山行記録にもどるホームにもどる



姫路市大回り、その17
(檀特山から瀬戸内海へ)



スポンサード リンク




平成16年1月4日(日)  メンバー 私だけ

檀特山 だんとくさん 165.1m

2万5千分の1地形図「網干」を参照すること。


姫路市大回り

長かった「姫路市大回り」もようやく今回で終章を迎えることとなった。

今回は姫路市と太子町の境界にある「檀特山」に登り、その後はひたすら瀬戸内海を目指し歩き続けるだけだ。

檀特山に関しては、私の檀特山と近くの山々檀特会のホームページに登山口などの情報が詳細に記載されている。


下太田廃寺から檀特山へ

8:08
JR網干駅から今日の山行を開始する。

網干駅の北側に出て、大日寺が頂上近くにある朝日山を北に見ながら東に進む。大津茂川を渡り勝原小学校の先で北に入る。瓢塚古墳の横を行き9m標高点の交差点で檀特山とは逆の東に曲がり、卍印近くの「下太田廃寺」に行く。

8:43
「下太田廃寺」に着いた。塔跡の礎石しか残っていないが、心柱を立てた穴に水が溜まり、昔に見た薬師寺の三重塔の礎石を思い出した。一方は時代の波を乗り切り復興したが、片方は波に飲み込まれてしまったようだ。

下太田廃寺の塔礎石
五重塔があったようだ

下太田廃寺【しもおおだはいじ】
(所在/姫路市勝原区下太田字薬師田)

このあたり一帯は古くから開かれた地域で、古墳時代(4〜7世紀)には瓢塚【ひさごづか】(国指定史跡)をはじめ多数の古墳が築かれた。播磨風土記(8世紀の書物)には昔、韓国【からくに】から渡来した呉勝【くれのすぐり】らが住んで大田里【おおたのさと】と名付けられた、と記されている。後に「太田」と書くようになった。
当地は古代の寺院跡である。塔跡【とうあと】(県指定史跡)以外の遺構【いこう】は不明だが、心礎【しんそ】の形式や出土古瓦の文様から、寺は白鳳【はくほう】時代(7世紀末)の創立とみられる。字【あざ】名や多数の礎石・土壇についての伝承などから、1町(109m)四方の境内に、大門・五重塔・金堂【こんどう】・講堂などの伽藍【がらん】を配置した大寺院であったと推定されている。
現在の薬師堂は昭和10年代に改築されたもので、もとの薬師堂(万延元年【1860】建立)は塔跡の東方に移されて黒岡大明神を祭っている。

姫路市教育委員会、姫路西ライオンズクラブ、網干地方史談会

もう一つ解説板が立っている。

県指定文化財 下太田廃寺跡

昭和37年7月16日指定

西播地方には早くから河川流域の肥沃な沖積平野に多数の遺跡が存在している。また「播磨風土記」にみられるように渡来人系の氏族の手により開発がなされてきたことから仏教の受容も早くからみられる。
下太田廃寺は京見山系と檀特山に挟まれた大津茂川流域の東側の水田中に存在する。
現存する遺構は東西約10m、南北約7m、高さ60cmの塔基壇である。心礎を中心に計9個の礎石が原位置に遺存している。
心礎の大きさは径150cm×170cmで凝灰岩を用い中心には径約32cm、深さ約16cmの柄孔をもっている。
出土した瓦は奈良時代前期から後期のものが多く、この寺の創建が奈良時代前期にさかのぼることを示している。

昭和49年10月 兵庫県教育委員会



川島登山口から檀特山に登る

9:03
新幹線高架の下を西に行き檀特山の麓に着いた。新幹線トンネルの少し北、森工業所の横から道が山に入っていて、道の向かいに「檀特山ふるさとの森 入口」の案内標識が立っている。ここが檀特山川島登山口だ。市町界に一番近い道を登るため大分遠回りをしてしまった。

地元の人か自転車で来た二人も檀特山に登るようだ。三脚の用意をしているうちに置いて行かれてしまった。

9:09
車が通れそうな道を登り、途中の分岐を山側に曲がり北に進むと、兵庫県・太子町・兵庫県森と緑の公社が設置した案内図が立っている。池の中に島が二つ浮かび吊橋でつながっている様に見える不思議な案内図だ。島の部分が「檀特山 ふるさとの森」の範囲なのだろうか。

