黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第三弾
「篠の丸城址」
スポンサード リンク
平成25年3月30日(土) メンバー 私だけ
神姫バス山崎待合所〜篠の丸城址〜最上山公園〜千年藤〜青蓮寺〜山崎待合所
黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第三弾は篠の丸城址
来年のNHK大河ドラマが、姫路の生んだ「軍師官兵衛」に決定したことを記念して始めた「黒田官兵衛ゆかりの山」シリーズが、今回でめでたくも第3回目を迎えることができた。1回目、2回目は姫路市内の山だったが、今回は宍粟市山崎町を訪れ、その街並みの後背の山、篠の丸城址に登ってみた。
黒田官兵衛は、戦功の褒賞として秀吉より山崎の地を知行地として与えられ、居城を篠の丸城とした。だが、その城主であった期間はほんの数年で、その上、黒田官兵衛は秀吉の軍師として、ともに各地を転戦したため、山崎の地に黒田官兵衛のエピソードは、何一つ残っていないという。
登山口は山崎八幡神社
宍粟市山崎町は鉄道こそ通ってないが、東西交通の要の中国自動車道が横切り、山崎インターチェンジが市街地のすぐそばにある。そして南北に国道29号線が貫き、車さえあれば交通の便はよい。
しかし公共交通機関至上主義者たる私はバスで行く。姫路駅から山崎行の神姫バスは1時間に1・2本あり、所要時間は1時間ほどで料金は片道1,110円。1時間のバスは小旅行気分に浸らせてくれる。
9:41
終点のバスターミナルは「神姫バス山崎バス待合所」といい、広々とした待合室とトイレ、そして定期券発売窓口を持つ。平日は神姫観光山崎案内所、そして土・日・祝日は宍粟市観光案内所に変わる施設を併設している。
GPSのセッティングを終え、篠の丸城址の登山口の一つ山崎八幡神社へと、千種町へ続く道を西へ歩み始める。
山崎鹿沢郵便局前を過ぎ、次の十字路の北を覗き込むと石段が見え、そこが山崎八幡神社だ。
9:53
路地の奥、緩やかな石段の先に山崎八幡神社が鎮座している。
緩やかな石段を登りきると隋身門があり、左右から雛祭りの右大臣・左大臣を大きくしたような人に見つめられながら通り抜ける。
さらに緩やかな石段を登り詰めると拝殿・本殿・能舞台のある境内に出た。この神社に来た最大の目的は、樹齢700年以上といわれるモッコクを見ることなのだが、どこにあるのだろう。
モッコクはどこかなと絵馬殿・拝殿・本殿をぐるりと回りようやく見つけることができた。絵馬殿の右横に、三方を柵に囲まれた砂利敷きのおそらく自動車用の祈祷場があり、その奥にモッコクが玉垣に守られて茂っていたが、周囲の木々とモッコクが同化して見分けることができなかったのだ。
樹齢700年以上といえどもモッコクの性質として見上げるような巨木になるわけではなく、樹高13mほどのものだ。だが、モッコクとしては大きなものと思われる。
県指定文化財 山崎八幡神社のモッコク
指定年月日 昭和52年3月29日
所有者・管理者 山崎八幡神社樹高 13.0m
幹回り 2.0m
枝張り 東西約12.4m 南北薬12.4mこのモッコクは、地上3m付近の樹幹から8本の支幹が生じ、半球形の樹冠を形成している。
元来、モッコクは暖地の海岸地方に自生するツバキ科の常緑木で、成長の遅い木であるが、当地方における樹形の大きさや植生などで、学術的価値が大きい。
社伝によれば、本樹は応仁元年当社鎮座以来500年間神木として保存されたとある。平成3年11月 兵庫県教育委員会
緑の募金によるふるさと巨樹保存事業
