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黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第六弾(最終回)
「姫山・姫路城と好古園活水軒・官兵衛御膳」



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平成25年6月15日(土) メンバー 私だけ

姫路城〜好古園


官兵衛さんが生れた姫山・姫路城

 今回で黒田官兵衛ゆかりの山シリーズは第六弾となるが、もうゆかりの山の在庫がなくなり、これをもって最終回とする。

 そもそも、官兵衛は、兵庫県伊丹市にあった有岡城の土牢に1年近く囚われるうちに足が不自由とになり、その後は輿に乗って行動するようになったという。足が不自由では山に登る機会などなかったろうし、黒田官兵衛ゆかりの山シリーズそのものが無謀な挑戦で、第六弾(最終回)まで続けられたのが不思議なぐらいだ。

 この最終回の舞台は、彼が生れた姫路城が建つ姫山だ。姫路城の土台となり、もう原型をとどめない姫山だが、船場川を挟んで姫路城と反対側に低山というか丘というか、男山という山がある。麓に姫路文学館・水尾神社、中腹には千姫天満宮・男山八幡宮が祀られ、頂上は男山配水池公園が整備されている。頂上の公園からの姫路城の眺望が素晴らしく、散歩がてらに時折登ることもある。

 姫山の本来の姿は、男山のようなものだったのではと思う。

姫路城の西側の男山
姫路城の土台となった姫山もこのような姿だったと思う

 今現在、姫路城は大天守保存修理事業の真っ最中で、大きな素屋根(天空の白鷺)に覆われ外から大天守を見ることは出来ない。予定では来年1月中旬から素屋根の解体が始まり、8月頃には真新しくなった大天守の全容が現れ、再来年3月末には 工事がすべて終わり、4月からは平常に戻るという。

素屋根に覆われた大天守も来年1月まで

 五層の大天守からなる現在の姫路城は、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって築かれた。その池田輝政は、徳川家康の最初の側室西郡局との間に生まれた督姫を娶り、そして姫路城の城主となったり、もちろん彼自身の努力のたまものだが、充実した人生を歩んだといえるだろう。享年は50歳、死因は中風(脳血管障害)という。

 翻って、我が黒田官兵衛は家督を継いで姫路城城主となったが、羽柴秀吉に城を譲り渡たしてしまった。そして土牢に1年間も閉じ込められたり、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康と勝ち組の家臣となり軍師として活躍したり、長男の黒田長政が家康の養女(家康の姪にあたる)を正室に迎えたりと頑張ったが、ついに姫路城を返してもらえなかった。

 でも、今の姫路城には黒田官兵衛が積んだという石垣が残っている。秀吉が官兵衛より譲られたあと、城郭を石垣で囲い込み、三層の天守を築いたというが、その石垣積みを官兵衛に命じたという。

 まだ土牢に押し込まれる前の足腰の元気な官兵衛は、中国攻めが終わり平和な世の中になったら、きっと姫路城を返してもらえると思っていた。石垣衆にその石はそっちだ、この石はこっちに積めと指示するに飽き足らず、職人に混じって石を運んだり積んだりしていた。なんたって自分の城になるんだから。

