山裾に香山城のある山を登る(たつの市)
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平成26年5月10日(土) メンバー 私だけ
ウエスト神姫バス渡場バス停〜家氏集落〜林道〜作業道〜375.8m四等三角点(点名:滝谷 )〜香山配水池〜香山城跡(大歳神社)
たつの市新宮町の香山城跡
たつの市の北東部、旧新宮町域を通る関西電力送電線「播磨線」を追い掛けて二回歩いたが、次の篠首から平見へのルートを研究しているとき、その南側の揖保川近くの山裾に香山城跡がある事を知った。
香山城といっても、香山にある山城ではなく、在地土豪の香山氏が、山裾の緩傾斜地に築いた平城と山城の中間というか、微妙な立ち位置の城だ。
この城は織田信長が羽柴秀吉に命じて行われた中国攻め(天正5年(1577)〜天正10年(1582))の城攻めの一つとして、天正8年(1580)に秀吉軍の黒田官兵衛により落城した。
この戦国時代に守りが弱い平城を居城とするならば、攻められたときに守りやすい山城が背後の山上になければならず、地形を見ると山上の稜線沿いに平場が多くある。私が香山氏なら西側を山に、東側を揖保川に守られ、そして南北は山裾と揖保川の狭隘部さえ守り切れば大丈夫などと油断せずに、山上に難攻不落な山城を築いたことだろう。
必ず山上に山城跡があると確信し登ってきた。たつの市埋蔵文化センター学芸員による調査では、山上に山城跡を見出すことが出来なかったというが、自称低山徘徊者の私ならば、存在したならばず見つけ出す自信がある。
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空中写真を頼りに北側から稜線へと登る
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスに、平成22年の「山裾に香山城のある山」を撮った空中写真がある。それを見ると北側斜面が大規模に伐採され、その跡は植樹されることなく草原が広がり、その草原の中に道が通っているのが分かる。
この山に登った記録は姫路藪山探検の新宮町篠首の滝谷三角点しか見いだせなかったが、同じコースでは何なのでと思い、いや林道と作業道歩きで楽をして登ろうというのが主目的なのだ。
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8:41
神姫バスの姫路駅前(北口)7時25分発の龍野行きに乗車し、終点の龍野を8時7分に下車(終点まで乗っていたのは私だけだった、670円、正しエコ定期制度を活用し100円)。続いて、ウエスト神姫バスのダイセル発便に8時15分に乗車し、渡場バス停を8時39分に下車(540円、神姫バスの通勤定期ではウエスト神姫のエコ定期制度は使えない)。
渡場バス停は揖保川に架かる宇原橋近くのたつの市新宮町にあり、橋を渡ると山崎町宇原になり、宍粟市50名山の最南端に位置する南山431.1mの最寄バス停でもある。ちなみにこの渡場とは、昔は揖保川に架かる橋がなく、ここに渡し船があったことから名付けられたと聞く。
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8:55
西側の家氏集落を通り抜けると、舗装道路が地道となり鹿柵が現れる。車も通れる開閉部を開けさらに進む。車で来るならさらに奥にも入れるが、この辺なら車は止め放題だ。
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8:59
廃屋の先で橋を渡り南側へ入る道があり、これが本日の「山裾に香山城跡のある山」へ誘う林道の入口だ。
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9:00
曲がると、すぐに目的の山が見え、伐採され草原状になっていると思われる北側斜面が見えてきた。よく見ると空中写真で見えていた道も微かに見えているが、草原というよりはすでに低木が茂っているようにも見える。
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「関係者以外車両の通行を禁止します (社)兵庫県森と緑の公社」という警告板があり、入ってはいけないけど車でも(乗用車でも)十分入れるよく整備された林道だ。
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社団法人兵庫県みどり公社の表示板に「たつの市新宮町香山字北山1603-321」とあり、この「山裾に香山城跡のある山」の名前は「北山」なのかもしれない。
だが、「山裾に香山城跡のある山」にある375.8m四等三角点(点名:滝谷)の所在地はたつの市新宮町篠首字尾ノ鼻2107番地68なので「尾ノ鼻山」かもしれないし、それとも山裾の香山城跡の所在地がたつの市新宮町香山字坪尻山なので「坪尻山」かもしれない。
なお、「社団法人兵庫県森と緑の公社」は平成15年4月1日に「財団法人ひょうご農村活性化公社」と統合し「社団法人兵庫みどり公社」となり、さらに平成25年4月1日に「公益社団法人兵庫みどり公社」となっている。
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9:14
