書写山に7本目の参道はあるのか
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平成26年11月3日(月) メンバー 私だけ
神姫バス打越バス停〜刀出栄立町〜書写山7本目の参道?〜書写山円教寺金剛堂
書写山へ登る参道は6本
西国三十三所第二十七番札所書写山円教寺が山上にある書写山(371m)へ登るには、書写山ロープウェイを用いるのが一般的だが、自分の足で登ることができる参道もある。
- 東側の書写吹から登る置塩坂参道、磨岩仏がある
- 南側の如意輪寺からの東坂参道、ハイカーが行き交い、急な岩場もある
- 南側の日吉神社からの西坂参道、自動車(許可車のみ)でも登れる
- 南東の六角から登る六角坂参道、荒れた谷道
- 西側の刀出からの刀出坂参道、近畿自然歩道でもある
- 北西の新在家からの鯰尾坂参道、私のお気に入り
神姫バスの書写吹バス停から登り始めて、1から6まで順番に登り下りして、新在家バス停までの所要時間は4時間半(迷うことなく、立ち止まることなく、走ることなく歩き通して)ほど。
これは7本目の参道か
「一日書写山6参道歩き」を何度も行っていて、もはや地図を見ることなど必要なく、目をつぶっても歩けるのではないかと思う今日この頃だが、久方ぶりに地理院地図(電子国土Web)を見ると刀出坂参道の南側に、見知らぬ破線道が描かれていることに気づいた。
よく整備された置塩坂参道や鯰尾坂参道でさえ描かれていないのに、幅1.5m未満の徒歩道を表す破線道として描かれている。破線道を国土地理院では、次のいづれかに当たるものとしている。
- 登山、観光、レクリエーションなどのためによく利用される道路
- 集落を結ぶ必要な交通路となっている道路
- 主要な場所につうじている道路
書写山7本目の参道かと欣喜雀躍し、さっそく登ってみた。結果、所々に本当の意味の獣道はあったが、破線道など最初から最後までなかった。
迷うおそれ、滑落のおそれのあるルートで、全くお勧めできないルートだ。最近の国土地理院地形図は、やたら破線道が増えてきているように感じるが、登山者の友の地形図が遭難を誘因するようでは困る。
今日もバスで行こう
謎の7本目の参道の登り口は、刀出坂参道と同じく刀出栄立町から始まっている。その至近バス停は神姫バスの刀出バス停だが、平日は7時16分着便からあるが、土日祝日は9時56分着便からになってしまう。刀出バス停の一つ手前、打越バス停までなら8時37分着の緑台行きがあり、少し歩くことになるが山登り前のウォームアップにはちょうど良い。
8:37
東洋大姫路中学校のプレテスト受験者、そして県立大学工大祭へ行く人たちで満員だったが、打越バス停で私が降りると乗客は一人だけになってしまった。
8:43
県道411号線を北へ進むと、稲刈りの済んだ田畑の先に書写山の山並みが見え、山麓を切り開いた戦災復興住宅のあった刀出栄立町が見える。
8:50
菅生川に架かる、53歩で渡れる樫谷橋を過ぎると刀出集落だ。固丁寧の手前で、「書写山 刀出坂→」の案内に従い山側への道へ入る。
刀出の固寧倉(こねそう)
固寧倉は、姫路藩主酒井忠道が文化6年(1809)に設けた備荒貯穀用の倉庫で、固寧倉の名称は書経の「民は惟(こ)れ邦(くに)の本(もと)、本固ければ邦(くに)寧(やす)し」中から固寧の二字が選ばれた。扁額の揮毫は林(木へんに聖で「てい」)宇のもの。
刀出の固寧倉は、天保11年(1840)正月に建築を願出、2月16日に許可され、11月に完成し、天保12年に扁額が与えられた。切妻造り平入りの土蔵で長5.4m、横3.6m、軒97.5cmとなっている。姫路市文化財保護協会 平成6年3月
8:54
集落を抜けると、墳丘が神社となっている刀出古墳があり寄っていく。古墳・神社前にも駐車スペースがあるが、この先にもハイカー用駐車場があり、ハイカーに優しい登山口だ。
刀出古墳
円墳で片袖の羨道のある横穴式石室古墳。玄室の幅は1.5メートル、長さ約7.9メートル。
封土上に天満神社が建てられている。神社の階段の南の石垣の中に玄室の入口がのぞいている。姫路市文化財保護協会 平成6年3月
刀出天神古墳
長い羨道をもつ横穴式古墳がある 天神由来記によると室町時代太刀一振りを掘り出し置塩城主に献上したとある
姫路市中核都市指定記念 平成9年3月建立 峰相地区連合自治会
8:58
山へ登る道は、車止めとフェンスに遮られるが、ハイカーの出入り自由。
登山道出入口
近隣への鹿被害防止のため、扉を開けたら閉めて下さい。ご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いします。
(お問い合わせ)姫路市管財課 Tel221-2226
