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姫路市低山巡り
海山から八重鉾山へ、合計684m



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平成17年2月12日(土)  メンバー 私だけ

海山 うみやま 37.1m
御旅山 おたびやま 140.1m
甲山(国府山、功山) こうやま 98m
仁寿山 じんじゅさん 175m
麻生山(小富士山) あさおさん(こふじさん) 171.8m
八重鉾山 やえほこやま 62m

2万5千分の1地形図「姫路南部」を参照すること。


海山はどこにあるのか

姫路市役所ホームページ内を、統計情報/統計要覧/平成15年版(2003年)/土地・気象/主要な河川/と辿ると、姫路市内の主要河川一覧のエクセルファイルに達する。そのファイルの中に「姫路市の主要な山岳」の一覧も隠されていて、少し面倒な操作をしないと見ることが出来ない。

《ファイル/名前を付けて保存/》でエクセルファイルとして保存し、そのファイルをエクセルで開き《書式/シート/再表示/シートF/》とすると「主要な山岳及び河川」のシートが現れる。かなりめんどくさい操作だ。

その姫路市内63座の名称・位置・標高の一覧の中に「海山・白浜・37.1m」がある。この資料以外に「海山」に関するものはWEB内で見つけることが出来なかった。

地形図「姫路南部」の白浜町宇佐崎南一丁目の八家川河口の西側に、頂上に神社印のある20m+の小山があり、海山なのではないかと1月下旬に現地を訪れてみた。しかし標高は明らかに低すぎ、頂上にある神社(蛭子神社)の由来記には海山という言葉は出てこない。どうやらここは海山ではないようだ。

姫路市の山々を隈なく紹介しているまめのこずいの「御旅山〜国府山」の地図に「海山」があるのを偶然見つけた。「灘のけんか祭り」の練り場南側の段々の桟敷席がある山を「海山」と名を付けている(北側は御旅山)。

「灘のけんか祭り」関係のサイトはたくさんあるが、探し方が悪かったのかもしれないが、海山の名前が出てくるサイトを見つけることが出来なかった。「神は細部に宿る」を心情とする私にはとても信じられない。

こうして海山の所在を確認できたし、ついでに御旅山から北へと続く山々もついでに歩いてみようと計画した。


一番目は海から離れた海山

9:34
山陽電車の妻鹿駅に降り立つ。改札口を出ると「歴史と伝統のまち・妻鹿」と題した案内図があり御旅山と甲山の名は載っているが、残念ながら海山は載っていない。

市川沿いの道から、狭い国道250号線を東に進むとY字路の先に海山が見えてきた。西側に送電線鉄塔が立っているので、どこからかに送電線巡視路の入口があるはずだが見つからない。「灘のけんか祭り」の練り場まで来てしまい、南側の段々の桟敷席を適当に登ってみることにする。

9:59
段差には鉄梯子や足場があるが迷路のような桟敷席を登っていき、平坦な頂上に着いた。しかしフェンスがあり送電線鉄塔の方に行けない。但しフェンスがなくてもヤブに阻まれて行けないだろうが。

海山頂上のフェンス

北側の練り場を見下ろす

山名板も登頂記念プレートも三角点もなく、平坦でどこが頂上だかよく分からないが、これにて本日一山目登頂完了とする。

10:13
桟敷席の東端に通路があり、下って行くとお地蔵さんの横に出た。


二番目の御旅山は二度目だ

地形図には山名は記載されていないが、南側から舗装道路を登ると神社印があり、北側の140.1mピークに三角点がある山が御旅山だ。

2年前の1月にも御旅山に登っていて、その時とは違うコースにしたかった。しかし町中の山にもかかわらず南からの登山口は1ケ所しかなく、2年前と同じ経路を辿ることになった。

御旅山から海山を見る

10:33
地形図の神社印へと延びる舗装車道を登り松原八幡宮御旅所に着いた。この道をあの重たい屋台を担いで登るのだろうか。子供屋台しか担いだことのない私には信じられない世界だ。

