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千本駅の北の山を歩く(たつの市)



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平成26年4月26日(土) メンバー 私だけ

JR姫新線千本駅〜送電線鉄塔播磨線36〜37〜38〜清水の湯跡〜千本駅〜千本本陣


送電線播磨線

 JR姫新線千本駅の東側より北東へ、揖保川がほぼ180度屈曲する平見まで真っ直ぐに延びている送電線がある。関西電力の高圧送電線『播磨線』で、送電線に沿って存在するだろう送電線巡視路を辿ってみようと計画を立てた。

 この地域の山行記録は「姫路藪山探検」、「山であそぼっ」にみられるが、二方とも送電線巡視路に頼って歩こうとする私とは大違いで、自分の道は自分で切り開く主義のようであまり参考にならない。今回のコースでも、姫路藪山探検氏のと互いの行程が交差するのみ。言い換えれば、新たな発見が待ち構えているともいえる。

 今日はその第1回目として、手始めに千本駅から3本の送電線鉄塔を経由し、新宮町福栖の清水集落まで行こうと思うが、はたして送電線巡視路の入口を無事に見つけることが出来るだろうか。

今回の山行図
GPSロガー GT-730FL-S使用(地図表示はiPad+FieldAccessHD)


公共交通機関を使い千本駅へ
そして送電線巡視路入口を見つけるまで

7:51
 姫路駅6時56分発の姫新線播磨新宮行きに乗車し、終点の播磨新宮で佐用行きに乗り換えて、一駅目の『千本』で下車。昼間は1両編成ばかりだが、朝夕は2両編成や、播磨新宮までなら3両や4両編成もある。

 ちなみに千本駅の1日の乗車人数は29人(2010年)と少なく、当然ながら無人駅だ。そしてワンマン運転の姫新線ならでのプロトコルが存在し、守らないと列車に乗ることも降りることさえもままならない。

無人駅の姫新線千本駅で下車
降りたのは私だけだった

 単線ホーム1面1線のこれ以上簡素化のしようがない駅で、自動券売機も改札もないが、屋根のある待合室はあるしバリアフリーのスロープさえある。トイレは下の画像には写っていないが、きちんと清掃されたものが駅前広場にある。

千本駅の駅舎

8:06
 千本駅の東側、田畑の中に立つ、本日一本目の紅白に塗られた関西電力送電線鉄塔播磨線36に着いた。航空法で60mを超える構造物は紅白に塗り分ける決まりになっているが、平地の60m以上と山上に立つ50mの邪魔具合を比較すると、山上のがより危険性が高いような気がするし、その間の送電線そのものの方が視認しがたい。事実、送電線鉄塔に衝突する空を飛ぶものはないが、送電線にぶつかることは稀ではない。

 残念なことに、この送電線鉄塔敷は二重のフェンスに取り囲まれ、結界内に入ることも直に触れ合うことが出来ない。人目に付きやすいこんなロケーションの送電線鉄塔に登ろうとする人などいないと思うが、接近性の容易さから、ふらふらと登る人が現れるのだろうな。

田畑の中の送電線鉄塔播磨線36

 地形図では、送電線と山裾が交わる地点に実線道が描かれていて、最有力候補と信じ向かったが、どう見ても違う。

8:19
 このまま見つからなければ帰るしかないなと、山裾沿いの轍のある農道を東へ進むと、用水路に橋が架かり竹林の中へ続く道があった。獣除けの柵の開閉部の先に、文字は抜け落ちたが赤いプラ板の「関西電力送電線巡視路」標識が立っていた。

 これで山登りにきたのに、山に入らずにして撤退という「初めて」を経験出来なかった。

用水路に架かる橋の先に送電線巡視路標識を見つけた


中腹の送電線播磨線37へ

8:23
 竹林の中に道は続いているが、道から外れたところに「火の用心 ←37、38」と記された送電線巡視路標識が立っている。

 矢印の先は、道も踏み跡もない竹林だが、巡視路神のありがたき神託だ。逆らうことなどできはしない。

竹林の中に送電線巡視路標識が
道を外れて左奥へ行けという

8:28
 竹に巻かれた赤テープに誘われて竹林を抜けると、猪用なのか箱罠が仕掛けられたりしている。その先が尾根の突端のようだが、猪にほじくり返され酷いことになっている。その中に送電線巡視路のプラ階段の成れの果てが露出している。