 というような妄想を抱きつつ、下山里から上山里下段石垣を見る。ここは、天守台がある備前丸の南側の、お菊井戸のある上山里のさらに南側の下山里で、無料区域だ。

官兵衛が積んだ??上山里下段石垣

下 山 里

 この地は、二の丸上山里の下に位置し、西、南側は石垣組みに土塀をめぐらして東方に門を開いていた。
 昭和8年、東北側の崖沿いに通路が整備され、昭和30年までは下山里展望台として市民に親しまれた。
 現在では、この下山里に五輪塔などの石仏が祀られている。それは姫路城の修築工事の際に石垣の中から出てきたものを集めて、五輪の形に積み上げて供養したものである。
 姫山には康治2年(1143年)に称明寺が建立され、この地方を治めた豪族や役人の墓が多くあったといわれている。その後、城を築くときに寺を麓に移し、その時の墓石など多くの石仏を石垣に組み込んだといわれている。称明寺は正明寺と改名されて五軒邸に現存する。
 また、五輪塔の前にある石燈籠は、東京都谷中の姫路城主酒井家墓地から平成2年に移したものである。この燈籠は、最後の城主として僅か1年余の在任ではあったが、名君の誉れ高かった酒井忠邦公を惜しみ、旧姫路藩士等322人が浄財を寄せて、明治13年3月、忠邦公の一周忌に公の墓前に建立したものである。
  当会では毎年春、秋の彼岸と旧盆に正明寺住職を招いて、この仏石ゆかりの人をはじめ、築城にかかわった人や藩主、藩士の供養を営んでいる。

平成3年3月 姫路城を守る会



上山里下段石垣

 正面の石垣は、上山里下段石垣で、現存する姫路城の石垣のなかでその特徴(※積み方、石材の加工)からみて16世紀後半の天正期に築かれた石垣、すなわち天正8年(1580年)〜9年に羽柴秀吉によって築かれたと考えられます。
 羽柴秀吉は、中国(毛利)攻めのため小寺(黒田)官兵衛の姫路城を拠点とし、当時としてはめずらしい三重の天守を持つ新しい城郭を築きました。その後、姫路城は池田氏や本田氏による大改修を経て、大きく進化しました。
 現在の天守は、池田輝政が秀吉の三重天守を撤去して新たに建てたものですが。天守のある姫山には秀吉によって築かれたとみられる石垣が数多く残っており、上山里下段石垣もその一つです。
 当時、秀吉が官兵衛に宛てた書状(※黒田家文書)によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛が関わった可能性があり、現在の姫路城にも官兵衛時代の名残が存在します。

平成25年 姫路市教育委員会

 野面石(自然石)を用いた、横目地が部分的に走る「布積み崩し」という技法で積まれたもので、「打ち込み接ぎ」や「切り込み接ぎ」といった高度な積み方に比べてけして劣っているわけではなく、高い石垣には不向きなだけで、現に400年以上経た今も、その姿を崩していない。

 まあ、まだ崩れてはいないが、崩落の危険性があり、今年度(平成25年度)中に修理する予定という。

野面石を用いた布積み崩し


姫路城・天空の白鷺

11:00
 今日は、雨は降ってはいるが土曜日だ。だが観光客はいない。

 登城楼の背後に見えるのは「菱の門」で国指定重要文化財だ。伏見桃山城から移築したと伝えられ、安土桃山時代の様式を残す、姫路城の中で最大の門であり、日本全体でも最大級のものだ。

 もし、この門を残して姫路城の全てが無くても、この菱の門だけで日本中から観光客を呼ぶことが出来ると私は思うが、天守群の陰に隠れてしまい通過点になってしまっている。かわいそうな存在だ。

登城楼と菱の門

 大天守の修理のための素屋根には名前がある。「天空の白鷺」という大それた名前が付けられていて、完成当初こそ真っ白な名前負けしない姿だったが、予想外に汚れやすく、洗浄はしているが白鷺というよりは灰鷺になっている。姫路城の絵が描かれれていない、洗浄されていない部分は灰色というよりは、もう黒色といっても間違いではない。

 この天空の白鷺は、常にない視点から大天守の修理作業を間近に見られると、インターネットでの見学予約システムも完備していて、大勢の観光客が押し寄せて来るはずだった。でも待ち時間の案内看板は、所在なさげに立っている。

 実はこんな閑散とした日は、予約していると余計に時間がかかるという罠が待ち構えている。一般客は自販機で入城券を買えばそのまま入れるが、予約客は有人窓口で予約内容をプリントアウトしたものを確認の上で、入城券と時間指定の天空の白鷺入館券を求めなければならない。今日なら予約なしの方が絶対早い。

 なおインターネットで予約するには『氏名・性別・生年月日・e-mailアドレス・連絡先郵便番号/住所/電話番号』といった個人情報を晒さなければばらない。クレジットカード決済というわけではなく、窓口での現金払いしかないのに、おかしなことだ。まあ混雑が予想される時期は、予約しといた方が間違いはないだろうが、平日なら必要ないと思う。