地形図に記載がなく、空中写真でも見当たらない林道が現れた。はたしてどこへ続く林道なのか興味があるが、、見た感じはごく近年に開かれているようだ。
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林道に草が茂り、その奥には鹿柵の「出入口」表示が見えている。ここで林道はお終いなのかな。
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林道は終わりと思いきや、さらに奥に続いていた。
すでに想定される草原地帯に入っているはずだが、草原というよりは左右は林床まで日光が届き雑木密藪だな。これからスギヒノキの植林地を、こんな風な雑木密藪に改変されていったら、道なき山の山登りが困難になってしまうではないか。
まあ今すぐ、そう成るわけでもないが、植林地があるから人の手が入り、ハイカーも歩ける環境が保たれているが、日本国中が手入れ不要で保水能力が高く、台風などに対して抵抗力が高いが、しかし人の分け入ることを許さない雑木林になってしまったら、私のような低山趣味者にとっては大打撃だ。
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9:21
北側が見える。どこに続くのか分からなかった林道は、家氏から西へ進む林道に繋がっているように見える。
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9:23
まままた林道に草が茂っているが、きっとこの先にも林道が続いているのだろう思う。でもやけに広く車の転回地のような感じもするし、この先に林道が続いているとは思われない風景だ。
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騙されました。林道は終わりでした。丸太の橋を渡ると鹿柵があり、その先は作業道だった。
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空中写真では明確な道だったが、実際は草が生い茂る酷い道だ。こんな道が続くなら撤退することも考えなくては。
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一面ススキ原の砥峰高原との類似点はあるが、人為的に管理しているといないでは大違いだ。それでも行き来する人があるようで、作業道跡だけはススキが倒れている。
4年前の空中写真に明確に写っている作業道と、このススキが生い茂る作業道の成れの果てが同じものだとは、信じられない。
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このピンク色の花は、私が知る数少ない花の一つでタニウツギだ。
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草原改め雑木密藪の中を九十九に登っていくが、その折り返し地点から先には当然ながら道はないが、折り返す道も見当たらない。困ったなどうしようかなと周囲を観察すると、山側の段差の上から折り返しが続いているのを見つけたりする。そんなところにはこのピンクテープが下がっていて、尾根に至るまでの道しるべとなっている。
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9:48
本当にここが作業道だったのかと半分信じられない気分だが、それなりに眺めはよく、背後に見えるは家氏集落と、揖保川東側の宇原集落で、その先は南山だな。
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10:04
難敵が現れた。ノイバラやサルトリイバラも茂っているが、そんなのは踏みつけていけばよいのだが、このジャケツイバラが酷い。目線の上でしかも頭頂より低い位置で、横から枝を延ばしているのだが、昨年の枝に付いているトゲが鋭いうえに堅い。
帽子に絡み付くぐらいは許せるが、帽子を通して頭皮に食い込んでくるのだ。いっぺんに二個以上のトゲが食い込むと外すに外せず、痛い痛い。トゲを外そうと格闘していると、そばの枝のトゲが肩に食い込んでくるし、最悪だ。
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そうこうしているうちに、作業道の終点に着いたようだ。後は植林の中を登るだけで、憎きジャケツイバラとはサヨナラだ。
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草原(雑木密藪)と植林地は鹿柵で区切られているが、作業道から直登した先は柵が倒れていて、そこから植林の中へ容易に踏み込むことが出来る。
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だが、植林地を登りたくてもあまりにも急で、鹿柵沿い左へ少しづつ登っていくが、それではさっぱり登ることが出来ない。仕方なく稜線目掛け直登を試みるが足元が悪く難しい。
10:24
今度は右手に水平移動していくと急斜面に踏み跡があり、マーキングも付けられている。結局のところそこは鹿柵が倒れていたところから真っ直ぐ登ったところだった。