この巨樹の治療は、緑の募金を活用して実施したものです。
平成17年12月15日(社)兵庫県緑化推進協会
宍粟市教育委員会
10:11
篠の丸城址への登り口は八幡神社の東側下の弁天池から始まり、案内図によると近くに駐車場もあるようだ。弁天池からの登路には、八幡神社境内の東側からも入れる。
ここからは紅葉で有名な最上山公園となり、コース案内板が要所要所にあり道に迷うことなく、篠の丸城址までの残距離を彫った道標に励まされながら登る。ちなみに、ここの道標は「篠ノ丸城址 妙見堂 千二百米」と彫られている。
紅葉で有名な最上山公園の園路を登り篠の丸城址登り口へ
10:16
重機で切り開いた、身も蓋もない園路(遊歩道)でヒンキの植林地の中を登っていく。こんなにも山肌を削り取らなくてもよいのでないかと思うが、公園内遊歩道に関する基準というか決まりというか、そんなものが存在するのだろう。
かつての登山道の名残のような、踏み跡のようなものがちらほら見えるが、遊歩道はその幅を保ったまま続いている。
10:22
この先で道は左右に分かれているが案内も何もなく、左右ともに整備された道で、どちらに進めばよいか悩んだ末に、左側の方が少しだけよさそうなので進んでみた。でも、すぐ先で合流していて私が悩んだのは悩み損だった。
10:26
悩み道が合流した先にこの休憩所があり、案内図によれば「いこいの広場」の南端で、北端は車道に接している。
10:27
休憩所とベンチと、そしてトイレのある「いこいの広場」はただそれだけで、遊具があったり、眺めがよかったりするわけでもなく、桜が少しだけ咲いているだけだ。
10:29
最上山公園を形作る尾根を横切る車道があり、いこいの広場から少し車道を東へ進むと、篠の丸城址への登り口がある。
その車道への出口には、旧山崎町の町花「さつき」を広めた樽岡定二氏の顕彰碑がある。山崎町(ツツジ)は一宮町(キク)・波賀町(キク)・千種町(ドウダンツツジ)と合併し宍粟市(ササユリ)となった。ちなみに宍粟市のマスコットキャラクターのしーたんもササユリをモチーフにしているという。
樽岡定二先生顕彰碑
さつきの碑樽岡定二氏は明治31年神戸市に生れ大正11年に山崎町に移られ写真業の傍らさつき栽培を趣味とされ広く地域にさつき栽培を指導普及され町花さつき選定の基を築かれたことにその功績を末長く顕彰いたします
昭和54年5月吉日
篠の丸城址へ登るぞ
10:32
車道をほんの少し東へ行くと、篠の丸城址への登り口だ。ここにもコース案内板があり、篠が丸城址までの残距離道標は六百米となっている。丁度ここが、山崎八幡神社と篠が丸城址の中間地点となる。それら以外に「左 八幡神社 右 妙見宮」、「史跡 篠の丸城跡」、「山道の思いでのこすさくらかな」と彫られた道標・石碑もある。
篠の丸城址へ登る一般的なルートはこれしかなく、帰りは同じ道を下ることになる。
10:36
妙見宮の扁額が掲げられた石鳥居は昭和35年に建てられたもので、かつて城址には妙見宮があったというが今は残渣が残るのみ。
10:40
登路はよく整備されているというか、され過ぎているというか、特に言及することもない。ただ、なぜか道沿いに街路灯のある電柱が立っている。電柱番号札の確認を忘れ、いつ建てられたものなのか分からないし、街路灯以外の送電先を確かめることも忘れていた。
この電柱は鋼管柱なのだが、こんな山道に穴掘建柱車を乗り入れることはできず、すべて人力で建てなければならない。こういう場所で活躍するのが差し込み継ぎ足し式で高さを稼ぐパンザマストで、この電柱の場合3分割で搬入され建てられている。
