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黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第二弾
「広峰山」



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平成25年3月2日(土) メンバー 私だけ

北平野バス停〜裏坂参道〜広峰神社〜表坂参道〜広峰バス停


黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第二弾は広峰山

 黒田官兵衛の出自は定まっておらず、近江佐々木流黒田氏と、播磨黒田氏の2説以外にもいろいろな説があるという。黒田官兵衛の祖父・黒田重隆は、西播最大の大名小寺政職に仕える前は、どこからかやってきて広峰神社の御師屋敷に寄宿しながら神社信仰地域を巡り神札を配布し、御初穂料を得ていた。神札とともに黒田家秘伝の目薬「玲珠膏」の製造販売も行って、巨万の富を蓄積したというが、本当だろうか。

 その秘伝の「玲珠膏」が本当に眼病に効くなら、今でも通用するだろうがそんなものはなく、樹皮に有効成分があるというメグスリノキから健康茶(食品)が作られ販売されているだけだ。

まあ官兵衛の祖父と広峰神社の関係がなくとも、姫路城で生まれた黒田官兵衛は毎日広峰山を眺めていただろうし、きっと登ったこともあるはずだ。そして、京都の八坂神社の本宮たる広峰神社に参拝しないはずはない。

 なお“広峰”は、“広峯”とも“広嶺”とも“廣峯”とも表記されるが、その違いを理解できていないし、使い方を間違うのを避けるため、すべて“広峰”と表記する。

今回の山行図
(iPad+GPSレシーバーGNS1000+FieldAccess HD)

 高い木立に挟まれてる裏坂参道では、GPSレシーバーGNS1000は全くGPS衛星の電波をとらえることができずに、麓の天満神社の登山口から広峰神社まで一直線で補完されている。

 しかるに、スイッチを切り忘れた帰りのバスの車中で、受信している不思議さ。山登りには不向きだが、オフライン地図表示・マップマッチング機能のある地図アプリ(インクリメントのMapFanなど)と連携すると、iPadが十分に実用的な音声案内付きのカーナビになる。


北平野バス停から裏坂参道で広峰神社へ

 広い地域から信仰されてきた広峰神社へは、四方八方から参道が登ってきているが、今回は北平野奥垣内からの裏坂参道を登り、白国への表坂参道を下ることにした。きっと黒田官兵衛も登ったルートだ。

9:46
 神姫バスの北平野バス停で下車。

 姫路駅(北口)から、神姫バスの3・5・11系統姫路獨協大学・大寿台行きに乗ると、このバス停にこられるが、3・5系統は姫路城前で東へ、11系統は西へと分かれてしまう。経由地も大幅に違うが、どちらもこの北平野バス停を通る。その辺の詳しいところは「神姫バスのぞみNAVI」で調べることもできるが、多少の土地勘がないとバスを乗りこなすのは難しい。

神姫バス北平野バス停で下車

 北平野バス停から北へ進むと、信号のある交差点でバス通りは西へ曲がるが、狭い道が北へ続いていて、その先に広峰神社裏坂参道の起点となる天満神社がある。

9:59
 行く手が大池の築堤に遮られ、道は左に曲がり、二つの溜池(北平野大池)の西側に沿う道を進む。

二つある溜池沿いの道を進む

10:02
 上池と下池の間に地蔵堂があり、横にはスペースもあるが、カラーコーンとトラロープで閉鎖されている。この先にも、前にも適当な駐車可能な場所はなく、アクセスは公共交通機関(神姫バスあるいはタクシー)を使うしかないと思われる。

下池と上池の間の地蔵堂

10:11
 左手に荒神社、不動の滝行者堂、天満神社若宮大明神のお堂を見ながら進み、住宅地を過ぎるとさらに道は狭くなり、広峰神社裏坂参道入り口に着いたが、その前に、すぐ右横の「学業の神様天満神社」に挨拶をしておこう。天満神社なので祭神は菅原道真ということだろう。死して後も、朝廷・皇族よりも上の絶対上位の存在の神様として、崇め奉らなくてはならない菅原道真とはどのような恐ろしい人だったのだろう。

裏坂参道すぐ横の天満神社

10:13
 ここが、天満神社手前の広峰神社裏坂参道の入り口。基本的に裏坂参道はすべて階段道で、それもコンクリ擬木二段積みで段差が20pもあるもの。画像で白っぽいのは土嚢だが、土砂流失のためというよりは、擬木階段の段差の直前に置いて、土嚢を介して階段を登ることにより、一段の高さを軽減するという、ユーザーフレンドリーなものだ。