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バスを降りてから、2時間弱でようやく稜線に到達することが出来た。山上に城跡がないか、まずは揖保川沿いに北から攻めてくる敵軍をいち早く発見できるだろう、稜線の東端へ行ってみよう。もしかしたら未発見の見張り台跡があるかもしれない。
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山城跡は何処かいな
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幅の広い稜線には、道も、踏み跡も、獣道も、何もないが、木々の間をどこでも自由に歩ける。古の切り開きがあるようにも見えるが、もう関係なくどこでも歩ける。
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揖保川と山裾の狭隘部を行く敵勢をいち早く見つけ、そして麓の香山城へと知らせる重要な役目を負った物見櫓跡があるはずなのだが、稜線の東端には人手による地形の改変の跡は何もない。
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稜線に辿り着いたポイントに戻ってきた。木々が疎らな東側に比べて、西側は少しは木々の本数が多いが、明らかな切り開きがある。下の画像での切り開きはもっと右側なのだが、倒木を迂回するためわざと切り開きを外している。
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375.8m三角点の東側の370m程のピークへの登りだ。緩やかでも急でもないが、この登りの標高差30mは、9階建てのビルの屋上位に相当するので、真剣に登れば息が切れてしまう。
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370m程のピークは岩がゴロゴロしている。
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370mピークの西端、この先へ行けなければジャケツイバラの道に引き返さなければならないが、まだ行けそうだ。
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根っこがこっちを向いている倒木があり、三角点ピークはここを右だ。
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11:01
375.8m四等三角点(点名:滝谷)に到達。この辺りがこの「山裾に香山城がある山」の最高標高地点のようで、頂上というものかな。
三角点の周囲こそ木々が伐られているが、展望は全くない。紅白の測量用棒が刺してあるが、国土地理院による標石の現状を調べましたよという、登頂記念プレートのようなものかな。
北側の348m標高点へ続く尾根を少しだけ下り周囲を観察したが、どこから飛んできたのかタコの残骸があるだけで、ここにも人工的な地形の改変の跡はなかった。
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11:08
三角点から目印の倒木まで戻り、さらに南へ平坦な稜線を進むが、此処にも城跡のような雰囲気は全くない。
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次は南西方向へ曲がる稜線を行くが、下草や低木は皆無でどこでも歩け、見通しがよい。見通しはよいが、見える範囲には山城跡を示す削平地や土塁、堀切、犬走、井戸などの跡は全くない。
誰も知らない山城跡を発見し、一躍山城跡業界の寵児となる夢をいだいてやってきたのに、がっかりだ。
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11:14
麓の香山城北郭から、急な尾根を無理やり登ってくれば、この平たい370mピーク辺りに着くはずで、何かあるならここではないかと期待していたが、倒木があっただけで何もない。
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同じく、370mピーク付近、何もない。香山城主の香山氏は、戦国時代の武将のはずだが、攻められたら守りにくい山裾に城を築いたことからして、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と同じような考えだったのかもしれない。
でも、「話せば分かりあえる」という、戦国時代としては異端の考えは、黒田官兵衛には通じなかったようで、攻め滅ぼされてしまった。山上に強固な山城を築いていれば、結局同時に攻められた長水城と同じ運命を辿っただろうが、黒田官兵衛の心胆を寒からしめたかもしれなかったのにと、妄想を膨らませる今日この頃だ。
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11:18