天空の白鷺の待ち時間は空白だ

姫路城入城券 
大人400円
小人(5歳以上 15歳未満 中学生を含む100円
 
 
 
団体割引入城券のみ
30人以上 1割引・100人以上 2割引・300人以上 3割引
 
 
 
姫路城・好古園共通券(2割引)
大人560円
小人(5歳以上 15歳未満 中学生を含む200円
※ 見学時間にご注意ください。
 
 
 
天空の白鷺入館券
天空の白鷺への入館は別途入館券が必要です。
天空の白鷺にてお買い求めください。

 登城楼から大天守への通路も、閑散としている。バリアフリー化を目指した 天空の白鷺に合わせるように、通路の石段にもスロープが設けられていが、修理工事後の大天守は、これまでのように急な階段の上り下りしかなくなるはずで、このスロープも意味がなくなり取り外されると思う。

 バリアフリーも重要だろうが、本来の姫路城にないものを付け足すのはどうかと思う。補修の経費は増大するだろうが、可能ならばこの通路の舗装も剥がして本来の姿に戻すことができたらと思う。

誰もいない閑散とした姫路城

 備前丸から見上げる天空の白鷺は、誠に汚い。外壁の材質が上下と中間で違っていて、最初は中間部分も真っ白だったのが、今は見ての通りだ。それに詳細な図面を拡大して描かれた大天守は、線の細さ災いし、姫路城大天守の力強さがスポイルされている。もっと線を太く、省略・デフォルメして大天守の特徴を出すことができなかったのか残念だ。

 昭和の大修理の、一万本の丸太を組み亜鉛メッキ鉄板を葺いた素屋根の方が、天空の白鷺よりも何倍もインパクトがある。四角四面の天空の白鷺は、なんかどこにでもある工事現場の覆いにしか見えず、面白味・驚き・感動がなく観光客の減少を加勢しているとしか思えない。

近くで見ても汚い天空の白鷺

 自販機で、天空の白鷺入館券を200円で求め、館内に入ると、当然だが閑散としている。エレベーターを待っている人は誰もいなく、修理状況を映すモニターに見入る人が3人だけ。エレベーターホールの係員氏も手持ちぶたさで項垂れている。

エレベーター待合ホールもご覧のとおり

 エレベーターの大天守側はガラス張りで、天守台から五層の大天守を本当に間近に見ることが出来る。普通のエレベーターよりもゆっくりのような感じだが、もっともっと遅くてもいいと思うが、そうすると輸送人員が減って2台のエレベーターでは捌ききれなくなってしまうな。

 8階から見た大天守最上階の屋根は、瓦の葺き替えが終わっている。瓦の隙間を埋める屋根漆喰の白さが目だち、遠目に見たら大天守全体が真っ白に見えてしまいそう。来年、素屋根が取り外されたら違和感があるかもしれないが、真っ白ゆえに汚れるのも早いんだろうな。

 土曜・日曜の作業は休みのようで、見学窓の上に吊るされたモニターに映る工事風景のビデオを見ている人の方が多い。テレビやインターネットに飼いならされた私みたいに、目の前の実物よりも、二次元の映像の方が見ていて安心できるのだろう。

8階の見学窓

 7階の見学窓も同じような状況だ。大天守の窓は太い立格子が入った「武者窓」だが、最上階だけは守りよりも眺めを重視したのか、大きく開口を取っている。でも引き違いの板窓なので、結局開口は半分になってしまう。

 昔は、お殿様が登るときだけ、板窓を急いで全て取り外して全開にしたんだろうな。鎌倉から江戸時代まで、将軍の身近に仕えた公人朝夕人なる役職があったというが、きっと大天守板窓扱掛が天守最上階に1年365日24時間常に待機していたことだろう。