広峰神社裏坂参道登り口

 そして、裏坂参道登り口にはいろいろな案内板が立っている。ここに至るまでにも見かけた、北平野自治会による道路駐車禁止の警告だが、「自動車のフロントガラスに警告書を糊で貼布します」は法的に見てどうなのかな。

 糊で貼りつけたら器物損壊になりそうな感じが200%する。法律は、障害物を置いたり鍵を掛けたりして車を移動できないようにする・所有者に断りなく車を移動する・警告の張り紙を貼る(ワイパーに挟むはOK)などの、法的手続きによらない自力救済は駄目という。被害者自らが時間をかけ費用をかけ法的措置をとるか、泣き寝入りするしかないという、加害者有利ないまの仕組みは間違っている。

参道入り口にあるいろいろな案内板

警告

この道路に駐車されている自動車の持主に、次の警告をいたします。

一.すみやかに、この道路での駐車をやめて下さい。
二.駐車場を早急に確保して下さい。
三.長時間駐車している場合は、自動車のフロントガラスに警告書を糊で貼布します。又、警察へ自動車の撤去を依頼します。

北平野自治会
姫路警察署

10:18
 裏坂参道を少し登ると、背丈ほどの石柱が立っている。入り口にあった「広峰山ハイキングコース案内図にある「八丁塚」で、今から188年前に建てられた丁石の起点となるものだ。一丁は109.09mなので、表記の“八丁”は872.72mとなる。

 登頂記念プレートとマーキング反対派の私にとって、この古からの「丁石」の私的取扱いについては思い悩むところではある。丁石とは姿かたちが天地ほども違うが、木に巻き付けられたテープのマーキングとその役割は完全に一致するので、両者ともにゴミかな〜と、見かけるたびに悩んでいる。

 この裏坂参道は1系統の丁石しかないが、表坂参道は3系統ものが入り混じり、自己顕示欲の強い人たちは昔からいたのだな。

188年前に建てられた丁石の基準点

(正面)
従是 廣嶺山八丁 備中國松山城下 本町下町講中

(右面)
干時文政八乙酉年 二月仲春建之

(左面)
世話人 備中松山 花屋亀助

10:22
 落ち葉のない、掃き清められたかのような裏坂参道は、段差を減ずる土嚢という助けもあり登りやすい。雑木林の中の道は大好きだが、こんな感じの明るい植林も捨てがたい。

 けれども春ごとの、花粉という最悪の相手との、フルボッコな一方的なデスマッチを戦わなければならない私のとっては、スギ・ヒノキは世の中から消し去りたい存在だ。

谷沿いを登る裏坂参道だが意外と明るい

10:28
 小さな流れを渡る木橋の袂に「六丁」と刻まれた小ぶりな丁石が埋まっている。まだ登り始めたばかりの六丁なので、八丁塚から減算式に数値が減っているものと思われるが、これ以外の丁石を見出すことができなかったのではっきりしない。

 麓近くに1基だけあった砂防ダムの近くに「砂防堰堤 降雨において生産されかつ流失される土砂の害を防止する施設。昭和39年水害による。」とあったが、このほとんど水の流れのない谷が暴れだすことがあるのか信じられない。

小さな流れを渡る木橋

10:29
 道端に竹箒と熊手が木に括り付けられている。箒を逆さにするのは「早く帰れ」のサインだと聞くが、逆さ熊手ははそのような意味があるのかな。

 思わず変な妄想に憑りつかれたが、これは地元の篤志家が参道を掃き清めるために用意しているもので、縁起物を付けた熊手は割り竹を上に向けるように、この逆さに見える熊手はこれが正式な置き方だな。

熊手と箒の正式な置き方??

10:32
 竹箒で掃き清められた参道を登るのは気持ちよい。だが、足に優しい白い土嚢は、画像ではそれほど目立ってないが、実際に目で見るとその自己主張はそれなりに目障りで、できれば黒色の土嚢袋を使って欲しかった。

白い土嚢は目障りではあるが足に優しい
けれども黒色の土嚢袋を使って欲しかった

10:36
 道端に廃材が放置されているが、これは「休堂」が崩壊した跡で、9年前に通った時にはまだ建っていた。

休堂があったところには廃材が残るのみ

 そして、これが9年前の平成16年10月に撮影した在りし日の休堂で、柱が6本あるが屋根は瓦葺きとトップヘビーで筋交いもなく、立ち木にもたれ掛るように少し傾いていたのを思い出した。台風の時なのか、強風であっけなく倒れてしまったのだろう。

在りし日の休堂(平成16年10月に撮影)