 このプラ階段だが、林業にも使われてもよさそうな気がするが、なぜか送電線巡視路以外で見たことがない。山主に配慮し地形の改変を最小限に抑えつつ、かつ十分な安全性を確保するにはプラ階段が適していのかな。林業なら、小型重機を入れて山肌を削ってしまうのが一番効率的だな。

猪がほじくり返したのか酷い有様の尾根の突端
その中に巡視路に付き物のプラ階段が露出している

8:32
 登り初めこそは、何とか尾根の形をしていたが、次第に尾根形は消えていき。ただの雑木の斜面になってきた。

 落ち葉に隠されているが、とりあえず道はあるし、プラ階段も要所要所に現れる。

 注意深く周囲を観察していけば、巡視路を外すことはないだろうが、この周辺の下草のなさは人為的なものではなく、鹿さんたちの活躍によるものかな。

落ち葉に埋もれたプラ階段の送電線巡視路を登る

8:37
 見通しのよい雑木林で、どこでも歩けそうだが、それでも落ち葉に覆われている巡視路が一番歩きやすい。

適当なところを登っているわけではなく
忠実に送電線巡視路を辿っている

8:42
 本日二本目の送電線鉄塔、播磨線37に到着。樹木を伐採しただけで、その地形の改変を最小にするため、斜面に立つ送電線鉄塔の四本の足の長さはすべて異なっている。下部に盛り土をすればもちろん、上部を削り取っても地圧は変化し不安定になるし、在るがままの地形が一番なのだろう。

 そして、こんな山でも表土は薄く、すぐに岩盤が現れるだろうし、基礎は意外と浅いのかも。

中腹に立つ送電線鉄塔播磨線37


尾根に立つ送電線播磨線38へ

8:49
 「さあ、次を目指すぞ」と登り始める。ウェブを探してもこの山域の記録は少なく、特に今回の私が取ろうとしているコースに関するものは皆無で、この先がどうなているのか、送電線巡視路がどのようなコース取りをしているのか楽しみだ。

38を目指しさらに登る

8:52
 送電線巡視路はピークを目指して登るような無駄なことはせず、最短距離を選んだようだ。下の画像では、落ち葉の積もる斜面をトラバースしているように見えるが、実際は明確な道を辿っている。

どう見ても道を歩いているようには見えないが
現地に行くと落ち葉に埋もれているが道があるのがはっきりと分かる

8:55
 緩い谷型を横切る。道が流されないように、土嚢で補強されている。

 ごく緩やかなトラバースはここまでで、ここからは斜面を斜めに登り始める。

極緩い谷型を渡る

9:00
 雑木林の中の落ち葉の積もった送電線巡視路歩きが続く。続くが、落ち葉の積もる斜面を九十九に道は付けられている。当然、鋭角な曲がり角を見落とし、そのまま進んでしまう。「あれ、おかしいな、道はどこかな」と探すことを何度も繰り返す。

それなりに急な斜面を九十九に登って行く

9:05
 今度は斜面ではなく、尾根に立つ送電線鉄塔播磨線38に到着。初めは平地、そして次は斜面、今度は尾根。そうすると次はピークに立つ送電線鉄塔かな。でもこれまで山の頂上、ピークに立つ送電線鉄塔は見た記憶がないな。

尾根に立つ電線鉄塔播磨線38

 東側が少しだけ見えるが、これでは展望地とは言えない。揖保川まではまだまだ遠い。

次の送電線鉄塔はあそこか


清水へ下山

9:19
 北西の339.7m三角点東河内へと登る尾根には道がなさそう。送電線の真下の北東方向にも道はない。こうなると次なる送電線鉄塔へと案内する標識はないが、歩きやすそうな尾根を下るしかない。

