禁止でもなく、その境界を越えるのは自己責任ということで。

景福寺の山上墓地から景福寺公園へと

10:01
 地元民にとってはホテルロンドンの廃墟のイメージが強く残っているのだろうか、お花見広場や展望広場そして遊戯広場などが整備された景福寺公園だが、誰も寄り付かず通路・階段には落ち葉が厚く積もっている。公園自体の整備はスロープが追加されたり、このフェンスが出来たりと続けられているのだが、まったく効果が無いよう。

 けれどもこの展望広場は「姫路城十景」の一つに選らばれ、連立式の姫路城天守閣が望むことができ、 風光明媚なポイントではあるが、雰囲気はあまりにも悪くお勧めできない。

世界遺産姫路城十景の一つ 景福寺公園

世界遺産姫路城十景 景福寺公園

姫路城は平成5年(1993年)12月に世界遺産として登録されました。これを記念して姫路城ビューポイントを公募し、その結果をもとにして、「世界遺産姫路城十景」を決定しました。姫路城が最も美しく見える10ヶ所です。

景福寺公園は、平成6年3月31日に都市公園として一部供用を開始し歴史的にも由緒ある景福寺山にあります。景福寺山は播磨風土記の十四の丘の一つである「船丘」がこの山であることが推定されています。その後西岸寺山・孝顕寺山・嵐山・群鷺山などと呼ばれてきましたが、山下の寺が景福寺となってから今のように呼ぶようになりました。



二山目は男山(59m)

姫路城三の丸広場から景福寺山・男山へ

 景福寺山から北側のバス通りに出て、ちょっと姫路城よりに戻ると向かいに閉店したガソリンスタンドと銭湯「白山湯」の間に男山へ続くカラー舗装の道があり、道入口の「HOTEL 月のあかり」の看板がよい目印になっている。でも、住宅地のど真ん中に、それも姫路文学館と向かい合わせにラブホテルがあるのは如何なものかと思うが、地元民からは愛されはしていないが、嫌われてもいない。

10:08
 姫路文学館前の石畳の道に出て、右に曲がると男山の南麓に水尾神社がある。

姫路文学館裏手のこんもりとした丘が男山だ

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 麓に水尾神社、中腹に千姫天満宮、その上に男山八幡宮と三段重ねに神社が連なる男山は、南側に登り口がニケ所あり、どちらも石段道だが、きついのは水尾神社の東側の見上げると天まで続くような真っ直ぐな石段で、ゆるいのは水尾神社境内から千姫天満宮・男山八幡宮とお参りしながら登る参道石段だ。

 今日はゆるい方を選択したが、きつい直登石段を避けたわけではなく、色々と見所のある参道石段を登り、その事物を紹介したいがためだ。

水尾神社境内の端から始まる「男山八幡宮参道」
左のは資材搬上用の常設モノレール

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 麓の水尾神社本殿もそうだが、この千姫天満宮も最近(平成14年4月)建替えされきれいな社殿になってしまった。有難みが無いというか、侘び寂びが無いというか、まあ建替えは寿命の短い神社建築物の宿命(寺院建築は礎石の上に柱を立てるが、本来の神社建築は掘っ立て柱形式)で仕方が無いのだろうが、古いものを大切にするという極普通の思いが、身近な神社建築物には当てはまらないのが昔から不思議だった。

 この千姫天満宮は、本多忠刻と再婚した千姫が本多家の繁栄を願って建立したものだが、まさか自分の名前を付けるはずもなく、その当時はどのような名前で呼ばれていたのだろうか。また、社殿は姫路城の向いて東向きになっていて、西の丸長局廊下から朝夕に千姫が遥拝したという。

千姫ゆかりの千姫天満宮

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 そして千姫天満宮からもう一登りで男山八幡宮だ。2月に行われる夜通しの厄除大祭には、近郷近在の老若男女が群れをなしておしかけ、この石段は左側は上り、右側は下りに規制される。なお参道の中央は神様の通り道なので避けなければならないという、不可思議な迷信のようなものがあるが、神様は天空から降臨されるのであって、参道などを通るはずはない。

 この最後の石段下の石鳥居は1704年(宝永元年)から1726年(享保元年)まで姫路城城主であった榊原政邦が寄進したもので、彼の墓は増位山にある。

 ちなみに、麓の水尾神社には慶安元年(1648年)から慶安2年(1949年)までと、寛文7年(1667年)から天和2年(1682年)までの間、二度も姫路城主であった松平直矩(なおのり)が寄進したもので、生涯に徳川幕府により5回もの国替えを命じられ、あだ名を「引越し大名」といい、景福寺山の荒れ果てた墓所に葬られた松平明矩の義父(松平基知)の父だ。

 関ケ原の合戦以降、姫路城主は池田家・本多家・松平家・榊原家・松平家・本多家・榊原家・松平家・酒井家と次々に移り変わりその城主は32人及ぶ。徳川幕府が15代将軍徳川慶喜で終焉を迎えたのに比べその倍以上もの人数で、姫路市の郷土史を学ぶ小学生にとっては大変な負担になっていることだろう。

男山八幡宮

石鳥居 姫路城主 榊原政邦寄進

 成徳6年(1716年)のもの、政邦はこの12年前、越後村上から姫路へ移ってきた。文学にもすぐれ、男山八景の和歌もよんでいる。
 八幡宮の社殿を新しく作りかえ、そのときの鳥居がこれである。左の柱に武運の長久と家の繁栄を願う長い文を刻んでいる。

姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会

10:19
 千姫天満宮・男山八幡宮経由で登ると、南麓から山上へ一気に登る194段もある急な石段の、だいたい9合目に合流する。

男山南麓の直登石段の最上部に合流

10:19
 石段を登り切ると、ベンチ前のインターロッキングの中にコンクリに固められた4個の保護石の中に三角点標石が埋設されている。国土地理院が全国津々浦々に設けている三角点標石は、一等三角点から四等三角点まで全部で10万点ほどあるが、これはそのグループには属さず、姫路市が道路台帳作成のために昭和59年に既設の三角点を利用して設けた1級基準点「都市基準点」標石だ。と思う

 忌まわしい東北地方太平洋沖地震による地殻変動のため青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都(離島を除く)、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県の全ての三角点が、測量の基準点としての存在意義を失い、今はただの石柱と化している。だが、これから行われる改測により利用可能となり、地殻変動の詳細も明らかにされていくだろう。

 GPSによるリアルタイムな測地を行う電子基準点(GPS連続観測点)の速報値によると、最大で5.3mも移動した地点があり、山歩きに用いられる2万5千分の1地形図は由に及ばず、縮尺の小さな地図やGPSカーナビゲーション用のものも修正を迫られるかな。

山上の姫路市1級基準点標石

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 最後の数段の石段をトントントンと登ると、そこは標高59mの男山の頂で、芝生が張られ花壇が彩る「男山配水池公園」となっている。昭和4年(1929年)に姫路市初の井戸水を水源とする浄水場「町裏浄水場」から市内へと配水するための施設で、同じく昭和4年に完成している。今ならば、無愛想な巨大なタンクを丘の頂や中腹に造るところだが、この姫路市で一番古い配水池は鉄筋コンクリート製のもので、上部は市民の憩う公園になっている。そして男山配水池も町裏浄水場も、今なお現役で美味しい水道水を供給し続けている。

 ここも姫路城十景に選ばれたところで、ここからの姫路城の展望は素晴らしい。でも残念ながら大天守は素屋根の中にお隠れになってはいるが、東小天守・乾小天守・西小天守、そしてそれらを結ぶ渡櫓を見ることができる。

男山頂上から見た姫路城

男山の由来

 この男山(標高57.5m)は、『播磨国風土記』(713年・奈良時代)に記されている説話の中で、姫路の14の丘の物語にでてくる「筥丘(はこおか)」だとされています。
 その昔、大汝命はその子火明命があまりに乱暴者なので、因達神山(現在の八丈岩山)におきざりにして船を出したところ、火明命は大いに怒り、風波を起こし船を難破させました。その時、積荷の蚕子の流れ着いた所が日女道丘(ひめじおか、姫路城のある現在の姫山で姫路の地名の由来になっている)、箱の着いた所が筥丘………と名づけられたということです。
 また、男山は『播磨鑑』(1762年・江戸時代)に記されている「飾磨のかち染」の伝説にも関係があり、今の自衛隊姫路駐屯地内にあった長者屋敷から難をのがれて旅の男が逃げてきた山を男山、いっしょの女が逃げてきた山を姫山と名づけられたといいます。
 男山の南中腹には、鎌倉から室町の動乱の時代1346年に姫山に初めて城を築いたといわれる赤松貞範がその鎮守として創建し、歴代の城主が信仰したといわれる「男山八幡神社」、江戸時代1617年に城主となった本多忠政の子忠刻の妻千姫が建立したといわれる「男山千姫天満宮」、南麓には「水尾神社」があります。

姫路市水道局


男山配水池公園からの展望

 このたび、男山配水池の周辺を整備し、市民の皆様に広く親しまれる公園として開放することに致しました。
 ここから眺望される城の景観は、姫路城十景の一つに選ばれています。国宝姫路城とその下に新しく整備された好古園などを御覧下さい。
 この配水池は町裏水源地(市内八代字町裏)から送水された水道水を市街地へ配水している姫路市で最も古い配水池です。
 昭和2年(1927年)7月に着工し、昭和4年(1929年)4月に完成したもので、当時は主に手作業により延11,719人の人員と、総工事費は26,343円75銭をかけています。構造は、鉄筋コンクリート造りで、長さ22.72m幅22.42mのものが2室からなり、有効水深3.0mで、3,000uの水を貯えることができます。

平成5年(1993年)7月 姫路市水道局

10:23
 北麓へ下るには、南側正面から一段下り西側へ回り込み、さらに一段下り北へ行くと長い長い階段が待ち受けている。北階段は南側のものよりも長いので緩やかではあるが、一段の段差を少しでも小さくしようという親心からか踏み面が傾斜している。登るならそんなに問題ないが、下りはなんか踏み降ろした足が滑りそうで恐い。

 一回でもこんな階段の上り下りを経験している人なら、こんな恐ろしい設計はしないだろうに。利用者のことなどなにも考えずに、入札金額を下げるために姑息な手段で一段でも段数を減らそうとし、姫路市水道局もその意図を見抜けなかったに違いない。

男山から北へ下る階段は見た目は普通だが
踏み段が斜めで思わす手摺をつかむ手に力が入ってしまう

10:28
 後付けのステンレス手摺に助けられ、何とかかんとか下りてくると、姫路獨協大学近くを源とする大野川が男山の北側を流れ、東側で船場川へと合流している。

緩やかではあるが下るのは恐く
途中に踊り場もない階段

 その階段の上り口には次のような姫路城十景色の解説板が置かれていて、南側激急階段の上り口にも設けられている。他の世界遺産姫路城十景の案内板は、展望場所自体に置かれているのだが、男山だけは麓に置かれている。

世界遺産姫路城十景

 姫路城は平成5年(1993年)12月に世界遺産として登録されました。これを記念して姫路城ビューポイントを公募し、その結果をもとにして、「世界遺産姫路城十景」を決定しました。姫路城が最も美しく見える10ヶ所です。