10:37
 今度はスコップが吊るされている。土嚢袋に土を入れたのはこのスコップに違いない。

土嚢袋に土を詰めたのはこのスコップだ

10:40
 いろいろな事物があり裏坂参道は面白い。そして25段ほどの激急な擬木階段を登ると、大きな岩が道の真ん中に鎮座している。「牛石」と名付けられた岩で、もともとここに埋もれていた岩が、裏坂参道を開くときに地中から現れたのか、はたまたどこから転げ落ちてきたのか分からないが、これぐらいの岩ならどかすことは容易ではないだろうが、不可能とも思われない。

 地中から現れたとき、あるいは落ちてきたときに、なにか曰く因縁があったのだろう。それとも、どこからか運んできてわざと置いている可能性もあるな。

道の真ん中に鎮座する牛岩

牛岩

これより上は霊地につき牛馬の進入は許されなかった。

10:46
 姫路市内からなら、この裏坂参道が広峰神社への最短ルートであったので、多くの信心深い人々が列をなして登り下りしていたことだろう。今も登山道というよりは、よく整備された参道という雰囲気だが、その当時はさらに整備された石段の道の道が続いていたものと思う。その名残なのか、ほんの数本だけだったが擬木ではなく角柱に加工された石の踏み段が残っている。

だいぶ急になってきたが、もう少しで広峰神社かな

10:48
 石垣と玉垣と石灯籠と石の土台と、石以外のものがすべて消え去った「結ノ神社(天地自然と人との結びの神)」跡だ。

結ノ神社跡

結ノ神社

天地自然と人との結びの神

10:51
 結ノ神社跡の先に、壊れかけた「↓0.56q至奥平野登山口 広峰神社0.34q→」の姫路市が設けた道標があり、その先には208年前の文化2年に建てられた古い石彫りの道標がある。麓にあった八丁塚が188年前のものだから、こちらの方が20年古い。

 彫られている内容は、左は書写山円教寺・姫路市内、右は広峰神社への参詣道であると、誠に大雑把なもので、昔の人々の大らかさが表れている。

208年前に建てられた道標

(正面)
左 志よしや ひめぢ道

(裏面)
右 さんけい道

(右面)
文化二丑年


10:58
 やけに表面が滑らかな石垣が左側に現れ、その先に石灯籠のある「憩いの広場」が見えてくると、裏坂参道歩きは終焉を迎える。

 登り始めてから55分が経っているが、写真など撮らずに脇目も振らずに、黙々と登れば30分ぐらいではないだろうか。

石垣の先石灯籠のある「憩いの広場」が
広峰神社裏坂参道の終点だ

10:59
 憩いの広場入り口に「谷口家の碑」が寝ていて、その碑によると表坂参道側の車道は明治末期に開通したという。車道はもっと新しいものかと思っていたが、明治末期とは以外にも古くて驚いてしまった。

 
憩いの広場入り口にある「谷口家の碑」

谷口家の碑

 谷口家は赤松の一族である。
 赤穂加里屋城主岡豊前守のニ男谷口政治、永禄年中当地に移住廣峯神社神官となり和泉守従五位下に叙せられる。以後子孫代々同社に仕う。
 明治末期に至り十四代徳政は実業界に進出、子孫と共に当地を去るに当り、父祖の慰霊のため姫路市と協力して広峰山の車道を開発、また長子政勝は昭和52年父祖伝来の屋敷並びに山林1万坪を姫路市に寄贈す。
 本所は、その屋敷跡也。

 谷口家は、明治末期に広峰山から下る前は山上に暮らし、広峰神社の祭司を司っていた。そのような家を社家と呼び、広峰山上には数十軒あって、いまの静かな広峰神社とかけ離れた、喧騒に満ち溢れ、毎日が正月三が日の伏見稲荷大社かと見間違うような風景があったと私は思う。

 社家の主を御師と呼び、住む家を御師屋敷といい、そこに居候していたのが黒田官兵衛の祖父・重隆だという。重隆は広峰神社を信仰する村々を巡り、豊作を約束する神札を授け初穂料を得るとともに、自家製の目薬を売りつけ巨万の富を得たという。

 遠い広峰神社へ行かずともそのご利益を得ることができ、その上に広峰神社ブランドの薬効あらたかな目薬を得られるとあって、なけなしのお金を握りしめ競って買い求めたのかなと思うが、なんか嘘くさいな。

 そしてこの木が、目薬の原料となったメグスリノキだ。植樹されてから7年が経つが、成長しているようには見えず細い幹は半分枯れている。土が合わないのか、日の光が足りないのか、ここはメグスリノキの生育条件に反した土地なんだな。

