馬立・亀の池から巡る芝田富士340m???(たつの市)
ちなみに芝田はこげたと読みます
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平成26年1月2日(木) メンバー 私だけ
馬立古墳〜亀の池〜新池〜寺床池〜芝田富士の尾根〜越部八幡神社
芝田富士???向山???柳森山???
我々ハイカーの間で新龍アルプスと呼ばれる山塊が、兵庫県たつの市の中部に存在する。かつては新宮町から龍野市にかけて連なる山々だったが、今は市町村合併により、その全てが「たつの市」になり「たつたつアルプス」と呼び名が変わってもよさそうに思うが、地名的には新宮も龍野も消えた分けではないので、いまだに「新龍アルプスと」呼ばれている。
その新龍アルプスの北端の西側の山上に、楓池・大成池・新池・寺床池などなどの山池が存在する。そしてその山池群れの北側に、新龍アルプス最北端の祗園岳340.4mを囲むように回り込む尾根がある。
その尾根を東側から見ると、見る方角によってはピラミダルな姿に見え、「点が三つ」あると人の顔のように見えてしまうように、富士山3,776mのように見えることから、東側に新宮町芝田(こげた)集落があることから「芝田(こげた)富士」と呼ばれているそうだが、地元に住む90歳ちかい古老に聞くと「わしゃ、聞いたことがない」と言う。
古老曰く、札楽(ふだらく)川の南側の、340.2m三角点(点名:市野保)のある山を『向山』と呼び、そして尾根の先端271m標高点付近を『柳森山』と呼ぶという。ただしその呼び名は、尾根の北側の新宮町大屋集落からのもので、南側の新宮町市野保では別の呼び名があるかもしれない。
今回は、その芝田富士、あるいは向山・柳森山に登って来た。結構歩きがいのある山だった。
市野保集落(JR姫新線播磨新宮駅から1.5qほど)から山根川沿いの林道を、新池目指して登るのが一番楽だろう。だが妥協を許さない私は市野保集落の南側、馬立集落から新龍アルプスへ一直線に登る「城山城大手門コース」を登り、亀の池・新池・寺床池と山上池巡りを楽しみ、しかる後に芝田富士の尾根歩きを堪能しようと計画した。
馬立古墳から新龍アルプスの尾根へ
JR姫新線播磨新宮駅から、栗栖川西側の道を南下すると右手奥に市野保の集落が見え、さらに南に進むと馬立の集落がある。
8:09
けれども軟弱な私は、妻その1の送ってもらい馬立の集落に着いた。表通りに「←興聖寺 城山城大手・馬立古墳群(姥塚古墳)↑」の公設道標があり、城山城大手門コースへ誘導している。
車で来た場合は、馬立古墳入口の墓地に墓参りのための駐車スペースがある。ただしハイカーに解放されているかは定かではない。
8:13
集落内の公設道標に従い進むと、「赤松氏ゆかりの地 県下唯一の古代山城 兵庫県史跡指定 姥塚古墳と群集墳(51基) 城山城跡馬立(大手道)登山口」のゲートがあり、その先で山根川に掛かる山根橋を渡ると小規模な墓地があり、その奥が馬立古墳だ。
馬立古墳群の解説板や、周辺の見所の案内板がある。
新宮町と龍野市(と揖保川町と御津町)が合併したのは9年前の平成17年(2005)なのに、設置者名がいまだに新宮町のままのはどうかと思うが、13年前に建設省が運輸省・北海道開発著庁・国土省と統合し国土交通省になったとたん、人里離れた山間の砂防堰堤の表示板まで、国交省のシールを貼りまくったのは予算の無駄遣いと思うが、小さなことからコツコツとこなしていかなくては、たつの市としてのアイデンティティの確立が危ぶまれないかと心配だ。
馬立古墳群
この古墳群は、今から1300年前の6世紀後半から7世紀にかけてつくられ、全国的に古墳の数が激増する後期古墳時代のものです。ここでは、郷戸型といわれる高さ3m以上の大型横穴式古墳12基をはじめ31基の石墳があります。なかでも姥塚古墳(1号墳)は、ドーム型の珍しい形式をもち、百済(韓国)にその原形があることから帰化系氏族の墳墓ではないかと見られています。なお、姥塚古墳は昭和51年県重要文化財に指定さています。
新宮町教育委員会
馬立古墳群
馬立古墳群は新宮町を代表する古墳群の一つで、この谷底平野一帯には32基の古墳がほぼ完全な状態で残っています。
