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赤穂の宝珠山と

龍野の片吹山<鬼の足跡>



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平成15年5月29日(木)  メンバー 私だけ

宝珠山 ほうじゅさん 182m
片吹山 かたぶきやま 39.4m

2万5千分の1、地形図「相生」と「網干」を参照すること。



鬼の足跡

笹山の女明神・男明神で龍野市誉田町福田の笹山の山中にある「鬼の足跡」を報告したところ、実家が笹山の麓の方から、同じ誉田町の林田川西側の片吹山にも「鬼の足跡」があるという情報を頂き、今回調査に行ってきた。

太子龍野バイパス、国道2号線と林田川に囲まれた39.4mの三角点がある山が片吹山だ。この山だけでは淋しいので、登ったことがない赤穂市坂越の宝珠山に行き、帰りに片吹山に寄るという計画を立てた。

天気がよく、美しい坂越の海を見ることができるだろう。



歴史の町、坂越

相生市街から高取峠を越え、千種川の岸に出る。坂越橋の手前で左に曲がり、坂越トンネルを抜けると左手に空き地がある。

空き地の隅には『白壁が歴史を伝える 坂越浦 昭和58年「赤穂新八景」選定記念』の石碑と「ようこそ歴史の町坂越へ」の古い案内図がある。

それからこれも古い錆びた「赤穂市管理地 関係者以外立入禁止」の看板があるが、駐車禁止の表示はないのでここに車を止める。

12:16
準備を整え登山開始。浜に出てみると「坂越湾ふるさと海岸整備事業」で生島の北の坂越港までの浜が整備中だった。県道際の防波堤の外に親水護岸を築きその間は松林にしようという計画のようだ。

新しい護岸からみた生島
観光地化するのかな

12:24
大避神社の下についた。石畳の道が鳥居をくぐり正面の神社に続いている。巻物風に作った付近の案内がある。

生島

坂越には、古くから海辺で暮らす人々が住んでいました。それは、生島によってこの港が荒波から守られていたからです。人々は生島を神として祀り、豊かな海の恵みに感謝してきました。また、島には秦河勝の墓と伝えられる古墳があり、神聖な場所とされてきました。人の入ることを禁じたために、生島は今でも原始林のままです。

坂越の船祭り

海に育まれた坂越の人々は、お祭りにも船を使いました。毎年10月に行われる船祭りには、大避神社から神霊を生島に渡すお祭りです。坂越が船を使った交易で栄えたころ、船乗りたちは、今のような勇壮な船祭りを作り上げました。絵馬(神社に飾られている絵)や石灯籠を見れば、そのころ港に浮かんでいた船の名前を知ることができます。

大避神社

この神社は、遠い昔から坂越の海と人を見守り続けてきました。祀られている秦河勝は、飛鳥時代に聖徳太子とともに政治にあたりました。聖徳太子の死後、秦河勝は坂越に移り住み、千種川沿いを開拓したと伝えられています。また秦河勝は能楽(鎌倉時代の演劇)の守り神としても知られ、神社には古い能楽面が残されています。

天然記念物「生島樹林」の石碑もある。

天然記念物 生島樹林 是より南海上400メートル

史蹟名勝天然記念物保存法 大正13年12月9日内務省指定

昭和9年6月12日建之

大避神社への石畳の道
石の鳥居をくぐり大避神社へ

大避神社に参詣し、神社石段の下から左の道を登ると、ゲートボール場がある。そこは昔は小学校だったようだが、1000人もの児童が学んでいたとは信じられないほど狭い。そこから一段上は「坂越浦城跡・御番所跡」として整備され展望広場となっている。

小学校跡

坂越小学校は、昭和38年(1963年)に高谷に移るまで、この場所にありました。ここに大きな木造校舎が建ち、上の展望広場が運動場でした。多いときには1000名を超えるこどもたちが、ここで学んでいたのです。夏休みには、坂越浦で海の泳ぎ方を習っていました。そして4年生以上になると遠泳(海洋訓練)に出て、生島を泳いで一周しました。この石柱は、そのころ校門として使われていたものです。