憩の広場の片隅に植えられた「めぐすりの木」

めぐすりの木

広嶺中学校区地域夢プラン実行委員会
平成18年3月植樹

黒田官兵衛ゆかりの 目薬の木

 信長・秀吉・家康に仕えた戦国の知将・黒田官兵衛(1546〜1604)は、姫路城で生まれ、40年近くをこの播磨の地で過ごしました。司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、官兵衛の祖父・重隆が、広峰神社(姫路市を眼下に一望できる広峰山上にあります)で暮らしたとき、「目薬の木」で目薬を作って売り、財を成したと記されています。



広峰神社散策

11:05
 ここが裏坂参道の下り口の憩いの広場入り口で、広峰神社の直ぐ近くだ。

憩いの広場入り口

11:12
 広峰神社本体を訪ねる前に。御師屋敷を見ておこう。広峰神社の社家は、二家しか残っておらず、その一つがここで、最近建てなおされ土塀の一部も新しくなっている。

今も残る広峰神社御師屋敷

11:13
 広峰神社の門前に丁石が三つ立っている。奥右側の一丁と彫られたのは文政8年(1825年)のもので、私が登ってきた裏坂参道のもの。奥左の十八丁は嘉永7年(1854年)ので表坂参道のもの、手前は昭和25年(1950年)の新参道(車道)のもの。

広峰神社門前の丁石

 ようやく広峰神社に入る。神社に付きものの鳥居は、裏坂参道を登ってくるとくぐることはない。

広峰神社 石段の上は隋神門

 平成25年のNHK大河ドラマに便乗した「その男、天下に秘する野望あり 姫路生まれの智将 黒田官兵衛」と染め抜かれた幟が旗めく石段を登る。この黒田官兵衛の幟にはもう一つバージョン「その男、天下に秘する野望あり 2012年大河ドラマ 軍師官兵衛」というのもある。

「その男、天下に秘する野望あり 姫路生まれの智将 黒田官兵衛」

 広峰神社には国指定重要文化財が3点あり、本殿と拝殿と、そしてこの石造りの宝篋印塔(ほうきょういんとう)だ。

 国指定の重要文化財(国宝を含む)は、建築物・美術工芸品合わせて1万3千件ほど、つまり人口10万人に対して1件で、姫路市の人口なら5〜6件あれば御の字だが、実は39件もある。姫路城(6件)と書写山円教寺(11件)そしてこの広峰神社(3件)の頑張りが、姫路市をして「重要文化財たくさんあるぞ市」と言わしているとか、いないとか。

宝篋印塔(国指定重要文化財)

宝篋印塔(国指定重要文化財)

 高さ224p、複弁の反花を刻んだ基壇の上に置かれ、基礎の上端は二段式で各面に輪郭付き格狭間が彫られている。塔身の四面には線刻の月輪内に胎蔵界四仏の種子を刻んでいる。傘は下二段、上六段で隅飾り突起はほぼ垂直で、内に二孤の輪部をまいている。無銘であるが、様式上から室町初期の作品と考えられている。
 この宝篋印塔は広峯神社の背後、俗称「吉備ツ様」と称している地に埋没していたものを現在地に移した。宝珠の一部を欠くが、その他はよくそろい姫路市内の宝篋印塔のうち最もすぐれたものとして貴重な遺品である。昭和28年8月、国の重要文化財に指定された。

姫路市教育委員会

 隋神門をくぐると拝殿(国指定重要文化財)が目の前にある。さすがに山頂のなだらかな広峰山だが、数十軒の御師屋敷に土地をとられ、境内は狭い。

広峰神社隋神門をくぐる

 そしてこれが拝殿で、拝殿の奥に拝殿と同じような幅の檜皮葺の本殿(国指定重要文化財)がある。広峰神社は天禄3年(972年)に近くの小ピーク白幣山から現在地に移り、本殿は平安元年(1444年)に再建されたもので、姫路城(1346年に赤松氏が築城)よりも歴史はずーっとずーっと古い。ちなみにお隣の隋願寺はさらに古かったりする。

広峰神社拝殿

 お昼ご飯を食べようと絵馬殿休憩所に入ろうとするも、窓を閉め切った中で煙草を吸っている人がいる。今時、禁煙でないのには驚いたが、神社としては、決まった場所で吸ってくれた方が防火上管理しやすいのかな。