9:01
雛壇のように開かれた戦災復興住宅跡地は、太陽光発電施設の設置工事の真っ最中だ。住宅跡地に砂利を敷き詰め、その上に建築用足場材で構築した架台に太陽光発電パネルを設置している。なんともお手軽な架台で、大丈夫なのかなと心配になる。
7本目の参道?入口は刀出坂参道と一緒
9:05
住宅跡地・太陽光発電施設の上辺の道を南端まで進むと、刀出坂参道の登り口で、近畿自然歩道の解説板もある。
9:10
近畿自然歩道解説板の先の木橋を渡り左に進むのが刀出坂参道で、謎の7本目の参道は直進する。フェンスがある書写山国有林床固の脇を行くことになるのだが、あるはずの破線道(幅1.5m以下の徒歩道)など影も形がない。
9:14
とりあえず地形図に描かれた破線道のように、谷の右岸側を登っていく。幸いにも木々の密度は低く見通しも良く、適当なところを行く。
地形図では破線道となっているので、好事家がマーキングを残しているものと思い気軽にやってきたが、マーキングのマの字はないし、踏み跡も何もない。地形的には谷を詰めて行くだけでよいのだが、谷は標高200m程で二股に分かれているような感じがする。地形図とコンパスと山感を駆使して、現在地の継続的な把握に努める。
9:20
谷に流れはほとんどなく、左岸側は植林、右岸側は雑木林となっている。
現在地を把握するためには周囲の地形を大きく見なければならず、かといって足元をおろそかにすれば、その何気なく踏み出した一歩が、取り返しのつかないことになる。単独で足首でもねん挫した日には、どうなることやら。
9:27
流れの近くが歩きがたくなってきたので、少し離れる。相も変わらず破線道は欠片すら見いだせず、あるのは本当の獣道で、鹿の糞が全く見かけなかったことから猪たちの通り道だ。
その獣道の方が歩きやすいかというとそんなことはない。彼らは毎日毎日険しい山中を自由に走り回るというベテランハイカーで、おまけに四足歩行というアドバンテージがあり、私などが歩けるものではない。
9:37
標高200mを過ぎたのか、谷が二つに分かれ、私の進むべきは左俣なので、右岸を登ってきたのでこのまま進むだけだ。でも右岸・左岸は川上から見て、右俣・左俣は川下から見てと、谷歩きにとって重要なことなのに統一が取れていないのが不可解だ。
9:38
二股の左俣に入ると、苔の帽子を被った大岩が鎮座している。マーキングも目立った事物もないこの谷筋の、天然の目印だ。
9:41
人の手が全く入っていないようなこの谷だが、明らかに人の手による石積だ。右岸側だけの石積みの先には、左岸側に同じような石積がある。結構大きな岩で組まれていて、その昔には本当にここを人が行き来していたのかも知れないと思わせる。
9:47
この辺りが今回の登りでは一番の難所で、実際にその場に立ち振り返ってみると、吸い込まれそうな感じもする恐ろしいほどの急斜面だ。
落ち葉の下は、昨日まで降っていた雨で滑りやすくなっている。えらい所に来てしまったな思いながら、何気なく踏み出した一歩がズルッと滑り、1mほど滑り落ちてしまった。体勢を崩すことなく止めることができ事無きを得たが、体が回転し始めたらゴロンゴロンと果てしなく落ちかねなかった。
9:56
ようやく急斜面を抜けて、前方の木立の先が明るくなってきた。あそこが307m標高点があるピークに間違いない。
10:04
307m標高点があるピークに到着した。地形図上の破線道はピークを横切り、北東の320mほどのピークとの間の吊り尾根へと続いている。目を凝らしてその方向を見ても、なだらかな地形と密度の高い木立により見通しは利かず、吊り尾根の存在が確認できない。
10:12
とりあえず本当に307m標高点があるピークに着いたのか確認するため、北西に延びているはずの尾根を辿ってみることにした。
尾根の切り開きこそないが、木々の隙間は人が通り抜けるのには十分に広く、下草もなく問題なく進むことができた。だが木々のため地形を見極めることは出来ない。
尾根を進むと急な下りとなり、その手前で刀出坂参道があるであろう谷の向こうの尾根が見え、間違いなく307m標高点のあるピークに乗っていることが確認できた。一旦このピークに取り着いた地点に戻って、そこから吊り尾根を探そう。
10:27
ピークの北東斜面に少し下りて、ピークと平行に進み吊り尾根を探すと、やはりピーク到達地点の真向いに吊り尾根らしき地形を確認できた。
吊り尾根で境界杭を発見し、それを辿る
10:29
穏やかな地形だが、吊り尾根はここかなと少し進むと「四一」と表示された境界杭が現れた。境界は特徴ある地形に沿って引かれることが多いので、破線道こそ存在しないがここが吊り尾根だ。
10:32