男山配水池公園

 市民に親しまれる水道を目指すため水道施設の一つである男山配水池を市民の憩いの場として開放しています。
 男山配水池から眺める城の景観は姫路城十景の一つとなっています。高い石段を登るとパッと視界がひらけ、眺望絶景。姫路城が姫路市街地とともに眼前に展開します。

姫路市



三山目は聖なる山、八代山(88m)

男山から八代山へ

 男山の次はこれまた低い山というか丘というか、周囲を住宅地に取り囲まれた標高88mの八代山だ。遠くから見ても近くから見ても何の変哲もない、山裾というか中腹まで住宅地が、そして一部が墓地の、その他は木々に覆われた丘に過ぎないが、登ってみると意外なものがあったりする。そして、幻のゴールドラッシュに取り憑かれた人々が闇雲に掘ったという大穴があったりするという。

10:36
 大野川の右岸(上流から下流を見て右側が右岸、左側が左岸。川沿いの切り立った崖の右壁・左壁、二股に分かれる川の右俣・左俣は下流から上流に向かって右・左と逆になり日本語は難しい)に沿って小路をしばらく進む。

大野川の右岸を進む
下流から上流を見ているので私は右岸を歩いている

10:42
 清流とは口が裂けてもいえないが、大野川にはたくさんの魚が泳ぎ、野生のカモも住み着いている。15年ほど前に明石から姫路へと移り住んだのだが、息子その1が川に入りカモを捕まえ、両手に抱え家に持ってきて妻その1を驚かせたことがある。今はそんないたずら坊主もいないのか、カモは近所の人々に大切にされ人を恐れない

大野川を泳ぐカモ

10:45
 そして、この水門ゲートで左へと曲がり大野川から離れる。橋の名前は宮前橋だが、右岸側の名板は壊れ剥がれている。

宮前橋で左に曲がり大野川から離れる

10:47
 少し進むと右奥に八代大歳神社の鳥居が見えてくる。里山歩きを趣味にしていると遅かれ早かれ、ほとんどの登山口が麓の神社境内にあることに気づくだろう。古来は神様が降臨するという山頂に社を築いたが、毎日のお参りが大変だと、時代とともに社が中腹へ麓へと下りてきた。最後は、かつての頂上にあった社への登り口に神社が鎮座する様になったと、私は想像する。

八代大歳神社参道の石鳥居

八代大歳神社(由来)

 祭神大年神(素盛鳴尊の御子)大山昨神(大年神の御子、別名山末之主神)
 八代は、このおふた神の使いの仙鶴のくわえた五穀の種子を作り、この神を祀ることで、五穀豊穣、家運隆昌、福寿長久、地域平穏なこと千代八千代なるべしとのお告げにより八代の地名を得たといわれています。
 むかし、北八代に大歳社があり、南八代にも短羽矢明神と大歳社がありました。江戸時代(元禄のころ)から八代山へ別々に、移されてきましたが、明治のころ一つに合祀されました。
 短羽矢明神は神宮皇后が麻生山から射られた白羽の矢を納めまつっていました。矢城村の名はそれから得たるともいわれ、八代地名のゆかりの神となっています。
 姫路藩主、松平直矩も、とくに、この大歳神社をうやまわれ、社前に大鳥居を献進されました。一般士民も、また、学芸や武道の上達を願い、仙鶴にあやかる長命、農耕山林の守り神として、うやまってきました。

 今では一願成就の神として、受験合格、学業、スポーツの上達や長命、家運の隆昌、農林業の繁栄を祈願するなど、お参りする人がふえています。

10:50
 この八代大歳神社境内にある石鳥居は、男山の麓の水尾神社にも石鳥居を寄進している松平直矩が寄進したものだ。

八代山の麓、八代大歳神社

石鳥居 姫路城主 松平直矩寄進

 延宝8年(1680年)のもの、南八代には大歳大明神(穀物の神)と短羽矢大明神(神功皇后が麻生山から射た白羽の矢をまつるという)があったが、江戸時代初期に合祀されたようだ。
 城主直矩(なおのり)は鳥居を建て武運長久と豊作を祈ったと思われる。

姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会

10:53
 ここの登山口は本殿の裏ではなく、右側から崩れかけた階段道として始まっている。別段案内はなく、すぐ横には立ち入り禁止の警告板が立っているが、それは横の空き地への立ち入りのことだと思う。

八代大歳神社本殿の右側が登り口だ

10:59
 途中に幾度か分岐があるが、全て右を選べば頂上へと誘われる。周囲からかすかに聞こえてくる生活音さえなければ、どこかの深山を歩いているかのような雰囲気だ。  ここまでの分岐点はほぼ直進の右だが、この最後の分岐点だけは明確に右へと曲がり、緩やかだった山道は少し急になっていく。

直進は山頂を巻く道、右折が頂上への道

11:00
 新西国三十三所霊場由来の石碑があり、その上から摩訶不思議な世界へと突入する。三十三箇所の石仏が祀られた祠がそこかしこに、屋根掛けされ不動明王が祀られた礼拝施設、全てのガラスが割れごみが散乱するものの生活感が残る荒れ果てたトタン屋根の庫裏、宗教心厚い方が興された修行の場だったのだろうが、今は誰もお守りする人なく荒れるに任せている。

いよいよ八代山の核心部へと突入する

建設記念
新西國三十三所霊場由来

 抑も西國三十三所観音霊場の姑めは人皇65代花山天皇19歳の御時後落飾則ち御法名を入覚と号し奉る示時永延23年3月15日花山法皇裡を出御其後紀州熊野山御参詣の砌権現の御吉に因て河内國石川寺仏眼上人を先達して三十三所観音霊場の順礼を修まし給ふ

