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黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第四弾
「船越山と稲岡山」



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平成25年4月14日(日) メンバー 私だけ

西今宿バス停〜船越山〜稲岡神社〜稲岡山〜青山古戦場跡〜日赤病院前バス停


黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第四弾は船越山と稲岡山

 黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第四弾は、姫路城で生まれた王子様、黒田官兵衛が24歳のとき自ら指揮をとり10倍もの敵をものともせず、多大な犠牲を払いながらも辛くも勝利を収めた「青山合戦」の舞台の一つ、船越山だ。船越山は国道2号線と夢前川が交わる地点の北東に位置する標高が60m程の低い山で、三つのピークを持ち西から秩父山・船越山・西山という。この三つのピークのうち秩父山に黒田官兵衛が陣を構え、その当時は土器山(かわらけやま)と呼んでいたとかいないとか。

 青山合戦の詳しいことはウィキペディアの青山・土器山の戦いなどが参考になるだろうが、永禄12年(1569)という400年以上も前の出来事なので、何が本当で嘘なのか誰にも分からないだろうが、大きな合戦があり多くの武士が命を落としたのは間違いない。

 
今回の山行図
(iPad+GPSレシーバーGNS1000+FieldAccess HD)


本日一山目は船越山の真ん中のピーク・船越山

10:22
 国道2号線が、市街地中心部で分かれていた西行きと東行きが合流した先の西今宿バス停に着いた。姫路駅からなら『高畑南口行き・上手野行き・緑台行き・才崎橋西詰行き・製鉄記念広畑病院行き・山崎行き・グリーンステーション鹿ケ壷行き』に乗ればよいのだが、同じ行先でも系統が違うと西今宿を通らないし、大々的に工事中の姫路駅北口は、そこいら中に無秩序にバス停があるし、姫路人の私にとっても西今宿までバスで行くのは難しく、駅前をうろうろしてしまった。

 乗るまでが大変だったのに、姫路駅から11分で着いてしまい、料金は200円。バスの行く手が盛り上がっているのは、その下を姫新線が通っているため。

西今宿バス停から歩き始める

10:31
 西今宿交差点を渡り、北へ進み、国道2号線の1本北の道を西へ進む。右手に見えてくる山というか丘が、船越山の一番東なのに「西山」という。

 西山の頂上近くに立つ送電線鉄塔へ至る巡視路があるが、その入り口は西播自動車教習所敷地の中にあり、登山口まで行くのが困難というか無理というか、その上に鉄塔から藪漕ぎをして登った頂上も藪の中という、まったくもって登り甲斐のない山だが、少ないながらも登頂記録を見出せる不思議な山だ。

船越山の南麓を西へ進む

 西山はあっちに置いといて、真ん中の船越山へ登ろう。まず「グラースガーデン今宿」の角を北に入る。そのまま坂道を登ってしまうと西山西裾の「ライオンズマンション姫路西今宿」に突入してしまうので、恋人たちの聖地「GLOIRE(旧おとぼけビーバー姫路西店)」を過ぎたら左に入り船越山東裾へと登っていく。

10:35
 西山と船越山の鞍部少し手前で西に入る道を見ると、民家の庭から山へ入るコンクリ階段が見える。ほんの少しとはいえ敷地に勝手に入らせてもらい、そそくさと階段に取付く。

西山と船越山の鞍部のコンクリ階段に取付く

10:37
 おそらく使われなくなった水道施設と思われるコンクリ遺構があったりする斜面には、船越山へ登る明らかな踏み跡がある。

かすかに船越山への踏み跡がある

10:41
 踏み跡が明確になってきて、はっきりと山道に変わると、行く手を木の間に張られたブルーシートに塞がれてしまった。これが有刺鉄線付きの柵なら登るのを諦めるしかないが、ブルーシートの張りを補強した跡があるが風に吹かれて解けてしまったのか簡単に通り抜けられた。