松原八幡宮御旅所

ここが御旅山への実質的な登山口で、社の西側から石段が始まり「コース」と書かれた古い案内柱が立っている。写真を撮っているうちに女性3人に追い抜かれしまい、御旅山頂上まで追いつくことが出来なかった。この山は近所の人たちの散歩コースになっているのか手ぶらで歩いている人がほとんどだ。

追い越されてしまった

10:37
テーブルとベンチがある休憩所の横にはフェンスに囲まれて送電線鉄塔「姫一火力線 十二」が立っている。

10:41
登山道から東に少し外れて次の送電線鉄塔「姫路火力東線 八」が立っている。御旅山を南北に走っている送電線の西側は姫一火力線で、東側は姫路火力東線なんだ。

10:48
幅が広く遊歩道のような道が続き、今度は「姫一火力線 十三」鉄塔の横を行き、送電線と道が交差する。

10:53
東への分岐があり、灘中学校あたりへ下る道だ。北には丸い頂上の御旅山が見えてきた。頂上の四阿近くに何人かの人影が見える。

あと一登りで頂上だ

11:03
御旅山頂上直下の階段道は段差が大きく登りにくいのか、横に脇道が出来ている。階段を外して歩くのは自然破壊だと妄信している私は階段を登り、御旅山頂上に到着。

御旅山から北を見る

御旅山頂上には四等三角点標石(点名:妻鹿)と、控えめな山名板「御旅山 140.1m」、それから四阿があり、潅木は全くなく360度の展望が楽しめる。しかし残念なことに今日は遠望は利かない。

11:14
北へ下山を開始する。南側の遊歩道のような道と比べると、北側は利用する人も少ないのか極普通の山道となっている。それから御旅山の道は全般的に湿っていて、北側はより顕著で頂上直下はぬかるんでいる。滑らないよう注意して下りて行く。

御旅山の北側は急でぬかるんだ道だ

11:27
車道まで下りる。登山口の脇に次のような標示板が立っているが、この御旅山を方蓮山と呼ぶ人がいるのだろうか。

方蓮山国有林

一、自然の景観を大切にしましょう
一、ごみは自分でかたずけましょう
一、木をけずったり、枝を折ったりしないようにしましょう
一、土砂や植物の採取はやめましょう
一、たき火はしないで下さい
一、たばこのすいがらは必ず消しましょう

神戸営林署

山火事注意
兵庫森林管理署(シール貼り)

国 有 林
 林小班名
方蓮山国有林542林班ほ小班
用    途遊歩道敷
面    積246.03u
貸付の始期
終期および
期    間
自 平成14年4月1日
至 平成17年3月31日
借受人 住所
名称
氏名
姫路市安田4丁目1番地
姫路市長
石見 利勝
御旅山の北側登山口


三番目の甲山(国府山、功山)は山城跡だ

次は御旅山の隣、北西にある甲山だ。どうやら読みは「こうざん」か「こうやま」のようで「かぶとやま」とはけして呼ぶことがなく、甲府山・功山とも書かれるらしい。妻鹿駅にあった案内板によると甲山南西麓にある荒神社からの道があるようだが、東西に送電線が通っているので巡視路もあるだろう。

11:33
御旅山の北側登山口から道路を少し西へ行き、北側の民家の裏へ回りこむ砂利道を入ると、踏み跡が送電線に沿うように西へ延びているのを見つけた。「火の用心」標識はないが送電線巡視路のようで、地形図に載っている甲山の南麓に入る車道の北側を行くようだ。

送電線の真下を西に進む

11:39
踏み跡が左右に分かれていて、姫路南ライオンズクラブが設けた赤矢印の道標は右を指している。左に入るとすぐに送電線鉄塔「播磨港加古川線 一五」が立っていて、次の鉄塔に続くと思われる道が西へ延びている。