この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけて当時の農民の作った墳墓であると言われています。巨岩を巧みに積みあげた玄室と呼ばれる埋葬のための部屋と、通路にあたる羨道からできていて、埋葬が終わると羨道の入り口は石を積みあげてふさいでいます。
これを閉鎖装置と言いますが、再び死者がでたときは、この装置を外して横から出入りが可能なので、このような古墳は横穴式石室古墳と呼ばれています。 この時代の古墳には、死者があの世(黄泉の国)で生活に困らないように多数の品々を埋納することが特徴です。町内の古墳からも、須恵器と呼ばれる焼き物や、馬具、武器類、首飾り、金メッキをした耳飾りなどが出土して、当時の生活や埋葬の様子が分かります。
北側の山神社の近くの尾根の先端には、姥塚と呼ばれるひときは大きな古墳がありますが、これは当古墳群の中心的存在で、おそらく村長(むらおさ)と呼ばれる村の有力者が葬られていると思われます。この古墳は石室の平面が方形で、壁面は天井に近づくにつれて次第に内側にせり出しドーム形をしています。こういった石室は穹窿式石室と呼ばれ、大陸にその祖形がみられますので、渡来人の墓ではないかと言う人もあります。当古墳からは、子持ち壺など須恵器や玉類の出土が知られています。
なお、馬立にはこの南側の山麓沿いに、さらに6基、8基、19基の支群があり、計65の古墳が確認されています。
越部古道継承会が作成した古道散策マップも掲示されていて、新池を通らずに寺床池へ行くルートもある。だが、少々時間がかかろうとも新池を通って行こう。
8:21
馬立古墳の中で一番大きな姥塚古墳に寄らずに、「馬立 山里公園」の石碑から始まる、ちょっと薄暗い城山城大手門コースへと入る。
ちなみに『城山城』の読みは「しろやましろ」ではなく「きのやまじょう」で、そして城山城のある山『亀山』は「かめやま」ではなく「きのやま」と読む。
8:30
左手の盛り上がりが馬立古墳の一つで、横穴式石室の入口を見えている。山里公園と銘打っているが、別段整備されつくされてはなく、落ち葉が厚く積もった雑木の茂る林の中に古墳があるだけだ。
8:36
一抱えほどもある石がゴロゴロしていて、歩きにくい道だ。
8:43
もう馬立古墳群は抜けたのかな。でも雑木林の中の、少々薄暗い道はさらに続く。
8:49
しつこく同じような風景が続く。馬立集落から稜線までの標高差は340mもあるのに、ここまでの緩々の山道は100m程も登っていない。
8:55
突然行く手の風景が変わった。急に天気が変わり明るくなったわけでもないのに、前方の林は明るく輝いている。
ついに稜線へと登る急な山道が始まるのかな。
9:00
林床が明るくなり、下草も現れ、ようやく山登りらしくなってきた。でも、寄り道も、迷いもしていないの、なぜか馬立古墳の登山口から40分も経っている。越部古道マップのタイムチャートなら金山跡に着いていなければならないのにおかしいな。
9:04
なんかよい感じになってきた。この辺りから展望がよくなり始めて、亀山の稜線(つつじ尾根と名付けられている)の直前までが、今日の山歩きを通して一番の展望地だった。
9:09
年末に登った、すぐ北の高倉山にはこんな岩場はなかったな。岩に手をついて登ると、驚きの展望が待っていた。
9:11
岩棚の端まで行かなくても、三脚をセットした位置でよい展望は得られるが、画面構成上どうしても端まで行けと言う。そんなに飛び出している分けでもなく、感じた高度感はそれほどのこともない。
9:17
さらに展望の登りは続くが、私の目は後ろに付いているわけではないので、こんな景色を背負って登っているとは思ってもいない。はずだ。
9:28
10分後、またまた景色が良いので、自分撮り。急な登りが続くが、足元はしっかりしていて登りやすい。
9:33
ここが最後の展望地だったかな。別に岩の上に乗らなくてもよいのだろうが、ここでも撮影者の強い意志が働いている。
9:37
、ここまで一直線に登ってきたのが、尾根が近づくとなぜか南へと横這いする。左側が切れ落ちていて、間違って足を滑らし滑落しても掴まれるように少し下にロープが張られている。
9:40
標準コースタイム1時間のところを、1時間20分かけて新龍アルプスの尾根に到着。
亀の池から新池・寺床池へ、山上池巡り
