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赤とんぼの町、龍野市の鶏籠山と的場山



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平成14年9月9日(月)  メンバー 私だけ

鶏籠山 けいろうざん 218m
的場山 まとばさん 394.2m


計画変更、鶏籠山へ

9:49
朝起きるのが思いっきり遅れてしまった。今日、予定していた山に行くのは無理なので、安富町の北にある富栖湖方面の山を偵察に行くことにして、家を出発。

国道29号線に出て北上する。追分の信号に着いたところで、龍野市の鶏籠山には登っていないことに気付き、ウインカーを出し左折する。

自動車地図はおろか地形図も持っていないのでどうなることやら。揖保川を渡った先で県道179号線に左折、龍野市に向かう。

龍野橋の手前で右折し、市街地の中に入る。城下町らしく道は細く折れ曲がり、どこに行けばいいのかさっぱり分からない。適当に行くと龍野公園の中に出た。

10:42
どこかに車を止められるところがないか探しながら行くと、動物園(なんと無料)の下にある、おみやげ物屋さん(さくら路)の裏側に、龍野公園利用者用の10台止められる駐車場(これも無料)を発見。ここ以外には聚遠亭の手前、龍野神社の下にも5台分ほどの駐車スペースがあった。

この駐車場に来るお勧めルートは、龍野新大橋から西に500mほど進み、右に曲がる。途中左手に、的場山に登るNTT鉄塔点検用道路の入口(閉鎖されている)がある。道なりに進み、低い峠を越えると右手に動物園が見えてくる。動物園の先のみやげ物屋さんのところを右の入るとこの駐車場がある。

10:48
準備を整え出発。通りに出るとすぐに、三木露風の「赤とんぼの碑」があった。案内看板に従って、龍野公園への道を登り、聚遠亭の下を通り「紅葉谷」方向に進む。

赤とんぼの碑
赤とんぼの歌は休業中だった

赤とんぼの碑

龍野に生まれ龍野に育った三木露風は北原白秋とともに日本詩史上「日露時代」を築きあげた象徴派の詩人。この赤とんぼの碑追想調の童謡「赤とんぼ」に因んで建てられたものです。晩年は龍野名誉市民として顕彰を受け紫綬勲章を受けられて、東京の三鷹市で悠々自適の生活をおくられていたが、昭和39年12月29日76歳の生涯を閉じられました。

10:58
いったん下り、紅葉谷入口に到着。山陽自然歩道(今は近畿自然歩道に名前が変わっている)の説明板がある。

山陽自然歩道

自然公園やお寺、神社などの史跡を結んで、山陽路の自然と文化を探勝できるように計画してあります。
あなたも週末や休暇を利用して昔の旅人のように自分の足で山陽路を歩いてみませんか。もし足に自信があるなら、東は東海道へ、西は山口県まで日本も広くきっと興味深いことでしょう。

またそこには鶏籠山の解説・登山マップが入っているボックスもあった。それによると鶏籠山には登山道が2本あり、1本は紅葉谷の峠から、もう1本は龍野城跡からの道だ。頂上には山城の跡が残っているようだ。

雑木に囲まれた幅の広い谷を登っていく。道はコンクリートの階段道で、緩やかな登りになっている。野見宿禰の墓への道や、武家屋敷跡・番所跡があり、退屈せずに登っていける。左手の林の中では鹿も走っていた。

11:15
峠に到着。両見坂と名前が付けられている。大きな石灯籠があり、左手は的場山の登山口(1km)、正面は三坂神社への道(0.6km)、右手が目的の鶏籠山への登山口だ。

大きな両見坂石灯籠
昔は対になっていたそうだ

鶏籠山頂上への道は始め緩い登りで、その先は平坦になっている。頂上から北西へ延びる尾根を登っていく。両側は雑木の疎林に囲まれ見通しは良くない。一箇所だけ的場山が良く見える場所があった。