 このブルーシートは登るのを防ぐというよりも、ここを下るのを諦めさせるという感じがするが、「ここから下りたら危ないよ」とかの注意喚起はない。

おそらく「ここから下りてはいけないよ」と道を塞ぐブルーシートが張ってある

10:43
 一本足の四阿(一阿と呼ぶのがより正確だな)のある船越山頂上に到着。満開のコバノミツバツツジのピンク色が春らしい雰囲気を醸し出している。

船越山頂上の到着

 暑くなってきたのでジャケットを脱いで一息入れる。北側がまあまあの眺望で、振袖山(蛤山)が近くに見える。

船越山から振袖山(蛤山)を望む


二山目は船越山の西のピーク・秩父山、そして船越神社

10:50
 船越山(中央ピーク)から秩父山(西ピーク)中腹の金比羅宮までは、よく整備された遊歩道が続いている。

秩父山(西ピーク)目指し階段道を下る

10:53
 木漏れ日の林の中を行く、ここはどこぞの山中かと思うような画像だが、北麓の秩父山公園グランドから野球に興じる声が聞こえ、犬の吠え声や自動車の音など生活騒音が聞こえている。

町中の山とは思えないな

10:54
 船越山(中央ピーク)と秩父山(西ピーク)の鞍部には車道が通っている。このように船越山はほんの小さな山塊なのに、2本もの車道に横切られているし、中央ピークと東ピークの鞍部は住宅地と化してしまっているが、これ以上の開発はして欲しくないな。

秩父山(西ピーク)と船越山(中央ピーク)の間に車道が横切る

10:57
 車道を横切り、花が散った桜並木を進むと小ぢんまりとした金比羅宮に行き着く。社は昭和38年と平成10年に改築したことが石碑からわかり、地元の人たちが大切にしてきた歴史がうかがわれる。

 しかし、境内の松の木に、真新しい案内板が針金できつく括り付けられている。針金は松の木の成長とともに、幹に食い込んでいき痛々しい状況になるのが目に見えるようで、この墨痕鮮やかな達筆の案内板を設置した人の人格が疑われる。どんなにきれいな字が書けようが、いかに郷土を愛してようが、命あるものを労わり愛する心がないようでは黒田官兵衛を語る資格はない。

金比羅宮の鳥居右側に「黒田官兵衛 青山合戦陣地跡」の案内板が
松の木に針金できつく括り付けられている

黒田官兵衛 青山合戦陣地跡

(裏面)
平成25年3月 青山史蹟保存会 下手野自治会

11:04
 遊歩道はこの金比羅宮で終わるが、社の左手から細い山道が始まり、ぐるりと時計回りに登り秩父山(西ピーク)に至る。

金比羅宮から秩父山(西ピーク)へ至る細い山道

11:07
 草木が丸く切り払われた平らな山頂からの展望は、良くもないが悪くもないいったところで、400年前に黒田官兵衛が陣を築き、赤松政秀が率いる10倍もの軍勢をにらみ武者震いしたことだろう。

 ここにも青山史蹟保存会による案内板(←姫路城 龍野城→)があり、これもまた針金で立ち木にきつく結わえつけられていて、少々揺すったぐらいではびくともしない。おそらく数人はこれを取り付けるとき立ち会っていたものと思うが、誰も異を唱えなかったのだろうか。生き物への愛情が欠如するとともに、想像力も皆無の困った人たちだ。

秩父山(西ピーク)から西を見る

11:15
 頂上の西側直下にも平地があり、ここからもよい眺めだ。頂上にもあったが、ここからも北へ下る道がある。

頂上直下の平地から眺め

 私の背後の岩崖の下には、アルゼンチン原産の園芸植物ハナニラが咲いている。

ハナニラ

11:21
 金比羅宮まで戻り、やってきた桜並木の道から石灯籠が連なる参道を船越神社へと下る。

金比羅宮の参道で船越神社へ下る

11:24
 金比羅宮から麓に下る手前に、鉄筋コンクリートの船越神社がある。その歴史は明治30年に始まり、昭和51年に現在のお社に建て替えられたという。

 正面の山は苫編山塊で、中腹に見える建物は鬢櫛(びんぐし)山荘といい、元は姫路市職員健保組合専用保養施設だったが、健保組合の解散により平成14年からは姫路市都市整備公社の運営に変わった。美味しい料理を提供してきたが、残念ながら平成22年に営業を終えている。

