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黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第一弾
「甲山」



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平成25年2月9日(土) メンバー 私だけ

山陽電車妻鹿駅〜甲山〜黒田職隆廟所〜山陽電車妻鹿駅


黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第一弾は甲山

 来年1月から始まるNHK大河ドラマは「軍師官兵衛」だ。姫路が生んだ黒田官兵衛の、軍師としての生涯をドラマチックに描くことだろう。でも、テレビを見るなど時間の無駄使いそのものとしか考えない私は、一話も見ないと断言する。

 それはそうと、軍師官兵衛が大河ドラマとなり、姫路の街が浮かれているかというと、そんなことはない。そんな盛り上がらない姫路だが、私も大河ドラマに便乗して黒田官兵衛ゆかりの山に登ってきた。今回は、市川の東岸、山陽電車の妻鹿駅の北にそびえる標高98mの甲山で、官兵衛の父・黒田職隆が天正元年(1573年)に山上に城を築き、官兵衛自身は、わけあって天正8年から2年間居候したという。

 甲山は、どのように呼ぶのだろうか。姫路南ライオンズクラブの案内板と山陽電車のパンフレットでは『こうざん』、姫路市教育委員会の案内板では『こうやま』となっていて、どちらが正しいのだろうか。山城の名は『功山城』とか『国府(こう)山城』と呼ばれていることから、山名の前半は『こう』で間違いないなく、『かぶと』や『きのえね』ではない。

 『こう』は音読みなので、続く山も文法に則り音読みの『さん』にすると『こうさん』となるが、ゴロが悪いので『こうざん』と濁る。けれども文法の例外規定たる重箱読みだと、音読みの『こう』+訓読みの『やま』で『こうやま』となる。姫路市教育委員会も『こうやま』と言っていし、私は『こうやま』が正しいものと推測する。また『こうざん』では、『こうさん』…『降参』に通じ、全ての言葉には言霊が宿るとされる言語世界に住む我々にとって、特に山城ができた後では『こうざん』はあり得ない。

 で、関係ないけど市川のさらに上流の豊富町の標高106.0mの甲山は「かぶとやま」だ。

今回の山行図
(iPad+GPSレシーバーGNS1000+FieldAccess HD)

 GPSレシーバーGNS1000は、町歩き部分は正確だが、山に入ると駄目だな。特に枝葉が茂っているとGPS衛星をロストしてしまい、荒神社からの登りは大きく九十九に登ったのに、その辺の位置情報が欠落し直線で補完されてしまっている。まあ、誤った位置情報を出すよりは潔いというか、諦めの早いGPSだ。


妻鹿駅から甲山へ

12:07
山陽姫路駅から四つ目の妻鹿駅に到着。1日の乗降客数が2千人少しの無人駅で、普通列車と阪神三宮駅行のS特急(平日、山陽姫路駅発6時24分のみ)が停車する駅で、改札口付近は改修工事が行なわれていた。

 なお、妻鹿は音読み『さい』+音読み『ろく』で『さいろく』、訓読み『つま』+訓読み『しかorか』で『つましかorつまか』、重箱読みで音読み『さい』+訓読み『しかorか』で『さいしかorさいか』、はたまた湯桶読みで訓読み『つま』+音読み『ろく』で『つまろく』となるが、そのいづれでもなく『めが』と読む。

山陽電車妻鹿駅に到着

 妻鹿駅に、「2014年NHK大河ドラマ決定! 黒田官兵衛ゆかりの妻鹿の史跡を訪ねましょう」と題したパンフットが置いてあり、住宅地の中の袋小路の奥にある、分かりにくい黒田職隆の廟所を訪ねようとしている人にとっては必携のものだ。

 そのパンフレットには400年以上も前に廃城になったの国府山城想像図が描かれているが、想像の上に想像を何段にも積み重ね、さらに想像で上塗りしたものではないかと思う。

山陽電車妻鹿駅に置いてるパンフレット
画想をクリックすると印刷用pdfファイル

 妻鹿駅前には「歴史と伝統のまち・妻鹿 平成8年12月吉日 中核市指定 新市誕生50周年記念 妻鹿連合自治会」の観光案内板があり、今回訪れようとしている甲山と黒田職隆廟所はもちろん、駅の南に姫路藩が飢饉時の備えに設置した固寧倉(こねいそう、288か所が設けられ現存するのは5か所のみ)が載っている。固寧倉は江戸時代の河合寸翁と姫路藩主酒井忠道がらみのもので、黒田官兵衛との関連はないので今回は割愛する。