あまり急な登りはない
この辺は特に緩やかだった

「竪堀の跡」からまた緩い登りになり、頂上の北側を巻くように登っていく。

石段跡が現れると頂上もすぐだ。石畳跡、石の鳥居の破片があり石垣も少し残っている。

石垣の跡
野面積みというそうだ

11:32
頂上の本丸跡に到着。頂上は城山の常として平らになっている。雑木が茂り展望は無い。西側に下りたところも平らになっていて、矢を作るのに使う矢竹が茂っていた。

瓦の破片も落ちていて、付近にある山城と違い、最近(江戸時代初期)まで城があったようだ。

鶏籠山の本丸跡
雑木が茂り展望はない

11:55
下山開始、まだ早いし、的場山にも登りたいので、来た道を引き返す。石段跡で一人の登山者とすれ違う。

的場山は前回NTT点検道路を登ったが、今日は正しい登山道を登ろう。



的場山へ

12:14
峠まで戻る。的場山登山道は近畿自然歩道にもなっていて、かなりよく整備されているが、遊歩道化はされていない。

最初は急な登りになっているが、次第に緩やかになってくる。南側は植林、北側は雑木林になっていて、足元にはシダがかなり茂っている。頭上も木々に覆われているので日が遮られ、快適な登山道だ。

急なところは階段になっている
最初はかなり急な道だ

12:43
尾根上の300+のピークに到着。東方向の展望が開けていて、揖保川が良く見える。

揖保川の流れ
ここだけ展望が良かった

ピークから少し下り、少し急な登りの後はまた緩やかになる。大きな岩が道の両側に現れ、緩やかな階段道が現れる。左手にアンテナの鉄塔が見えてくると、頂上はすぐだ。

13:02
的場山頂上に到着。三角点標石はなぜか真っ赤に塗られている。頂上のすぐ下にアンテナの鉄塔が立っていて、点検用舗装道路が下から上がってきている。気温は29度。

南側が開けているが、アンテナ鉄塔や、電柱、立ち木が邪魔している。北側の亀山が望めるところもある。


的場山頂上から南の展望
アンテナ鉄塔が邪魔だな

的場山(まとばさん)

的場山は標高394mあり、山頂からは龍野市南部や、晴天時には、遠方の淡路島まで望むことができます。的場山の南側には、原生林に包まれた鶏籠山、龍野公園、龍野城、聚遠亭、龍野神社、武家屋敷跡等、歴史的に由緒ある資源や自然が多く残っています。

近畿自然歩道 自然満喫 菖蒲谷へのみち(実高前バス停〜森バス停)16.9km

環境庁・兵庫県

手ぶらの人が点検道路から登ってきて、そのまま下りていった。ここで昼食にする。コンビニで買ってきたおろし月見そばだ。今日は割り箸を忘れずに持ってきた。

写真を撮りながら、中継アンテナの身元調べをしてみた。1番上はNTTの的場無線中継所だ。2番目は表札は出ていないが建屋や付属設備の特徴から関西電力のものと判別できる。3番目は建設省近畿地方建設局的場山無線中継所の金文字が外壁に取り付けられている。国土交通省に変わったはずだが、シールを貼るだけではすまないので、変更が遅れているのだろう。

NTTの人が車で点検に上がってきた。



下山し、野見宿禰神社へ

13:58
下山開始。登ってきた道を引き返す。NHKラジオの健康相談を聞きながら下って行ったのだが、糖尿病やら痛風の相談が寄せられていた。私も健康に注意しなければならないなと思った。

14:36
両見坂まで下りる。紅葉谷のコンクリートの緩い階段道を下りていく。

14:43
野見宿禰神社への分岐に着いた。せっかくここまで来たのだから、神社にも行ってみることにする。

14:51
長い緩やかな石段の道を登っていくと、右手に急な石段が現れた。この石段を登ると野見宿禰神社に行けるのだが、左手に展望台があり先に行ってみた。

昔は展望が広がっていたのだろうが、今は木々が伸びてきて眺望が妨げられている。少し残念だ。

野見宿禰展望台
昔は大展望だっただろう

14:54
野見宿禰神社への石段を登り始める。古い石段で、少しずれてたり、傾いてたり、欠けていたりする。

石段を登った先には石の扉があり、その中に石の社があった。お墓(古墳)を回っていくとさらに上に登る小道があった。建設省の鉄塔の下にも小道が登ってきていたが、それにつながっているのかも知れない。