船越神社から南の苫編山塊を見る

 船越神社から石段を下り車道に出ると「その男、天下に秘する野望あり 2014年大河ドラマ 軍師官兵衛」の幟の横にこれも真新しい解説板が立っている。さすがにこの大きさになると、青山史蹟保存会も立ち木に縛り付けるわけには行かなかったと見えて、自立式のものになっている。

 姫路市HPによれば、秩父山は秩父八郎左衛門重道が構えを造ったことから秩父山、峰より清水が湧き出ていたことから水尾山、そして良質の瓦を作れる土が取れることから瓦ケ山とも呼ばれたそうだ。解説板では読みは同じだが「土器(かわらけ)山」としているので、なんか山をほじくったら素焼きの土器でも出てきそうな山名だな。

船越神社近くの解説板が立っている

史蹟(土器山“かわらけやま”)

 永禄12年(1569)黒田官兵衛孝高は播州姫路城を攻略せんとする、竜野藩主赤松下野守政秀を迎え撃つために此処土器山に布陣した。時に官兵衛は24歳、正室幸圓“こうえん”は17歳のときのことである。
 龍野城を出た赤松軍勢は、龍野街道(古代山陽道)一路に青山桜峠にさしかかり、はるか東に望む姫路城を手中に治めんと意気を挙げ菅生川を渡りたむろした。
 官兵衛は元来御着城小寺政職の家臣にあらずといえども旗下に属せしかば其職を勤めんと、官兵衛の父職隆の立場や義理恩義をわきまえ、赤松政秀をむかへ打った。官兵衛の胸中では何より姫路城中で生まれ育った郷愁の念が深く刻み込まれていた。それ故に何が何でも姫路城は指一本も他人にふれさせたくなかった。此処土器山東方1里足らずに姫路城を控えその防戦。敵方より味方の不意を窺いて襲来り急に囲み込むという戦法が功じて勝利する。姫路の城をこよなく愛した官兵衛の功績を賛美して史蹟とする。

平成25年3月吉日  姫路青山史蹟保存会
姫路下手野自治会

(ここから裏面)

 設置 青山史蹟保存会 下手野自治会
 平成25年(2013)3月吉日
 文書 青山史蹟保存会会長 遠周 章

 解説板を読んでいると、船越山の南麓を横切る姫新線の踏切警報機が鳴りだした。慌てて三脚・カメラをセットし私の立ち位置を決め撮ってみたが、真ん中に邪魔な木はあるは、私が画面から切れているはで、残念なものになってしまった。

あっという間に走り去った1両編成の列車は、11時6分播磨新宮発の11時36分姫路着の普通列車。車両は両運転台形式のキハ122系気動車。姫路駅上月駅間の高速化事業にともない、平成21年から投入された営業最高速度100qの最新鋭の気動車だ。なおこの気動車の投入により播但線・加古川線に次ぐ姫新線電化の夢は消え去った。
営業最高速度100qの気動車が走り抜ける

 上り列車が通り過ぎたので安心していたら、今度は11時24分姫路発の11時56分播磨新宮着の普通列車がやってきた。また慌ててカメラをセットしたら、今度は私の左足左手しか映り込んでいない。

 再度、あっという間に通り過ぎた2両編成列車は、片運転台形式のキハ127系気動車。

余部駅へと走り去る2両編成気動車
(注:スピード感200%大盛り)


山陽道で稲岡神社へ

11:36
 写真遊びを終え、次の目的地たる稲岡山を目指し歩き始める。南側の国道2号線まで出て、夢前橋を渡るのが一番近いが、2号線の1本北側が旧道のような線形をしている。