坂越浦城跡・御番所跡

坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いたと言われています。その後、龍野城主である「赤松下野守村秀」の通城となり、坂越を支配したと言われています。
江戸時代には、この展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。

坂越のまちは、波静かな坂越浦に浮かぶ原生林『生島』(天然記念物)を取り囲む緑豊かな山々と港まちの面影を伝える集落の佇いが調和して絵のような美しい光景を保っています。
町の中心部には旧庄屋をはじめ入母屋の大屋根の造り酒屋や酒蔵の白壁、近世後半期から明治初期にかけての厨子二階建ての町屋、寺院の門などが並び、かつて内海の要衝として拓けてきた港まちを偲ばせる風情を今なをとどめています。

12:40
戦前の坂越町村長だった山崎氏の銅像に見送られ舗装道路を登っていく。(誤読があると思うが碑文は下記のようなものです。)

山崎善吉君ハ明治15年播磨国砂子ノ素封家山崎善八郎氏ノ長男トシテ生マレ資性重厚意志硬確能ク人ヲ用ヒ熟慮果断事ニ当ッテ惑ワズ昭和3年推サレテ坂越村長トナルヤ港湾ノ埋立荷揚場ノ拡張紡機製造株式会社(今ノ大日本紡績坂越工場)ノ誘致水道ノ敷設国鉄赤穂線ノ坂越駅設置運動奏功後用地買収ノ幹旋県林道ノ改修役場ノ移転新築ヲナシ町制ヲ施行セリ尚坂越町農業会長赤穂郡町村長会長赤穂郡教育会長等ヲ兼任ス終戦後一切ノ公職ヲ辞任シ悠々自適ス坂越ノ町村長タルコト実ニ十有九年地方功労者トシテ褒章ヲ受クルコト数次坂越町ヲシテ郡内一ノ富裕町タラシメリタ昭和22年12月23日急逝ス時歳60又6君逝キテ正ニ10年君ノ芳蹟ヲ慕ウノ声欝然トシテ起コリ郷人胥議シ君ガ生前経営シタル築地銅像ヲ建ツ君ノ功徳ヤ固ヨリ大郷人ノ其ノ功徳ヲ追慕スルヤ亦嘉尊ノ吊乃郷人ノ請ニ応ジテ其ノ梗概ヲ誌シ以ッテ一郷ノ夾者ヲシテ矜式スル所アテシム是亦君ノ志ヲ成ル所以ナラン夫

昭和32年4月8日 蘇峰 徳富猪一郎撰 花岳 伯仙書




歴史の山、宝珠山へ

12:43
「妙見寺 古道」の道標があり、舗装道路を左に離れ石段を登る。

山中に妙見寺観音堂が建っている。観音堂からは生島がよく見える。

妙見寺観音堂
生島が見える

赤穂市指定有形文化財 指定番号28

妙見寺観音堂

所在地 赤穂市坂越1307番地の1
所有者 宗教法人妙見寺
指定日 平成9年3月31日

宝珠山妙見寺は、天平勝宝(749〜757)頃に行基によって創建され、大同年中(806〜810)の空海の再興を経て、盛時には16坊5庵を抱えた大山岳寺院であったといわれている。
観音堂は、万治2年(1659)に、妙見寺の奥の院として宝珠山上に建立されたが、後に大破したため享保7年(1722)に現在地に再建されたものである。建物は、桁行3間梁行3間(約7m四方)の本瓦葺きで、山の斜面に持たれかけるように造られた懸造り形式の構造になっている。また桁を支える蟇股には十二支が彫り込まれており、細部にわたって意匠が凝らされている。
昭和55年には老朽化のため一部修復されているが、こうした懸造り形式の建物は、近世社寺のなかでは全国的にも例が少なく、建造物として非常に価値の高いものである。

赤穂市教育委員会

舗装道路に出て登って行くと、昔の道と交差するが、舗装道路の方が歩きやすいのでそのまま登っていく。「宝珠山八十八カ所 奥の院 参道」なる標識がありおもしろそうな道が続いているが、それも無視し舗装道路を登っていく。