妻鹿駅頭の観光案内

12:13
 妻鹿駅から市川沿いの道に出ると、北に標高98mの甲山が見える。姫路城が建つ姫山の標高は45.6m、その上に石垣が14.85m、そして天守閣31.5mと合計して海抜92mとなり、甲山の標高とあまり変わらない。

市川に乗り出すような甲山の登山口は、妻鹿駅から600mほどだ。

妻鹿駅を出ると北に標高98mの甲山が見える

12:19
 右手に兵庫県企業局市川工業用水道管理所が見え、その北側が甲山の登山口のある荒神社だ。紫色の旗めく幟には「その男、天下に秘する野望あり 2012年大河ドラマ 軍師官兵衛」と白文字で染め抜かれている。

山裾の玉垣が登山口の荒神社だ

12:22
 不思議なほどに、登山道は神社奥から始まっていことが多い。この甲山の登山道も、この荒神社の奥から始まり山頂へと続いている。

甲山南麓の荒神社

 境内には兵庫県知事金井元彦書の「妻鹿城址」の石碑がある。現場でもそうだが、写真に撮った碑文はコントラストが低く読み取り難いが、摩耗もなく時間をかけ100%読み取ることができた。

妻鹿城址石碑

 妻鹿城即ち国府山城は元弘の頃妻鹿孫三郎長宗が構居した処と伝えられ、その後二百数十年を経て天正元年(1572)に黒田職隆があらたに築城し、同13年職隆が没するまでその居城とした。その間同8年には職隆の子官兵衛孝高も姫路城を羽柴秀吉にゆずり、妻鹿国府山城にいた。
 太平記所載の豪力孫三郎や、秀吉の知将孝高が時勢の風雲をにらみながら、どのような夢をえがいたが幾百星霜を経た今日郷土人各位の豊かな想像をねがうものである。
 本年1月本顕彰保存会が結成され、寄贈者両氏のご高助を賜わりその記念事業としてここに「妻鹿城址」の碑を建立するに至ったのである。

 妻鹿城々主
元弘・文和の頃  妻鹿孫三郎長宗
  妻鹿三郎四郎長定
嘉吉の頃  妻鹿孫次郎定祐
天正元年−13年  黒田美濃守職隆
天正8年・9年  黒田官兵衛孝高

 姫路南ライオンズクラブによる案内図と解説もある。案内図は山陽電車のパンフレットのような想像力が溢れかえるものではないが、木々が生い茂り冬でも勢いのよい笹に覆われた現状との隔たりは大きい。真実味を増すためか送電線鉄塔も描きこまれ、現在の甲山の案内図と信じて登ったらがっかりするのは間違いない。ペテンの完璧な誇大広告で、詐欺だと訴えられたら負けるのが目に見える。なぜ、もっと現実を見つめようとしないのだろうか。

功山城案合図と解説板
画像にマウスを乗せると嘘の案内図が拡大します

功山城

 功《こう》山城は、市川左岸の甲山《こうざん》(標高102M)にあり、別称を妻鹿《めが》城・国府《こう》山城・袴垂《はかまたれ》城ともいわれています。
初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗《めがまごさぶろうながむね》です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。
 その後、姫路城内で生れた黒田官兵衛孝高《くろだかんべいよしたか》の父職隆《もとたか》は、天正元年(1572年)姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正8年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としましたこれに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。
 官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩56万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。
天正13年(1585)職隆が没した後は、廃城になったようです。なお職隆公の廟所は妻鹿町内にあり。町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。

(贈)姫路南ライオンズクラブ
平成10年4月吉日

 境内にはメグスリノキの若木が植えられいる。カエデ科カエデ属の落葉高木で樹高10mにもなるそうで、樹皮を煎じたものを服用したり、目を洗浄したりすると眼病に効用があるという。戦国時代ごろよりの民間療法で、現在でも健康茶として販売されている。