昭和12年4月中旬

11:03
 もちろんここは私有地のはずで、何かの目的を持って立ち入るならば許可承諾が必要なのは言うまでもないが、私のようにただ写真を撮るだけで、何も触らす、何も持ち込まず、何も持ち去らず、無害に通行するだけなら問題ないかと私は思っている。ここは八代山行者堂と書かれた木板が下がる、比較的新しそうに見える木造瓦葺のお堂だ。

八代山行者堂の前を通り過ぎる

 お堂からちょっとで、天文4年(1545年)に八代六郎左衛門道慶がこの山に築いた柴崎山城時代のものと私が信じてやまない井戸が水を湛えている。でも400年以上も前のものが、そのまま残っているとは思えないが、こんな山の上に井戸を掘るなんて、もしかすると金を採掘しようとした跡かな。

11:07
 細道は東西に別れ、東へ進むと送電線鉄塔(総社線5)の先に展望岩場があり、送電線の下を東へと下る道もある。

 木々が茂っているが、赤っぽい岩の上に立つと、市川の東に麻生山・人寿山・南山(火山)・石積山・庄山(城山)・桶居山など姫路市東部の山々が、北に視線を転じると増位山から広峰山を見渡すことができる。

八代山山頂東の展望岩場

11:11
 まだ未踏の八代山東ルートを下りたいが、次なる山へは西に下った方が近くて便利なので引き返す。頂上から西へと続く山道は、関西電力の送電線巡視路を兼ねていて、関西電力の費用で年2回の下草刈りと道の補修も行われているため快適に歩くことができる。

八代山北西ピークへと続く道

11:13
 このフェンスの中には送電線鉄塔(総社線4)が立っている。頂上近くのもの(総社線5)よりも若番となっていることから、この鉄塔の方が電源(発電所)に近いことが分かる。

 ちなみに電源側から見て手前右がA脚、手前左がB脚、左奥がC脚、右奥がD脚と呼ばれ、「総社線 四」などと書かれた鉄塔番号札はB脚の電源側面に取り付けてある。

この送電線鉄塔までは緩い登り

11:15
 送電線鉄塔からの緩やかな下りが少し急になり、さらに急になる手前に分岐がある。何も標示はないが、左は「緩い道」、真っ直ぐは「急な道」で、結局また合流するのだが、急な道の傾斜が関西電力送電線巡視路設計標準規定に定める角度以上だったものと思われる。

左「緩い道」、真っ直ぐ「急な道」


四山目は火明命が置き去りにされた山、八丈岩山(179.2m)

八代山から八丈岩山へ

 四山目の八丈岩山は、名前の通りの岩山ではない。頂上近くに八畳ほどの岩場があるが、見た目は木々が茂った極普通の丘だ。だが、景福寺山(51m)・男山(59m)・八代山(88m)と次第次第に高くなり、ついに100mを突破する姫路市内超低山の中にあっては群を抜く超高山だ。

 高さもさることながらその面積も広く、なんと登山口は私が確認しているだけで10箇所もある。未確認のものも含めると13箇所(もっとあるか知れない)もあり、麓に暮らす好事家の諸氏がマイ登山道を次々と切開いた結果だろうと思う。以前の私はこのように勝手に切開かれた登山道の存在価値を否定し、山体のマスクメロン化を憂いていた。でも、近郷で大規模な山火事(高砂市の高御位山・姫路市の京見山)が続き、マスクメロン化した山道が迅速な消火活動に役立つだろうし、狭い山道でも防火帯となるだろうし、マイ登山道の存在意義を再評価しなければならないと考えている。

11:18
 ここが八代山西コースの登山口だ。私の下ってきた山道を入れると五叉路となっていが、次なる八丈岩山へは点滅する赤矢印の道へ進めばよい。

八代山西登山口、八丈岩山へは赤矢印の道が近い

11:25
 五叉路から赤矢印方向へ、住宅地の中を緩やか下る道をしばらく行くと、八丈岩山の北側のバス通りに突き当たる。それを右に曲がり今度は緩やかな坂道を登る。

 右下にため池が見えるが、周囲はフェンスに囲まれ釣りなどは楽しめない。周囲に田畑はなく、農業用水というよりは防火用水として維持されているのかな。

北新在家のため池の横を行く

 ため池の西隅の信号機のある交差点の近くに上野書籍文房具店があり、さらにバス通りを登ると北新在家2丁目バス停がある。八丈岩山の麓というか中腹にそびえる、藤和ライブタウン新在家のマンション群付属の高床式駐車場脇に登山口があり、バス停の先を左に入りマンション群へと坂道を登る。

11:31
 北新在家中公園の先の、鉄骨を組んだ高床式駐車場下に八丈岩山登山口の一つとなる石段が設けられている。このマンションが出来る前の登山口はもっと下にあった事だろう。

藤和ライブタウン新在家の駐車場下が登山口だ

八丈岩山 登山口 標高172.9m

 頂上付近からは、眼下に姫路城を中心に姫路の市街地、更には姫路平野から瀬戸内海が展望できます。
 この頂上付近には、かって山頂近くに鎮座(設置)されていた神社の説明標柱が設置されています。

城乾中学校校区地域夢プラン実行委員会
設置協力 新在家土地利用組合

11:37
 さすがに標高172.9mもある八丈岩山だ。チョコチョコで登ることができた、ここまでの三山とは比べ物にならない。もうすでに6分にわたる苦しい急な登りをこなしているのに、いまだに頂上は見えず、果てることのない過酷な登山道が続く。