「まめのこずい」によると甲山の山中を一周するように道があるらしく、どちらに進んでもよさそうだが、ライオンズクラブの案内を信じ右に進むことにする。

11:46
笹薮の間を行くそれなりに手入れされている道を行くと、「曲輪跡」の案内があり小岩が点在する開けたところに出た。ここから道は二手に別れている。

11:48
北に2分ほど進むと行き止まりになり、そこには大岩がある。下山後に見つけたライオンズクラブの案内図にある磐座《いわくら》だ。周囲は切り開かれているが、カメラのファインダーの中に岩全体を入れて上に立つと頭がちょん切れてしまう。

磐座に登る

周囲の木々を切り払えば展望が広がるだろうが、大岩のてっぺんに登ってもさっぱりだ。

12:04
岩が点在する開けたところに戻り南西(?)に進むと、姫路南ライオンズクラブが建てた展望図もある、西側が開けたところに着いた。曲輪跡の案内もありベンチも置かれている。

西側の展望良好

甲山は道も結構整備されているし、展望もまずまずだし、なぜ今まで話題に上ってこなかったのか不思議な感じがする。結構お奨めの山だ。

12:12
展望地から南西に行くと、新しそうな赤ビニールテープのマーキングが西側の急斜面に付けられている。人知れず新しい道を付けている奇特な方がいるようだが、無闇に道を増やすことは反対だ。もしかすると、ここを下りると今まで誰も知らなかった城跡の遺構があるのだろうか。

12:13
フェンスに囲まれた「飾磨港加古川線 一四」送電線鉄塔に着いた。南西の市川へ真っすぐに下る道もあるが、ここは送電線下の道を東に行くことにする。

12:16
次の鉄塔までのほぼ中間地点から南に下る道がある。姫路南ライオンズクラブの「城跡」道標もあるし、これが妻鹿駅の案内図にあった荒神社へ下る道だろう。

12:25
井戸跡?が道端にあったりする、よく整備された道を下ると予想通り荒神社の拝殿の横に出た。

甲山南西の荒神社に下りる

神社には姫路南ライオンズクラブが建てた案内図付きの解説板がある。

功山城案内図

功山城

功《こう》山城は、市川左岸の甲山《こうざん》(標高102M)にあり、別称を妻鹿《めが》城・国府《こう》山城・袴垂《はかまたれ》城ともいわれています。
初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗《めがまごさぶろうながむね》です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。
その後、姫路城内で生れた黒田官兵衛孝高《くろだかんべいよしたか》の父職隆《もとたか》は、天正元年(1572年)姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正8年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としましたこれに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。
官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩56万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。
天正13年(1585)職隆が没した後は、廃城になったようです。なお職隆公の廟所は妻鹿町内にあり。町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。

(贈)姫路南ライオンズクラブ
平成10年4月吉日

兵庫県知事 金井元彦書の「妻鹿城址」の石碑もあり、碑文はライオンズクラブのものより読み取りにくいが、この碑文は数百年は読むことが出来るだろう。

妻鹿城即ち国府山城は元弘の頃妻鹿孫三郎長宗が構居した処と伝えられ、その後二百数十年を経て天正元年(1572)に黒田職隆があらたに築城し、同13年職隆が没するまでその居城とした。その間同8年には職隆の子官兵衛孝高も姫路城を羽柴秀吉にゆずり、妻鹿国府山城にいた。
太平記所載の豪力孫三郎や、秀吉の知将孝高が時勢の風雲をにらみながら、どのような夢をえがいたが幾百星霜を経た今日郷土人各位の豊かな想像をねがうものである。
本年1月本顕彰保存会が結成され、寄贈者両氏のご高助を賜わりその記念事業としてここに「妻鹿城址」の碑を建立するに至ったのである。