 司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」の話中において、黒田官兵衛の祖父重隆が、広峰神社の護符とともに販売し、黒田家の礎たる財を成したというが、それは小説の中の話であって、実際にあったことなのだろうか。広峰神社でも伝説として伝わっていると聞くが、数百年も前のことで、確たる一次資料はあるのだろうか。

荒神社の境内に植えられたメグスリノキの若木

黒田官兵衛ゆかりの 目薬の木

 信長・秀吉・家康に仕えた戦国の知将・黒田官兵衛(1546〜1604)は、姫路城で生まれ、40年近くをこの播磨の地で過ごしました。司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、官兵衛の祖父・重隆が、広峰神社(姫路市を眼下に一望できる広峰山上にあります)で暮らしたとき。「目薬の木」で目薬を作って売り、財を成したと記されています。

 この甲山には姫路南ライオンズクラブが設けた、道標がそこかしこに立ち、訪れるものを誘導してくれる。案内板と同じく平成10年に設けられたものと思うが、その自立式の道標は痛みも掠れもなく、この先長く立ち続けるだろう。でも支柱に書かれた「姫路南ライオンズクラブ」の文字の自己主張が強すぎ、標識の裏側に小さく書き込むぐらいの謙虚さが欲しい。

姫路ライオンズクラブによる頂上まで続く道標


甲山徘徊

12:28
 荒神社境内の事物の紹介が終わり、いよいよ山登りが始まる。ここでお昼ご飯を食べて、そのゴミをそのまま残していく不埒ものが多発したのか「食事厳禁 ゴミは自分で持ち帰りましょう」と、内側に貼られた荒神社拝殿の右手が登山口だ。

石段を登った荒神社拝殿右手が登山口

12:30
 落葉樹と笹が茂る山腹を行く道は、通る人が少ないのか落ち葉が積もってはいるが、広く緩やかで歩きやすい。

こんな感じの道で甲山登山道は始まる。

12:33
 常緑樹が増えてきて、なんか取り留めもない雑然とした林だな。時たま私みたいな低山愛好家、はたまた山城愛好家が通るだけで、周辺に住む人々との接点が全くない、今の里山を代表するような雰囲気だ。

 まあそれでも、植林はしたが、何の手入れもしないため細々としたスギ・ヒノキが密生し、昼なお暗いというか、一年中真っ暗な林床には下草が1本も生えず、それでいて早春から花粉を飛ばしまくり、その存在を知らしめるという人工林よりはましだな。

常緑樹が多いため林床に日が差さず薄暗い
現在の里山を代表する風景だ

12:36
 緩やかな登山道は大きく九十九に登っていく。かつての功山城(国府山城)の大手道を忠実に辿っているのだろうか。黒田官兵衛はもちろん、姫路城に入った秀吉も黒田職隆・官兵衛親子を訪ねて登った道かもしれないな。

大きく九十九に登る大手道??

12:41
 T字路に突き当った。姫路南ライオンズクラブによる道標は「←城跡」と左を指示している。ちなみにここを右へ行くと麓に舞戻ってしまう。

T字路に突き当たったら道標に従い左へ

12:42
 背丈の倍ほどにも茂る笹藪の間の道を西へと進む。この道の笹がこんなにも、きれいに刈り取られているのは背後に見える関西電力送電線鉄塔のおかげで、送電線巡視路の毎年2回の草刈がなければ道は消えさり、笹薮の海になってしまう。

日当たり、そして風通しもよいので道脇の笹の勢いはすごい

12:44
 尾根の突端に立つ関西電力送電線鉄塔「飾磨港加古川線14」の敷地はフェンスに取り囲まれている。山に中に立つ送電線鉄塔のほとんどはフェンスなどなく、自由に真下も通れるのが普通だ。フェンスを設ける設けないの基準はあるのだろうか。ちなみにこの鉄塔の東続きの15にはフェンスがない。

12:46
 鉄塔敷きのフェンス沿いに1/4周ほど進むと城跡への道があるが、さらに回り込むと南西の播磨灘沿岸の工場群を見下ろす展望地だ。但し木々のために全開の展望は望めず、ボチほどの眺めだ。