尾根を下ってみよう

9:22
 尾根を下ると、植林の急斜面が待ち構えていた。姫路藪山探検氏は「新宮町福栖の北の山」で、339.7m三角点東河内から下ってきて、播磨線38からそのままこの尾根を麓まで下っている。下って下れないこともない感じだが、なんかすごいな。

 でも明らかにこの尾根は送電線巡視路ではないな。引き返そう。

100m程も尾根を下ると急斜面が待っていた
送電線巡視路はなさそうだし引き返そう

9:27
 実はすでに気づいていたのだが、送電線のすぐ下に白テープのマーキングがあり、緩い谷型の先にも同じ白テープのマーキングがある。これまでの送電線巡視員が付けたマーキングは赤色が多かったし、緩い谷に続く踏み跡もなにもないので違うかなと感じていた。

 でも、これ以外の選択肢はつぶしたし、ダメ元で少しだけ下りてみよう。

送電線鉄塔すぐ下の尾根から
緩い谷型へと白テープのマーキングが付けられている
下りてみよう

9:29
 上からは落ち葉に隠されて見えなかったが、プラ階段があった。送電線巡視路はこの谷を麓まで下りているに違いない。

送電線巡視路特有のプラ階段が現れた

9:33
 谷を下りていくとプラ階段がなくなり、同時に植林の中に付いた等高線沿いの『道』を見つけてしまった。送電線の真下へ行くようにも見え、谷を下ることなどすっかり忘れ『道』へ足を踏み込んでしまった。

谷から離れ、植林の中の水平『道』を進む

9:45
 水平道を行くと、送電線真下の伐採地に出たがそこまでだった。谷を渡る送電線は見えるが、もうこの先には送電線巡視路はおろか杣道もない。引き返そう。

切り株に登っても何も見えません

9:52
 水平『道』に入ったところよりも少し下で、谷に復帰。しっかりとしたプラ階段があった。なんだ谷をそのまま下ればよかったのだ。

谷らしく見えないが、谷の送電線巡視路に戻る

9:55
 間伐材がプラ階段を隠しているが、林業関係者と送電線業関係者との間には何か確執があるのだろうか。プラ階段を保全することは林業関係者にとっても利益のあることと思うのだが。

落ち葉と間伐材が送電線巡視路のプラ階段を隠している

10:00
 いやいや、自分たちの通る道さえも見境なしに塞いでいる。というか、倒木の整理が追い付いていないというのが正しいのかな。

道を塞ぐ倒木
では私はどこどこを通ってきたのだろ

10:05
 麓が近づくと削平地が現れた。何段にも連なるこの削平地は何のだろうか。山上ならば城跡・寺院跡も考えられるが、麓の極めて平坦な削平地は、棚田しか考えられない。今でこそ木々が生い茂っているが、全てを伐り払えば明るい棚田が現れる。

麓近くの棚田跡に下り着いた

10:08
棚田の南端、だが山裾近くではなく50mも離れたところに、赤い送電線巡視路「火の用心」標識が立っている。もっと棚田の際に立てなければ役に立たないと思う。これ以外の標識は確認できず、どうやってここまで来るかが問題だ。

棚田の南端だが、山裾から50mも離れたところに立つ送電線巡視路標識

10:12
 棚田の一段の段差は大きく、下の画像のように1m以上もある。実はこの石垣を見て、ここは城跡だと確信してしまったが、よく考えなくても山に挟まれた、もうどこにも行けないところに城を築くわけはないな。

