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庄山城跡(姫路)に石垣を求めて



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平成16年9月25日(土)  メンバー 私だけ

庄山 しょうやま 193.5m

2万5千分の1地形図「姫路北部」を参照すること。


2回目の庄山城跡

姫路市の東部に北側を山陽自動車道、西側を播但連絡道に囲まれた193.9m三角点のある山がある。ピークが東西に3つ並び、そのピークから尾根が南側延びアルファベットのEを寝かせたような形をしている。

庄山東麓の城山中学校の入口にある解説板には次のように記載されていて、江戸時代の古地図が添えられている。その地図によれば南側の谷外小学校の東端から谷を詰める大手道が描かれている。

庄山城跡

姫路市を代表する中世山城の遺構で、14世紀に赤松貞範によってはじめて築城されたという。城跡は谷外小学校の北の城山(標高194m)の山頂から山腹一帯にかけて構築されている。縄張りは、東西500mにわたって連続する稜線上に置かれた主郭部を中心に左右両翼に張り出した尾根と南にのびる支脈を利用して諸郭を配している。山頂から山腹にかけて石垣、土塁、堀切2本、井戸2基、城戸跡などが残っている。

平成8年10月 姫路市教育委員会

今年の1月にも登っているが(姫路市東部、石積山と庄山)、その後に登られた方から山中で見つけた「石垣」の写真をメールで頂いた。まだ道なき里山に登るのは季節が早すぎるが、何とかなるかなと思い気軽に出かけた。しかし南向斜面の雑木とシダと笹の籔は予想外に手強く進退窮まる場面の連続だった。


姫路市内最古の道標

右側が1667年造立の道標

豊国の道標

姫路市指定文化財

延宝5年(1677年)に造立されたこの道標(右側)は市内に現存する道標としては最古のもので、市の文化財に指定されている。
西国霊場の巡礼を無事なしとげた人がそれを記念して、巡礼道(丹波道)沿いのこの地に建てたもの。

(梵字)これより右ハしょしゃみち
(梵字)   延宝五年
奉納西国卅三所順礼成就攸
   九月十八日

左側の道標は文久3年(1863年)の造立

平成8年10月 姫路市教育委員会

10:25
姫路駅前から姫路セントラルパーク行きの神姫バスに乗車し、播但連絡道の高架を潜り抜けた先の「豊国バス停」で下車。

庄山に登る前に谷外小学校の西約100mの三叉路(狭い道)にある、姫路市内最古の道標を見学に行く。道標の基部は道路の舗装に埋め込まれている。300年以上前のものなのに文字は明瞭に残っている。(解説文の一行目は右側面に刻まれている)

周囲の状況は、この道標と調和がとれているとはいい難いが、ほかの場所に移して展示するのも道標の存在意義にかかわるのでそれもなんだし。300年以上経ても、そこがまだ道であるだけ道標にとっては幸いなことだろう。


庄山に登るぞ、ウヮいきなり籔だ

10:39
谷外小学校前の小道を東に引き返し、バス通りに出たところの(ラッキー工芸株式会社の向かい)山へ入る地道(車道から掛けた鉄板が目印)に入る。ここから庄山の一番東側のピークへと登ることが出来る。

地道は車道に沿って続くが、すぐに山を目指す明確な分岐が左手に現れる。はじめこそ地面が見えているが、これもすぐに笹ヤブの中の踏み跡になってしまう。1月に通った時とはえらい違いだ。普通の人ならこれ以上進入するのを躊躇するようなヤブになっているが、一度通っているので気にしないで進んでいく。

普通の人なら入らないだろうな
先が思いやられる展開だ

写真ではとても歩けそうに無いが、しっかりした踏み跡があるので歩くにはなんら問題はない。

10:54
ようやく周囲が開けてきた。ピーク近くは岩場の間を行く道で展望が良かった記憶があり、もう籔に入らずにすむと思うとうれしくなってきた。

もうすぐ展望抜群の岩場の道か?
登り始めてからまだ15分、甘い考えだっ

10:59
清涼飲料水の空き缶、スナック菓子の袋や風化したゴミが散乱する少し開けた平らな地点に着いた。木々にはビニール紐が巻き付き、過去にここで屋外生活を送っていた人がいた雰囲気がかすかに残っている。

11:05
予想に反し再度シダ籔に突入してしまった。おまけに踏み跡の中央は深くえぐれた溝となっている。足元がよく見えず踏み外しそうで恐ろしい。気温は27度を超えまだまだ蒸し暑い中を、長袖シャツに手袋までして汗びっしょりで登っていく。

シダの下には深い溝が
道なき里山歩きには時機尚早だった
、覚えておこう

11:16
ようやく笹シダ籔(踏み跡があるから私の基準から言ったら籔ではなく、快適な道にすぎないが)岩場の登りが始まった。振り返ると高山・浦山・南山・小富士山の先には瀬戸の海に淡路島・家島・小豆島が浮かんでいるのを見ることが出来る。ここまでのほとんど籔になった道にはマーキング類は全くない。一部分りにくい個所もあるので初心者のハイカーには勧める事が出来ない。

ようやく展望の岩場の登りになった
登り始めからこんな感じなら
庄山もメジャーな山になれただろうに


ようやく最初のピークに到着

11:32
東端のピークから南に延びる尾根上の高みに到着。

ピークに着くといきなり、パトカーのサイレンの音が麓から聞こえてきた。軽のワゴン車がパトカーに追われている。すわ重大事件かと成り行きを見ていると、ただの交通違反らしい。これが凶悪犯の逮捕現場なら写真が高く売れたかもしれないのに残念だ。