野見宿禰のお墓
扉の右側から入れる

15:15
石段を下り、聚遠亭に向かう坂道を下りていく。聚遠亭は今日は休館日で中は見ることができず、外から覘くだけだった。

聚遠亭の庭
本日休館日

龍野市指定文化財第1号

史跡 聚遠亭

所在地 龍野市龍野町中霞城6番地
所有者 龍野市
指定日 昭和48年3月17日

概要
聚遠亭は、前庭からの展望絶景をたたえ「聚遠亭」と名付けられ、その扁額が茶室にかかげてある。
茶室は、江戸時代末期の建築。書院造を加味した風雅な数寄屋風の建物で、心池上の浮堂として、庭園、池、杉垣などとよく調和している。
亭内の北東に位置する藩主の「御涼所」は18世紀後半に建てられ、茶室建築時を始め数回の増改築がなされたと考えられる。質素勤倹のなかにも雅趣のある接客、居住部門などの間取りや意匠、構造に特徴があり、また床下の抜け穴などにも当時の面影が残っている。
池のほとりには、龍野が生んだ詩人、三木露風の「ふるさと」詩碑や、井原西鶴の句碑などが建っている。

1995年3月設置 龍野市教育委員会

15:28
車に戻り、動物園の身障者用トイレで濡れた服を着替える。広いトイレが今はどこにでもあるから着替えに便利だ。

15:47
帰途に着く。

16:33
家に帰着。本日の操走行距離43km。



鶏籠山登山マップより

鶏籠山頂龍野古城案内

龍野の自然の姿を代表する鶏籠山は、龍野のシンボルとして親しまれてます。
鶏の伏せ籠に似たような山だったので、「鶏籠山(けいろうざん)」と名付けられたといわれ、保健保安林、自然観察教育林、鳥獣保護区などに指定されています。
見るからに原生林で立ち入る余地のない風貌を備えていますが、山頂には、今もなを風雪に耐えてきた城跡の石塁が散在しています。
鶏籠山頂の城は、赤松一族によって築かれ、明応8年(1499)、赤松村秀が初代の城主になりました。


◇鶏籠山頂の龍野城主たち

赤松村秀明応8年(1499)天文9年(1540)
赤松政秀天文9年(1540)元亀元年(1570)
赤松広貞元亀元年(1570)不詳
赤松広英不詳天正5年(1577)
蜂須賀正勝天正9年(1581)天正13年(1585)
福島正則天正13年(1585)天正15年(1587)
木下勝俊天正15年(1587)文禄3年(1594)
小出吉政文禄3年(1594)文禄4年(1595)
石川光元(代官)慶長3年(1598)慶長5年(1600)
城がふもとに移築される

徳川時代の龍野藩は、初代藩主本多政朝・元和3年(1617)〜脇坂安斐・明治4年(1871)廃藩置県まで続きました。


◇鶏籠山頂古城に登る道

山頂の城跡への道は、春は新緑、秋は紅葉と、四季折々の移り変わりが美しい「紅葉谷」(ゆるやかな道)から登る道と、鶏籠山のふもとにある現在の龍野城(急勾配の大手道)を登る道があります。

○紅葉谷から登る道(おすすめコース)