11:41
 道は思惑通りに古い街並み残り、下手野町公民館前には「西國街道→」の新しい石の道標が立っている。矢印の意味は「あっちに行くと西国街道だよ」ではなく「ここが西国街道で、上り方向はあっちだよ」というものだな。

下手野公民館前の新い「西国街道」道標

11:48
 西国街道と判明した道を進むと、夢前川に突き当たる。今は北側の姫新線夢前川橋梁上流で菅生川と夢前川が合流しているが、400年前の流れは今とは大きく違っていたのかもしれない。水量の少ないときは歩いても渡れそうそうだが、渡し船があったのかもしれない。

西国街道は夢前川に突き当たる

11:51
 夢前川をジャブジャブと歩いて渡るのもなんだし、平成10年に架け替えられた国道2号線夢前橋に迂回する。河原では散り急ぐ桜の下で花見を楽しむグループが一組のみ。

国道2号線 夢前橋を渡る

 夢前橋を渡り、2号線の1本北の山陽道に復帰する。その山陽道に戻る曲がり角に古い石の道標があるというが、下調べ不足と注意不足から見逃してしまった。

11:58
 古い家並みの残る西国街道を進むと、ほどなく大きな鳥居が北側に現れた。「稲岡射目埼神社」の扁額が掛かる大正9年に建てられた石の鳥居で、その先には稲岡神社と稲岡山が見える。

西国街道脇に立つ稲岡神社の石鳥居

 車止めと駐車禁止の先に稲岡神社の拝殿が見えている。この稲岡神社も黒田官兵衛に関係ないかといえば、そうでもない。

 船越神社の解説板にあった、黒田官兵衛が関係した青山合戦の戦死者を弔った地がここなのだ。以下に引用する稲岡神社の解説文には、雀の涙ほども書かれていないが、ウィキペディア信奉者の私にとっては『稲岡神社=黒田官兵衛』が成り立っているのだ。

青山合戦の戦死者が弔われた地と言われる稲岡神社

青山名勝史跡 稲岡神社

 稲岡山は播磨風土記に記載する14の中にある稲牟礼丘(いなむれがおか)である。
 播磨風土記による14の丘とは舟丘、波丘、琴丘、匣(くしげ)岡、箕丘、日女道丘、藤丘、石丘、稲牟礼丘、冑山、鹿丘、大丘、甕(みか)丘、筥丘のことてある。この14の丘は昔、大汝命(おおなむちのみこと)、弩都比賣命(ねつひめのみこと)とその子、火明命(ほあかりのみこと)にまつわる伝承の丘のことであって、稲牟礼丘(いなむれがおか)は稲の落ちた丘をかく名づけそれが稲丘というようになったのである。この稲牟礼の丘は青山の中央にあり、丸い形から丸山と云ったり青い山を青山といい青山の地名の起源となった。これが現在の稲岡山である。
 青山の鎮守、稲岡大明神は豊受姫大神にして後に射目崎大神即ち倉稲御魂(うがのいなみたま)大神を合祀したと云い、よって稲岡山という。

 あひ見ては 千とせや いぬるいな岡も 我やしかとう 君まつ程に

(万葉集・人麻呂)

 歴史がきざむ 稲岡の 古にし世を 静かに思い 鎮守の森に頂けば
 そびえて ほえる高貴山 誇りも高く しのびよる ああ 悠々の青山よ 青山よ

(青山賛歌より)

平成16年2月吉日  青山連合自治会
姫路市青山公民館


姫路市自然緑地保護地区

 長い歴史と人びとの手厚い保護によって 現在まで受けつがれてきたこの貴重な緑の財産をまもり育て 市域内にできるだけ自然を残すために この土地は姫路市自然保護条例によって 指定された自然緑地保護地区です