尾根の突端に立つ送電線鉄塔
「飾磨港加古川線14」からの南西方向の展望

12:48
 14鉄塔から尾根を下るのか切り開きがあり、その脇に姫路市教育委員会が設置した解説板が立っている。

 平たい岩が地面に何個か突き刺さっているという、人の手が入ったごく小規模な遺構があり、いろいろな品が埋納されていた経塚というものだという。

送電線鉄塔bP4直下の経塚

甲山経塚《こうやまきょうづか》

 甲山は御旅山の北西端に位置し、経塚はその緩やかな山頂部の突端に造営されている。
 経塚とは経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡である。経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生を願う経塚の造営は平安時代中期以降に全国的に盛行した。
 甲山京塚は昭和42年に地元有志の調査によって発見され、その後の調査で立石状に露頭した岩の周囲で3基の埋納杭が確認された。埋納杭は板石で囲んで構築されていた。
 遺物は土師質外容器・経筒、須恵器甕・青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の座像が陽形の笵で浮き出されている。同一形式のものが甲山南麓の荒神社に御神体として祀られていた。類例が乏しく珍しいものである。須恵器甕は香川県の甕山窯の製品で平安時代中期から後期のものと考えられる。
 また、経塚周辺から鎌倉時代から室町時代の瓦質土器土釜・土師器香炉・白磁皿などが出土しており、中世を通じて信仰されてきた可能性がある。

平成23年6月  姫路市教育委員会

12:52
 さて経塚見学も無難にこなしたし、次なるミッションは城跡探索だと歩みを進めれば、そこはかと匂う削平地の香り。姫路南ライオンズクラブによる「曲輪(くるわ)跡」の案内がなくとも、ここが城跡と分かる。曲輪跡の一つ一つはそれほど広くないが、少しの段差で連なり、木々を取り払えば麓の荒神社にあったペテン案内図そのものになるのがわかる。

ここは城跡、曲輪跡

12:55
 前方が明るく開けてきて、あそこが世に聞く甲山の展望所か。などと書いているが、実は甲山には8年前に、一度登ったことがあり新鮮味は全く感じられないのが残念だ。

あそこがうわさに聞く甲山の好展望地かな

 姫路南ライオンズクラブによる傾き倒れかけた鳥瞰図、ひっくり返ったベンチと荒れている展望所。そして8年前よりも茂った木々が展望を妨げている。展望のために木々が切られるのは嫌だが、8年もするとここまで復活する木々の力が頼もしい。

 ここのベンチで展望を楽しみながら昼食にしようと思っていたが、予定が狂ってしまったな。

展望所の倒れかけている鳥瞰図とひっくり返ったベンチ

 木々の枝葉の隙間からほぼ北方向の姫路城を望むと、姫路バイパスの姫路大橋の向こうに姫路城が覆屋(天空の白鷺)に覆われた姿が見えた。

 黒田官兵衛が親の山城に居候した2年間、毎日姫路城を見つめながら過ごしたのだろうか。

展望所から見た北方向
中央に姫路城の覆屋(天空の白鷺)が見える

12:59
 案内図にあった功山城跡の北東にある磐座(いわくら)へと、削平地の中の行く道を進む。鹿が生息する山は、笹はおろか全ての下草を食べつくしてしまうが、この甲山には笹があることから鹿は生息していないことが分かる。

 ところで妻鹿(めが)という地名は、「昔々、仲睦まじい夫婦の鹿がこの地に住んでいましたが、播磨灘に浮かぶ島には美人な若い雌鹿ばかりが住むと聞き、夫鹿は思わす海に飛び込んでしまいました。島にたどり着いたのか、泳ぎすぎて四国まで行ってしまったのか、二度と帰ることはありませんでした。残された妻鹿を憐れんだ神さまが、この地を妻鹿(めが)と名付けました」というのは、私の創作だが、妻鹿には鹿はいなそうだ。

北東の磐座を目指す

13:01
 山上の全てが城跡だが、姫路南ライオンズクラブの案内は、この先に城跡が存在するという。

 ここも完璧な削平地だな。甲山では、発掘調査をしたことがあるのだろうか。200間年以上にわたる山城の歴史が眠る功山城址を掘り返せば、♪大判小判がざっくざっくざぁーくざく♪ということはないだろうが、なにかは出てくるだろう。

 でも、見た目には削平地以外の遺構は何もない。廃城後に、石垣や建物などは姫路城に運ばれ再利用されたに違いない。姫路城の北10qにある同時代の山城・置塩城も同じ憂き目にあったが、10qの距離が幸いし石垣は残こった。しかし、姫路城の目と鼻の先の功山城は釘の一本、瓦の一枚に至るまで持ち去られたのだろか。