  1. 段々畑のように積まれた石垣(侍屋敷跡といわれ、このあたり鳥ケ撓(とりがたわ)「地名」といい、太平洋戦争、昭和20年前後の食料が不足していた時期、屋敷跡といわれていた空き地も畑として利用されていました)
  2. 露出している石面に「矢穴」(石を割るため「ノミ」で矢穴を掘って、「ヤガネ」の矢先をキッチリと「矢穴」に添わせて、叩いて石を割り、城の石垣などに利用しました)
  3. 立派な石の蹲い(つくばい)(このあたりの侍屋敷の庭に置かれていただろうと思われる蹲いで冷たい渓水が引かれ手洗いなど、おとずれる人たちにうるおいを与えています)
  4. 鳥ケ撓(とりがたわ)番所跡(龍野藩主脇坂氏の上屋敷「聚遠亭(しゅうえんてい)」が坂下にあったので、この番所は重要な見張りの要所になっていました。屋敷内に泉水(庭の池)跡、井戸が残っています)
  5. 大きい石灯籠(石灯籠は、以前は左右に二つありました。このところを両見坂といい、この峠を境に、、道は三方向に別れ、一つは的場山(近畿自然歩道)へ、一つは龍野町北龍野へ抜ける道であり、さらに一つが山頂の城跡へと続いています)
  6. 竪堀り(たてぼり)の跡(山城を築くとき、万一敵が攻めて来たときを考えて、要所にいくつもの堀切り、空掘を掘って敵の攻撃に備えていました)
  7. 本丸に向け古い石段(昔、武将たちが登り降りしていた古い石段をあがります)
  8. 石だたみが続く八幡宮跡(赤松氏が築城したときに守護神として建てられた社で、のち、龍野藩主脇坂安政によって再建されています。現在は、「城山八幡宮」としてふもとの龍野神社の境内に移されています)
  9. 本丸跡と石垣(石垣は野面(のずら)石「自然のままに近い石」で築きあげた石垣で、本丸の広さは、約、東西20m、南北14mあります)
  10. 削平地(山肌を削り作られた広場で、矢倉、米倉など櫓を建てたり、周囲に土塁を設け、敵の攻撃に備えていました)
  11. 矢竹が群生(弓矢は戦いに欠かすことの出来ない重要な武器であり、大切に植えられていました。矢竹は、高さが約3mに伸び、茎は真っすぐで、節と節の間が長く、節も出っ張らないので、昔から弓矢に利用されていました)
  12. 二の丸跡と土塁(二の丸は、城の中心となる本丸の外側にある城郭のことをいい、二の丸の広さは、約、東西14m、南北27mあります。また、二の丸の南側には、三重、四重に削平地が設けられ、土塁が張り巡らされていました)
  13. 大手道を現龍野城に向かって下山(下山途中には石塁の跡もありませんが、城に通じる大手道があったといわれております)
  14. 龍野城からの登り口に出ます。
  15. 鶏籠の小路を通って紅葉谷の登り口に帰ってきます。

《所要時間は、約1時間20分》 龍野城からの登山は反対順路です

歴史と自然に親しみながら、ごゆっくりと登山を楽しんでください。





野見宿禰みてある記

古い面影を色濃く残す龍野のまち、その背後に横たわる台山の中腹に野見宿禰(のみのすくね)神社があり、野見宿禰が三方を見渡すように鎮座しています。
宿禰神社の百十五段の長い石段を登りつめると、天岩戸(あまのいわと)伝説に出てくるような石で造られた両開きの扉が、いかめしく立ちはだかっており、見るからに神話の息吹を感じ、いかにも宿禰神社らしい雰囲気を漂わせています。


野見宿禰

野見宿禰は、神話時代の出雲国(島根県)の人でした。
第十一代垂仁天皇のとき、宿禰は天下の力持ちを豪語する大和国(奈良県)の当麻蹴速(たいまのけはや)と、天皇の御前で「力くらべ」をし、蹴速を負かします。天皇から恩賞として領地を与えられた宿禰は、朝廷に仕えることになりました。
(これが相撲の始まりといわれています)
天皇に仕えていたとき、おきさきの日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなりました。当時は、高貴な人が亡くなると、お側近くに仕えるものは、すべて後を追って殉死する習わしでした。
主君を守りお供えをするということで、主君とともに墳に埋められることになっていました。
このような風習に天皇は深く心を痛められていたとき、宿禰は「妙案があります」と、申し出て出雲よりたくさんの土器造り師を呼び寄せ、土で人形や馬、器物(埴輪)を作らせました。
そして生きた人たちに代えて、陵墓のなかに埋めることを提案しました。
天皇はたいそう喜ばれ、これからは殉死をすることを禁じ、この方法を取り入れるよう命じられ、宿禰を朝廷の葬送の儀礼を執り行う役に任じました。