平たい370mピークの西端から、南へ進路を変えなければいけない。だが、どこでも歩ける稜線は、どこでも歩けるがゆえにルートをしっかり把握していない私はあらぬ方に進んでしまう。下の写真を撮った段階ですでに南へのターニングポイントを過ぎているのだが、全く気付かず、さらに進んでから下りがきつくなり「あれ可笑しいな、(地形図を見て)左に見えているのが本来の稜線だな」と早い段階で気づき、どこでも歩けるが故にショートカットし事無きを得る。
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南向き方向の稜線も何もない。
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さらに稜線を南に進んでも何もない。
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西側の350〜360mの南北に長いピークも行くつもりだったが、どうせ行っても何もないだろうと、向かう途中で引き返すことにした。
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少し人手が入っているような、浅い溝が現れた。この先の稜線の東側には、犬走のようにも見える地形があり、かなりの確率で人工的なものと判断したが、犬走だけの山城はないだろうな。
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11:45
稜線最後の340mピークへの登りだが、もうこの「山裾に香山城のある山」には、山城はなかったと断言できる。戦国時代から400年以上ほどの年月で山城跡が、跡形もなく消滅するはずもない。
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香山配水池へ下山
11:47
340mピークにも人工的な地形はない。稜線に辿り着いてから、ここまでの画像を見直すと下草そして低木のない落ち葉の積もった雑木林という、代わり映えのしないものばかりで、おまけに展望は皆無と、この山行記録を見た100人が100人とも登ろうなどとは思わないだろうな。
それで下山ルートだが、この真南に延びる尾根を下るわけだが、地形図と空中写真から、麓近くに円形の構造物、おそらく配水池があり、そこからは点検道路を利用しよう。
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11:51
下り始めは緩やかな尾根で、切り開きはある。でもあることはあるが、維持管理が行われている様にも見えず、自然に帰りつつある。
この山の古い空中写真を見ると禿山だったこともあり、薪炭林として過剰搾取された時期がある。だが、いまは誰にも見向き去れず、私の次にハイカーが訪れるのはいつのことになるやら。
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11:56
少しきつくなってきたが、雑木林の尾根には倒木など数えるほどもなく、淡々と下っていくのみ。
この尾根の西側にも平行するように南側に下る尾根があり、実のところ確実に目的の尾根に乗っている自信はない。当てにならないGPSは衛星をロストし「私は誰、此処は何処」状態だし、雑木の茂る尾根は外界を見ることを許さない。
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12:01
330mピークから70mの麓へ、その標高差は260mあるが、派生する尾根はなく、歩きやすそうなところを探しながら下るだけ。
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12:05
岩場の下りだ。もっと巨大な岩なら眺望がよかろうが、これぐらいでは雑木林に埋没しさっぱりだ。
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12:14
マーキングも境界杭も何もない、手付かずの尾根の清々しさは、展望が全くなくてもそれなりに楽しい。おまけに低木・下草がなくてどこでも歩けるのは嬉しいが、天敵が絶滅し増殖を続けるシカたちの仕業と思うと困ったことと思う。
外国生まれのシカの天敵を連れてきて野に放すのも弊害が多すぎて、現実的ではない。かつては人間もシカの天敵だったが、銃砲所持の厳格化と狩猟人口の高齢化により、もはや天敵とはなりえない。少子化対策も重要だが、爆発的なシカの増殖対策を怠ると低木・下草の消滅に止まらず、森林の自然更新が滞り、山が荒れ、自然災害が激増するやもしれない。
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12:20
だいぶ麓が近くなり、ろろそろ西側に配水池が見えてくる頃だろう。少し西寄りに行ってみるか。
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12:25
円筒タンク型のコンクリート製配水池が見え、麓の集落も垣間見える。このまま配水池へ向かても切り立った擁壁に阻まれるのは目に見えているし、もう少し雑木林の中を下ろう。
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稜線から40分で、尾根の西側にある香山配水池に下り着いた。「香山城には山城が存在した」という世紀の大発見は逃したが、計画通りのコースを歩けたので良しとしよう。