宝珠山舗装登山道(NHK中継所点検道路)
夏はきついだろうな

13:00
奥の院に着いた。どこの奥の院なのだろうか。この建物ができた時は舗装道路などなく参拝も大変だっただろう。

奥の院
今でこそ簡単に登れるが、昔は大変だっただろう

坂越浦宝珠山八十八ケ所 奥の院

宝珠山八十八ケ所 昭和4年真言宗の開祖弘法大師の千百年御遠忌を契機として遺徳を偲び、茶臼山、宝珠山の稜線一帯に開設した。
茶臼山城跡とNHK中継所 今から約530年昔の「嘉吉の乱」に於て古戦城となった宝珠山の別峯、茶臼山に昭和45年秋NHK中継所が開設された。
名所 瀬戸内海国立公園、船岡園、児嶋高徳公墳墓、大避神社、天然記念物生島樹林

13:07
NHK中継所のある西の茶臼山と東の宝珠山との鞍部に着いた。ここには観音像と、新しい墓・その解説板がある。

和田備後守範長公一族五霊位の墓所

建武中興(南北朝660余年前)の直後、「源氏の武家政治」の復活を志す足利尊氏は、「国民の福祉」を優先する後醍醐天皇の信頼をうらぎり、九州にのがれ20万の大軍を催し、都へ向けて東上しました。備前熊山の城主児島高徳公の義父、和田範長公は、尊氏方へ恩賞の勧誘を断り、勤王の旗印を掲げ大義名分を重んじ、後醍醐天皇に味方して各地に転戦官軍脇屋義助公の本隊に合流しようと坂越浦へたどりつきました。熊山城の夜戦で重傷の高徳公を妙見寺の僧に託し、83騎の手勢を率い那波浦を駆け抜け、赤松円心の追手勢と10数回の合戦の末、力つき、延元元年4月22日、阿弥陀が宿の辻堂で一族 5名自害討死しました。敵将宇野重氏は大日寺で懇ろに葬礼を指示し、遺骨を郷里に送り届けました。(太平記)
昭和55年4月18日、此の地で5基の五輪塔を発掘、地輪石を現状の儘保存、当時の住僧が遺骨を埋葬した事を考証しました。
墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。
平成7年6月22日、岡山の施主家のご芳志により、新五輪塔5基が奉納されました。

平成7年吉日

宝珠山妙見寺
児島高徳卿 旧蹟保存会
坂越のまち並みを創る会

13:13
NHK赤穂坂越テレビ中継放送所が頂上にある茶臼山に到着。中継アンテナの裏には八十八カ所の石仏の一つが祀られている。南東側が展望所になっていてベンチも置いてあが、木がかなり茂り生島方向以外はよく見えない。

生島の先には3月に猛烈なヤブを漕いでいった壺根から伸びる半島が見える。

茶臼山頂上からの生島
海岸の工事がよく分かる

13:21
墓のある鞍部まで戻り東の宝珠山に続く道を行く。左側にある石仏を見に行くと、千種川の流れが正面に、右手には尼子山左手には雄高台山に続く山々が見えた。

宝珠山手前からの千種川
JR赤穂線の橋が架かっている

13:31
よく歩かれている道を真っすぐに登り、宝珠山頂上に着いた。この山には三角点は無いが石仏が数体祀られている。

南側の木々は伐られ坂越湾方向がよく見える。


宝珠山から南の展望
左は釜崎、正面は生島、右は黒崎



ここからは歴史のあるハイキングコース

13:39
宝珠山を後にし東に進む。

かなり昔に整備された丸太の階段道を下りていくと、道の横に木の柱が4本立っていて中には朽ち果てた床がある。お堂の跡かなと思ったがよく見ると屋根が落ち朽ち果てようとしている東屋だった。この一帯は昔遊歩道として整備されたようだが、その後は補修が全くなされず、丸太階段はかなり荒れてはいる。しかし、歩きにくくはなく、逆に自然な雰囲気でハイキングには最適な環境になっている。

宝珠山から東の道
踏み跡はしっかりしている

広い尾根の道を行くので周りの景色はあまり見えない。道の周りの木々は昔整備された時に伐られたのか、日陰が無く真夏に歩くのは体に悪いだろう。今日は初夏のような天気で気温は28度ほど。風が少しあり湿気が少ないので楽しく歩くことができる。