9:44
「亀の池10分」の案内に従い、尾根を南に向かうと「供養碑 南無阿弥陀仏の銘がある」が道端に鎮座している。石に刻まれた文字は薄れ、何かが彫られている形跡が薄ぼんやりとあるだけで、読み取ることは出来ない。
亀の山には、文和元年(1352年)に赤松則祐が築城した中世山城跡があり、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱で多くの人々が討ち死にした。その霊を弔うために刻まれたのだろう。
9:47
道から少し離れて、物置かトイレのような小屋がある。扉を開けてのぞいてみると、自然浸透式トイレだった。使う人は稀だろうし、臭いもしなかった。
9:50
「←亀山25分 ↑亀の池5分 祗園嶽35分」とか「←城山城1q 亀池0.2q↑」とか「←城山城1.2q ↑奥宮神社(井関三神社)0.7q 近畿自然歩道」」の道標を亀の池方向へと入ると「亀岩」がある。亀が首をもたげたよううに見えるところから亀岩と名付けられたのだろうが、読みは周辺の事物に合わせて「きのいわ」なのだろうか、それとも率直に「かめいわ」なのだろうか。
9:57
亀岩から少しで亀の池だ。亀山は東から見ると山々が列なっている様に見えるが、北側の山上は準平原と呼ばれる平坦な地で、亀の池の他に新池、大成池、楓池、車池などの農業用水を確保するため山池が多く築かれている。
10:00
反時計回りの湖畔を巡り、池の北西に面した堰堤の上に出た。
10:04
堰堤を進むと道が分かれている。新池へ行くならどちらでもよいかなと思うが、右側の井関三神社奥宮・水争い遺称地経由の道は歩いた記憶があるので、今日は南の中垣内へ下る道へと通じていると思われる左に入る。
亀の池から西へ延びる道で、地形図に記載されている破線道は1本しかなく、それが井関三神社奥宮経由のもので、私が行く中垣内への道は記載されていない。地形図に記載のない道がたくさんあり、それらは各登山口に掲示されている「越部古道散策マップ」で網羅されているので、参考にすると山歩きがより楽になる。
10:08
歩く人が人が少ないのか、落ち葉が積もった道はきっちりとしたものではないが、林の中に迷い込んでしまうようなものではない。
10:10
平坦なまったく地形的な特徴のないところで道が分かれている。どっちに進んだらよいのか迷いに迷うところだが、明確な道標があり助けられる。
10:15
亀の池西側の緩やかな浅い谷筋を下る。道といえば道だろうが、通る人は少なそう。
iPadと連携した外付けのGPSは木立の中では全く使い物にならないが、時たま気まぐれで測地するする。そんな感度の低いGPSで山行中に現在位置を把握するのは困難だ。
だが、山行を終えたのちならば、折れ線グラフのような山行図の前後関係からその時の位置を判断することはできる。もっと感度のよいGPSが欲しいが、まあ当分はこれでいいか。
10:19
浅い谷から離れ、明るい林の中を行く。左手に谷筋が見えその奥は高くなっている。そこに新池があるのだろうなと地形図を見て思うが、池は低いところにあるのだという常識と、山の上に池があるという事実が頭の中で交錯し、少し混乱している。
10:24
南の中垣内と、北の市野保を結ぶ破線道に出たが、ここには道標がない。流れを渡り右手へ、上流側へと進むことにする。
10:29
亀の池からの「道といえば道」の山道から、「これが道なんだ」という道に変わった。いまはハイカーしか通わないが、その昔は中垣内から井関三神社奥宮へ参詣するする人々が往来していたことだろう。
10:30
近畿自然歩道の道標があり、新池はここから左に入り0.5qとある。越部古道散策マップによれば、ここは十字路のはずだが、右からの道は気付かなかった。ちょっとずれたT字路二つなのだろうか。
10:34
植林の中の緩やかな斜面に、浅く狭い流れがあり、その左岸側に道が付けられている。
10:38
植林から雑木林と変わり、少々シダが煩わしくなってきた。道は水の流れが消えた、ジメジメした溝の中だ。
10:46
谷といえないほどの、ジメジメとした谷道歩きから解放され、一転して明るい山道に変わった。新池東側の350m標高線に沿った水平道だ。
10:49