 彼らが立ち去るまで、絵馬殿の表に掲げられた本山一城氏作の「黒田官兵衛物語」を読む。

 絵付きのわかりやすい文章で、黒田官兵衛の人となりを理解した気持ちにさせてくれた。引用の限界を超えるような感じもするが、ここにその全文を引用しておく。

絵馬殿休憩所の外に掲げられた絵付き「黒田官兵衛物語」

黒田官兵衛物語

企画・姫路鷺城ライオンズクラブ
 平成15年月発行
 作・絵 本山一城

 さあ、始まり、始まり
 姫路が生んだ郷土の偉人、黒田官兵衛の物語が始まるよ。

 さて、黒田官兵衛は戦国時代もたけなわ、天文15年に播磨国姫路城で生まれました。その時、城には雪が舞い、英雄誕生の証しとして人々は噂しました。
 後に、天下人となる織田信長が13歳、豊臣秀吉が11歳、徳川家康が4歳の時でした。
 このころの播州は東に三木城主の別所氏、中央に御着城主の小寺氏、西に竜野城主の赤松氏が勢力を持っていました。
 黒田家は、官兵衛のおじいさんの代に小寺家に属し、家老職を勤めていました。でのその領地は一万石にも満たない小さな領主で、姫路城も今のように立派なものではなく、砦といった感じのものでした。
 官兵衛の父職隆は慈悲深い人で、城の一角に百間長屋を2棟建てて、生活に困った人を養っていたと伝えられています。そうした者の中から、後に黒田二十四騎と呼ばれる勇猛な武将が育っていったのです。
 また、伝説ではありますが黒田家は姫路城背後の広峯神社と提携して、秘伝の目薬を販売して財力を得たとも言われます。

 父の隠居により、官兵衛は22歳の若さで小寺家の上席家老となり、政治に手腕をふるいます。
 また、永禄12年の合戦では小寺家存亡の危機を救いました。詳しく言いますと、この年、東の別所氏と西の赤松氏が手を組んで、小寺家を滅ぼそうとしたのです。
黒田軍は土器山に布陣して夢前川を渡る赤松氏を撃退しました。この土器坂の戦い、青山合戦と呼びます。
 また、別所軍を置塩山に破りました。縦横無尽の働きでした。
 別所・赤松両軍が手を組んだのは、ともに織田信長の上洛の呼びかけに応じたからで、小寺家はその点、出遅れていました。信長をあなどっていたのです。
 それに気づいた官兵衛は御着城の会議で、自分たちも織田家に属するべきだと説きます。

 天正3年秋、黒田官兵衛はわずかな家来を連れ、変装して岐阜城に向かいました。織田信長に会うためです。
 面会に成功すると官兵衛は説きました。
「信長様は上洛されて天下に号令を下されましたが、西国はまだまだ毛利家に加担する者が多く、二股をかけています。わが姫路城を献上しますゆえ、大将を一人さし遣わし下され。そうすれば、播磨国より先は簡単に平定されます」
 官兵衛の弁舌に感心した信長は、
「よくぞ申したぞ。その方の申す由、我が考えと一致する。いずれ羽柴秀吉を遣わそう」
と答えて、自分の愛刀を与え、小寺家が傘下に入ることを許しました。
 その刀は「へし切り」と呼ばれる国宝の名刀で、今は福岡市博物館に所蔵されています。いかに信長が官兵衛を気に入ったかが、お分かりでしょう?
 その後、官兵衛は一人息子の松寿丸を人質に出し、秀吉の居城である近江国長浜城に預けられました。

 天正5年冬、羽柴秀吉は1万5千の兵で播磨国に向かいました。黒田官兵衛は約束通り姫路城を明け渡し、播磨国全土はあっと言う間に織田家の勢力範囲となりました。
 面白くないのは西国の勇・毛利輝元です。兵を国境へ向かわせ、播磨国の大名たちに自分の味方になるよう密書を送りました。
 秀吉がその毛利軍と国境の上月城で苦戦している最中、播州の大名たちが一斉に反旗を翻します。なんと官兵衛の主君である小寺政職までもです。
 秀吉は上月城を放棄して別所氏の三木城を包囲しました。ところがさらに悪いことに、援軍であった摂津国の荒木村重さえも籠城して敵対意志を示しました。
 驚いた官兵衛は村重の籠る有岡城へ向かいます。

 荒木村重は織田軍に包囲されていました。そして、官兵衛が単身説得に入城すると、村重は官兵衛を捕えて地下牢に閉じ込めました。
 そのまま帰らぬ官兵衛に激怒した信長は、
「官兵衛までもが裏切った。人質の松寿丸を殺せ!」  と、家臣の竹中半兵衛に命じます。
「かしこまりました」
 そう答えると半兵衛は長浜城へ向かいました。
 半兵衛は官兵衛を信じていましたが、信長には逆らえなかったのです。
 捕えられた官兵衛はそんなことも知らず、落城まで日の当たらぬ牢の中で過ごしました。その不屈の精神は驚くばかりです。