凶悪犯の逮捕か
スピードか一時停止違反だろう

高みの見物
だれがこの写真を撮っているのだろうか

このピークにはソメイヨシノの木が1本(上、右の写真の木)植えられている。連続して通過した台風のために葉が全部飛ばされたためか、若葉に混じり桜の花がちらほらと咲いている。さすがに花びらは成長途中のためかいじけた形をしている。

季節外れの桜の花
台風通過後の極普通の現象のよう

新しいデジカメを入手し、回線もダイヤルアップからADSLにしたため、最近は写真の量が以前に比べて増える傾向にあり、ここまでですでに8枚も使っている。中身がなくても写真を多用するとページがそれなりに見えるから、この甘い誘惑に負けないようにしなければ。

あと、このピークには石と煉瓦とモルタルで作られたケルンがある。天辺に「1983 6−3」と刻まれ数人の名前も読み取れる。

庄山頂上のケルン
向うの道路は山陽自動車道

今年1月の庄山山行記録でこのケルンを紹介しところ、ケルンの製作者本人から次のようなメール(一部編集あり)を頂いた。

 播州野歩記の庄山のページを見ていて、あっと驚きました。

 頂上のケルンは私と子ども達で作ったものなのです。新任で赴任したのが、庄山のふもと谷外小学校でした。

 その頃から山が好きで、体育の時間や学級会の時間に子ども達とよく庄山に登りました。その頃は、たくさんの人が登っていたので頂上も広くて、よく子ども達とちゃんばらごっこや相撲をしたものでした。

その子ども達が卒業する1983年3月、思い出の庄山と楽しかった6年3組をいつまでも心にとめておくため、頂上にケルンを作る事にしました。

 たしか2日がかりで作ったと思います。子ども達に自分の持てる一番重い石を探してきて、それににメッセージを書いてリュックに入れてくるという宿題を出しました。

一日目はそれをかついで上がり、二日目は砂場の砂やセメント、途中の水場でくんだ水を持って上がり、頂上でセメントをねってケルンを積み上げました。

 子ども達にとっても青年教師であった私にとっても、かけがえのないケルンです。その子ども達も、もう33歳です。



中央ピークへ

12:20
写真を撮り、昼食を取り出発する。

北のピークへと一旦下る道は短い区間だが丸太の階段になっている。誰も登らないだろう庄山の登山道を人知れず整備している方とはどんな人なのだろう。一言お礼を言いたいが、どうせ整備するならキッチリやって欲しいと言いたい。丸太階段に安心して進んでいくと、踏み跡はあるが両側から雑木の枝が飛び出した雑木籔になってしまう。

どこが道だ
倒木があり道がはっきりしない部分もある

こっちか
長袖・長ズボン・手袋・帽子必携

東側のピークは開けていて、麓の城山中学校や山陽自動車道北側の採石場がよく見える。操業中の採石場からは岩石を砕く轟音が響いてきて、粉塵も風に載って飛んできているような気がする。

山上には何かの目印なのかビニール紐の目印が付けられている。目印の方向に下ってみるべきだったのもしれないが、あえて無視して中央のピークを目指すことにする。

12:53
中央ピークを抜け西側ピークが見えるところまで進む。

西の三角点ピークまで行ってしまうと、意志の弱い私はそのまま南へ下る岩尾根で下山するに決まっている。それでは山中にある石垣を見つけるという今日の目標を叶えることが出来ない。


遺構を探しに籔に突入

歩きやすい踏み跡がある雑木藪の道から離れ、引き返すように稜線から20mほど下を東へ水平移動する。中央ピークから南に下る尾根を乗り越えても何も見つからない。というか移動するだけで全精力を使い果たし周囲を調べることなどの余裕はない。もちろん急斜面の雑木籔に三脚を立てセルフ撮りをすることなど思いもつかない。

13:18
中央尾根東側の谷底まで到達した。古地図によればこの谷筋に大手道が通っていたように描かれている。行く手には背丈を越す笹薮が待ち構えているが敢えて突入する。

行く手の笹薮
抜けられるかな

真っすぐ立っている笹なら背丈を越えようとも掻き分けて行けば楽勝なのだが、同じ方向に倒れ密集した笹を起こさねばならず、時間ばかりかかってさっぱり前に進まない。

それでも藪の中には人が通った跡が所々に目に付く。私と同じように、あの古地図に惑わされ籔の虜となった人が過去にいたようだ。

また苗を入れる黒いビニールポットが点々と落ちていて、過去にこの大手道を再現し植栽までしようとした人がいたのかもしれない。

13:32
広かった谷底が狭くなり、岩の間から水が滴り落ちている。ここから下の谷底は溝となり岩の段差が大きくなり歩けない。深くなった渓流に沿って、籔の中に道跡らしき痕跡があるような気もするが、定かではない。

13:50
結局、山城跡の遺構を見出すことは出来ず、傾斜も急になってきたため、谷から東にそれることにする。

笹薮からシダ籔に変わったが、恐ろしく密生した腰までのシダ籔で膝で押さえ込むと上に乗って進むことが出来る。上に乗ってもほとんど沈まないシダは初めての経験だ。

14:04
前方に谷外小学校が見えてきた。あと100m程の籔を漕げば下界に舞い戻ることがきそうだ。

14:14
何故か廃屋が小学校裏の藪の中にあり、その脇を抜け最後の日当りのいい猛烈な笹薮を何とか突破しプール横に出ることが出来た。

ようやく下界に降り立つ
昔はここから頂上まで道があった時が
果たしてあったのだろうか

籔に突入してから1時間以上、下りだから何とかなったがこのルートで登ろうと思ったら何時間かかるか予想もつかない。

結局、目標を叶えることが出来ずに終わってしまった。もう一度時期を見て登らなくては。



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