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神保廃村
(新宮町から山崎町へ通り抜け)



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平成26年5月24日(土) メンバー 私だけ

JR姫新線西栗栖駅〜麦子口〜栗栖池〜神保廃村〜高下〜神姫バス山崎待合所


 たつの市の北端、市境界線が宍粟市に食い込む山深い地に、500年続いた平家落人伝説がある神保集落があった。現在のたつの市新宮町奥小屋字神保は、明治22年の町村制施行時は宍粟郡菅野村に属していたが、昭和14年に揖保郡西栗栖村に編入され、昭和26年になり新宮町・東栗栖村・香島村・越部村と合併し新宮町となる。昭和の初めでも10戸にも満たない小さな集落だったが、昭和47年に最後の住民が離村し廃村となる。

 山崎町側からなら廃村入口まで車も入れる林道があり、容易に行ける。だが、南側の来栖池からだと倒木が折り重なり、神保廃村まで到達するのは困難だという。ウェブで調べてみると、年によって行けたり行けなかったりで、行く手を阻む倒木は、平成16年の8月から10月にかけて襲来した4つの台風のためだという。でも、その台風の直前でも倒木で行けなかったりしているので、常に倒木が発生し続けているものと考えられる。

 ウェブより
 平成16年6月、来栖池から神保廃村南の二股まで行くが、倒木が多く引き返す。
 平成21年12月、来栖池から、倒木が積み重なり歩きづらいが神保廃村まで到達。
 平成22年4月、平成23年4月、山崎町側から神保廃村を通り二股まで行くが、その先は倒木で通行不能。

 そんなわけで、今回の私の目標は、南側のJR姫新線西栗栖駅から歩き始め、神保廃村を経由し山崎町高下まで通り抜けることだ。車で登山口まで行く一般的なハイカーでは成しえず、公共交通機関を熟知する私にしか出来ないと思う。

今回の山行図(GT730−FL+カシミール)


JR姫新線西栗栖駅から栗栖池へ

7:00
 JR姫新線姫路駅6時12分発の一両編成上月行きに乗車し、西栗栖駅で下車。ここで上月行きは、上りの播磨新宮行きと離合する。

JR姫新線の西栗栖駅で下車

 西栗栖駅は無人駅で、自動券売機もない。あるのは2面2線のホームと待合室、そして公衆電話とトイレ、それから「昭和9年3月24日 西栗栖駅開業」の記念碑だけ。1日平均の乗車人数は100人ほど。降り立ったのは私だけ。

西栗栖駅の駅舎

 線路沿いを東へ進み、国道179号線から相坂峠への登り口で分かれる県道44号線に入り、栗栖川に沿って北へ進む。

7:22
 「この先通行不能」の警告板が道端に立ち、この県道を進んでも山崎に辿りつけない。だが、中国横断自動車道姫路鳥取線(播磨新宮IC〜山崎JCT)の計画があり、西日本高速道路株式会社の建設進渉情報にある路線図を見ると、ほぼこの県道44号線に沿って計画され、平成33年3月完成の暁には、この警告板もなくなるのだろか。

 それから警告板に半分隠れているが、ここはたつの市コミュニティーバスの時重口バス停で、栗栖池の至近バス停は四つ先の牧大荒田橋なのだが、残念なことに火・木・土曜は始発便でも到着時刻は12時10分、月・水・金だと16時57分と遅すぎる。それから日曜・祝日・12月29日〜1月3日は運休日だ。

県道44号線では山崎へ抜けられない

7:41
 県道沿いに河内神社があり、本日の安全なる山歩きを願ったと思う方が多いだろうが、ニーチェの師を自称する私は「神はまだ生まれていない」を人生訓・家訓としているので、神頼みなどしたことはない。ただここまで来れたことを感謝するのみ。

くの字に折れ曲がった参道がチャーミングな河内神社

河内(かわち)神社

 祭神は応神天皇と天津児屋根命で、天安3年(859)に宇佐八幡宮より迎えられたと伝えられている。氏子は牧・時重・鍛冶屋(相坂)・上筋原・下筋原の五ヶ村であるが、昔は栗栖荘24ヶ村の総社で、境内に75社あり、大鳥居は芝田村にあった。
 当社には、古来から神託によって7月14日に白羽の矢が屋根に立った家の娘を人身御供として神社に奉納する風習があり、さからうと祟りがあると恐れられていたが、後に河内国牧岡神社の神霊を祀ったことにより、祟りがなくなり人身御供の神事はなくなった。この河内より神霊を迎えたことに因んで社名が河内神社と改称されたと伝えられる。
 当社の伝統行事としては、すっぽん踊り(8/14)・桝洗い(雨乞)・秋祭りの頭と獅子舞がある。特に秋祭りの頭は、当差・木拾い・口明け・よいよいぱー・お仮屋などの古い祭礼の形態がよく残っており、大変貴重である。また、境内には町指定天然記念物の大銀杏や、本殿背後の樫の大木を含む貴重な社叢林がある。