もうすぐツツジが咲き始める山道

11:39
 登山口が13もある八丈岩山を登ると、必ず別の登山口からの道が合流してくる。ここで新在家本町からの道が合流してきた。

新在家本町からの道が合流してきた

 何でこんなにも枝や幹を切らなければならないのか、植物虐待常習者によるものとしか思えない。そして残る枝には針金を巻きつけられ、案内板が吊り下げられている。全ては人のため、八丈岩山を訪れるハイカーのためと、自分がしていることの吐き気を催す残虐性・目を覆いたくなる自然破壊に、なにも気づかないその鈍感な精神が私には理解できない。

 このような案内板に、ほぼ全ての100%のハイカーは感謝するばかりだろうが、こうして山中に持ち込まれる夾雑物の積み重ねが、山をだめにする。善意からしていることでも、その実態は山中にゴミを撒き散らすのと同じ自然破壊だ。

ゴミが枝から吊るされている
としか私には見えない

11:41
 登山口から10分(普通に登れば5分ぐらいか)北新在家からの登山道(登山口は未確認)との合流し、ここからは緩やかな下り、そして緩やかな登り、中ほどは急な登りが待っている。

11:43
 もう少しで、コバノイミツバツツジ・モチツツジなどが咲いて彩り豊かになるのだが、今の時期は少し寂しい。

動物には出会わなかったが
タヌキやイノシシが住んでいるかもしれないが、シカはいないだろうな

11:47
 八丈岩山を上から見たら、尾根が四方へと延びていて、足が1本ちぎれたヒトデのよう見えるが、私が登っているのは東へ延びる尾根だ。一部の急勾配のところでは二股に分かれているが、それもすぐ先で合流し、どちらも「急な道」だ。

こんな感じの展望のない狭い道が多い

11:50
 木々に囲まれ展望のない八丈岩山頂上に着いた。頂上にはコンクリート台座の上に小さな社が祀られていている。

小さな社が祀られた八丈岩山の頂上

 そして祠の脇には上面に十字が刻まれた三角点標石が埋設されている。これは国土地理院によるところの四等三角点標石で、公式HPを見ると、結構昔の昭和31年1月29日に設置されたもので、標石の長さは63cmで点名(その三角点の名前)はそのまんま「八丈岩山」ということなどが分かり、さらに愛着が沸いてくる。でも角は欠け痛みが激しいのは、人為的なもののような気がする。標石を粉にして煎じて飲むと、バカが直るのなら私も少し削って持ち帰りたいが、素材に用いられている小豆島産の花崗岩(御影石)に薬効成分はない。

角の欠けが酷い三角点標石

 社と三角点標石のある頂上からほんの少し南へ行くと、大展望の広がる岩場だ。まさに神が降り立った磐座(いわくら)の一つに違いなく、私のパワースポットの一つだ。  ただし大地・天空からの力を頂くには、秘儀に則った一子相伝の「シェー」を執り行なければならなず、一般人がまねをすると逆に生気を吸い取られかねないので注意が必要だ。シェー!!。

八丈岩山の磐座にてシェーを執り行う

 昔の八丈岩山はそれはそれは素朴な山だったのだが、既に書いたが、何事も人のためと善悪の判断もできない八丈岩山愛好者たちが沸いてきたのか、ここ頂上もひどいことになっている。登山記録ノート・案内図収納箱や色々な案内板、大きな解説板、そしてそこかしこの木々に結わえ付けられた目障りな樹名板などなど、私には全てがゴミにしか見えない。  『撮ってよいのは写真だけ、残してよいのは思い出だけ』主義のなかでも『足跡も残したくない』派に属する私には、どれもこれも目障りでならなく、なかには地権者の許可を得ているものもあるが、いかに地権者とてそんな許可を出すべきではない。このまま行くと、八丈岩山頂上がパラダイス化する日は近い。

八丈岩山の頂上に持ち込まれたゴミの数々

八丈岩山 登山記録帳 地図

登山者の皆様へ


八丈岩山 標高173m

 この頂上の岩に含有されている成分から約1億5千年前(筆者注:1億5千年前は1億5千万年前の誤りとしか考えられない)に海底から隆起して出来た。姫路で一番地層の古い山です。
 八丈岩山は、昔から聖な山としてい因達(いたて)神山といわれ、因達神(スサノオノミコトの子)射盾(いたて)神が祀られていた。
 現在、播磨国総社と辻井行矢神社の祭神はこの神です。
 この地に設置されている石柱には、「高岡神社舊蹟(きゅうせき)」「天長3丙午(西暦826年)9月9日影向(ようこう)」と表記されています。
 高岳神社は、古くはこの近く新在家八丈岩山の宮谷「鳶(とび)か巣」に鎮座(設置)されていた。
 その後、現在の「西今宿」蛤山に遷座しました。
 明治4年(西暦1871年)高岳神社から田寺村氏神として高岡神社を分社し現在に至っている。

設置者 安室中学校校区地域夢プラン実行委員会
設置承認 新在家土地利用組合

12:21
 写真を撮り、いつものコンビニで買い求めたお弁当も食べ終えて、次なる山を目指し西へと下る。案内板にある「田寺山手登山口」方向だ。

 最初こそは岩がちな急な下りだが、すぐに緩やかというか水平道になる。

12:26
 役目を終えた後も撤去されることもなく、放置されたままのテレビ共同受信用アンテナを過ぎると、北西側の展望が広がる岩場がある。頂上近くの岩場もだが、この岩が赤いのは地衣類によるもので、岩そのものが赤いわけではない。また、とんがった岩の上に登らずとも、もう少し先に行くだけで登山道から同じような風景が見えることも付け加えておく。

北西方向の展望抜群の岩だが
お尻がムズムズしてくるぞ

12:32
 延々と続く登り、身もすくむナイフリッジ、もうこれ以上登れないと泣きながらも登り続け、ついに到達した頂上。青空の下、何も遮るもののない大展望、登山者の誰でもが一番感動する時だろう。