 妻鹿城々主
元弘・文和の頃  妻鹿孫三郎長宗
  妻鹿三郎四郎長定
嘉吉の頃  妻鹿孫次郎定祐
天正元年−13年  黒田美濃守職隆
天正8年・9年  黒田官兵衛孝高

四番目はアンテナ山の仁寿山

次ぎは姫路バイパスの北側にあるアンテナ塔が建ち並ぶ仁寿山だ。市川沿いの道を北に、バイパス沿いの道を東に行くことにする。(甲山と御旅山の間の峠を行ったほうが近かったかも)

13:14
姫路駅前のコンビニで買ったおにぎり2個とサンドイッチを食べながら40分ほど歩き、仁寿山南の登山口に到着。西方からの破線道は以前に登っているので今回は南からにする。

地形図では破線道は、バイパスに架かる橋(狭く自動車は渡れない)の少し東側から始まっているが、現在は橋の北側が登山口になっている。ただし標示は全くない。

仁寿山の南側登山口の階段

13:21
真新しいコンクリート階段を登った先の尾根には紅白大鉄塔が立っている。鉄塔番号札が付いている足は尾根から10m以上斜面を下りたところにある。見に行こうか行くまいか迷ったが、結局下りてみた。「姫一火力線 一七」だった。

派手な紅白大鉄塔の横に、目立たないようにこげ茶色に塗られた「姫路南姫路線 八」が立っている。2基の鉄塔の間には「光ケーブル」と標示された石杭があり、茶色鉄塔に光ケーブルが入っていると思われる保護管が登っていく。そしてその先は、送電線の上に張られている架空地線の端が引き下ろされてコイル状に巻かれた先が入って行く箱につながっている。

以前から送電線鉄塔の架空地線の引き下ろされた先にコイルと箱があり、光ケーブルと関連があることが分っていたが、これで架空地線に光ケーブルが入っている確実な証拠を見つけることが出来た。しかしコイルは大巻のや小巻のがありどのような機能をしているのかは今だに不明だ。

架空地線と光ケーブルが同じ箱に入っている

中継所や送信所の建物・アンテナ塔がたくさんある仁寿山へ登る尾根は、黒く焦げた木々が残る山火事跡で、まだ草木は疎らにしか生えていない。よく見れば踏み跡があるが、どこでも登れてしまう。

仁寿山への登り

13:54
仁寿山南西のピークに着いた。大阪ガスの鉄塔には近畿移動無線センターのアンテナも同居していて、監視カメラや赤外線進入警戒装置で厳重に守られている。その横には、日本テレコムの反射板や携帯の基地局?がある。

大阪ガスのアンテナ塔

14:02
北東に一旦下り、登り返すと仁寿山の頂上だ。ここにもたくさんの中継所がある。姫路テレビジョン放送局(MBSABCKTVYTVSUN)のアンテナ塔にはツーカーホン関西姫路南ベースステーションと姫路JSMRシステムのアンテナも同居し、その裏に建設省(今は国土交通省)仁寿山マイクロウェーブ反射板がある。

二等三角点標石(点名:仁寿山)はNHK(総合テレビ・教育テレビ・FM)とKissFM神戸共用の送信所敷地内に周りをコンクリートで固められ頭だけ見えている。

三角点はNHK送信所のフェンスの中

車道をはさんでテレビ受信用のアンテナ群があり、その下に仁寿山デジタル通信クラブの中継所がある。

西側の尾根に離れて建つピンク色建屋のアンテナ塔は、今回は寄らなかったが警察庁のもので表札などは一切なく、監視カメラや進入警戒装置で厳重に警備されている。なおここまでのアンテナ塔に関しては広域大阪無線保全課というサイトが詳しく紹介している。

なお「仁寿山175m 2001.12.16 神戸ツキワ登山会」の山名板と「仁寿山 175.2m H.16.11.27(土) 長谷川博(加古郡)」という登頂記念プレートがあったことを付け加えておく。