7階の見学窓

 展示物も少しだけあるが、私は特に城好きという分でもなく、興味を引くものはない。本来の天守閣最上階だと四方の展望を得られるが、ここ天空の白鷺は南と西にしか窓がなく、二方の眺めしかない。でも、私の家が見えるから良しとするか。

押せや押すなの人出を期待したのか
展示物は極めて少ない

 天空の白鷺見学後は、大天守内部は修理中のため中に入ることは出来ずに、「にの門」を通り「ほの門」を潜ろうとすると「その男、天下に秘する野望あり 2014年大河ドラマ 軍師官兵衛」の幟が所在なさげにポツンと立っている。

「にの門」と「ほの門」の間に立つ官兵衛幟

 「なにかな、なにかな」と行ってみると「十字紋の鬼瓦」の解説板が順路に背を向けて立っていた。

 黒田官兵衛はキリスト教に入信し、洗礼名としてオデラシメオン・カンビョウエとかシメオン・ジョスイが伝わっている。秀吉が発したバテレン追放令後に棄教したというが、その辺も姫路城を返してもらえず、ついに幕末まで九州の地から出ることが叶わなかった一因かも(播州野歩記史観)。

十文字の鬼瓦の解説板

十文字の鬼瓦

 にの門櫓(上の二層櫓)の唐破風屋根に乗っている鬼瓦には、十字紋が彫られています。キリシタンの名残りとか魔除けとも云われますが、日本の城では珍しい瓦紋です。
 なお、この櫓の南面と東面の鬼瓦には、波しぶきが彫ってあります。これは火除けを祈ったものと思われます。

 「にの門」櫓に十文字の鬼瓦が使われているが、「十文字≒十字架=キリスト教≒キリシタン≒黒田官兵衛」と黒田官兵衛が関わっているかのように幟を立て暗示しているかのようだ。

 でも、徳川の長きに渡る治世のあいだ、誰にも気付かれることなく放置されることなど考えられず、きっと瓦職人に冗談が好きな十兵衛さんがいたんだと思う。

軒というか庇というか
細部まで造形に凝っているな


好古園活水軒・官兵衛御膳

 姫路城の西側に好古園という日本庭園がある。正式名称を「姫路城西御屋敷跡庭園好古園」といい、西御屋敷・武家屋敷跡遺構の区割り通りに築地塀を築き、江戸時代の雰囲気を醸し出す庭園だ。姫路市制100周年の平成4年に開園している。

姫路城の西にある好古園

 実は、ここからが今回の山行記録???の核心部なのだ。御屋敷を模した建物の中に活水軒という姫路名産の焼穴子をマインテーマとした活水軒というレストランがある。

 なんと、6月1日からは黒田官兵衛にちなんだ「官兵衛御膳」(2,500円・限定一日10食・要予約)と「官兵衛弁当」(1,500円・限定一日20食)という新メニューが始まった。私には、六甲山カレー巡礼や銀の馬車道関連メニュー探訪で知っての通り、食べ物に走る癖があり、我慢することができない。

活水軒の入り口
クレジットカード ×:現金 ○

13:00
 3日前に御一人様で予約した活水軒に入るも、お客さんがいない。いくら雨でも土曜日なのに誰もいないとは、なんたることだ。

 池のある庭に面した店内は、バックグランドミュージックもなく静まり返っている。

誰もいない活水軒

 さすがに予約してあるだけあって、「官兵衛御膳」は思いのほか早くやってきた。一番大きなお盆でも収まり切れず、穴子丼と味噌汁ははみ出している。

 どこが官兵衛なのかというと、分からない。姫路名産焼穴子丼・夢前町産のそば粉で作った冷たい夢そば・焼穴子入りの茶わん蒸し・焼穴子寿司・明石のタコの酢の物あたりが播州関連ではあるが、官兵衛の好物??だったのかは知らない。

