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一宮町の生栖行者山



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平成14年11月6日(水)  メンバー 私だけ

生栖行者山 いぎすぎょうじゃさん 787.2m
城山 じょうやま 458m


生栖行者山へ

国道29号線で波賀町を通るとき、すぐ東の山上に何やら建物が見える。通るたびに見上げて不思議に思っていた。

調べてみると、山の名前は城山(じょうやま)といい、頂上には山城が復元されているということだ。車で頂上まで登れることも分かり、今日行くことにした。

城山だけでは面白くないので、付近に登ることができる山が無いかと、2万5千分の1地形図「安積」を見ていると、一宮町の揖保川と染河内川に挟まれて、787.2mの三角点があった。

兵庫の山 写真帳で調べてみると「生栖行者山」という山だと分かった。北の生栖集落から道が頂上まで続いていて、展望もなかなか良いということだ。

さらに調べてみると、兵庫の山々 山頂の岩石には生栖からの登山道を使った記録があった。

今日は、一宮町の生栖行者山に登り、その後波賀町の波賀城蹟(城山)を見学することに決めた。

9:07
家を出発。天気は晴れ。

国道29号線に出て北上する。安富町・山崎町を通り過ぎ、一宮町の安積橋の信号を右に曲がり(感覚的には直進だが、路面の標識は右折になっている)揖保川に沿って県道6号線を北東に進む。

生栖集落のバイパス分岐のところを、右に曲がり東の山の中に入る林道(林道能栖線)に入る。「生栖行者山 登山口」の案内板がバイパス分岐の角の木にぶら下がっている。

10:35
林道を少し行くと鉄柵が道を塞さいでいる。その手前の路肩が広いところに車を止める。

10:41
準備を整え、出発。鉄柵にはカギは掛かってなく、紐を解き開けて、通過後紐を縛る。

10:47
道端に「いぎす行者山 登山道」の案内柱がある。最近立てられたように見える。そこの左手には「行者参 登山記念 平成元年九月吉日」の立派な石碑があり、その先にお堂が建っている。平成元年の9月に大々的な集団登山でもしたのだろうか。

登山口の石碑とお堂

お堂の左手から登山道が始まっていて、登山口付近にだけテープの目印がある。最初、左手は植林、右手は開けた雑木林で感じの良い道だが、すぐに植林の中に入ってしまう。

頂上までのうち、8割が植林の中、1割が植林と雑木林の境、残り1割が雑木林の中という感じだった。

植林の中の道

雑木林の中の道

植林の中の道は非常によく整備されている。小さな谷を渡るところでは石を積んでしっかりした道を造っている。炭焼窯の跡もあり、昔は多くの人が山の中で仕事をしていたのだろう。

道は尾根に乗り頂上を目指しているようだが、途中から南に向きを変え、少しづつ高度を上げながら頂上南西の鞍部の北側に向っているようだ。1箇所だけ道が分かりにくい箇所があったが、そこには真新しい「行者道」の案内板があった。

頂上南西の鞍部めざし、小刻みな九十九折れを登っていく。

11:56
鞍部に着いた。南西のピークへの切り開きはあるが、南の「能倉」へのはっきり分かる道は無かった。鞍部には16個ほどの石を並べて何かの印が形造られていた。自然のものではない様に見えた。

鞍部の石の印

12:00
鞍部から北東に登ると、また新しい案内板「直進 山頂、左 行者堂」が現れた。行者堂に行ってみる。

12:01
大きな岩の陰になっている行者堂に着いた。入口に扉はなく、中は3畳ほどか。半分ほど床が張ってある。お堂の前に石の祭壇があり花さしだけで、行者像はなかった。

行者堂

12:04
行者堂を出て頂上を目指す。分岐まで戻り、雑木の尾根を登っていく。南側の山が木の枝越しに見える。

頂上への尾根道

12:10
頂上直下の急登を越えると、三角点標石があった。ここの三角点は上が丸くなっている。石材が悪かったのか、はたまた標石のかけらを煎じて呑めば万病に効くのかどうか分からないが、根元が四角で文字が少し残っているので三角点標石に間違いないだろう。

丸い三角点標石

12:13
三角点を通り過ぎ、北東の端に行くと展望があった。大展望ではないが、北から東の山々が見える。正面に東山、その左に三室山、右にはには藤無山・高峰・大段山、東にアンテナの暁晴山が近くに見えた。木々がかなり伸びていて視界を妨げているのが残念だ。


生栖行者山から北の展望

12:37
曇ってきて、気温は6度、風があり寒い。行者堂まで下りて昼食を食べることにする。

12:48
行者堂に戻りコンビニで買ってきた弁当を食べる。戸は無いが外で食べるより寒くない。登山者記入帳があり、元日にも登っているが、なぜか9月にも地元の方が登っている。行者と9月は何か関係があるのだろうか。

13:15
下山開始。登ってきた道を下る。

14:07
登山口のお堂通過。

14:13
車に戻る。天気はまた良くなってきた。



平成15年6月9日、追記。

  1. 登山口のお堂(薬師堂)から約9分登ったところの登山道が林道新設中で、約6m切り取られている。(材木切り出し用林道を作っているとのこと)。
  2. 行者堂の約10m上方の岩棚に約30cmの銅製の「役の行者」像が台座の上に祀られている。その左下方の岩の切れ目に「不動明王」の石像も祀られている。

以上の2点の情報を頂きましたので、ここに追記します。



波賀町の城山(波賀城史蹟公園)へ

14:18
波賀町の城山に向け車を出す。

国道29号線に戻り、波賀町に向う。波賀町町役場の前を過ぎ、引原川を渡り、斉木口の信号の手前を右に入る。波賀城史蹟公園の案内が角々にあり、それに従い急な坂を登っていく。登るのは車なので楽チンだ。道は一旦南に周り、公園の東側に向う。

14:39
波賀城史蹟公園の駐車場に到着。車は1台も無い。モミジに少し色が付いているが、紅葉の盛りはもう少し先のようだ。

城山は駐車場から200mほど歩いた先にあり、こじんまりとした二層の山城が復元され建っていた。城からの展望は素晴らしく、波賀の町を見渡すことができる。

復元された波賀城

波賀城(城山)からの展望

波賀城城蹟

11世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として岩清水八幡宮の荘園になっていました。
この地には有名な名馬の伝説があります。「その昔、芳賀七郎という武士がおりました彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました‥‥‥‥‥。
伝説の芳賀氏は伯可荘の有力者であったと思われ。ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
13世紀の中ごろ地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。中村氏は初代の光時から戦国時代末期の、吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏の支配下で勢力を維持したものと思われます。
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点にした可能性も考えられます。
この城は山陽道と日本海側を結ぶ囚幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています。
また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
平成2年3月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書などの考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。このことから波賀城蹟は、それが波賀町の中核であるだけではなく、裾野の広い文化的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるべきものとの結論を得ました。このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が歴史を学ぶ、心のよりどころの場になって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。

波賀町

15:26
駐車場に戻り、家路につく。

16:44
家に帰着。総走行距離119km。生栖行者山の登り下りは、ほとんど植林の中で趣に欠けたが、頂上からの展望はまずまずだった。登る経路を変えれば(南側は雑木林が多いように見えた)また違った山になるだろう。



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