14:12
警視庁の中継アンテナが建つ尾根からも下りられるが、前回と違うルートということで舗装道路を下ることにする。

3分ほど下ると北西側から登ってくる踏み跡がある。どこから登ってくるのか興味があるが、今回はあと三つの山に登らなければならないので見送ることにする。

14:30
麓まで下りた。以前は車でも自由に登れたのだが、今は登り口に車止めがあり一般車は入れなくなっている。道幅も狭く妥当な措置だろう。

仁寿山は車では登れない

車止め脇に解説板が立っている。江戸時代にはここに学校があったみたいだ。

河合寸翁と仁寿山校
《かわいすんおうとじんじゅさんこう》

河合寸翁(1776〜1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政をたて直したことで、名高い。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材育成のため学校を開き、仁寿山校と名づけた。仁寿山校は、文政5年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしたが、寸翁の死後廃校となった。天保13年(1842)寄宿舎は姫路城下にあった藩校・好古堂に移され、医学寮だけは明治維新までこの地に残された。図は、元藩士の下田重復が明治43年に描いたもので、盛時のようすを示している。
現在、井戸と土塀の一部だけが残っている。寸翁の墓は仁寿山々麓の河合家墓所の中にある。

平成2年3月    姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会


五番目は鎖場もある麻生山

次ぎは仁寿山の東隣にある麻生山(小富士山)だ。仁寿山からそのまま続けて西側から登れるが、その道は以前に歩こうとして送電線巡視路に騙されて果たせなかった苦い想い出のある道だ。

想い出は大切にとっておいて、今日は南側からの道で登ることにする。鎖場があるという話で楽しみだ。

14:36
地形図の実線道を山裾沿いに回り、麻生八幡神社の東側を北に行くと、麻生山が小さな富士山のように見える。これが小富士山の名前の由来か。

南から見た麻生山(小富士山)

14:41
溜池の横を行く実線道をさらに北へと進むと、民家左側の石段へと続いている。登山口の標示は無いが掲示板に次のような張り紙がしてある。ここが麻生山登山口に間違いないだろう。

元旦午前7時
麻生山上
奉修採灯大護摩供
家内安全・交通安全
家業繁栄・祈願成就 祈願
麻生山華嚴寺

麻生八幡神社北奥の麻生山登山口

しばらくは緩やかに北へと登る道が続く。頂上にある麻生山華嚴寺への参道も兼ねているのか、緩やかなのに所々に擬木の階段がある。古い椅子が休憩用にに置かれている。

麻生山への緩やかな登り

14:55
真っすぐに登ってきた道が、地形図にもあるように細かく九十九を描くようになると、黒っぽい大きな垂直の岩が現れた。真ん中に縦に窪がある大岩には鎖が下がり、不動明王の石像が左下に祀られている。鎖を登らなくても普通に山道を登れば大岩の上へ行けるが、せっかくこの鎖場のためにここまで来たのだからと登ってみる。登攀には程遠いよじ登りだが、思いのほか鎖が長く腕が疲れた。

不動明王にはげまされ

鎖場をよじ登る

三脚・カメラを回収するため巻道を戻り休んでいると、お孫さん3人を連れた若いお祖父さんが鎖場を見せるために下りてきた。子供たちも鎖場に挑戦するもまだ幼すぎるようだ。

鎖場に挑戦

15:16
金魚が7匹住んでいる水場(井戸跡?)の横を行き、麻生山華嚴寺がある麻生山頂上に到着。実は麻生山の頂上は華嚴寺境内の南側の、平らな広場状のところで眺めが良いが、あと一山に登らなければならず時間も押し詰まってきたため行かなかった。