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一部だけ舗装されている点検道路を下る。
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12:35
点検道路の登り口には鹿柵あるが、開閉自由・通行自由だが、篠首川に架かる篠首橋の袂から始まる取り付け道路は、入り口にある会社の車置場になっていているため、車を乗り入れることはできない。
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香山城跡を訪ねる
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12:50
香山城跡は大歳神社の北と南に独立した北郭と南郭に分かれ、木内内則氏が描く縄張図は、見た目東向き斜面に築かれた棚田にしか見えないが城跡だという。棚田に付き物の水源となる小川がないから、棚田ではないな。
鹿柵を開け、用水路を渡り香山城南郭跡へ入る。この鹿柵を進入禁止の結界と誤解している方がいるようだが、通っていけないのはシカだけで、開閉部があればそこから出入りするのは自由だ。ただし開けた後はきちんと閉め、打掛や貫抜があるならば、たとえ柵の反対側になり操作がしづらくてもしっかりと掛け、また針金やロープで縛られていたら、同じように縛りなおすのが掟だ。
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入ったところに、2011年4月に建てられた東屋があり、ここで昼食にする。本日のランチメニューは、いつも通りにコンビニ惣菜パンを二つだけ。そして、食べ終えたら城跡見物をしよう。
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13:10
まずは南郭から見ていくが、私の趣味の中には城跡巡りはない。ここも特に興味はないので、城郭の東端を流れる農業用水路沿いに進むだけで、深入りはしない。
でも城跡だと知らなければ、棚田跡にしか見えないな。というか絶対に田畑として再利用していたに違いない。
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北郭は南郭よりも大規模で、最上部には主郭や築池跡もあるらしいが、前述の理由で、一段目の石組み跡だけを見るのにとどめたが「これ絶対に棚田跡だ」。
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南郭と北郭の間にあるのが大歳神社で、拝殿・本殿は至って普通の造りだ。
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境内の南側の、前が開放されている建物は、農村舞台のような感じがする。
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大歳神社で唯一変わっているのは山門だ。平屋建てなのだが、土台の石積が高く二階建てぐらいに見え、その土台石積の間に狭く、屈まないと頭を打つほど低い通路が通っている。通路の奥にはさらに石段があり、姫路城のいくつもある城門みたいに守りに徹した構造になっている。
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山門前に車を停められそうにも見えるが、ここには物理的にも乗り入れることはできない。だが、香山城跡見学者の駐車場所はこの北側に用意されていて、ユーザーフレンドリーな城跡だ。
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香山城
香山城は香山村西方の山麓(通称:備後屋敷)に位置する香山氏の居城です。香山氏は系図によりますと鎌倉時代から香山荘地頭職の家柄で、建武年間頃(1334〜1338)に秀清が香山城を築城したと伝えられて嘉吉の乱(1441年)で城は一度落城します。その後文明3年(1471)に秀氏が城を再興しますが、羽柴秀吉が宇野氏(山崎・長水城)を攻めたときに城主秀明は宇野氏に属し、香山城は秀吉軍の黒田官兵衛に攻められ、天正8年(1580)4月27日に落城します。なお、司馬遼太郎の「播磨灘物語」には官兵衛の父(職隆)が攻め落とした城として香山城が登場します。
香山城の遺構は大歳神社を挟んで、北廓(南北170m・東西250m)、南廓(南北220m・東西120m)に分かれており、いずれも外郭を石垣が取り巻き、縦横に石塁と堀が走り、その中を雛段造成して多数の郭群を複雑に配置しています。郭群には、城門・井戸・犬走り・泉地等の諸施設があり、備前焼の甕や茶臼等も見つかっています。香山城は近隣には例のない総石垣で築かれた特異な縄張りをもつ大規模な中世の山城といえます。1992年3月 新宮町教育委員会
誰にも知られていない山城跡を発見するという快挙は逃したが、思惑通りに歩けたし、なかなかと充実した山歩きだった。次はまた送電線播磨線を辿る山歩きの続きの、篠首から平見までを歩こうかと思う。
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