指定地域 姫路市青山字稲岡山649番のうち
  姫路市青山字稲岡山649番の1のうち
指定面積 19,899u
主な自生植物 ヒノキ、アカマツ、アラカシ、ツバキ、ヒサカキほか

 保護地区内における行為の届け出

姫路市


稲岡神社

◎御祭神
  豊受姫大神(稲岳太神)
  射目埼大神

◎由緒
 『播磨風土記』の14の丘の1つである「稲牟礼の丘」に比定されている稲岡山の南麓に鎮座している。両祭神とも、元々播磨国内鎮守大小明神社記に所蔵されている由緒ある別々の神社の祭神であったが、応永のころ(1395〜1428)両社を合わせて一社殿に祀られたという。

◎祭事

厄除祭 2月19日
祈年祭 2月21日
夏祭 7月17日
例祭神幸祭10月9日・10日
 本宮祭10月15日

お蔭参り図絵馬
県指定重要文化財(昭和60年3月26日)

 文政13年(1830)全国的に流行したお蔭参りの情景と雰囲気をよくあらわしている。画面上部に青山の遠景・中心部に武者二人を配し、その下に「おかげ」と書いた幟を随所に立て、老若男女・子供・赤子を背負う母親までも加わった一団が描かれ、かぶった笠にはそれぞれの名前まで書かれ、一村まとまっての伊勢参宮の様子がよくわかる貴重な資料である。(兵庫県歴史博物館寄託)
 当神社の旧本殿を転用した絵馬殿に複製品があがっているが。延宝3年(1675)の神馬図絵馬が最も古く、その他多数の絵馬が奉納されている。

平成11年7月 姫路市教育委員会

 境内の奥へ登る石段脇に「青山八景」の歌碑が立っている。青山八景とは、姫路藩藩主・榊原政邦が青山の景勝地8か所を選定し歌に詠んだもので、近頃の町おこし八景とは格が違う。

青山八景 山社晴嵐
姫路藩主・榊原政邦が稲岡神社を読んだ歌

青山八景 山社晴嵐

雲はれて山路さひゆくみやしろの 神代のあとをとふあらしかな

 稲岡射目埼神社そのものは普通の神社で、私には特筆すべきことを見出すことはできなかった。この神社の合祀されている「射目埼神社は」は、“いめさき”と読み『夢前』の由来という。

 射目埼神社は、三韓征伐で有名な神功皇后が戦勝を祈願して麻生山から射った3本の矢のうち1本目が落ちた矢落森に祀られていたが、洪水で稲岡山まで流され漂着したものを合祀したものという。

稲岡射目埼神社の拝殿

 稲岡神社の西側に寄り添うように建っているのが金比羅神社で、その絵馬殿に県指定重要文化財の「お蔭参り図絵馬」複製が掲げられている。その絵馬殿は見るからに頭でっかちで、細い柱には筋交いもなく、強めの地震がきたらあっけなく倒壊するのは私にでも一目でわかる。

 その対策に、絵馬の実物を兵庫県歴史博物館に預けることになったのだろうか。

金比羅神社の絵馬殿

 そしてこれが複製品の「お蔭参り図絵馬」だが、実物大写真を額に収めガラス板で保護されている。そのガラスにいろいろと邪魔なもの(特に撮影者)が映り込み、写真が撮りずらかった。

お蔭参り図絵馬(写真複製品)


稲岡山にはハイキングコースがある

12:12
 播磨風土記の14の丘の一つ、稲の落ちたと伝えられる稲岡山に登ろう。その登山口だが、金比羅神社から山裾を西へ進むと「郷土出身 名士の碑」と彫られた石碑があり、その先の山側に石段がある。ここになにか案内があれば登山口だとわかるのだが、そんな物はない。

「郷土出身 名士の碑」の先の石段が稲岡山の登山口への入口だ

12:13
 石段を登ると、左手には木々に囲まれた広場があるが、古いベンチがあるだけで草が茂り近寄りがたい雰囲気がある。おそらくそこが青山公園なのだろう。そして右手には「稲岡山ハイキングコース」の表柱があり、稲岡山頂上へと私を誘い込む擬木階段道があった。