北東の磐座を目指す

13:03
 磐座に着いたが、8年前とは様相が変わっている。もともと展望などはなかったが、木々が茂りまくりまともに写真も撮れはしない。

 姫路市はNHK大河ドラマ軍師官兵衛に関連した事業を、25年度から本格的にスタートし、来年度当初予算案に観光やPR、展覧会などの関連事業費3億2700万円を計上している。その中に甲山整備事業は含まれているのだろうか。山城があったその当時を偲べるように、もうちょっと手を入れてもよいのではと思う。もともと山城造営のため大規模な改変が行われている山なので、整備しても一概に自然破壊とは言えないと私は思う。

山城跡の北東にある磐座
周囲の木々が育ちよく見えない

13:14
 磐座からさらに北へ進むと、道は消え急斜面となる。古の山城跡と言え、本当に削平地などの人工地形以外に石垣などの痕跡がこれっぽちもないな。

磐座の北東で道は消える

13:18
 磐座まで引き返したが、その後、なんか往路とは違う道に入ってしまった。幅広黄色テープのマーキングはあるし踏み跡もあるが、笹がわずらわしい道だ。

 どこに続く道なのか興味もあるしこのまま進むことにするが、笹はわずらわしいだけで進路を積極的に妨害するわけでもなく、藪漕ぎ状態ではない。

往路とは違う道に入ってしまった

13:21
 どこへ続くのか、緩やかな下りが続く。夏なら藪蚊がすごいだろうし、秋になれば蜘蛛の巣がすごいだろうし、冬限定コースだ。

山城によくあるヤダケかな

13:23
 背後にベージュ色の岩の露頭が現れ、進行方向が南に変わる。写真では踏み跡もないように見えるが、明確なものがあり進路を間違えることはないし、逆に踏み跡以外を進むのは困難でもある。

明確な踏み跡を辿っている

13:25
 前方に送電線鉄塔が見えてきて、もう少しでまともな道に出るなと思いきや、最後の最後になって背丈以上の笹を掻き分け進む羽目になった。私の足元を見てもらえば、幅50pほどの笹が生えてない踏み跡が見えると思う。前が見えないような笹薮でも、踏み跡さえあれば通過は容易でなんてことはない。

踏み跡さえあれば前が見えないような笹藪も問題ない

13:27
 ひょこと出たのは、送電線鉄塔「飾磨港加古川線15」のすぐ東側の送電線巡視路。但し、巡視路側から見て、私が出てきた踏み跡は分からないだろう。

送電線鉄塔「飾磨港加古川線15」の直ぐ東側に出た


お昼ご飯を食べ黒田職隆廟所へ

13:27
 ここまでくれば、あとは下山するだけだ。でもこのまま山から出てしまっては、お昼ご飯を食べるところもないだろし、送電線鉄塔の真下で遅めの昼食にする。刈り取った笹の尖った切り株が邪魔だが、シートを敷けば、尻を優しく刺激するのみ。笹に囲まれて展望皆無だがまあいいか。

送電線鉄塔「飾磨港加古川線15」の真下で昼食

 本日の昼食のメニューは、セブンイレブンの「おにぎり&いなりセット3 395円」、あれ前回のと同じじゃないか。まあ美味しいからいいか。

昼食はセブンイレブンの「おにぎり&いなりセット3」

13:49
 ぱっぱっと素早く昼食を済ませたつもりだったが、自分撮りや、ここまで歩いてきた経路の確認なんかで20分も経ってしまった。

 登ってきたコースで下山するのもなんだし、このまま送電線巡視路を東に下ることにする。

送電線巡視路を東へ下る

13:51
 市川側の甲山は急峻だが、東側はなだらかで、真っ直ぐで緩やかな送電線巡視路を下っていく。

真っ直ぐな緩やかな送電線巡視路を下る

13:55
 木々が覆いかぶさり暗くなってきたが、真っ直ぐな緩やかな送電線巡視路は続く。変化も少なく、歩いていて楽しくなるような道ではない。

真っ直ぐな緩やかな送電線巡視路をさらに下る

13:57
 溝を跨ぐ木板を渡ると人家が近い。地形図だとここから西へ道があり、その先に一軒家があるかのような表現になっているが、実際には道はなく笹が茂っていいるだけだ。