このパンザマストは防災行政無線設備に利用されることもあり、日本のとある地域では防災行政無線放送そのものをパンザマストと表現し、さらに児童生徒に帰宅を促す時報をパンザマストと呼ぶという。「パンザマストが鳴ったら帰りましょう」とか、どこかで意思疎通の齟齬があったのか、伝言ゲームでもしたのか、面白い。
10:43
この園路も公園内の遊歩道基準に縛られているのか、大きく九十九に登っていく。その折り返し回数を数えてみたら10だったので、九十九折れというよりは十折れの登りと言った方が正確かもしれない。
いづれにしても、緩やかな登りであることは間違いなく、登山という雰囲気は味わえない。
10:47
周囲を木々に囲まれた道は展望はないが、折り返し地点の一か所だけが窓のように開かれ、東側の揖保川やその先の山々を望める。
10:53
篠の丸城址まであと「百米」の道標だ。もう少しだ。
10:56
着きました。篠の丸城址に。私の背後の休憩場からなら、それなりの展望があるかと思うが、先を急ぐあまり寄らず、下山時にも素通りしてしまい返す返すも残念無念冷素麺。
篠の丸城址のあれこれ
山頂は、これぞ山城跡といった風景の平坦地。周囲の木々に遮られ展望は皆無。
私の後ろに立つ石柱は「昭和19年1月 登山一千回記念」。今から69年前の大東亜戦争真っ盛りの、勝ち戦から負け戦に転じるころ、誠にのんびりした人もいたもんだ。いつから登り始めたかは分からないが、千回も登って、そして重かっただろう千回記念石柱を担ぎ上げるとは、いつの世にも高尚な趣味人がいるもんだ。
そしてこれが山登りガイドブックによく出てくる「篠ノ丸城址」石碑。後ろに左側にかすかに見えるはトイレ。はたしてその最終処理はどうしているのか、まさかバイオトイレではないだろうし。
滑り台と鉄棒だけだけしかないが遊具もあります。滑り台に溜まっていた薄黄色ポイ粉末は、今を時めくヒノキ花粉だったのかな。お尻を叩いたらきれいになくなったが、きっと花粉だったんだろう。
石碑がまとまって建つ一角があり、左から「南無妙法蓮華経 篠ノ丸城守護之善神」昭和55年、「南無妙法蓮華経 篠ノ丸城一族ノ精霊 □□□縁法界万霊 鎮魂碑」昭和54年、「山開 三十周年記念碑」昭和42年、「開運殿開山五十周年 風と光と花と鳥」昭和62年で、左側の2基は黒田官兵衛以前の赤松氏一族などを祀るもので、右側2基は昭和12年に開かれた妙見堂関連のもののよう。
左側2基の奥の小さいのは「登山一千回記念」、私の後ろのは「三代目 一本松」。その昔は大きな松が一本あり、この地を「一本松」と呼んだが、一代目はるか昔に、そして植えられた二代目・三代目も枯れてしまい今はない。
昭和12年に開かれた妙見堂は、いまはその礎石と石灯籠を残すのみで、礎石の上には、後補の妙見大菩薩と彫られた小さな石社がある。
本丸跡の写真を撮り終えるころ、地元の毎日登山者のおっちゃんが登ってきて、この城跡のこと、姫路周辺の移り変わり、若いころの思い出、退職後の生活の指針、山崎の隠れた名所などなどの話題で盛り上がり40分も話し込んでしまった。
11:53
お昼近く、下山していったおっちゃんを見送ったの後、西側の休憩場でお昼ご飯でも食べようかなと移動する。その手前のジャングルジムに登ってみるが、ただ置かれているだけで地面に固定されてなく、外側から登ると傾いてきてびっくり。
西側のログハウス休憩場は床と階段が新調されているが、上屋をどうやって持ち上げたのだろうか。それとも一旦分解したのだろうか。
休憩所前にはベンチが置かれ、山崎の街並みがよく見える。「うん、ここでお昼ご飯を食べよう」