平成7年3月 新宮町教育委員会


河内神社と周辺の自然

 この神社の裏山の森には10数本のシラカシの大木(最大のものは本殿に向かって左登り口にあります)やカゴノキ、ツクバネガシなどが生えており町指定天然記念物となっています。イチョウも町指定天然記念物です。本殿に向かって右に生えているエゾエノキは当地方では珍しい植物です。
 また、この神社は町内では最も小型陸貝の多い所で、大木の根元や幹のウロにはいろいろな巻貝がいます。

平成14年3月 新宮町教育委員会


 直径が約1.6mということは3.14倍して幹回は5.0mと、先週訪れた篠首八幡神社の幹回4.45mよりも太いな。新宮町指定文化財から市町村合併を経て、たつの市指定天然記念物となっている。


 銀杏の木
樹齢 約250年以上
高さ 約42.4m
直径 約1.6m

兵庫県委嘱古木研究会の先生が優れた木であると称賛された

 樫の木
樹齢 約500年以上
高さ 約41m
直径 約1.2m

兵庫県委嘱古木研究会の先生が優れた木であると称賛された

7:56
 河内神社から県道44号線を北上し、歩き始めてからほぼ1時間が経ち、ようやく栗栖池へ至る分岐点に達した。そこには「←栗栖池」というこげ茶地に白文字という地味な目立たない案内板がある。

栗栖池はここで県道44号線から離れる

7:59
 すんなりと栗栖池へは向かわせてくれない。解説板が道沿いにあればわざわざ登っていかなくとも済むのに、意地悪だな。

 NHK大河ドラマで一躍有名になった、姫路城の王子様・黒田官兵衛による揖保川近くの香山城(名前に山が入っているが山城ではない)攻めから逃れた落武者が、この地でついに捕まってしまったという。

香山城から逃げ延びた落武者の墓

落武者の墓

 落武者の墓と伝えられるこの墓は寛文年間(1661〜1672)に香山助介が祖父の菩提を祈って地蔵像とともにたてた墓である。助介は、天正8年(1580)に秀吉軍に攻められ落城した香山城の城主香山備後守の分家である香山備中守の嫡男で落城後当地に帰農している。
 この墓に関する伝承として、昔山越えにここまで逃げてきた落武者が畑の豆のつるに足を取られ倒れたため捕えられて命を落とし、それで以来土地の人は祟りを恐れえんどうを作らなくなったという話がある。なお、香山城からは篠首の谷を経て山を一つ越せば当地(牧)に至る。

平成7年3月 新宮町教育委員会

8:04
 栗栖川本流は、さらに県道44号線沿いに北上するようで、栗栖池から流れ出す川の名前は麦子川と変わり、この橋は麦子橋だ。橋の先の民家が最後で、その先は田畑と森林と廃村しかない。

栗栖池から流れる麦子川に架かる麦子橋を渡る

8:10
 右は麦子川と山、左は田畑と山、のんびりとした風景の中を行く。

この先で橋を渡り左岸へ

8:13
 コンクリートブロック積みの二面張りのように見えるが、もしかすると三面張りかもしれないな。護岸も道も整備されすぎていて、周囲との調和がとれていないが、この先にある堤高26.7m・堤頂長90mと農業用ため池としては規格外の大きさで、その保守道路としては妥当なものかな。

 一般財団法人日本ダム協会のダム便覧によると、日本には2,723基のダムがあり、栗栖池も載っている。でもなぜか読みが「くるすいけ」となっているのが解せない。

麦子川は二面張り?それとも三面張り?