 しかし、私はこの何てこともない、周囲の木々による閉塞感に満ち満ちた狭い空間を、実は感動しながら歩いている。なんていっても山の中なのに、辛い登りでもなく、苦手な下りでもない水平道。もうそれだけで大感動ものだ。

なんでもない、こんな道がだい好きだ

12:32
 おど驚ろしい警告板が現われた。この先は登山口なので「この先急坂です」は、急な下りを意味していると思われるが、中級者以上ではないと通過は困難だという。自称里山歩き上級者の私は、これまで、道なき道に挑戦しドツボにはまったことが何度もある。

 しかし、こんなに素晴らしい道が続いているのに、中級者以上でないと通れないような状況が待ち受けているという。ワクワクしてきた。

この先急坂、中級者向き

12:39
 でも現われたのは、固定ロープが下がるが、足場はしっかりしていて滑ることもない、なんてことのない急斜面。こんなのが三つ連続するが、身軽な子どもは言うに及ばず、高齢者だろうが中高年者だろうがだれでも簡単に登り下りができそうで、なぜにここが中級者向きなのか理解ができない。ただし固定ロープがないと難儀はするだろうな。

これが中級者向きの急坂だ

12:43
 三連続ロープ場を下ると、山道は送電線鉄塔の真下を通り抜ける。街中にあるものは、もれなくフェンスに囲まれ送電線鉄塔と直に触れ合うことなどできないが、山中にあるものの多くは囲いがないものが多い。その上、山道が送電線鉄塔の真下を通り抜ける場面も多く、送電システム愛好家の私にとって山は楽園だ。

 山に何であろうと物を持ち込むな、持ち出すなと主張して止まない私だが、送電線鉄塔だけは別だ。送電線を山中に通すことによる環境破壊や、景観の変容は見てきただ、それでも自分の趣味を最優先してしまう。完璧な御都合主義の日和見主義のオポチュニストと罵られようが、山にそびえ立つ送電線鉄塔の美しさ、優雅さをこれからも愛でて行きたい。

送電線鉄塔(溝口線2)

 「鉄塔 武蔵野線」でメダル(王冠)を埋めたという、鉄塔の四脚に囲まれた結界から上を見上げると、構成するアングル材の織り成す幾何学的模様が美しい。

送電線鉄塔を真下から見上げる

12:47
 2本の送電線鉄塔から下は急になるが、送電線巡視路のトレードマークとも言うべきプラ階段が整備され、トントントンと下ることができる。ハイキング道によくある、造ってしまえばそれでお終いの丸太階段道は、段差が10cm丸太2本分もあるユーザビリティに欠ける規格物を使っていて誠に歩きにくい。しかるに関西電力の送電線巡視路プラ階段は送電線を巡視するという仕事を、効率よく安全に行うという目的があり、設置者=利用者とその思いやりが違う。

送電線巡視路プラ階段を下ると下界は近い

12:50
 児童公園の向かいの石垣脇の、急なコンクリ斜面が田寺山手町登山口だ。ロープが下がり、案内板もある。

ここが八丈岩山田寺山手登山口


五山目は蛤の化石が出土したので「蛤山」?
振袖を着たお嬢さんがクルリと回ったとき
翻った両袖のように見えるから「振袖山」?

八丈岩山から蛤山へ

 国土地理院2万5千分の1地形図には振袖山(蛤山)と、括弧書きで二つの名前が記載されている。こんな別称が併記された山は珍しいのかと調べてみたら、兵庫県の最高峰「氷ノ山」も括弧書きで(須賀ノ山)となっているではないか。まあ東山と呼ばれる山も、東側の住民にとっては西山で、南側に住む人は北になるし、一つの山が二つ以上の名で呼ばれるの普通だな。世の中には山名にこだわりを持つ人がいるが、バカボンのパパが言うように、呼び名が幾つあっても「これでいいのだ」。

13:08
 八丈岩山から蛤山へ真っ直ぐ行く道はない。なんか稲妻型に右へ行ったり左へ行ったりと、なかなか近づいてこない。ここは辻井バイパスの一つ北の道、コープ姫路田寺店前の道を西へと進んでいて、前方に見えるのが蛤山で、振袖の右袖か左袖のどちらかは分からない。

コープ姫路田寺店前を西へ
でも、町中での自分撮りはかなり勇気がいるな

13:20
 蛤山には登山口が3箇所以上あるが、私が目指すのは山体西側にある「安室(アムロではなくヤスムロと読む)神社」近くにあるもので、辻井バイパス西端の田寺三丁目交差点からさらに西へ蛤山の北端を回りこむように、マックスバリュー安室店前の信号の無い三叉路を左折し南に進む。

 幅広の立派な道だが、車の1台も人の1人も通らない。なぜならば、この広い通りはこの先の安室神社までしか通じてなく、利用価値がまったく無いためだ。

蛤山西側の広い通りは静かだ

13:23
 安室神社を少し西へ移転までして道路工事がなされているが、終点はすぐ先だ。用地所得に難航しているのか、今は工事はまったく行われていない。でも「ここは道路事業用地です 敷地内に入って遊ばないで下さい 上野毛自治会 姫路」という警告板がそこかしこに立てられ、まだ道路工事は続けるんだという意思は感じられる。

安室神社の裏は舗装もされていない

13:26
 かつての安室神社本殿裏にあたるコンクリート擁壁に階段が設けられ。「蛤山 ハイキングコース」という案内板が立っている。

ここが蛤山西側登山だ

12:31
 大概の山は尾根伝いに登る感じで急なところもあるが、緩やかなところもあり、休まずとも途中で一息つげる。だが、低山ではあるがこの蛤山安室神社コースには当てはまらない。いきなり急で最後まで急な登りが続く。ここは送電線鉄塔(西播線4)の結界の中を登っているところだが、こんな急なところに鉄塔を立てるのは大変だったろう。