 やがて有岡城は織田軍の猛攻にあって落城。その日、官兵衛は家臣によって救出されました。
 しかし、牢の中の生活は1年にも及び、全身皮膚病にかかり、左足も曲がらなくなっていました。
 秀吉は近くの有馬温泉で養生することを勧め、官兵衛もそれに従いました。
 有岡城の落城後、播磨国の諸城もことごとく落ちて平定されます。播磨に戻った黒田官兵衛は一万石が与えられ、晴れて大名の一員となります。
 織田信長は松寿丸の殺害命令を悔いましたが、なんと官兵衛の息子は竹中半兵衛の領内である美濃国に匿われていたのです。
 命令違反を咎めようにも半兵衛は、すでに病気で亡くなっていました。松寿丸は後の黒田長政です。
 もし、松寿丸がこの時死んでいたら、後の歴史は大きく変わっていたでしょう。言わずと知れた福岡藩五十二万石の初代藩主となる人物です。

 天正10年、秀吉はいよいよ毛利輝元と雌雄を決するべく、備中高松城へ進軍します。そして、その城を水攻めにしたのはあまりにも有名で説明はいらないほどです。作戦を立てたのは官兵衛でした。
 秀吉は昼夜兼行で土嚢を積み、高松城を囲む3キロの堤防を築きました。一方、官兵衛は足守川に石を積んだ大船を沢山浮かべ、一斉に船底に穴を開けさせました。
 するとどうでしょう?川はたちまち氾濫し、高松城は水没寸前になりました。蟻一匹脱出できない完全無欠の包囲網です。
 助けに駆けつけた毛利軍も、まったく手も足も出せずに悔しがりました。
 水攻めの最中、信長が明智光秀に討たれます。その知らせを聞いて号泣する秀吉を叱咤激励したのも官兵衛です。
 秀吉は急遽毛利軍と和解し、超人的スピードで京都まで逆戻りして、光秀を倒しました。この中国大返しも、官兵衛の土地勘無くしては考えられません。
 その後、秀吉は官兵衛の的確な策によって、織田信長の後継者となりました。文字通り秀吉を天下人に押し上げたのは黒田官兵衛でした。

 天正13年、官兵衛の父である黒田職隆が、亡くなりました。姫路城を秀吉に献上した後、播磨灘に面した妻鹿城を守っていました。別名甲山城とも呼びます。
 職隆の母お岩の方は、この土地の出身の名門でした。先祖を妻鹿孫三郎といい「太平記」で大活躍をしています。その孫三郎の指形岩と呼ばれるものが甲山に連なる御旅山に今でもあります。五つの大きな岩穴です。
 黒田職隆の墓は一門の墓所とは全く別に、その指形岩が見える田んぼの中に建てられました。きっと母親の先祖を偲んでの遺言だったのでしょう。

 父親の亡くなった後。黒田官兵衛は秀吉はから豊前国で十二万石の領地を拝領します。今でいう出世栄転ではありますが、姫路を去らねばなりません。黒田家を慕って移住する商人たちも沢山いました。
 また、豊前国中津に城を築いて領土の地固めを済ますと、官兵衛は隠居して如水と名乗ります。時に44歳、後継ぎ息子の長政は22歳の若さでした。
 いくさに明け暮れた官兵衛は、細川幽斎と和歌を楽しんだり、千利休と茶をたしなむ生活にあこあれたのかもしれません。
 それとは別に秀吉が、
「わしの没後に天下を取る人物がるとすれば、黒田官兵衛しかおるまい」
 と発言したのを聞いて、身を処したという話もあります。
 如水という隠居名は「水の如し」。つまり「天下取りの野望など毛頭ありません」という意志表示でもあったのです。

 天下人の豊臣秀吉が没すると、世の中は騒然としてきました。豊臣の内部分裂です。やがてそれは、徳川家康対石田光成という図式に集約され、美濃国関ヶ原で一大合戦絵巻が繰り広げられました。
 その天下分け目の戦いです。黒田長政は徳川家康に味方して力戦せい、勝ち組となりました5千の兵で勇猛な戦いをしただけではありません。長政は毛利軍の寝返りを裏で画策して成功させたのです。
 黒田家は高松城の水攻め以来、毛利家の交渉窓口を務めていたからこそできた裏技です。
 その結果、黒田長政は筑前国五十二万石の大々名に出世することになります。