昼食の前に、西端を偵察しておこうと行ってみると「←篠の丸」の案内板があり、堀切なのか急な下りになっている。この案内板が言う「篠の丸」とはここから北西の尾根伝いの4.5qほども先にある、512.2m三角点標石(点名:上牧谷)があるピーク(宍粟50名山になっている)を指しているようだが、その山は以前は戸倉山という山名だったはずなんだけど。
私は、この篠の丸城址が歴史的にも地形的に見ても「篠の丸」の頂上だと思う。確かに、この山塊の中での最高標高地点は、4.5qも離れた512.2m三角点標石がある地点だろうが、一番高い地点が頂上とは一概には言えない。ピーク至上主義というか三角点標石信奉というか、困った風潮だ。
12:02
4.5q先の戸倉山に行った日には今日中に姫路まで帰れるか怪しいし、私的にはここが篠が丸なので、当然ながら戸倉山にはいかず、西休憩所前の展望ベンチで昼食にする。
本日の昼食はローソンの「関西限定 おかげさまでロングセラー商品 俵むすび弁当 魚の骨に注意してお召し上がりください。450円」と「とっておき宣言 シーチキンマヨネーズ ツナの旨みとオニオンマヨ 105円」と私のピクニック定番メニュー。あと本日の出費は500mlペットボトルのお茶1本と、姫路山崎往復交通費(神姫バスエコ定期)200円で、合計900円。これで一日遊べるんだから安いもんだ。
ちなみに本日の非常食メニューは「森永乳業 加糖れん乳(コンデンスミルク)130g」と「大塚製薬 バランス栄養食 カロリーメイト ブロック(メープル味)80g」と「森永製菓 ウイーダinゼリー エネルギーイン 果汁3%180g」、それから非常飲料として500mlペットボトルの天然水と合計900gほど。今日のような山行形態なら必要ないかと思うが、一度だけお昼ご飯を仕入れずに登ってしまったことがあり、その時の非常食、非常飲料の大活躍が忘れられず、少々重くなるがいつもザックに入れている。
下山するぞ
12:32
ここが六甲山や書写山ならケーブルカーやロープウェイで下山できるが、この山は自分の足で下りなければならない。黒田官兵衛のくの字も出なかった篠の丸城址だったが、山崎町に彼のエピソードは一つも残っていないというし、仕方ないな。
12:46
下りるのはあっという間だった。14分で車道まで下りてきてしまった。
この車道を、もう少し東へ下りると最上山公園の駐車場がある。
12:48
最上山公園には園路が網の目のように張り巡らされているが、東端沿いに千畳敷から百畳敷、そして尼ケ端の展望台と行こう。ここから先にはたくさんの歌碑があり「文化のこみち」と昭和の香りがする名前が付けられている。
ひょうご森林浴場(最上山公園)
山崎町中心部の背後にある山で、早朝登山の人も多い。山頂の篠之丸城跡は秀吉の播州攻略のおり、落城したといわれ今は石碑が残るのみである。八幡神社からはヒノキ、恵比寿神社からはシイ、カシの林の中を登る。途中中腹からはヒノキ、アカマツ林、城跡への急坂はコナラの道となる。そのほか、サザンカの道、桜の道もある。最上山公園からは山崎町の街並みや揖保川を一望できる。
この案内板は緑の募金により整備しました
12:51
最上山公園といえばモミジの名所として有名だが、今の時期は若葉の紅葉はあるがモミジはない。従って人はいない。
12:53
ブランコと滑り台と東屋のある千畳敷、ここも山城の曲輪跡のように見えるな。
千畳敷には誰もいない。猫の子一匹いない千畳敷で戯れる私は、変なおじさんだろうか。いや、すごく変なおじさんだ。
12:59
千畳敷から百畳敷へ下る階段道。階段の部材が余ってしまったのか、それとも私みたいな変な人が設計したのか、こんなにクネクネしなくても真っ直ぐでも大丈夫だと思う。