急斜面に立つ鉄塔は四脚の長さが違うんだ

12:34
 ぐんぐんと高度を稼ぎ、眺望が広がるも、もう振り返って眺めを楽しむ余裕もない。(てなことを書いているが、実際は三脚とカメラををットしアングルを決め、いったん少し下りポーズをとって、赤外線リモコンでシャッターを切っているのは内緒で、実は余裕バリバリで風景を楽しんでいるのは、ここだけの話だ。)

展望を楽しむゆとりも無く、辛い登りが続く

13:40
 両手を使わなくてはよじ登れないような岩場もある。今日登った山の中では登ること自体が一番面白く、こんな楽しい登りが延々と続いたら幸せだが、残念ながら蛤山の標高は125.3mしかなく、もうすぐ終わってしまうのが残念でならない。

ピントが手前のマツの葉に合ってしまった

13:43
 ついに辛楽しい登りが終わってしまった。ここは振袖の肩か肘かどちらなのかな。けれども、この振袖を着ているのはお嬢様ではなく岩山なので、肩だろうが胸だろうが襟首だろうが関係ないな。

蛤山の主稜線に到達した

13:45
 「ウワーッ!!!」思わず叫んでしまった。この山に登るのは5回目なのだが(たぶん)、まあごちゃごちゃとした町並みが見えるだけではあるが、見るたびに感動してしまう遮るもののない大展望だ。正面には今登ってきた八丈岩山が、その右手には「天空の白鷺」に収まった姫路城が、そのた大勢の山々が並び、いくら見ても飽きることが無い。

今日の五山の中で一番の展望地だ

13:49
 蛤山にはいくつかのピークがあり、そのどれでもから大展望が広がり感動の連続なのだが、やはり見慣れてしまい、次第次第に感動が薄れていくのは仕方ないな。

 ピークとピークを結ぶ道は、安室神社からの苦しい登りなんか忘れてしまうような極楽稜線だ。次のピークは振袖を着たお嬢さんの左肩あたりかな。

どんな眺望が待っているのかと、次なるピークを目指す

13:53
 うん、ここもいいな。これ以上高いと下々の暮しが見えず、これ以上低いと見えすぎるというベストな高さだ。私の足元のワイヤー網は山体表面の剥落を防ぐためのもので、山裾まで覆っている。

よい眺めじゃ

13:58
 振袖山の頂上は南側のピークで、その間に最低鞍部がある。東側へ下るだろうと予想できる道を通り過ぎ、高岳神社への道に入らずに稜線を登ると高圧送電線鉄塔(西播線3)とマイクロウェーブ反射板(関西電力株式会社 振袖山反射板)がある。送電線鉄塔は囲まれていないが、手ごろな高さで登るのも簡単そうなマイクロウェーブ反射板はフェンスに囲まれている。

 なぜか、どこの山の反射板もフェンスに囲まれ、これまでに登ることのできたのは1箇所しか記憶に無い。

立入禁止

この反射板は電気の供給に必要なマイクロウェーブ用重要通信施設です。
立入ったり、投石等をして傷をつけると電波法代108号の2によって罰せられますのでご注意下さい。

関西電力株式会社


送電線鉄塔、反射板を過ぎると蛤山の頂上だ

14:01
 送電線鉄塔、反射板の先に落書きだらけの東屋があり、そこが蛤山(振袖山)の頂上だ。こんな落書きされるためだけの東屋はゴミだと、私が言うことを期待している人もいるかもしれないが、残念ながら私はこの東屋は必要と考えている。真夏の太陽がギラギラと照りつけ、面白山(姫路市神子岡)の姫路特別地域気象観測所(アメダス)が発信する気温が35度を越えるとき、この岩場の体感気温はゆうに40度を越え大変なことになっている。そうしたとき、この東屋の日影だけが人類の生存が許される場所になる。まあ、そんなときは登らないに限るが、えてして私のよな物好きが登りがちで、この東屋は絶対に必要だ。

蛤山頂上には丈夫そうな東屋がある

 傍らに三角点標石が埋設されていて、八丈岩山のは四等だったが、ここのは三等三角点(点名:蛤山)だ。この山に登る人は標石の花崗岩を煎じても、膏薬にしても薬効がないことを知っているようで、角には目立った欠けは無い。

蛤山の頂上に埋設された三等三角点標石

 それから、八丈岩山には無かったが、ここには「登頂記念プレート」と呼ぶとかっこいいが、まあ汚らしいゴミが2枚、木に針金で括りつけられている。1枚は「珍名・奇名の山シリーズ 振袖山:125.5m 2005.12.20 大阪市 勝田」で、ネットで調べても勝田が誰か分からなかった。もう一枚は「山想同人 峰」というもので、大東市にある社会人登山クラブ員が付けたもので、会則に「会員は登った山には必ず登頂記念プレートを残さねばならない」というのがあるに違いない。ともに、自分だけは、私たちだけは山頂にゴミを残すことが許されていると信じる、良識をわきまえない、自己顕示欲ばかりが旺盛なバカ者であるのは間違いない。

 私の尊敬してやまないシェー教の教祖たる、赤塚不二夫大先生による「バカ」は最高の褒め言葉だが、 シェー教信徒見習の私はまだそこまでのステージに達することができず、私の言う「バカ」は単なる「バカ」で、そんなことを言っている私も自己顕示欲の塊の「大バカ」であるの言うまでもない。