稲岡山登山口を発見

12:16
 稲岡山は稲岡神社の鎮守の森だ。そして鎮守の森は、神が宿る依代であり、人の手を入れてはならない場所と私は理解している。が、しかし稲岡山は植林の山となっている。こんな小さな山を植林してなんになるのだろうと、理解に苦しむ。

 「女子誕生に際して桐を植え、嫁入り時に箪笥を作る」という農村伝説があるというが、神社本殿拝殿の建替えの材とするためか、はたまた皆伐してその費用に充てるつもりなのか、戦後の植林熱に浮かされするべきではない処まで植林してしまった結果なのだろう。

稲岡山は植林の山だった

12:18
 段差の小さな擬木階段道が続く。途中にマーキングや道標などはないが、「稲岡山ハイキングコース」は明確で道を外しようがない。

「稲岡山ハイキングコース」は緩やかな擬木階段道だ

12:20
 こんな岩場が現れると、もうそこが稲岡山の頂上だ。標高は68m、稲岡神社からの比高は約40mなので10分もかからずに頂上に着いてしまう。だが、いかに低山といえどもそれなりに達成感はある。

 登る山を決め、その山域へ至る交通路・登山口・登山経路を調査探求し、登山可能と判断したら登山日時を調整し、準備を整え、そして実行する。そして目論見通りに頂上に到達することができたときの嬉しさは、山の高低に関係ない。

標高68mの稲岡山の頂上に着いた

 稲岡山の頂上には石碑が立っている。「青山八景 南海漂船」と刻まれた歌碑は、稲岡神社境内にあったものと同じく、姫路藩主・榊原政邦が稲岡山から播磨灘を行きかう船を読んだ歌が刻まれている。

青山八景 南海漂船
姫路藩主・榊原政邦が稲岡山からの眺めを読んだ歌

青山八景 南海漂船

永田乃はらひなの長路を漕舟乃 跡しら波乃たちおしぞ思布

 そして頂上に立つ大物がもう一つ、防災行政放送用のパンザマスト。よじ登れば遮るもののない眺めが待っているだろうが、安全第一危険退散主義の私にはできない。

防災行政放送用のパンザマスト

 で、稲岡山頂上からの眺めだが、パンザマストに登らないと周囲の木々に視界を遮られあまり芳しくない。蛤山(振袖山)、船越山、苫編山塊、そして枝葉越しに京見山塊の北部が見えるぐらいだ。

稲岡山頂上からの眺め(苫編山塊)

 計画では、どこかのコンビニでお弁当でも買って食べるはずだったが、時刻は12時を過ぎてしまった。ここは昼食に最適な場所ではあるが、お弁当はない。だが、こういう場合のためにいつもザックに入れている非常食の出番だ。

 ジャーン、今日のお昼のメニューは「大塚製薬 バランス栄養食 カロリーメイト ブロック(メープル味)80g」と「森永製菓 ウイーダinゼリー エネルギーイン 果汁3%180g」の2品。ともにカロリー重視のもので、パサつくカロリーメイトをウィーダインゼリーで流し込むという侘しいものだが、満腹感はあるな。

 残る非常食は「森永乳業 加糖れん乳(コンデンスミルク)130g」だけだが, 一晩を過ごすにはこれだけでも十分だろう。

今日のお昼ご飯はウイダーinゼリーとカロリーメイト

13:02
 お昼ご飯も食べたし、眺望も楽んだし、下山しよう。

稲岡山から下山する


黒田官兵衛古戦場跡(青山合戦古戦場)