この石垣を見て清水城跡と勝手に名前を考えていたが、たんなる棚田跡だった

10:14
 清水集落というか、2〜3軒しか民家がないので集落ともいえないが、とりあえず麓に降り立った。ここも棚田跡だな。

清水集落の一番奥にに降り立った
ここも棚田だったのだろか

 振り返ると次に行かなければいけない送電線鉄塔播磨線39が山間に立っているのが見える。

私は奥の民家の左手から下りてきた
私の立つ道を左へ行くとお墓がある


清水の湯跡、そして千本駅へ戻る

10:24
 まだ時間は早いが、今日の送電線鉄塔巡りの山旅を切り上げようと車道に出ると、地形図通りに実線道が山の中へ続いていた。続くであろう次回の鉄塔巡りのために、せめて送電線巡視路の入口だけでも確認しようと、舗装道路から地道に変わった実線道を北に進む。

清水集落から北へ延びる実線道を行く

10:26
 草は茂るが、開けた地形の中で道は左右に分かれ、その奥に新宮町教育委員会が立てた解説板がある。奥に屋根が一部欠けたお堂が見えるし、寺跡だったのかなと解説文を読むと、なんとここは『清水の湯』と呼ばれる温泉が湧いていたという。

「清水の湯跡」の解説板
背後の草むらの中に石組みの湯船、奥の屋根は薬師堂

清水の湯跡

 ここ福栖村清水垣内は、かつて「諸人のゆあみくるすの湯の岡は、千鳥群れ行く姿なりけり」と浦上則宗(中世の武将)が歌った名湯があったとされる場所です。
 ここに温泉があったことは江戸時代に書かれた『播磨鑑』や『播磨神社仏閣古城碩異談』等で紹介されており、『播磨揖西郡千坊金井村君が湯目録全』には次のような詳しい記述があります。
 「播州揖西郡千坊金井村に貞享5年(1688)神月八日卯の刻(午前6時)より、薬のしほ湯わき出る。諸人湯治して諸病をいやしほんぷくしたので、此所の公主が湯船、湯下駄などを揃えた。やがて、薬師堂・権現堂なども相次いで建ち、街道を行く諸人などもその話を聞いて立ち寄り、つかれた病をいやしたため、遠国、島々まで有名になり、はるばる湯治に来る人も多い。」
 ちなみに、今も湯壺の跡や、温泉縁の薬師堂、弘化3年(1846)の石灯籠などが残っています。

平成8年3月 新宮町教育委員会

 解説板の裏側の草むらの中に石組みの湯壺の跡があった。江戸時代には温泉は冷泉となり廃れようとしたが、冷泉でも効能あらたかで汲み上げて沸かし湯として利用したという。

 今の湯壺はどう見てもたまり水でしかないが、かつては名湯の地だったので、ボーリングしたら簡単に温泉に当たるかもしれない。

解説板の裏側に石組みの湯壺跡が残っている

 どうしたらこんな風に屋根が壊れるのか、空から石でも降ってきたかのような薬師堂は、中を覗くと雨漏り跡もない。

湯壺跡から左奥へ行くと薬師堂がある

10:37
 こんなところに自噴する天然温泉があったんだと感動したのち、解説板から右に続く道をしばらく行くと「火の用心」標識があった。道からは外れて左へ登ると39、そのまま道を進むと40かな。

 一応、次回の取り付きが分かったところで、ここから引き返す。

清水の湯跡から東へ入ると送電線巡視路標識があった
本日は次の予定もありここで引き返す

 千本駅で妻その1と落ち合う約束をするが、最短距離で行くためには、また山越えをしなければならない。でも山越えは嫌なので、ほぼVの字型に大回りして国道179号線経由で千本駅を目指す。運が良ければ国道の途中で拾ってもらえるかもしれない。


千本本陣

11:36
 結局1時間かけ千本駅まで来てしまった。駅に着いたと同時に妻その1もやってきて、次なる目的地「千本本陣」に向かうが、団体客がいて12時30分以降にしか入れない。仕方なく、その辺をオープンガーデンを訪ねながらドライブして時間を潰す。

 千本駅から西へ千本街道踏切を渡るとすぐに千本本陣がある。かつて千本集落は、因幡街道と呼ばれた道沿いに宿場町として繁栄していた時代があったという。千本本陣は本来は大庄屋の屋敷であったが、参勤交代の大名や、幕府の役人が宿泊したり休憩に利用したという。今、母屋は残っているが、大名が泊まった離れは現存していない。