8:19
 この橋も栗栖池の建造時に掛けられたものかな。橋を渡り右岸へ。

麦子橋を含め三つ目の橋を渡る

8:24
 道は緩やかに登っていき、麦子川の流れが遥か下に見える。堰堤頂を目指すこの道は岩盤を砕き通されたもので、この道を作るだけでも大変だ。

麦子川の流れは遥か下

8:31
 西栗栖駅から1時間半でようやく栗栖池に着いた。まあ車で来れば堰堤横まで乗り付けられるので、こんなにも苦労することはないが、これから神保廃村を抜けて宍粟市山崎町まで行くためには、歩く以外に方法はない。

西栗栖駅から1時間半で栗栖池の堰堤に到着

 堰堤から見えるのは栗栖池の半分ほどで、その全容はうかがい知れない。栗栖池の貯水量は53万トンで、霞が関ビルなら1.1杯分、東京ドームなら0.43杯分と、その規模の大きさに感動してしまう、……いやしないな。

 ちなみに神戸の布引貯水池の貯水量は41.7万トンと、栗栖池よりも少なかったりする。日本最大の岐阜県にある徳山ダムは66000万トンで、栗栖池1,200杯分と想像を絶する容量だ、

堰堤から見える栗栖池は全体の半分くらい

栗栖池

 栗栖川(新宮町奥小屋〜佐野)は昔から水量が乏しく、用水を確保するため流域の人々は川底に暗渠を設置し堀井戸等で揚水していたが、旱魃の時には大被害となるので、水不足を補うため奥小屋の奥麦子に栗栖池を作ることになり、昭和15年東・西栗栖村と新宮・越部村の一部で組合を結成し、昭和16年に池の起工式が行われた。
 工事は当初5ヶ年計画であったが、太平洋戦争が始まり人夫や資材が不足し、各種団体の勤労奉仕や学徒動員まで行われたが工事は進まず終戦を迎えた。戦後は物価高騰の上、県費も少なく、工事は一時中止のような状態になり憂慮されたが、当事者の並々ならぬ努力により昭和27年8月9日にこの難工事は完成した。総工費3450万円、所要人夫8万人の大工事だあった。なお、奥麦子にはもと四軒の家があったが池の工事のため全戸移転し、また池の上流の神保には3軒の家があったが今は廃村となっている。

             貯水量:53万トン
             灌漑面積{直接灌漑:240町 間接受益地:400町}

平成7年3月 新宮町教育委員会

8:41
 40年以上前に、神保集落へLPガスボンベを配達していたという元農協職員と話す機会があったが、これぐらいの道が集落まで続いていたのだろうな。

栗栖池西岸の道を行く

8:46
 地形図にも記載のある砂防ダム(昭和49年度兵庫県施工)から先は、「車両通行止新宮町」の警告板があり車は入れない。実際は池尻まで問題なく車で入れるが、栗栖池東岸を回る道は荒れていて車を乗り入れるのは止めといたほうが身のためだ。

地形図の砂防ダム印から先は車両通行止

8:52
 地形図の鳥居印(神社)の位置には、倒壊した建物の残骸があり、それなりの大きさの社というか堂宇があったようだ。

神社印のところには崩壊した建物の残骸が朽ちようとしている

 その残骸の手前にスチール物置(ヨド物置・あぜくら)が置かれている。その不自然さに、建て付けの悪い引き戸を開けてみると、ありました。その外観は「ヨド物置・あぜくら」そのものだが、実はお堂なのだ。

倒壊した堂宇の本尊はヨド物置あぜくらに遷座していた

9:01
 対岸が近づき、もうすぐ池尻だ。

池尻が近づき、対岸に道路が見える

9:04
 橋を渡るとそこが池尻だ。ここまでなら普通車でも十分入れるが、ここから分かれる道は、どれも車の進入を拒んでいる。唯一入れそうなのは池の東岸沿いに行く道だが、路肩は弱そうだし、落石も多そうだ。

池尻に立つ落石注意の看板が面白い

 「落石が今まさに落ちつつある岸部の道を、青いツーピースの若奥様がお嬢様と手をつなぎ優雅に散策している」という、シュールな風景が描かれている。

落石注意

路肩注意

落石に注意して下さい。
柵の支柱に寄りかかったり、ロープにぶら下がったりしないで下さい。



神保廃村へ

9:07
 池尻は、私が来た栗栖池西岸の道、これから進む川沿いの道、栗栖池東岸の道、そしてともに「関係者以外立入禁止 無断立入の方の責任は負いません 地主」という看板がある林道が2本で、なんと五差路になっている。栗栖池の交通の結節点ともいえる重要な所だが、交通渋滞など起りはしない。