木々の繁る穏やかな地形の中の吊り尾根なので、一番分かりやすい所でも下の画像ぐらいで、どこが吊り尾根なんだという感じ。
10:33
境界杭は所々にある。ここまでに人工物がほとんどなく、地形を見ながら慎重に現在地を確認してきたが、杭を辿るだけになり気が緩みがちになる。だが、これまでにもなんども境界杭に惑わされ、あらぬところに引き込まれたこともあり、地形図を見ながらさらに慎重に進もう。
10:36
320mほどのピークへの登りになった。相変わらず穏やかな地形=明確な進路を見極めにくい地形で、その上に木々が茂り見通しが利かず、境界杭があるがそれ以外の目印も踏み跡も切り開きさえなく、お勧め出来かねるというか、地形図から今すぐにもこの破線道を消し去って欲しい。
10:41
320m程のピークの北西端に登りつき、南東端へ移動する。このピークには切り開きがあるような気もするが、気のせいだろうか。登山口からここまでに藪漕ぎをした記憶はなく、今は道の欠片もないが、昔々はもしかしたら書写山への参道が存在したのかもしれないな。
10:46
320m程のピークの南西端に着くと、「四六」と表示された境界杭があり、地形図の円教寺への破線道方向に次に境界杭が見える。その方向には、境界調査に使った赤スプレー缶が二つ落ちている。
境界杭のお陰で進路に悩まずに済んだが、ルートハンティングを成し遂げた時の達成感をスポイルされるというか、道なき低山歩きで感じる「ここは何処だろうか? 無事に家に帰れるのだろうか?」という最大の醍醐味が消失してしまった。
10:52
境界調査に伴う切り開きなのか、今はシダに覆われてしまっている。
10:56
境界調査の目印に用いるのは朱色に近い赤色テープというのが定番だが、ここは黄色テープで境界杭もない。周辺は雑木林ばかりで林業関係の目印でも、ハンターによるものでもなさそうで、ハイカーによるものだろうか。
10:59
円教寺境内手前の鞍部には黄色と白色のマーキングが別個の木に巻き付けられている。道に迷ったハイカーが付けたのかな。
足元を見ると、一石彫成の(棒状)五輪塔が半ば埋もれて横たわっている。この鞍部から左右方向には道型こそないが、どちらの方向へも下りられそうで昔は十字路だったのかもしれず、その道標の役割をしていたのだろうか。
11:02
320mほどのピークからは、破線道と行っても間違いないような感じもするが、人が歩くから道であって、単なる切り開きを破線道を呼ぶのは可笑しいと思う。
もうすぐ円教寺かな。
11:08
平坦な、明らかな削平地だ。今でこそ葬式と初詣ぐらいしか寺院に行く機会はないが、かつて仏教を中心に世の中が回っている頃の書写山円教寺は、毎日が紅葉真っ盛りの週末の円教寺のごとく大賑わいだったことだろう。
多くに僧籍の方々が山上で暮らし、この削平地にも堂宇が建っていた事と思う。
足元を見ると、捜すことなく瓦の欠片が落ちていて、ここに瓦葺の建物があったことがわかる。いつ頃の瓦なのか分からないが、厚めで釉薬もかかっていないし、かなり古いものなのだろうな。
ここまではゴミ一つ落ちていなかったが、心なき参詣客がほったのだろうか足元に空き缶などのごみが目立ち始めてきた。
11:23
打越バス停から歩き始めて3時間弱、ようやく円教寺に登りついた。丸いコンクリート管は灰皿なのか、ここで休憩していた人の真ん前に突然現れて驚かしてしまった。
登りついたところは、国指定重要文化財の室町時代に建てられた金剛堂の近くだ。
金剛堂
国指定重要文化財(昭和25年8月29日指定)
室町時代
本尊 金剛薩(土偏に垂)座像(県指定文化財)三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂だった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩(土偏に垂)にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観2年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられるが、明治40年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩(土偏に垂)像は現在、食堂に安置されている。
下山は、摩尼殿からロープウェイ山上駅に行き、東坂参道を下ったが、特筆すべきことがないので省略する。
一部色づき始めていたが、摩尼殿前も緑々していて、紅葉にはまだ早かった。
こうして、書写山の謎の7本目の参道は存在しないことが確認できた。
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