新池の堰堤が目の前に見えるが、道は左に曲がり堰堤の下を大成池へと続いている。私が進みたい道は、地形図の新池の東から388.4m三角点の西側を通る破線道で、このまま左へ進む分けにはいかない。
11:00
もうすぐ11時になるし、今日は寺床池までにして新宮町市野保へ下ろうかと思い、これから先のルートを確認し、右側へまばらに木々が茂る中に入るとこんな看板があった。
森林を守ろう運動 KEEP THE FOREST NIPPON HAM
[森の薫り・みんなの森]
森林を守ろう運動
森の薫りは、収益の一部を森林資源の造成や
国土環境保全活動に役立てています。
ニッポンハム
ニッポンハムによる社会・環境活動の一環として行われている「みんなの森林」活動によるもので、ここ大成山では平成13年(2002年)より行っているという。
11:01
看板近くには、私が大成池に向けて取った道の北側に、並行するように存在するもう一本の道が来ていた。
11:05
とりあえず新池の堰堤に行ってみるが、次なる寺床池はここから池の周りを反時計回りに5分の1程行ったところから始まるようだ。
11:12
越部古道マップでは湖畔に道が通じているように描かれているが、池が見えるような範囲には存在しないように感じた。もっと探せば明確な道があったのかもしれないが、マーキングらしきものもあるし、適当に木々の間を進む。
11:16
5分の1周ほど池を巡ると、この辺りかなと思われるポイントで、行く手を濃密な木々に阻まれる。池から離れる方向を見ると、切り開きがあり入ってみる。
11:18
ほんのちょっとの登りで道に出た。この道が探し出せなかった新池を巡る道だと確信してしまった私は、ためらわずに左に進んだがすぐ先で道は消滅してしまう。
道が消滅したのは、寺床池へ行く人が途絶えて自然に帰ってしまったのだと思い込み、木立の中では当てにならないGPSを頼りに、藪の中を少々彷徨った。
その結果、見事に寺床池への道を見出すことができた。でも、この道の始まりは何処だと反対側に行くと1回の折り返しの後、上の画像の位置に反対方向から戻ってしまった。
11:25
下の画像は上の画像と同じ場所で、ここから寺床池へは逆方向の右手へ進むのが正解だ。池側の木にマーキングが付けられているが、明確な道標があってもおかしくないポイントだ。
もしも寺床池から来たのならば、新池付近と思われるところで道が消滅してしまい右往左往するだろうが、少し引き返しこのマーキングのところから池へ下りることができる。
11:27
新池の直ぐそばまで通じているが、どの道ともつながりのないこの寺床池への道は幅も広く、山道というよりは林道といってもおかしくない立派なものだ。
11:31
龍野市と新宮町の境界だ。現在は北も南もたつの市なので、今となって正確なものとは言えないが、ここから東側に20mも登れば「四等三角点標石(点名:大成山)」があるはずだ。
11:40
木々の間を適当に登ると、見通しのよくないピークに三角点標石が埋設されているのを見つけた。三角点の点名は「大成山」だが、この辺りが大成山と呼ばれてかどうかは知らない。
11:47
寄り道から復帰し、寺床池を目指す。この道は整理されていない倒木があるものの、トラックでも入れそうな幅があり、新池の造成あるいは補修のために通されたものだろう。
11:50
「←新池15分 ↓市野保65分 寺床池15分→」の道標がある分岐点だ。このまま快適な道を進んでしまっては市野保へ下ってしまうので、寺床池へと狭い道に入る。
11:53
寺床池への道も、山道としては破格の幅があある。
11:58
分岐からわずかで寺床池に着いたが、堰堤には有ってはならない木々が生え、池の水は浅く、はかなり前から山池の役目を終えてしまったようだ。
12:03
芝田富士の尾根に行くために、とりあえず堰堤から池の反対側に行く。池の水は減ってはいるが、池の側は少々ぬかるんでいる。せっかくここまで来たのだからと、久しぶりにシェー!!を執り行う。
芝田富士の尾根を行き越部八幡神社に下山
12:11
すでに12時を過ぎたし、これ以上深みにはまっていくのもなんだし。今日は芝田富士の尾根を確認するにとどめて、市野保へ下る破線道で下山すると固く決意し、寺床池から北西方向へ木々の間を適当に進み尾根を目指す。
まあ尾根に辿り着けなくなっても、低い方へ下れば寺床池に戻れそうだし大丈夫だろう。