檀特山ふるさとの森案内図

太子町檀特山は、古くから歴史があり、地域に親しまれている山です。
「ふるさとの森」では、ヒサカキなどの常緑樹をきって明るい林をつくりだしています。
山頂など眺望の良い場所が多く、周辺の景観や明るい林の自然を楽しみながら登山ができます。また、多くの史跡があり、地域の歴史が学べる場所でもあります。

各入口から山頂まで30分程度でつきます。
おとしよりやこどもが気軽に利用できるよう山すそに沿った道があります。

【”ひょうご豊かな森づくり構想”に基づく里山整備事業】
この地区は地域のみなさま方のご協力をもとに景観や多様な動植物を保全し、健康や森林学習の場として活用するため、県内の林地開発をした方々の協力金により、森林の整備や歩道の整備などを行っています。

平成12年3月 兵庫県・太子町・(社)兵庫県森と緑の公社

山頂まで0.7kmの道標から階段道の登山道が始まっている。登山道脇の川島荒神社にお参りして登山を開始する。

山麓の荒神社
小さな神社だ

非常に良く整備された登山道を登っていく。道標も随所に立っていて地図なしでも迷うことはないだろう。登山道脇は下草などが刈られ明るい林となっている。

明るい登山道
昔の里山を復元している

道端のモチツツジの花が一輪だけ咲いている。日当りがよく暖かいので間違って咲いたのだろうか。それとも今時分でもミツバツツジがちらほらと咲いている山もあるので、ツツジとしては普通のことなのだろうか。

9:33
送電線鉄塔が立っている。JR西日本の「檀特P2」だが送電線は張られていない。ここから登山道は緩やかになり南西の頂上を目指す。送電線鉄塔を観察していると頂上方向からトレイルランナーが現れた。驚いたことに私より年上の元気そうな女性の方だった。

明るい道が続く
静かな道だ

9:43
檀特山頂上に到着。木製の展望台、ベンチ・テーブルがある。展望台にはパノラマ写真が展示してあり、展望台の下には回数登山帳入れや掲示板ながある。ハイカーというか散歩者というか5名ほどいる。

檀特山頂上
展望良好

今日の最終目的地となる瀬戸内海が以外に近くに見える。風もなく天気も良くポカポカとして暖かい。


瀬戸内海を目指す

10:22
余りに気持ちがいいので今日はここまでにして檀特山頂上でのんびりと過ごそうかとも思ったが、今日の目的「姫路市大回りを完結する」を思い出し重い腰を上げ下山を開始する。

下山は西の「矢田部登山口」に下りることにする。尾根筋を行く「ゆったりコース」と谷筋を行く「健脚コース」に分かれているが、ここはのんびりと「ゆったりコース」を行くことにする。

尾根筋の「ゆったりコース」
「健脚コース」が下に見える

10:43
パチンコ屋さんの南に出る。ここから立岡山の南の道を西に林田川に突き当たるまで進み、その後は川沿いに南下し姫路市の最南西端の海に突き出た突堤の灯台を目指すことにする。

10:55
道端に次ぎのような石碑があった。住宅地と田畑が混ざっているが昔は一面に水田が広がっていたのだろう。

公害汚染農地復元記念碑

東京芝浦電気株式会社太子工場が稼動して以来工場の排水は灌漑用水路に放流されて排水中にカドミウムが含有していることが昭和46年3月に至って発見され流域水田の土壌に沈潜していたことが判明し関係農家協議の結果一斉休耕を実施し直ちに公害対策委員会を設け県町の行政機関の協力のもとに東芝と種々交渉を重ねた結果用水路の改修工事ならびに汚染土壌の天地返し工法を施行して14ヘクタールの農地を復元した。工事に当たっては農道の拡張並びに農地の統合交換分合等圃場の整理には共同減歩による相互の理解と協調によって事業は昭和54年3月完遂した。此に記念碑を建て後世不朽に伝うものである。