13:02
ここは百畳敷。親子が遊んでいて、変なおじさん写真を撮ったら、本当の変なおじさんになりそうなので、そそくさと通り抜ける風な自分撮り1枚だけでしたが、変な人を見る目をしていたな。
13:04
「文化のこみち」の名に負けないように、歌碑だけではなく、ところどころに彫刻が配置されている。でも、どれもオリジナルではなく複製品で、おまけにFRPの張りぼての物さえある。野外彫刻大好きの私でさえも、ちょっとどうかなと思うものばかりで、どういう経緯でこんなのばかりになってしまったのか興味がある。
全ての彫刻を見たわけではないので、中には良いものもあるのではないかと思うし、FRPの張りぼてといえど世の中にはオリジナリティあふれる秀作もあるので、一概にFRPが悪いわけでない。
13:07
最上山公園の最後は尼ケ端の展望台だ。戦国時代の武将が闊歩していた時代には、この地に展望台ならぬ物見櫓が建っていたという。でも、目の前の展望台は、西洋城の尖塔を模したもののようで、なんか違和感があるな。
展望台の傍らにはこの地のいわれを伝える石碑があるが、いかに嫌われ者の悪代官といえど裁くことなく、いきなり首をちょん切り鼻を削ぐなど、今の世に生れてよかったなと思う。
かの水戸光圀でさえ、助さん格さんの「この印籠が目に入らぬか」でひれ伏せ捕えたのち、司法当局に身柄を引き渡し適法に処分させるという、めんどくさい手続きを毎回しているというのに、戦国時代は怖い。
史跡 尼ケ端(鼻)
天文の昔、出雲の尼子氏中国を征圧し、播州をも攻略す。因って山前邑にも砦を築き、この山端に物見櫓を設け、宇野勢の動きを監視す。
邑人此の山端を尼子が端と称したり。其後永禄4年安芸の毛利氏尼子の本城富田城を攻め滅ぼす。機をしせずして宇野氏も尼子の砦を急襲し、悪代官江津の四郎の首を取り鼻を削ぎ此の処に梟首せり。以来邑人此の山端を尼ケ鼻と言えり。山崎郷土研究会 平成10年10月
展望台のらせん階段を登る前に、1階からの眺めを紹介しよう。少し木が邪魔をしているが、市街からの比高は60m以上あり、20階建てのビルの屋上から見る景色と同じで、十分展望を楽しめる。
らせん階段を21段登ると2階への出口だ。20階から21.5階ぐらいになっただけだが、周囲の木々の梢と同じ高さになり眺望は広がり、3階はさらによい展望が期待できる。
さらに22段のらせん階段を登ると、23階相当となり、周囲の木々に視線を遮られることなく眺望を楽しめる。
おまけ
13:17
最上山公園の西裾は、薬泉寺・恩沢寺・妙勝寺・大雲寺とお寺が南北に隣接し、その山側は一大墓地となっている。写真にはその様子は映っていないが、少し変わった風景だった。
最上稲荷山経王院横を通り下りきった先は、住宅地の間の車も入れない狭い路地で、案内も何もなかった。
13:34
お寺の東側の道を北に進むと、千年藤で有名な大歳神社だ。ただし見ごろは5月上旬ということで、今は葉っぱもない冬枯れの姿ではある。でも、満開のフジはその時期に行けば誰でも簡単に見ることができるが、この冬枯れのフジは強い意志を持つものの前にしかその姿を現さない。
兵庫県指定文化財(天然記念物)
大歳(ださい)神社のフジ
指定年月日 昭和47年3月24日
所有者・管理者 (宗)大歳神社
員数 1本大歳神社は山崎町上寺鴻ノ口に鎮座し、大歳神・上筒之男命を祭神とする。境内のフジは天徳4年(960年)、上寺村の与右衛門という人物が植えたと伝えられ、地元では「千年フジ」と呼ばれている。
フジ(ノダフジ)は、マメ科フジ属のつる性落葉木本であり、本州・四国・九州の山野に分布する。幹は著しくのびて分枝し、右巻きに他物に巻き付く。5月頃には、蝶に似た形の紫色の花を咲かせ、花穂は80〜130pの長さにまで垂れ下がる。