13:29
 稲岡山頂上から稲岡神社はまでは3分ぐらいだったろうか、あっというまに下山して、西国街道から国道2号線に出ると、山歩きの雰囲気は欠片もなくなった。

 黒田官兵衛が家来を引き連れ、赤松軍勢に戦いを挑みにここを通たころはどのような風景が広がっていたのだろうか。

国道2号線を西へ進む

13:33
 パーパスガス給湯機器・SANYOガスヒートポンプエアコンの看板があるところで北を見ると、突き当りに何やらよそ様のHPで見た風景が見える。(国道2号線を行き過ぎて引き返したのは内緒だ)

ここを右折すると突き当りに古戦場跡の石碑がある

13:35
 古戦場跡自体は、この奥の青山ゴルフクラブの中らしいが、当然ながらゴルフの球が飛び交う現代の戦場に自由に出入り出来るわけなく、古戦場跡石碑はゴルフ場境界フェンス際に立てられている。

青山ゴルフ場の際に立つ黒田官兵衛古戦場跡石碑

黒田官兵衛古戦場跡(青山合戦古戦場)

 黒田官兵衛孝高(1546〜1604)は、織豊期から江戸時代前期にかけての武将で出家剃髪し如水と号した。豊臣秀吉・徳川家康に仕え豊前中津城主となる。嫡子長政は福岡黒田藩の祖。
 永禄12年(1569)8月9日。織田信長による播磨侵攻の最中、織田軍は龍野城主赤松政秀と手を組み、置塩城主赤松義祐とその有力被官であった御着城主小寺政職を挟撃する作戦であった。これにより政秀と義祐方が戦った(青山合戦)もので、結果は義祐が勝利した。この合戦で小寺(黒田)官兵衛が活躍し勝利をもたらしたとされる。織田軍は、庄山城(姫路市飾東町)まで進軍したが、この敗報に接するとともに備前から浦上宗景が赤松義祐支援のために播磨に出兵したこともあって撤退した。
 青山合戦で黒田官兵衛が陣取った「青山」とは現在の下手野の「船越山」のことで、当時は「瓦山」と呼ばれていたとされる。

平成23年11月 姫路市教育委員会

 石碑の隣の藤棚には「官兵衛を勇気づけた藤の花」と書かれた板が下がっている。それは官兵衛が伊丹城の土牢に1年ほども幽閉されたときに、垣間見えたフジの花に慰められという伝承に由来するものだが、フジの花が年中咲いているわけはなく、100%作り話と私は思う。

石碑と「官兵衛を勇気づけた藤の花」

史蹟 黒田官兵衛古戦場跡

史蹟 黒田官兵衛古戦場跡

 ここは戦国の世永禄12年8月姫路城主黒田職隆の姫路軍と龍野城主赤松政秀の龍野軍が戦い黒田職隆の嫡男黒田官兵衛孝高が龍野軍を敗り初陣を飾った古戦場である

昭和57年3月10日建立
青山自治会
青山史蹟保存協会
建立者当所出身 門口藤雄 法旨筆夫

 石碑が建てられたのは一段高いところで、親切にもパイプ組足場の手摺付階段が設けられている。

石碑に登るための階段

 フェンス越しに見える青山ゴルフクラブの中には池があり「千石池」とも「戦国池」とも呼ばれ、その周辺が古戦場跡という。

フェンス越しに見た青山ゴルフクラブ
池の名前は千石池とも戦国池とも呼ばれる

13:40
 そろそろ姫路駅行きの神姫バスが通るころだと、カメラを構えていると、ほぼ時刻表通りに表通りを走り抜けていった。次のバスまでは1時間あるが、夢前橋を東へ渡ればいくらでもバスは来るので大丈夫。

次の姫路駅行は1時間後だが大丈夫

13:47
 今日の目標は全て達成したので、とりあえず夢前橋を目標に帰途につく。

14:13
 古戦場跡石碑から26分で、夢前橋東側の日赤病院前バス停に到着。

14:17
 2分遅れの山崎からの姫路駅行のバスがやってきた。

日赤病院前バス停にやってきた姫路駅行きの神姫バス

 姫路駅までの所要時間は14分、料金は230円。さて次の第五弾はどの山にしようか。



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