龍野の地名

朝廷に仕えていた野見宿禰が、ふるさとの出雲国に帰る途中、日下部里(くさかべのさと)と呼ばれていたこの地(龍野)で病気になって亡くなりました。報せをうけた出雲の人たちがたくさんやって来て、揖保川の石を手渡しに運んで、この地に墓を作りました。
石を運ぶたくさんの人たちの姿が、「野に立つ」ように見えたことから、人々は「立野」と呼ぶようになり、後に「龍野」と改められたといわれています。


野見宿禰神社に登る道

神社への道は、聚遠亭(龍野藩主脇坂氏の上屋敷)の入口にある石段を登る道と、春は新緑、秋は紅葉と四季折々の移り変わりが美しい「紅葉谷」から登る道があります。


鳥居の側の力水

この蹲いが造られたときには、第四十五代横綱若乃花幹士をモデルにした石の立像がありました。その立像の肩から吹き上げる力水は、ちょっとした名物でした。
側の石碑に力強く書かれている「力水」は第四十四代横綱栃錦清隆の直筆です。
蹲いの右側の歌碑に

みたらしに あふるゝ水の 勇ましく のぼるや神の 力なるらむ

と、第二代龍野町長中井顕の歌が刻まれています。


宿禰展望台

播磨平野が広がり、眼下に龍野藩五万三千石の城下町を一望することができ、鶏籠山のふもとの龍野城を中心に武家屋敷や町屋、醤油蔵などがある町並みがつづき、町並みに沿って流れる川は、母なる川として、龍野に住む人たちに愛されている揖保川です。

夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か

童謡「赤とんぼ」の作詞者、詩人三木露風(操)は、この町で生まれました。
露風が七歳のとき、幼稚園から帰ってくると、母(かた)は離婚し、弟勉を連れて鳥取の実家に去っていました。
母を恋う操は、淋しくなると、一人この裏山に登り、遠く彼方を見つめていたといわれています。
後年、露風は「子供の時見た自然が詩の道を歩ませた」と語っています。

吾れや七つ 母と添寝の夢や夢 十とせは情け 知らずに過ぎぬ  露風


芸妓の玉垣

かって、龍野のまちは、芸妓百人といわれ、料亭が軒をつらね、芸妓を抱えた置屋などがたくさんあり、着飾った芸妓と箱持ちが色気をふりまいて座敷へ通う姿で賑わった時代がありました。芸妓たちの名前が刻まれた玉垣、何となく往時の芸妓の隆盛を感じさせ、芸妓たちの気風のよさがつたわってきます。


力士の玉垣

円墳前に並ぶ玉垣には、明治から大正にかけて日本の相撲ファンをわかした力士の名前が刻まれています。
第十九代横綱常陸山谷右衛門、第二十代横綱梅ケ谷藤太郎を筆頭に東側に42名の力士と行司がずらりと並び、西側には、第二十一代横綱若嶋権四郎、第十八代大砲万右衛門を筆頭に42名の力士と行司が奉納しています。
また昭和52年頃までは、龍野神社などの相撲場で、大相撲が行われてました。
横綱双葉山、羽黒山、千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦、若乃花、朝潮、栃ノ海、大鵬、柏戸、琴桜、輪島、北の海など、たくさんの有名力士が来て相撲を取っています。
そして相撲の始祖野見宿禰神社に参拝し、角道隆盛を祈願しています。


《野見宿禰神社までの所要時間約20分》



鶏籠山に親しむ会
事務局 龍野市龍野町大手54−1
うすくち龍野醤油資料館内
TEL 0791−63−4573
龍野観光協会
事務局 龍野市龍野町富永1005−1
龍野市経済部商工観光課内
TEL 0791−64−3156




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