大歳神社のフジは、根回り約3.8m、目通り約3.7m、樹高約3mになる。枝張りの面積は300平方m、棚全体では境内のほとんど(500平方m)を覆い尽くすほどであり、全国にある国指定文化財クラスのフジと比べても遜色ない大きさである。
花の見ごろとなる5月上旬には毎年「藤まつり」が開催されており、平成13年11月には環境省より「かおり風景100選」に認定された。平成25年3月 宍粟市教育委員会
13:51
もう一つのおまけは、篠の丸城址で出会ったおっちゃん推薦の寺「青蓮寺」だ。本堂は瓦屋根も漆喰も真新しく、最近建て替えられたように見えるが、柱などを見ると建立由緒書に書かれれているように築300年以上の雰囲気がある。
本堂前に大きな常香炉が据えられているが、今日はお香は焚かれてなくお休みだ。いや違うな、お参りに来た私が賽銭箱に浄財を投じ香を焚かなければならないんだ。でもこの常香炉の紋、どっかで見たことがあるな。
「この紋所が目に入らぬか! こちらにおわすお方をどなたと心得る! 恐れ多くもさきの副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!! ええい、頭が高い!!! 控えおろう」で有名な、徳川家の三つ葉葵の紋ではないか。
なぜ、江戸から遠く離れた山崎のお寺に三つ葉葵の紋があるかというと、徳川家康の最初の側室だった西郡の方の娘・督姫が姫路城主となる池田輝政の妻となり、督姫が母・西郡の方の菩提を弔う寺を姫路に建立した。そして輝政の四男・輝澄(徳川家康の孫になるな)が山崎藩主になるとともに、なぜか青蓮寺も山崎に移され今に至る。
というわけで、青蓮寺の軒瓦も三つ葉葵だらけになっている。
青蓮寺 建立由緒
静明山青蓮寺(法華宗・陣門流)は、徳川家康側室西郡(にしのごおり)の方(法名蓮葉院殿日浄大果位)の菩提追善の為、総本山本成寺と同格、寺格十万石として建立された寺であり、その開山として法華宗(陣門流)総本山越後本成寺の貫主を引退し、京都に於いて大蔵経の研究をされていた日教聖人が選ばれた。日教聖人は山号を静明山とし、寺名を総本山本成寺発祥の地青蓮華湖から二字を取り青蓮寺とされたのであります。
建立時期
慶長12年(1607年)、播磨国飾東郡姫路城下字東山の地に創建。青蓮寺移建
元和元年(1615年)、池田輝澄(松平石見守)が宍粟郡三万八千石を拝領(輝政の遺領の分与)、元和4年(1618年)青蓮寺を姫路城下より現在地に移す。青蓮寺類焼
延宝8年(1680年)、山崎町福原町の町屋より失火、玄関部分は類焼を逃れたが、本堂・庫裡を焼失。青蓮寺再建
元禄6年(1693年)から元禄7年(1694年)にかけて池田家により仮堂として再建され現在に至る。静明山
14:01
こうして私の山崎観光は何事もなく無事に終え、姫路への帰路につくため神姫バス山崎待合所に向かっていると、姫路駅行きのバスが無情にも走り過ぎて行ってしまった。
でも大丈夫、次の姫路駅行きは30分後だ。iPadに保存しているバス時刻表を見て、わざわざこのバスが通り過ぎるのを待ち構え、写真を撮ったのだ。
これで黒田官兵衛不在の黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第3回目は終わり、次の4回目だが、すでに目星はつけている。姫路市内の低山で、これまでに3回も登ったことがある山なので、私にとっては新鮮味がないが、なにか斬新な切り口を見つけられたらと思う。
スポンサード リンク