池尻から、川沿いの道を北上する

9:08
 ついに倒木が現れた。右岸側から倒れ込んだ二本が道を塞ぎ、もうこの先は車は入れないが、徒歩なら川端寄りを行けば問題ない。枝葉のみずみずしさから倒れて間もないと思われる。

 倒木の主体は10年前の平成16年の台風23号によるものと思うが、その時の大量の倒木の上に、さらに倒木が積み重なり、この先がどうなっているのか、通り抜けられるのか心配になってきた。

最初の倒木はつい最近倒れ込んだもののよう

9:12
 ここでは倒木に加えて山肌が崩壊したようで、道が完全に消滅している。でも人が通れるように倒木が整理されていて、何も問題はない。

山肌が崩壊し道を覆い隠しているが
倒木は整理されていて通り抜けは容易

9:15
凄いな。右から倒れたのや、左からのもあるが、どれもこれも綺麗に川を跨ぎ、流れを堰き止めるようなものはない。

 今は道にかかる部分は整理されているが、倒れた直後は枝や葉でボリュームはこの何十倍もあっただろうから、倒木が谷を埋め尽くすその光景は凄まじいものがあったことだろう。でも植林は弱すぎるというか、植林をしてはいけない斜面に植林をしてしまうという、植林に対する知識が欠如した行政組織の後押しがなしたものと思う。

川を覆い尽くしていただろう倒木は
今はきれいに整理されている

9:18
 この綺麗に伐採された斜面は、平成18年度から19年度にかけ行われた「災害に強い森づくり 針葉樹林と広葉樹林の混交林整備」の成果で、7年を経ても植えられたであろう広葉樹は、鹿に食べられたのかほとんど育っていない。

広葉樹を植林したのだろうがさっぱりだ

9:20
 新しい倒木があるが、下を潜り抜けられる。こんなのが10本もまとまって倒れていれば、斜面を登るか対岸に渡るかで通過に時間を要し、引き返すことも考えなければならないが、そういうのはなかった。

これは新しい倒木だが、潜り抜けは容易

9:21
 コンクリの橋が架かっている。この幅の道が通じていれば車は容易に入れただろうが、この先に集落があっただなんて信じられない。

 この橋は流れ込む支流に架かるもので、渡る前も、渡った後も麦子川に左岸を行く。この辺りは周囲が雑木林で、1本の倒木さえない。

来栖池から離れて一番目の橋は支流を渡る橋

9:23
 徒歩道ならここまでの擁壁は必要ないが、あくまでも車も通れる道だったのでコンクリートブロックが積まれている。そのコンクリートブロックに苔が付き草が生えよい雰囲気になっている。

 神保集落の廃村から40年以上を経て、通る人も稀になりながらも道跡が消えることもなく、山側の崩落した土砂を少し取り除けば今でも車が走れそうだ。

苔むし草が生えたコンクリートブロックの擁壁

9:26
無理やり越えたり、狭い隙間を潜り抜けたり、大きく迂回したりと、倒木対策をいろいろと考えてきたのに、拍子抜けというか、単なる廃道歩きになってしまったな。

私の背後の1本だけの倒木も通り道が伐られている

9:28
 渓流とあまり差のない、LPガスボンベを届けに行くトラックも通れた車道跡を行く。稀に増水して通行できなくなる時もあっただろうが、堅固に造られた護岸は、その当時も落石を取り除くことで、容易に通行可能となったことだろう。

本当にこの先に集落があったのだろうかと信じられない風景だ

9:30
 太い倒木があるが、チェーンソーで切られ通行できる。神保廃村へ行くだけなら宍粟市山崎町側からなら容易に行けるが、南側からの通路を確保しようとする意図が分からない。

栗栖池の池尻から神保廃村までは2q足らずで、その間の様子を探るためにだけに、道を切り開いたのだろうか。もしかするとチェーンソー持参のパワーハイカーが、自分の趣味のためのだけに切り開いた可能性もあるな。

太い倒木も切られているが
切った幹が落ちたり跳ねたりして大変だろうな

9:33
 何事もなく快調に歩いているが、この辺りも倒木のアスレチック場だったことだろう。

さすがに道だけは外しているが
川岸だろうとどこだろうと見境なく植林している

9:35
 そのまま跨げる倒木はそのままに、跨げないのだけは最小限に切っている。適材適所というか林木応変というか、最小限の労力で人が通れるようにする、その見極めが凄い。