千本本陣

千本宿 本陣

 江戸時代、山陽道(姫路)から分岐し新宮を経由して山陰地方へゆく道をこの辺りでは因幡海道と呼んでいますが、正確には因拍雲作往還といいます。ここ千本はこの街道の宿駅として栄え、馬25匹が伝馬役として常置されていました。また、当宿駅には大名や幕府の役人が宿泊したり休憩する本陣もあり、鳥取・松江・津山藩等の大名が参勤交代の時に利用していました。
 千本宿の本陣であった内海家には今も当時の建物(御入間塔は現存していない)が残っており、大名の宿札や貴重な古文書も多数所蔵されています。当本陣の敷地面積は約4,200平方メートルです。
 なお、当本陣には文化10年(1813)に日本全国を測量した伊能忠敬が宿泊し、慶応4年(1868)には西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫使の一行(約1,000人)が宿泊しています。

平成8年7月 新宮町教育委員会


千本宿のなりたち

 「書写山行幸記」によると元弘3年(1933)5月26日、後醍醐天皇が、配流された隠岐から上洛する際に千本に宿泊したとあるのが千本が記録に登場する最初のものです。近世になると初めは姫路藩領、龍野藩領、幕府領を経て龍野藩領に属しました。宿場町としては規模は大きく、本陣は鳥取藩池田家や松江藩平家などの大名が利用していたことが宿札に残っています。他には全国を測量した伊能忠敬や、幕末には山陰鎮撫使の西園寺公望なども当地に宿泊した記録が残されています。

 天保8年(1837)の絵図で、東から西へ描かれた太線が因幡街道である。街道沿いには、瓦葺の建物が数多く見られる。本陣は千本宿の東方にあり、高札や立派な塀や門等が描かれている。千本宿の東側入り口が当時は屈曲していたことが当絵図からからうかがえます。(龍野市立歴史文化資料館所蔵)

 入国する参勤交代行列 文化14年(1817)に10万石復帰した津山藩主松平斉孝が初めて故郷に錦を飾った。絵図は明治17年(1884)に作られたが、この初入国の盛儀を記録に基づいて再現したものという。(津山郷土博物館蔵)


因幡街道

 播磨国姫路城下より因幡国鳥取城下を結ぶ延長26里の街道で、現在の国道29号線(姫路〜龍野)・179号線(新宮〜作用)・373号線(佐用〜智頭)・53号線(智頭〜鳥取)の道程にほぼ相当します。南光町徳久あたりで、津山からの美作街道と合流し山陰・中国地方の大名が参勤交代の道として利用しました。鳥取から志戸坂峠までの道程は智頭街道とも呼ばれます。

飾西宿(しきさい)
 飾西宿は姫路市街の西側を流れる菅生川の西側に位置し、旧本陣を中心とした町並みが旧道沿いに残っています。
 山陽道と因幡街道の分岐点は、夢前川東側の下手野ですが、現在残っている道標は他から移設されたものといわれています。また、夢前川西側の青山から飾西に至る道も因幡へ至る道として多用されたようです。

觜崎宿(はしさき)
 揖保川の渡しとして栄えた宿場町で、川を中心に東觜崎(龍野市)と西觜崎(新宮町)に分けられ、街道の荷役を分担していました。
 江戸時代には高瀬舟による揖保川の河川運送の荷上場としても大いに賑わいました。

千本(せんぼん)
 「書写山行幸記」に後醍醐天皇が千本に宿泊した(1333年)とあるのが千本が記録に登場する最初のものです。
 千本の庄屋であった内海家が本陣をしており。多くの宿札が今に残されています。それらの中にはm鳥取藩・松江藩・津山藩の各藩主の名や、参院鎮撫隊の西園寺公望の名前も見られます。