山頂に残されたゴミ二つ

 この蛤山頂上からの眺めも素晴らしい。下に見えるのは高丘中学校、その奥が送電線の源の姫路変電所。

ここから見える山々のほとんどに登っているが
もう記憶は薄れてしまった

14:11
 下山は頂上から南へ尾根伝いに山の北集会所へと下るのも悪くは無いが、やはりここは蛤山の名前の由来となり、今は高岳神社の御神体となっている磐座(いわくら)へと下るのがよいと思う。なぜならば、あんなに苦労して急な安室神社から始まる西側斜面を攀じ登たのに、東側の高岡神社へは緩やかな山道が、車道が、石段が続き誠にあっけなく下れるからだ。

 一旦頂上から登ってきた道を引き返し、電波反射板・送電線鉄塔の先で東側へ斜めに緩やかな道を、展望を楽しみながらルンルンと行く。

高岳神社へ緩やかな道を下る

14:16
 ルンルンの道はちょっとした岩場へとつながるが、グリップ抜群で安全。岩場の下は高丘神社の御旅所となり、高岡神社とは結構急な舗装道路でつながっている。

下に見える広場は高岡神社の御旅所だ

14:23
 舗装道路の東側の岩場に突き出したのが「蛤岩」で、玉垣に囲まれた中は神域となり、蛤岩に登ることも撫でることもできないのが残念。この蛤岩の上でシェーをしたかった。

高岳神社の御神体?「蛤岩」

14:25
 地形的な制約なのか、それとも屋台の練り場を確保するためなのか、本殿へと真っ直ぐに登る石段は無く、本殿前は玉垣で塞がれその下が練り場となっている。

高岳神社本殿前を通り東側の石段を下る

式内旧県社 高岳神社由来碑

祭神
應神天皇 仲哀天皇 祟道天皇
事代主命 猿田彦神 住吉大神
伊豫親王 藤原夫人 宇賀魂命
市杵島姫命 水分神

由緒
当社は延喜式内の社にして国内神名帳大神24社のうち八所明神の一なる当国第5の宮にして旧安室郷の総氏神なり 時の武将世々の国司領主の尊崇厚く延暦元年坂上田村麻呂幣帛を奉り寛元年中鎌倉幕府執権北條経時佐貫十郎を遣して祈雨祭を行い天文元年赤松政則本殿を修覆して草上の地五町を献じ寛永18年姫路城主松平下総守神供料を寄附し以後累代の城主之を安堵す さて初め当社は新在家八疊岩山に祀られしを天長3年9月9日に此蛤山に奉遷す 此所は和名抄に草上郷とある所にして後に安室郷となれり 境内には巨大なる岩石多く殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり昔土地の人此岩上にて蛤を拾い福徳長寿の幸を得しかば名付けて蛤岩と称す 当社の宝物に蛤の化石今に伝われり 明治7年2月郷社に列し昭和7年9月県社に昇格す

祭日
記念祭 2月17日 春祭 5月15日
夏祭 7月13日 例祭 10月9日 10日
新嘗祭 11月27日
式年御開帳臨時大祭 21年目毎

14:35
 国道2号線を目指し、県道414号線を南へ進み、高岡病院を過ぎると畑(花壇かも)の中に案山子が沢山並べられている。いずれもが色々と衣服も工夫され表情も個性溢れるものだが、いづれも案山子は十字に軸を組んだものという固定観念化から抜け出すことができていない。普通の案山子に慣れ親しんでしまった鳥達をぎょっと言わすよう造形が待ち望まれる。

国道に出る手前に案山子が展示されている

この案山子はさわやか会で
準備させていただきました。

さわやか会とは

 地域はひとつの家族をテーマにボランティアとして地域活動に頑張っています、色々なイベントを通して思いやり・助け合い・励まし合いなど家族としての心の絆を大切にしてこれからも会員一同頑張って行きます
 今後ともご理解ご声援をよろしくお願いします。

会員一同

14:41
 国道2号線西今宿交差点に出会い、右を見るとそこは神姫バス「西今宿」バス停だ。田舎のバス停なら、最悪週に2本とかもあるが、ここは姫路市中心部とつながる交通の要所、10分も待てば姫路駅北口行きのバスが必ずやってくる。


最後に「裏山主義」について

 3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますと共に、被害を受けられた皆さま、そのご家族に、心からお見舞いを申し上げます。

某国東京電力の公式HPより

 どの企業のHPも個人のHPでも、足並みを揃え同じような御見舞い文を掲載しているが、日本人の横並び主義というか事なかれ主義というか、まあいいか。

 で、「裏山主義」だが、裏山の土砂崩れ災害が人の命を奪ったり、津波災害では命を救ったこともある。その命に係る裏山をよく知ろうというのが、私の提唱する「裏山主義」だ。今回の津波で生徒、先生のほとんどが助からなかった小学校があるが、児童の一人でも裏山に興味をもち、一度でも登ったことがあれば、彼が彼女がリーダーとなり全員が助かったかもしれない。おそらく、安全第一と裏山へ登ることが禁じられていたのかもしれないが、先生の言うことなど聞かない、冒険心のある児童が一人でもいたらと残念ではならない。

 今回私が巡った標高200mにも満たない姫路市超低山でも、どこが登山口か分からなければ登ることができず、また登ってみれその展望に感動するし、春になれば花が咲きみだれ、冬には木々が葉を落としと、違う山に登ったのかと思う。

 そんなふうに日ごろから裏山に慣れ親しんでいれば、いざという時、真夜中の真っ暗闇の中でもあわてず迷うことなく、おまけに土砂降りの雨が降ってようと躊躇することなく避難できるかもしれない。そして普段も登っていれば、危険な地割れの兆候を見出せるかもしれない。私の駄文を読んで「裏山主義」が、一人でも多くの人に広がることを願い、お終いの言葉としたい。



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