12:17
明確な切り開きも、踏み跡もないが、ちょっとした高みにマーキングが付けられた木があり、さらに周囲を観察するとマーキングが付けられた木が先に見える。もう少し進んでみよう。
12:21
ところどころのマーキングに導かれ進むが、まだ尾根に乗っているような感じはしない。
12:24
マーキングに導かれて進むと、突然に広い切り開きに出た。これが芝田富士の尾根の切り開きに間違いない。この私を誘い込むような切り開きを見てしまったら、引き返すことなどできない。まだ1時前だ、暗くなるまであと4時間はあるしこのまま尾根を進もう。
尾根の切り開きは左右に延びていて、左がどこに通じているのか確認するべきだったが、その時は考え及ばずそのまま、麓の越部八幡神社を目指し右へと進んでしまった。
12:27
赤頭・柱黒杭があったが、この辺だけだったかな。でも尾根の切り開きは明確で、もう楽勝と油断している私がいた。右側を見ればなだらかな斜面でどこが尾根か分かりずらいが、左側は切れ落ちていて尾根を外しようがない。
12:40
361m標高点があるなだらかなピークの西にある、350mピークだ。ここが私にとっての迷いポイントで1回目は361mピークへ進んでしまった。切り開きは申し分ないが、方向がおかしいなと、すぐに気が付き引き返した。
2回目は、尾根を意識するあまりに行くべき尾根と361mピークへの間の尾根に迷い込んでしまった。明確な尾根の形をしていたが、ここまでの明確で広い尾根の切り開きと打って変わって、人跡未踏感がありありの、このまま進んだら家に帰ることができなくなるだろうなと私でも感じて引き返した。
12:56
3回目は、左側は切れ落ちた急斜面という、地形図を見れば誰にでも分かる事実に気づいて、左側は急斜面・左側は急斜面と唱えながら進み、無事に目的の尾根に乗ることができたが、こんな地形的な特徴があるのに、ここで迷うのは私ぐらいだろうなと思う。
2回のルート探索ミスにより、都合16分ほどのロスだった。
13:00
東西とも穏やかな尾根の下りが続く。次の328m標高点への登り返しまで100m程も下るようだ。
13:04
今回の山行より、画素数2000万を越える最新鋭デジイチを投入したのだが、レンズは前のままだし、HPの画像は当然ながら以前と同じサイズに縮小しているし、何も変わらないな。
重たいだけだし、次からは前のデジイチに戻そう。私が山登りに大きくそして重たいデジイチを使っているのは、ひとえに自分撮りにリモコン撮影ができるからだ。コンデジでリモコン撮影ができる機種があればよいのだが、残念ながら非常に機種が限られていしまい、気に入ったものがない。
同じような風景の、緩やかな下りが続く。
13:09
350mピークからの尾根は、迷い込みそうになる枝尾根は一つもないない。いくつかのピークを乗り越え行くだけの、271m標高点ピーク東の240m程の尾根の肩までは1本道だ。
13:13
ところどころにマーキングが付けられているが、そこから次のマーキングが見えるわけでもなく、その密度は低い。
13:17
緩やかな下りが続く。行く手に328m標高点ピークが枝越しに薄らと見えるだけだ。
13:24
背丈の低いシダが尾根を覆う場面もあるが、その中には踏み跡が続いている。
13:30
328m標高点への登りだ。そんなに急ではない。
何度も言うが迷いそうなポイントはなかった。だが、逆方向だと難しいポイントがあるのか、マーキングの密度が上がってきた。
13:36
西側が丸っこい328m標高点への登りだが、画像を見るとどこが正しいルートなのか分からない。そして実際に歩いてみても、これといった山道はもちろん切り開きも踏み跡も、獣道の形跡さえない。でも適当に高い方へ高い方へと登っていけばピークへ容易に着ける。
けれども、逆方向へ下るならば自分の位置を見極め、下るべき方向を見定め慎重に行動しないと尾根を外しかねない。しかし実際は豊富に着けられたマーキングがあり、地形図を見ることも何も考えることなく、ただマーキング通りに進めばよいだけだ。
ただし親切なマーキングによって、ルートハンティングの醍醐味、そして失敗して彷徨い、自分が何処にいるのか、さらにどう進めば人里に出られるか分からなくなり、頭の中が真っ白くなる寂寥感を感じることができなくなる。