溝を跨ぐ木板を渡る

14:00
 こんなところに出てきたが、東へ行くと御旅山の北側登山口があり、眺めは甲山の何倍もよい御旅山頂上経由で妻鹿駅に戻るのがハイキングとしてはベストプランだ。

 でも、今日は黒田官兵衛ゆかりの山シリーズなので、ここから西へ進み官兵衛の父・職隆の廟所を訪ねることにする。

ここも甲山の登山口だが、あまりお勧めできるコースではない
東へ進めば御旅山の北側登山口があり
西へ進めば荒神社に戻る

14:13
 黒田職隆の墓所は、住宅地の中の袋小路の先にあり、事前に十分な調査をしなければ行き着くことは難しいが、妻鹿駅にある「黒田官兵衛ゆかりの妻鹿の史跡を訪ねましょう」パンフレットが手元にあればなんとかなるだろう。

 で、ここが黒田職隆廟所の入り口で、中央左側のお堂が廟所だ。

黒田職隆廟所への入り口

 廟所の入り口には、平成17年7月に建立された「筑前さん参道」と刻まれた石柱が立っているが、もう廟所は目の前で道案内の役にはたたない。

 石柱の傍に置かれている青いのは、ゴミ集積所に掛けるカラス・野良猫除けの網だ。姫路市は全国でも数少ないゴミの夜間収集を行っているが、ここ妻鹿地区はどうなのかな。

袋小路入り口の「筑前さん参道」石柱

14:15
 ここが「黒田職隆廟」。横の住宅のお犬様が、むやみやたら私に吠えまくり墓参りの情緒がどこかに飛んで行ってしまった。石柱の裏側には次のように、お堂を修復した経緯が刻まれている。

黒田職隆廟

本廟は黒田職隆の墳墓で筑前さんの尊称で地区住民に親しまれて来ましたした。近年損傷甚だしく妻鹿町の史蹟として永久保存することななり住民各位の浄財と篤志家のご協力で修復致しました。

昭和52年2月 妻鹿町総代 柳田久二

 ここまでにもあったが、軍師官兵衛大河ドラマの幟と、「筑前さん墓前祭 妻鹿町文化財顕彰保存会」と染め抜かれた幟も旗めいている。

 そしてこれがお堂の中に祀られた五輪塔で、黒田職隆の墓石だ。暗いお堂の中がこんな風に撮れるわけはなく、合成し修正を加えたものであることを断っておく。

黒田官兵衛の父・黒田職隆の墓

 廟所の中に姫路市教育委員会の解説板があり、国府山城(功山城)を英語表記で「KOYAMA castle」としている。

黒田職隆廟所 解説板

黒田職隆廟所

 俗に「筑前さん」と呼ばれ、妻鹿筑前さんの五輪塔で知られる。角礫質凝灰岩製で風化がひどく、刻銘は現在判読困難な状態であるが、地輪正面に「天正一三酉 大禅 満誉宗円 定門 八月廿二日」、地輪左側面に「黒田□□」の刻銘があったことが報告されている。
 『寛政重修諸家譜』の黒田系図・黒田識(職)隆の条に、法名を宗円、天正13年8月22日に62歳で死去の記載があり、この塔は黒田職隆の墓塔であると考えられる。
 黒田職隆は御着城主小寺氏の重臣・重隆の子で、黒田官兵衛孝高(如水)の父である。羽柴秀吉の播磨侵攻にあたり、黒田職隆・孝高親子は天正8年(1580)姫路城を秀吉に譲り、妻鹿国府山城(功山城)に移ったといわれる。

平成13年7月 姫路市教育委員会 姫路市文化財保護協会

14:22
 犬も吠え疲れたのか、諦めたのか、ようやく静かになった黒田職隆廟所をあとにする。こういった初見の町歩きには、山歩き以上にGPSが役に立った。

14:30
 妻鹿駅に到着。

妻鹿駅に戻ってきた

 次回の黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第二弾として、官兵衛の祖父・重隆ゆかりの広峰山を訪ねようと思うが、その次なる第三弾の目途が立たない。これでは三日坊主ならぬ二山坊主になってしまうかもしれない。



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