 なお一緒に頼んだ冷酒は、ヤエガキ酒造による八重垣生貯蔵酒300mlで、姫路の地酒ではあるが、廉価なローエンドバージョンだ。

葉っぱが多すぎる「官兵衛御膳」

 官兵衛御膳は2,500円の価格に見合ったもので、品数も多く、どれもおいしく、量もお昼ご飯としては多めで、満足できるものだった。ただ、葉っぱ(紅葉)が食べるのに邪魔なくらい多すぎる。ひょとして、黒田官兵衛は、紅葉の葉っぱが好物だったのかなと思わなくもないが、私は葉っぱを消化する自信はなく全部残してしまった。

 一枚だけでも食べて、美味しいか不味いか確かめるんだったな。

 そして、この赤漆塗りの蕎麦の器が唯一官兵衛御膳足らしめている。官兵衛が戦に出るときは常に被っていた兜「赤合子形兜(あかごうすなりかぶと」・「如水の赤合子」を模したものなのだ。ただし合子(ごうす)とは「蓋付きの椀」を意味していて、「如水の赤合子」は蓋つきの椀からインスピレーションを得て創作されたものだから、これはただの蕎麦椀ともいえるな。

 なお、「如水の赤合子」は、有名な戦国武将・赤松円心の愛用品といわれ、今は盛岡市の中央公民館が所蔵しているという。

蕎麦の器は「如水の赤合子」を模したもの??

 食後に頂いたお茶は「メグスリノキ」から作られた「目薬の木茶」で、漢方薬のような香りと味の個性ある飲み物だ。

 チャノキはツバキ目ツバキ科ツバキ属だが、メグスリノキはムクロジ目カエデ科カエデ属と全く違い、お茶の味を期待して飲むと意表を突かれるが、さっぱりとした喉越しだ。

食後の目薬の木茶

 山行記録になぜメニューの写しが出てくるのか不思議だろうが、それは播州野歩記の仕様であるからとしか言えないが、画像ではなく文字で記録を残すことに意義がある。

 活水軒のメニューは、「何でもできますよ」屋さんのようなバラエティーはないし、価格的にはリーズナブルなものではないし、かといってホテルのレストランのような高級感のないものだ。好古園と活水軒はともに姫路市出資比率100%の姫路市外郭団体であり、そして姫路市指定管理者の(一財)姫路市まちづくり振興機構が管理運営している。姫路市など関係ないというだろうが、このメニューなら姫路市直営と思われても仕方がないな。

 かといって、民間会社に活水軒の運営を任せたら、家老屋敷公園に入っているお土産物屋さんの食堂と瓜二つのものが出来てしまうのは間違いないし、難しいな。

お食事 
穴子丼セット1300円
穴子重セット2000円
温かいそば・穴子丼セット2000円
温かいうどん・穴子丼セット1300円
冷たいそば・穴子丼セット1300円
冷たいうどん・穴子丼セット1300円
ざる夢そば・穴子天ぷら(山芋とろろ付き)1300円
姫御膳2500円
穴子重御膳(※要予約)3800円
カレーライス1000円
にゅう麺800円
おつまみ 
枝豆350円
さきいか天ぷら380円
トリプルウインナー(バジル・チーズ・ポーク)380円
喫 茶 
コーヒー・ミルク・紅茶各400円
アイスコーヒー・アイスミルク・アイスティー各450円
カフェオーレ・アイスオーレ各500円
ジュース(オレンジ・マンゴー)各400円
ウーロン茶・コカ・コーラ各400円
デザート 
ぜんざい800円
ケーキセット800円
アイスクリーム450円
アルコール 
瓶ビール(中)500円
ノンアルコールビール(瓶)450円
熱燗1.5合600円
冷酒600円
焼酎ロック550円
焼酎水割り500円
焼酎湯割り500円

 雨の降る好古園の日本庭園も悪くはない。発掘調査結果に基づいて築かれた庭園には、古さはこれっぽちも感じられないが、あと300年も経てば日本四名園と呼ばれる日が来るかもしれない。

好古園の日本庭園

 これにて私の「黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ」は終わる。しかし、残念なことに今回の目玉商品たる官兵衛御膳は、活水軒の空調設備改修工事のため平成25年7月1日から7月17日まで臨時休業するということで、当分の間は食べたくても食べられない。



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