迷うのも、山歩きの楽しみの一つの要素だと信じて疑わない私にとっては、マーキングの存在は有難迷惑だが、マーキングあるとほっとする自分がいる。
13:39
329m標高点に着いたが、三角点のように標石があるわけではない。ここまで展望らしき展望はなかったが、西側の木々の隙間からほんの少しだけ麓の集落とその先の山並みがのぞけた。
13:40
328m標高点からは、少しの間シダの茂る尾根の、踏み跡と言うか獣道というか、そんな感じになる。
13:43
太腿ほどもあるシダの中を行く。画像では適当にシダを掻き分け歩いているように見えるが、実際は明確な踏み跡がシダの中に続いている。
13:50
これまで切り開きや踏み跡は尾根の真ん中を通ってきたが、328m標高点から下りの踏み跡は、尾根を少し北側にそれている。
13:59
ようやくシダを抜けて、328m標高点と340.2m三角点の間の320mピークへの登りに差し掛かった。
『木を見て森を見ず(You cannot see the wood for the trees)』という諺があるが、さしずめ私の山歩きは『道(山道・杣道・切り開き・踏み跡・獣道・道なき道)を見て山を見ず』といえるだろう。
神様なら、山全体を俯瞰するような視点が容易に得られるだろうが、私には目の前しか見えない。その目の前の風景をつないでいっても、歩いてきた山を語ることなどできない。でも、私にできるのはそれぐらいしかない。
14:02
340.2m標高点西側の320mピーク。地形図を見ると南へ捻じれていて、東から登ってきたら尾根を外してしまうのではないかと思うが、逆方向とて一度歩いてしまった私には外しようがないと思う。誰か初めての人に東側から登ってみて欲しいと思う今日この頃だ。
14:06
相変わらず北側は植林、南側は雑木林。地権者が違うのだろうが、植林側には下草が全くなく非常に不自然に感じる。
スギ・ヒノキの自然林が存在するかどうかは知らないが、そこにも下草がなかったら、この不自然さが自然という矛盾したものとなり、ニューロンのシナプスが固定化、いや毎日何百万・何千万とニューロンが減少する私の頭の中が混乱してきた。
14:09
鞍部を過ぎ340.2m三角点への登りだ。木々がまばらだし、よそ様のHPによるとこの先に好展望地が待っているというし、楽しみだ。
14:12
数少ない岩場の登り、背後に広がる歩いてきた尾根の風景など楽しまずに、ここの歩きを楽しもう。
14:17
芝田富士は展望の尾根では決してなく、ここだけが例外的に眺めがよい。けれども標高はわずか320m程しかなく、ちょぼちょぼの眺めなのが惜しい。
東京スカイツリーの展望回廊450mには遠く及ばず、その下の展望デッキ350mよりも低いのだからしょうがないが、この展望岩場は期待するようなものではない。
14:20
展望岩場を過ぎ、もう少しで340.2m三角点だ。
14:24
340.2m四等三角点標石(点名:市野保)に到着。眺めの良いピークではない。
14:35
またシダが現れたが、ここのは大した事無くすぐに終わってしまった。
毎回シダを見るたびに思い出すのは、高御位山北側にある高山に、無理やりコースで登った時の、背丈を超す密生したシダ藪の尾根を胞子にまみれながら、分速3mでよじ登った苦い思い出だが、あれ以上の藪には出合っていない。
14:45
次は340.2m三角点と271m標高点との間の260mの東西に延びるピークだ。尾根を下るはずが、登ったり下りたり登ったり下りたりで変化はあるが、まだ当分麓に辿り着きそうもないな。
14:49
260mピークには大きな岩がゴロンと一つだけ鎮座している。まるで誰かがここまで運んできたような感じだが、この大きさなら5tぐらいかな。
14:56
260mピークを越えて緩やかな尾根を下っていく。もうすぐ午後3時、日没時刻まであと2時間、大迷い1回分の余裕はあるだろう。
15:03
次の271m標高点ピークが見えてきた。あそこさえ越えれば、緩い下りの先に、尾根の形をなしてない尾根の急斜面が待ち構えているはず。
誰が付けたのか、この赤紐のマーキングが遠くからでも目立っていた。何もマーキングがなければ寺床池で引き返しただろうな。
15:14