 では関ヶ原の合戦時、黒田官兵衛あらため黒田如水は何をしていたのでしょう?実はこの時、ようやく自分にも天下取りのチャンスがめぐって来たと、近臣にもらしたと言われています。
 そして金銀をばらまいて兵を雇い、1万人の軍勢で隣国へ打って出たのです。石田方である豊後国の大友義統は、たまらず降伏しました。これを石垣原の合戦と呼びます。
 ところが、その戦いの決着がついた同じ日、奇しくも関ヶ原でも合戦が終結していたのです。それを知らぬ如水は、家康から中止命令が下されるまで、勝った勢いで九州一円を切り従えました。
 しかし、如水にもとより欲は無く、息子長政が筑前国一国を拝領したと聞き、兵を引き上げました。
 如水はそのまま兵を従えて上京し、関ヶ原で勝ち残った方に決戦を挑む気でいたとも発言しています。誤算は息子の働きで、一日で決着がついてしまったことでした。

 合戦後に長政と面会した如水は、こう語ったと言われています。
「わが息子よ、家康から手を取って感謝されたと聞いておるが、その時左手は何をしていおったのだ?」
 つまり、家康を刺していればもう一度自分にも天下を狙うチャンスが生まれていたという含みです。
 如水は筑前国福岡に移ってからも禁教令の出ているキリシタンを保護するなどしていましたが、やがて京都伏見の藩邸で天寿をまっとうしました。時に慶長9年、59歳でした。
「神の罰は祈りにより避けられるし、主君の怒りは詫びて許される。しかし領民にうとまれれば国家を失うだろう」
 有名な如水の言葉です。こんな人物が天下を取っていたら、今の日本は少しは変わっていたかもしれません。

これにてお終い、お終い。

 煙をはく人々が去ったので、すかさず窓を全開にして風を通し昼食とする。今日のメニューはローソンの「俵むすび弁当04」450円と「ソーセージマヨネーズ」116円、山歩きを始めたころはお弁当を作ってくれた妻その1だが、最近はさっぱりだ。

今日のお昼ご飯はローソンの「俵おむすび弁当04」

そして同じくローソンの「ソーセージマヨ」


下山は表坂参道

12:11
 広峰神社へ至るルートは東西南北から数え切れないほど存在するが「裏坂参道で登ってきたのだから、下るのは表坂参道だな」というお導きに従うことにした。あっちのルートやこっちのルートの方が、表坂参道よりも何倍も面白いのは分かっているが、今日はあくまでも「黒田官兵衛ゆかりの山 広峰山」に登りにきたのだから、官兵衛があるいたであろう道を私も歩もう。

 下山路の最初は舗装道路歩きで始まる。えらい急なヘアピンカーブの道で、この道は官兵衛は歩いてないな。

広峰神社の境内まで車で入れるが、えらいヘアピンカーブだな

12:16
 一般車進入禁止でもないが、この提灯が連なる1車線幅の道の中間地点で向こうから車がやってきたら、どちらかかが延々とバックするしかないな。

このまま車道を歩いて帰ろうかな

12:19
 石鳥居のある駐車場所だ。ここ以外にももう一か所駐車場があるが、満車になることはあるのかな。

普通はここに車を置いて神社まで歩いていく

12:22
 マイクロウェーブ中継塔の立つピークや広峰展望広場には寄らずに、そのまま車道を下っていくと、かつての国民年金保険健康保養センターハイランドビラ姫路(一泊二食8,440〜13,629円)からセトレハイランドヴィラ(一泊二食15,000〜35,000円)に名前を変えたホテルはリニューアル中なのかシートに隠されていたが、営業していないわけではなく、姫路の街並みを背景にしながら披露宴後の写真撮影をする楽しそうな声が聞こえてきた。

セトレハイランドヴィラ(一泊二食15,000〜35,000円)営業中

12:26
 このまま車道を下ってしまっては表坂参道ならぬ、新参道下りになってしまう。どこから表坂参道に入るのか記憶になかったが、セトレハイランドヴィラの駐車場の下に階段を見つけた。ここのような気もするけれども、何一つ案内はない。とりあえず下りてみよう。

セトレハイランドヴィラ下の階段を下りてみる

12:29
 階段を下りると、そこは表坂参道だった。道端の電柱に巻き付けられた表示板に「表坂梨ケ谷国有林借受地 用途 電柱及電線路 面積 0.0014HA 借地期間 自昭40.4.1 至昭45.3.31 借受人 関西電力姫路営業所長」とあり、表坂参道に間違いなく、この谷の名前が梨ケ谷だと分かった。でも、借地期限から33年が過ぎようとしているが大丈夫なのだろうか。