そのままの倒木もあるが容易に通過できる

9:38
 画像を見てここが橋だったのが理解できずに、いつの間にか道が左岸から右岸に変わってしまい、山行記録を綴りながら途方に暮れてしまった。だが、倒木に隠れて低い欄干を見つけて、ここが橋だったことを確認した。

 実際にも橋を通り過ぎてから、「あれ橋だったんだ」と思うぐらいに川面は倒木に隠されていた。

二番目の橋は通り過ぎてから気づいた

9:41
 山側もコンクリ擁壁になっている。ほんの数軒のために莫大な税金を使いここまで整備したことが、逆に集落の人たちの遠慮につながり離村が早まってしまったのかと思えてならない。

道の山側もコンクリ擁壁だ

9:43
 倒れた木々にさらに倒木が絡まり、一部はかかり木になっていただろうし、下手に切ったら微妙なバランスが崩れ跳ねたり飛んだりするし、仮に私に道具と知識と経験があってもやりたくないな。

倒れているのは針葉樹だけ

9:47
 この辺で、東側へ同じような規模の谷が分かれているはずなのだが、足元ばかり見ていたので気づかずに通り過ぎてしまった。そして地形図では西側は尾根へ、東側は谷へ続く破線道が記載されいるのだが、それも気づかなかった。

もうすぐ先が二股なのだが
倒木に気を取られ気づかなかった

9:50
 道幅は3mぐらいのようだ。大型車の最大幅は2.5mなので、路盤さえもてば大型トラックでも入れただろう。

神保廃村まであと500mぐらいかな

9:51
 柔らかな地面に動物の足跡が残っている。イノシシなら副蹄の跡が付くので、これはシカだな。

シカの足跡だ

9:55
 池尻から数えて三番目の橋だ。ここまでのと同じコンクリ製のもので、あと何百年後かに来ても残っていそうだ。

三番目の橋を渡る

9:58〜10:05
 相変わらず倒木は多いが、問題なく通れる。

この辺は倒木が多いな

10:11
 「あれ、どうしたんだろう」、進もうと思えば倒木を跨ぎながらなら行けるが、明らかに手付かずだ。

 ここまでの状況からして、倒木を整理された個人、または団体は「神保廃村まで道を通すぞ」という強い信念を持っているものと思う。それがここまでで諦めるわけはなく、きっと代替手段を取ったはずだ。左岸側がどうにもならなければ、右岸側をだ。

左岸側はこれ以上行けそうもない

10:13
 川岸に注目しながら戻ると、両岸の向かい合う立木にマーキングがあり、対岸の倒木が整理されているように見える。ここで右岸へ渡るんだ

越えられない倒木を迂回するため右岸へ渡渉する

10:16
 右岸側は明らかに道跡ではないが、こちら側にも杣道が存在したのだろう。倒木は整理されていて、通行に支障はない。

車道跡がない右岸を行く

10:18
 100mも行かないうちに、左岸側に復帰する。水量は少なく靴底も濡らさずに渡れるが、大雨の最中とか直後とか、予想されるときはここを訪れるのは止めた方が身のためだ。

100mも行かずに渡渉して左岸へ戻る


土蔵が残る神保廃村

10:21
 四番目の橋だが、両岸とも石積み・コンクリ積みとこれまでにない整備され具合。対岸の奥には一段高い土盛りもあり、この辺りが集落跡と思われる。

 西栗栖駅から歩き始めて3時間20分かけ、ようやく神保廃村に辿りついたわけだが、倒木が整理されていなかったら永遠の時間を経てもここに着くことはなかっただろう。

四番目の橋、この辺りが神保廃村集落跡だ

10:23
 川岸から一段上がったところに、2階建ての土蔵が現存している。

一段高い所に土蔵が残っていた

 土蔵の中には、ブリキ製円筒型のと、木製箱型の大きな貯蔵容器があるだけで、2階部分には何もなかった。

中には大きな貯蔵容器が残されているだけ

 廃村4年後の空中写真が国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスにあり、この土蔵と麦子川の間に母屋が建っているのが分かる。

廃村4年後の昭和51年(1976)に撮影された空中写真

 母屋跡では、建物跡と思われるものは見つけることは出来なかったが、いろいろなものがあった。

井戸跡?