もうすぐ山行も終わるというのに、急斜面が待ち構えていて、木々につかまりながらよじ登った先が、271m標高点ピークだった。
なぜかこの手前からGPSが測位しなくなり、麓の越部八幡神社へ直行しているようになってしまった。
15:19
時々前方の視界が開け、周囲の様子がうかがえる。
15:23
平均して下っていけばよいのに、尾根のこの辺りは緩やかなのに、その先は等高線の間隔が狭く、尾根というよりは平板な急斜面になっているんだろうな。
15:26
尾根の突端に着いてしまった。足元から始まる急斜面を70mも下らなければいけないのだが、大丈夫なのかと心配だ。東側の視界を遮るものはなく、栗栖川と揖保川の流れが見える。
15:30
急な下りだが、幸いにも下り切れない激斜面に出会うこともなく、同じような斜度の下りが続く。最後の170mピークへ着くためには、コンパスを使い方向を見定めて下るのが正しいとは思うが、残念なことに先行者が付けた、おそらく正しいと思われるマーキングあり頼ってしまう。
15:40
同じような斜面が続くが、北側が植林になり、マーキングもあるし思い描いたコースに乗っているような気がする。
15:50
マーキング頼りで下り、170mピークに着いた。ここは墳長約30mの前方後円墳『市野保裏山1号墳』なのだが、どこが前方でどこが後円なのか確かめもしなかった。
そんなことよりも、下山予定地の越部八幡神社は、ここで尾根を離れ南側に下らなければならず、そのルートを探すことで頭が一杯になってしまっていた。もうちょっと尾根の先端まで見に行けばと後悔している。
15:51
170mピークから南へ下ると東側は植林、西側は雑木林となり、しばらくその境界を下る。
16:02
ちょっと西へ行きすぎているような気がして、東へ植林の中に入り、植林から雑木林に変わっても少しずつ東へと方向を修正しながら下る。
この辺にはマーキングが全くないことから、もっと下りやすいルートがあるに違いない。
16:05
なんと山道に出た。画像では分かりにくいかもし知れないが、明確な幅が2m程もある道だ。市野保裏山1号墳・上笹古墳群調査団が1987年に調査報告書を出しているので、その時に切り開かれたものかもしれない。
16:07
山道を下っていくと、越部八幡神社の社殿が見えてきた。
16:09
神社の右奥の小さな社の横が登り口だった。ここでも「登山口は神社の奥」が成りたっている。
16:11
朝登り始めてから、ちょうど8時間で、承平2年(932年)創建の越部八幡神社に下山することができた。予想外に時間がかかってしまったが、新しいカメラが嬉しくて自分撮りを100回以上のしたのが原因の一つだな。
越部八幡神社(こしべはちまんじんじゃ)
当社から南に広がる越部地域は、平安時代には越部荘と呼ばれる荘園で、歌人として有名な藤原俊成・定家の所領でもありました。越部八幡神社は、越部荘の鎮守として承平2年(932)に播磨国司の藤原村雄が勧請して創建したと伝えられています。
祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后で、境内神社として大神社・稲荷神社・松尾神社・建速神社・水布禰神社・天満神社・山神社を合祀紙ています。
当社には、大永6年(1526)の遷宮札や天文21年(1552)の御頭次第札など町内では数少ない中世資料が所蔵されており、参道脇には町内で唯一の江戸時代の力石:天保4年(1833)があります。また社殿背後の尾根上には町内で2例しかない前方後円墳のうち1基(市野保裏山1号墳)があります。
現在の氏子は市野保・段之上・井野原の三ケ村で、秋祭りには井野原村より獅子舞が奉納されます。はお(原文ママ)、当社南方の山麓には、藤原定家の姪で女流歌人として名高い越部禅尼(俊成卿の女)の墓所と伝えられる石仏を安置した祠があり、地元では「てんかさん」と呼ばれています。平成12年3月 新宮町教育委員会・新宮町観光協会
播磨新宮駅まで1.5qほどしかなく、姫路駅まで列車で帰れないこともないが、下山途中に妻その1と連絡が取れ、車で迎えに来てもらった。行きも帰りも送り迎え付きの山歩きの楽さにはまってしまいそうだ。
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