 というか、木製の電柱の寿命が38年もあるのか心配になるが、木材の寿命はその木が生きてきた樹齢とおなじだと聞いたことがあるので、まだまだ大丈夫だろう。

階段を下りたら表坂参道

12:31
 測量のマーキング跡が至る所に残されているが、この表坂参道の改良工事でも始めるのだろうか。そして裏坂参道では目立たなかった、あるいは消滅していた丁石が、表坂参道にはたくさん残っている。

18/9=0.5 ここが中間地点なのだろうな

12:35
 裏坂参道はよく整備され、篤志家によって綺麗に掃き清められていたが、表坂参道はほったらかしで落ち葉も積もっている。歩きやすさから言ったら裏坂参道なのだが、この表坂参道の方が古の参道の雰囲気を色濃く残していると思う。

黒田官兵衛はこの表坂参道も歩いたに違いない

12:38
 この五丁の丁石は折れてしまったのか、短いな。

五丁通過

12:42
 広峰神社にあったものもそうだが、嘉永7年(1854年)の丁石には将棋の駒が彫られている。この丁石には「香車」と「と」が彫られているが、将棋が大好きな人が建てたことだろうが、柔らかそうな石なのに159年経っても駒の輪郭線が消えないのがすごいな。

四丁の丁石、赤いのは測量跡

石仏が彫られたのは見るが、将棋の駒は見ないな

12:47
新参道を横切る手前に、裏から見ると平屋、表から見ると2階建ての廃屋がある。ここに住んでいた人は、この地に愛着があったのか、廃屋の庭に二基のお墓がある。新しい花が手向けれれていたが、よく見ると造化だった。

新参道脇の廃屋

 以前はこの廃屋の前に廃バスが鎮座していたのだが、今はもうない。平成16年に訪れたときは、廃バスとともに愛想のよい三毛猫が出迎えてくれたのだが、きょうは誰もいない。

平成16年11月6日に撮影した広峰山の廃バス

12:50
 表坂参道は廃屋の下で新参道と交差し、さらに続いている。

 ここまでは誰も通らないのかゴミの一つも落ちていなかったが、新参道と交わった下は、道路から投げ捨てられたのかゴミが目立った。

廃屋下で表坂参道は新参道と交差する

12:52
 道と道端と周囲の境界がぼやっとした道だ。道端の草を刈っているように見え、手入れをしていないわけではない。

もう少しで表坂歩きはお終いだ

12:54
 電柱も表坂参道とともに下ってきたが、この電柱には古い標識とともに「兵庫森林管理署神戸事務所 許可番号12兵事第152号 期間自平成12年4月1日至平成27年3月31日 広峰3」というのも付けられていて、借地契約の更新は正しく続けられていることが確認できた。

 電柱の右に立つ丁石にも将棋の駒が二つ刻まれている。一枚は「角行」と分かるが、もう一枚は四分の一ほどしか見えず種類は分からない。この刻まれた駒の種類と丁石の数字には、何かの関連性・法則が隠されているような気がする。その謎を解き明かすと、将棋の神様にあえるとかなんとか言い伝えがあったりして。

表坂参道のお友達 電柱と丁石

12:57
 「登山口は神社の奥」という法則は、裏坂参道では天満神社が証明したが、この表坂参道でも成り立つ。まあ神道系統ではないが、仏教系新興宗教の「宗教法人 平等大慧會大行法支部道場」の脇から表坂参道が始まっている。

表坂参道は「宗教法人 平等大慧會大行法支部道場」の脇から始まる

12:59
 そして、参道の入口の丁石は4個あるように見えるが、一番左のものは、私には読み取れなかったが「白国古墳跡」の石碑のようで、丁石は3個だ。

 丁石は左から昭和25年、大正14年、将棋の駒が彫られた嘉永7年のもので、年代順に並んでいる。

表坂参道に並ぶ三つの丁石

13:03
 丁石の写真を27枚も撮ったり自分撮りしたりしてから、目の前に見える広峰バス停へ行き時刻表を見ると、なんと1分後に姫路駅(北口)行が来るという。

 どこかで数分余分に過ごしていたら、次のバスまで2時も間待たされるところだが、二つ南の白国南口バス停まで行けば1時間に3〜4本の姫路駅(北口)行があるので、そんなにも待つこともない。

神姫バス広峰バス停に到着後1分で姫路駅(北口)行のバスがやってきた
超ラッキー!!

 参道入り口付近には適当な駐車場所はないが、車道をさらに奥に進み広峰神社への新参道が左にカーブするところを、北に入ると車を路肩に止めることができる。



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