三日月(みかづき)
 古くから因幡街道の要駅として開けていました。鎌倉時代に北条時頼が全国行脚の際に3ケ月ほど滞在したのが地名の由来とされ、最明寺には時頼の木像が残っています。また、承久の乱に敗れた鳥羽上皇も隠岐に流される際に当地を通ったとされ、町内には縁の大ムクが存在します。
 松江藩の旧本陣であった織田家を中心とした旧道の雰囲気はよく残されています。

平福宿(ひらふく)
 平福は、山中鹿之助が攻め落としたことで有名な利神城の城下町として池田輝興が整備しました。領主がその後に江戸詰の旗本に変わった後、鳥取藩が本陣を整備するなどし、宿場町として大いに繁栄しました。作用川に沿って往時を偲ばせる川屋敷が立ち並び、大変美しい景観を保っています。

大原宿(おおはら)
 鳥取藩池田家の旧本陣有本家や旧脇本陣湧元家をはじめとして街道沿いには江戸時代の町屋が立ち並んでいます。因幡街道の旧宿場町の中でも最も往時の面影を留める街並みとして保存・整備が進んでいます。また宿場に残る道標は、因幡街道のものでは最も古いとされています。

智頭宿(ちず)
 この宿場は志戸坂を超える際の準備を行う宿場町として、鳥取県内では最大の宿場町となっていました。鳥取藩池田家の藩主は参勤交代の際には必ずこの宿場の本陣に宿泊しており、鳥取藩代々に渡って熱心に整備され続けました。

用瀬宿(もちがせ)
 戦国時代には磯部氏・影石城の城下町として発達しましたが、江戸時代に入ると宿場町として整備されました。この当たりから千代川は川幅が広く流れるようになるので、千代川を利用した河川運搬の起点として高瀬舟が多く発着しました。また、西側の佐治へと至る佐治往来の起点でもあり、市も立つなどして因幡中部の交通の要所でした。

鳥取(とっとり)
 室町時代に山名氏の領地として出城を築いたのが町の始まりとされ、戦国期に数々の領主交代を経ています。戦国末期には羽柴秀吉が攻めあぐねて兵糧攻めにしたことで、堅城として著名です。江戸初期に池田氏が因幡・伯耆32万5千石の太守として入国し、城下町として発達しました。
 城下町は智頭(因幡街道)・若桜・鹿野の3街道を基幹として整備され、それぞれの街道の起点として、因幡・伯耆の政治経済の中心として大いに繁栄しました。

 千本本陣に残る建物を利用して、田舎料理と手打ちそばの店を8年前から始めたという。店名は「史跡千本本陣」といい、国道179号線沿いではなく、千本集落の中を通る旧因幡街道の細い道沿いにあり、隠家のような存在だ。

千本本陣の母屋

 庭も見事だが、店内も旧家をそのまま使った雰囲気のあるものだ。玄関の土間にテーブル席もあるが、やはり座敷がよい。もうすぐ5月になるというのに炬燵に入って料理をいただく。

掘り炬燵ではないが、くつろげる座敷

 頂いたのは、私はセットメニューの藤(温かい蕎麦)、妻その1は同じく藤(冷たい蕎麦)。

 値段的には高いと思う。まあロケーション代が含まれている思えば安いかもしれない。なお、高いコース料理は予約が必要だが、手打ち蕎麦には限りがあるので、当日でも電話を入れてもらえれば取り置いてくれるという。

季節の前菜(3品)
添えられた花は八重桜(あまり味がないな)

手打ち蕎麦
添えられた花はツツジ(これもあまり味がしない)

固形燃料で温められる、温かい蕎麦の野菜小鍋
これに蕎麦を入れて食べる(投汁そば)

季節の炊き込みごはん(タケノコ)