SONY製ステレオカセットレコーダー TC-2150SD
昭和42年(1972)発売開始 昭和44年製造終了 43,800円

鬼瓦(母屋は瓦ぶきだったと思われる)

鳳(オオトリ)鉄工所(大阪府堺市)製の石油発動機
籾摺りか揚水に使っていたのかな

水瓶

電気配線用の碍子

流し台?

10:34
 本日の目標は神保廃村訪問ではなく、あくまでもたつの市新宮町から宍粟市山崎町への通り抜けなわけで、神保廃村に執着することなく、さらっと通り過ぎることにした。

神保廃村を後にする

10:43
 麦子川、平坦地、石積み、平坦地、山となっている。石積みの上の平坦地は田畑跡だと思う。

この辺りは田畑だったのかもしれない

10:45
 右岸側に道は続いているはずだが、右岸には倒木が多く、左岸は少ないようで、ここで流れを渡る。

道は右岸側に続くが、倒木が少ない左岸へと渡る

10:48
 ところ構わず植林しているが、脳内で全ての立木を取り除けば、麦子側の両岸のわずかな平地に稲穂が垂れる風景が目に浮かぶようだ。

次は佐用町と宍粟市の間の本郷峠を超えてみようかな
などと考えてているのかもしれない

10:51
 左岸側にも平坦地があり、ここも田畑だったんだろう。倒木があるが綺麗に整理されている。もし倒木を跨いで進まなくなったら、それはルートを外していることを意味している。

左岸側の平坦地も田畑跡なのだろ

10:56
 整理されていない多量の倒木に行く手を阻まれてしまった。どこかで右岸側に渡らなければならないのだが、ほとんど垂直の護岸を下りるのは面倒だ。

 探すうちに、この枝葉の付いた新しい倒木が怪しいなと、その下を覗き込むと川への下り口があった。でも枝葉が邪魔をして下りられない。そうも言ってられないので、急な護岸の石積みにつま先を掛けて慎重に下りる。

渡渉地点が新しい倒木に隠されている

10:59
 右岸側に渡り、道に復帰する。

右岸側の道に戻る

11:01
 宍粟市山崎町へ通じる道は狭く、車は通れない。神保集落に住んでいた子どもたちは、北へ峠を越えて山崎町の菅野小学校へ徒歩で通ったという。今はこの先から広い林道が通じているが、その当時はあったのだろうか。おそらく、こんな道を延々と歩いて通ったのではなかろうか。

山崎町への道は車は通れない

11:05
 適当にマーキングに従い歩いていくと、雰囲気がちょっと変になってきた。倒木を乗り越えたりすれば、歩けることは歩けるのだが、明らかに道はない。

道がなくなったが、進めないこともない

11:09
 地形図を見ると、西側へ入る谷へ迷い込んでしまったことが分かったが、「もっと早く気づけよ」と私に言いたい。

西側へ入る谷に迷い込んでしまった
当然引き返す

11:15
 正しいルートはここで、右方向へ曲がる。けして左手の木にマーキングがあっても、右手が倒木で塞がれているように見えても、右に行くこと。

ここは右手へ進む

11:19
 足元に砕けた瓦が散らばっていて、なにかあったのかなと周囲を観察すると、一段上に小さな廃屋が見え、登ってみると崩壊しかけた祠だった。

朽ちていく祠


山崎町高下への林道歩き

11:26
 ついに、宍粟市山崎町からの林道に出てしまい、ここまでくれば新宮町から山崎町への通り抜けを成したも同然だ。

 特に廃村への道標はなく、車で登ってきたら通り過ぎるかもしれないが、林道はここから東へ大きく向きを変えるので、通り過ぎてもすぐに気づくだろう。

山崎町からの林道に出た

11:33
 東の谷沿いに奥へと続く林道がどんな感じかと、400m程も進んでみたが、護岸がきっちりと整備された面白味のない林道だ。

東の谷へ続く林道を400mも行ってみたが、面白味のないものだった

11:41
 神保廃村の入口まで林道を戻り、山崎町へと林道を歩み始める。右下に麦子川を流れの音を聞きながら、緩やかな林道を登る。

この林道を登り、峠を越えて下ると山崎に出る

11:45
 「くらしを支える森づくり事業(分収育林契約地)」の表示板には、丸い穴が五つほどあり、ハンターによるものと思う。増えすぎたシカを減らすのは重要な意味のある仕事だが、公道での裸銃の持ち歩きは法律で禁止されていて、公道で発砲するなど完璧な犯罪行為だ。