昭和55年12月
立岡東芝公害田農家建之

立岡山の北西にある東芝太子工場からの排水が原因のようだが、今思うと昔私の住んでいた町でも工場からの排水はすごいものがあった記憶がある。

立岡山の南、スーパーの広い駐車場に差し掛かると、私を追い越して駐車場に入った車から女性が降りてこられた。道でも聞かれるのかなと思ったが、いきなり「松本さんですか」と声をかけられビックリ。「播州野歩記」の読者の方で街中を大きなザックを背負い黙々と歩いている私を見てピンと来たそうだ。

「これからも頑張ってください」と励まされ、瀬戸内海までまだ大分あるなと思いながら実際ウンザリしながら歩いていたが、大分元気になった。

11:23
林田川に架かる「宮原橋」のたもとに着いた。

ここからは川沿いを行くが、土手の上の車道を歩くと眺めがいいが脇を車が走り抜ける。河原も歩けるが左は土手、右は草むらと何も見えず詰まらない。車道の外に遊歩道がありそこを歩くと犬の糞だらけで思わず一回踏んづけてしまった。

12:01
林田川が揖保川と合流し、王子橋の下をくぐると河原にはコンクリートの護岸が延々と続いている。登山する分には最適な靴もただの重たい靴になり足が痛くなってきた。

王子橋下流の揖保川
長いな

12:26
土手に「旧勝千本松跡」の碑が立っている。今は小さな松が植えられているだけだ。

旧勝千本松跡
「千本松の由来について」

下余部堤防は、昭和26〜27年に施行したものであるがその昔。毎年のように洪水の被害を被りその度農民たちは復旧に狩り出されていた。
この有様を見かねた同村の庄屋岩村源兵エ村行は、丸亀藩の網干代官所にこの窮状を再三訴え出たが藩の対応はなかった。
そこで、この水害から村人と田畑を救うため私財を投じて若松980本を植えたのが元禄年中のことである。
その後村を救ったこの松並木を源兵エは丸亀藩に上納し、その維持管理を任せたのである。
この松並木は、明治中期まで揖保川の清流にその美しい姿をうつし余部の千本松としてその名を広めその景観を見んものと訪れる人も多かったと云う。

柳沢忠著「揖保川の流れ」より

水門操作建屋の壁に松林の絵が描かれているが、かなり違和感がある。

12:40
揖保川に架かる八十大橋を渡る。ここからは土手から離れ街中・工場中の道を南に進む。

八十大橋

姫路から室津に通ずる街道は「室津道」と呼ばれ、古来交通の要衝であった江戸時代、幕府はその重要さから姫路藩に飛地として室津を治めさせた。
この「室津道」は、室津沖に来航する朝鮮からの使者の応接などのため、役人たちの往来も激しく常に賑わいを見せていた。
一方、揖保川には、荷物運搬のため高瀬舟(揖保川筋では出石川舟)が運行しており、橋を架設すると運行に支障となるため川の渡しは昭和30年頃までは、渡し舟で渡していた。
高瀬舟の減衰とともに低水路に木橋を架設したが、通称「流れ橋」と呼ばれるほど洪水のたびに流失し、付近住民に不便をかけていた。昭和55年から浜田下余部線の道路整備事業に着手し、古来の「室津道」をイメージテーマとして、高欄に大名行列のパネル、親柱には、高瀬舟、千本松をデザインした橋梁の架設整備を行った。

平成4年3月吉日 姫路市

12:52
国道250号線を横断し南に真っすぐな道を進む。あと3kmほど歩けばいいはずだ。

道の両側には工場や材木店が並んでいる。日曜日なのでバスは運行していなく(平日でも帰宅時間にしかないが)、帰りに国道まで出てバスに乗るか、山電網干駅まで行くことを考えるとウンザリしてきた。思わず電話で妻に迎えに来てもらうようにお願いする。

13:31
防波堤に突き当たり西に入り、やっと終点に着いた。目の前にはもう道がない。

突堤に出るには防波堤のタラップを登り下りしなければならない。陸側は斜めに登るのでいいのだが、海側は垂直(少しオーバーハング気味)でおまけに潮風で鉄のタラップが錆びて一部千切れている。

何とか防波堤を乗り越え突堤に下りる。真赤な「姫路港中川東防波堤燈台」の先で最後の記念撮影をする。家島が目前に大きく見えている。

姫路市大回り終了
次ぎは家島に行こうかな



スポンサード リンク



山行記録にもどるホームにもどる本ページのトップ