冷たい蕎麦に付く天ぷら

 最後に播州野歩記のお店訪問に付き物のお品書き。

セット  料理
1,600円
季節の前菜(3品)
天ぷら冷たい蕎麦
 又は野菜小鍋温かい蕎麦
季節の炊き込みごはん
(冷たい蕎麦又は温かい蕎麦かどちらか選んでいただきます)
つつじ1,600円
蕎麦湯豚しゃぶしゃぶ鍋
ざる蕎麦
冷たい蕎麦、温かい蕎麦、両方食べていただけます
蕎麦湯で食べる豚しゃぶはあっさりした味になります)
*炊き込みごはんつき 1800円
2,000円
季節の前菜(3品)
蕎麦湯豚しゃぶしゃぶ鍋
温かい蕎麦
季節の炊き込みごはん
蕎麦湯で食べる豚しゃぶはあっさりした味になります)
コース  料理
2,500円
季節の前菜(4品)、あまごの塩焼き
海老野菜天ぷら冷たい蕎麦
 又は鴨だし野菜小鍋温かい蕎麦
(冷たい蕎麦又は温かい蕎麦かどちらか選んでいただきます)
季節の炊き込みごはん デザート
あじさい2,800円
(夏のお勧め料理です)
季節の前菜(4品)、あまごの塩焼き
湯葉冷奴豆腐 海老野菜天ぷら
冷たい蕎麦 季節の炊き込みごはん
デザート
水仙2,800円
(冬のお勧め料理です)
季節の前菜(4品)、あまごの塩焼き
蕎麦湯豚しゃぶしゃぶ鍋
お蕎麦
 (冷たいそばセット+\150円)
季節の炊き込みごはん
デザート
蕎麦湯で食べる豚しゃぶはあっさりした味になります)
椿3,000円
季節の前菜(4品)・あまごの塩焼き
鴨鍋・お蕎麦・季節の炊き込みごはん
デザート
3,500円
季節の前菜(5品)あまご塩焼き
鴨鍋・(豚肉に変更は\3300円)
お蕎麦・野菜天ぷら
季節の炊き込みごはん・デザート
紅葉(もみじ)4,500円
季節の前菜(5品)あまごの塩焼き
豆乳湯葉豆腐(夏は湯葉奴)
鴨鍋・海老野菜の天ぷら
お蕎麦・季節の炊込みごはん
デザート
そばなしも可(各料理350円引きです)
蕎麦が 食べれない方のメニュー
桜セット1,600円
季節の前菜(3品)海老野菜天ぷら
季節の炊込みごはん
冬季限定(猟期中)11/15〜3/15位迄
ぼたん鍋3600円(猪肉100g)
 4300円(猪肉150g)
地元の野菜猪最上級肉を
自慢の自家調合みそでどうぞ!
(蕎麦もついてます)
花水木セット2,000円
季節の前菜(3品)
野(山)菜の天ぷら(冷ソバ用)
野菜一人鍋(温ソバ用)
季節の炊込みごはん
単品メニュー
野(山)菜の天ぷら500円
豆乳湯葉豆腐鍋500円
とろろごはん(夏期)500円
デザートメニュー
アイスクリーム(柚子、抹茶、紫芋)300円
京都の葛きり600円
パンプキンケーキ(自家製)300円
蕎麦メニュー
ざるそば(冷)1,000円
おろしそば(冷)1,100円
山かけそば(冷)(地卵付)1,400円
天ぷらそば(冷)(えび、野菜)1,500円
投汁そば(温)(油あげ、野菜の一人鍋)1,300円
鴨鍋そば(温)1,800円
追加そば(1/2)400円
単品メニュー
あまご塩焼き600円
鴨鍋1,000円
天ぷら(えび・野菜)1,000円
前菜5種類500円
炊き込みごはん200円
お飲物
ビール(中)500円
日本酒 熱燗(龍力・八重垣)700円
日本酒 冷酒(龍力・八重垣)700円
焼酎(芋・麦・蕎麦)400円
ウイスキー400円
グラスワイン400円
ボトルワイン3,000円
梅酒(自家製)400円
特選あまご酒 二合1,800円
特選あまご酒 三合3,400円
ノンアルコールビール300円
コーヒー・紅茶・蕎麦茶各300円

 次回は、新宮町福栖の清水集落奥の終了点から登り始め、2回山越えをして新宮町篠首の中村集落と滝谷集落の間に下山します。



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