14:01
今日の最高標高地点の240mほどのピークについた。色の抜けた「火の用心」の関電送電線巡視路の道標があり、北の280.3m三角点ピーク方向にも良い道が延びている。私はハイキングコースを東に行く。

正面の208mピークの北側の斜面にはなぜだが知らないが、たくさんの道が木が生えていない山腹に付けられている。

急な階段道を下り、緩やかな208mピークへ登って行くと、北側に石川島播磨重工業相生工場が見えてきた。山間の谷間の平地に工場が建てられている。山が海に落ち込んでるような地形のほうが、大型船の進水には適しているのだろうが平地が少なく大変そうだ。

14:29
208mピークに到着。ピーク北側の送電線鉄塔を見に行くと「相生火力線 三」だった。工場の上の山では大規模な土木工事中で巨大なダンプカーが走り回っている。山の上に平地を作って工場でも増築するのだろうか。

208mピークの鉄塔から
何の工事なんだろう

208mピークからは南の海がよく見えて、なかなかの絶景だが、後ろを見ると関西電力のフェンスがここから延々と東に続いている。

208mピークの南の展望
家島が近くに見える

14:34
関西電力のフェンスの横を歩いていく。フェンスには所々に扉があるが鍵は掛かっていない。いろいろな注意看板が付いているが立入禁止のはない。おそらくフェンスの向うはどこへ降りても県道にしか出られないためだろう。

14:40
火力発電所の煙突が正面に大きく見えてきた。今日は発電所はお休みのようで煙突からは陽炎も立っていない。途中には山腹を西に行く道の分岐があるがどこに行けるのだろうか。

関電のフェンス横を行く
左に入ってもいいけれど

14:48
118.4m三角点ピークの手前の130mほどのピークにはテレビ共聴用のアンテナが立っている。ここからはフェンスと電柱の横を行くことになる。



楽しいハイキングも終盤だ

14:53
三角点ピークの手前の鞍部からハイキング道は尾根から外れ南に下がっていく。関電のフェンスの向う側に行けば更に進めそうだがここから下りることにする。

電柱の横の道を下りていくと竹林の中に入る。竹林の下は木が茂り薄暗いコンクリートの溝の横を下りていく。いやらしい気持ちの悪い道だ。

15:02
民家の間を通り海岸沿いの道に出た。そこには道標があるが気を付けないと見過ごしそうだ。ちなみに道の海側にはcT−5−3のごみステーションがあり、小島のバス停の東だ。

児島〜坂越遊歩道登山口

みかんのへた山古墳(徒歩約10分)
この山の上の円墳は、海上から見るとみかんのへたのように見え、円形の地形を利用して、古墳中期(5世紀)に築造された。
この遊歩道は、「みかんのへた山古墳」をへて、相生市境沿いに宝珠山へと続く。(宝珠山へ約3km)

残念ながら、みかんのへた山古墳はどこか分からなかった。ここから海岸線沿いの道を歩いて、出発地点に戻る。

15:43
鍋島や生島、家島などを見ながら歩き、坂越トンネル出口の駐車場所に戻る。3時間半程の、天気もよく眺めもよくまずまずのハイキングだった。



いよいよ片吹山の鬼の足跡へ

林田川の西、龍野市誉田町片吹の片吹山の南西には加藤稲荷大明神がある。その下には片吹公民館がありそこに車を止める。

石段を登るとお社があり、その横にお堂がある。お堂の裏には踏み跡があり、登って行くとあっという間に片吹山頂上についてしまった。頂上には四等三角点<点名:片吹>がある。

頂上は雑木と草が茂り展望はない。石碑や壊れかけた東屋があるところを見ると昔は開けていて展望があったのかも知れない。

目的の「鬼の足跡」だが、これかなといった物はあったが確証はない。

頂上手前の踏み跡横の岩に窪みがあり土が半分ぐらい溜まっている。土を除くと卵形の窪みになり、石自体も角が2本生えたような不思議な形をしている。これが片吹山の鬼の足跡なのだろうか。

片吹山の鬼の足跡?
笹山の「鬼の足跡」はこれです。



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