公道から発砲し、器物を損壊した、重大犯罪現場

11:51
 林道下を流れていた麦子川は、いつの間にか林道脇を流れている。この林道が通る前は真ん中を麦子川の細い流れがあり、その脇に神保集落の子どもたちが学校に通った小道があったのだろう。日の短い時期は帰る途中に真っ暗になったりして、怖い思いもしただろうな。

 林道支線が東側から合流してきたが、これは地形図に記載のある464m標高点近くへ登るものではなく、その手前の西側の大内谷集落を目指し山越えする破線道付近のものだ。なお、その西側に登る破線道の取付きは確認していない。

地形図に記載のない林道支線が東側から合流してきた

11:54
 神保廃村は昭和30年に電気が通じたが、その電気は南から通したのか北からだったのか分からない。距離的には北からの方が近く、この林道に沿って電柱が並んでいたのかもしれない。

木立の中を行く林道、楽しく歩けるが毎日は歩きたくないな

11:56
 また林道が東側から合流してきたが、これは地形図にも記載のある464m標高点近くへ登るものだ。

464m標高点近くからの支林道が東から合流してきた

11:59
 さらに、今度は西からの林道が合流してきたが、これも地形図に載っている490.4m三角点(雨が岳)近くへ登る支林道だ。地形図ではこの支林道の北側に自動車運転免学校を思わせるようなものが記載されているが、何だろうな。

峠近くで西側へ入る支林道は、490.4m三角点(雨が岳)近くへ至る

12:00
 この峠に名前はあるのだろうか。西側のコンクリートブロック積み擁壁が何とも言えない。

左手のブロック積みが峠の雰囲気を壊している

12:07
 峠までの緩やかな登りに比べて、北側は結構な急さで、ガードレールの向こうは切れ落ちていてる。「お願い 路肩崩壊にご協力願います」の立て看板があり、なるほどガードレールもろとも路肩が崩れ落ちている。「路肩崩壊に協力」しなくてはと、小石の一つでも落とさなくてはいけないのでは思ったが、なんか変なので止めておいた。

峠の北側は結構な急さだ

12:09
 道端から、山崎町高下の集落が近くに見えるが、標高差はまだ200m以上もある。お昼も過ぎたし、この後は林道を下るばかりで、もうランチ適応ポイントも無いだろうと、ここにシートを広げる。

 メニューは、いつものコンビニ総菜パンだが、目的を成し遂げたためか、いつも以上においしく感じる。おいしく感じるが山歩きを始めたころの、妻その1手作りのお弁当が懐かしく思い出される。どういう訳か最近は作ってくれなくなってしまったのは、残念だ。

山崎町高下の集落が見え、ここでランチタイムにする

12:42
 ランチタイムを終え下山再開。

12:57
 路面状態は非常に良好で、モトクロスバイクはもちろん、普通車でも快適に走れるが、なぜか通行量はゼロ。すべてが行止まりで通り抜けできないこともあるだろうが、人気のない林道だ。もしかすると入口は閉鎖されているのかも。

今日は誰一人とも会っていない
いやシカが1頭いたな

13:19
 「山崎29」の表示のある、中国自動車道アンダーパスを抜け今日の山行を終えるが、家に帰るまでが遠足だ。

 最寄りのバス停はウエスト神姫菅野郵便局前バス停で、お昼ご飯を食べなければ山崎行きの13時4分に間に合っていたが、次は14時34分と1時間以上も待たなければならない。

1時間も待つのなら山崎バス停まで歩いてしまえと、歩き始めた。行動時間は6時間を超えているが、なんかまだ歩き足りなかった。

中国自動車道アンダーパス「山崎29」の南と北

13:27
 カラーテレビ用ブラウン管の電子銃組立を行ってきた新光電子工業株式会社の募集広告があり、帰宅後に調べたら平成13年6月に工場は閉鎖されていた。

カラーテレビを貴女の手で!
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カラーテレビ部品の組立軽作業
冷暖房完備の明るい職場です
待遇 30,000以上 各種保険手当有
    送迎用マイクロバス運行

新光電子工業KK山崎工場
山崎町高下

14:11
 中国自動車道アンダーパスから1時間近く歩き、神姫バス山崎待合所に到着。次の姫路駅北口行きは14時30分だ。

神姫バス山崎待合所に到着

15:29
 山崎から乗ったのは私ともう一人だけで、約1時間で姫路駅(北口)に到着。料金は1,110円(エコ定期券割引を使い91%引きの100円)。



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