麻生山頂上の華嚴寺

15:25
麻生山の北にある四郷中学校へ下山することにする。南側から登ってくると華嚴寺境内の東側に出るが、北への下る道もそこから始まっていて

至 奥山 520M
麻生山 至 仁寿山 1215M
麻生山 至 四郷小学校登山口 743M
        四郷中学校登山口 708M

という距離が微妙な古い傾いた道標がある。

15:31
歩きやすい緩やかな道が北に続き、この辺が分岐点かなと思うようなところがあるが、その先に明確なT字路がある。

左:中学校、右:小学校

「右:展望台、左:四郷中学校、手前:華厳寺へ」という道標も立っていて、右は展望台を通り四郷小学校へと下りて行く。前回は右に下ったので、今日は左へ下ることにする。

15:38
しばらく下ると、麻生山の西中腹を南北に通っている送電線巡視路と合流し、その先に「宮西線 四」送電線鉄塔が立っている。西側が開けていて次に登る八重鉾山や市川、姫路の市街地がよく見える。

送電線鉄塔近くから

15:48
表土が薄いところに道を通したためか、元々なのか地面が大きく露出したところを下り、祠の前をすぎると四郷中学校の西側に下りついた。

姫路市立四郷中学校の西側へ


最後の山はなぜか三角点がある八重鉾山

南北を麻生山とJRの線路にはさまれ市川の左岸にある、地形図には名前も記載されてなく三角点もない山が、「まめのこずい」によると八重鉾山で一番北のピークには三角点もあるという。一度登ったことがあるが、その時は三角点があるとは知らなかった。

一旦車道まで下り、西へ少し行くと「十一面慈母大観音 霊場麻生山龍泉院」の案内が建っている。特に案内は無いがここが八重鉾山の登山口で、麻生山から下山中に見えた送電線鉄塔へ登る道を行く。

八重鉾山へ

「宮西線 五」送電線鉄塔からは、今は送電線巡視路となっているが不思議なくらいよい道が北へと続いている。思うにこの道は、今は歩く人もいないようだがかつて麻生山から続く遊歩道として整備されたものなのだ。

八重鉾山の遊歩道

16:01
道が二手に別れ、右に行くと四阿があり、左側はすぐに道が消えてしまう。

八重鉾山の四阿(その1)

普通ならいたずら書きが必ずあるはずだが、この四阿は建てたときから利用する人がいなかったのか、人為的な傷みは全く見受けられない。

四阿から左に行くと分岐点があり、「宮山古墳150M」と書かれた道標が地面に横たわっている。この道標は麻生山にあったものと同種のもので、同じ時期に整備されたことが分る。この山の東の麓にある「宮山古墳」は「宮山(姫路)」で訪れているので、今日はパスすることにする。しかしパスするのはよいが、ここから尾根通しの道はヤブに帰ろうとしている。それでも一度は開かれた道なので、道を失い迷うようなことは無いが、最後の最後でヤブ漕ぎをしなければならないとは里山侮り難し。

予想外のヤブ漕ぎ

16:12
ようやくヤブを抜けると91m標高点近くの岩場に出た。以前、北からこの岩場まで来た時、尾根を行く道があるはずだと感じていたが、このヤブ道を見出すことが出来ず東の宮山古墳へと道を下った。

ヤブを抜けるとこの岩場に

16:18
宮山古墳からの道も東から合流しよい道となり、91m標高点の北側の鞍部にもなぜか四阿が建っている。この四阿のすぐ北に西へ下る道があり、知ってる人しか読めないぐらいにかすれた「至 阿保国王神社150M」の道標が落ちている。

鞍部の四阿(その2)

16:23
送電線が分岐する「宮西線 七」送電線鉄塔に着いた。ゆっくり分岐の様子などを観察したいが先を急ぐ。

送電線が三方へ

16:30
「大前家所有」と標示された石杭があり、その先の小豆色に塗られた「城東支線 一」送電線鉄塔を通過。

16:32
本日最後の送電線鉄塔が見えてきて、「今日も八重鉾山に登れなかったな、もう帰ろう。」と思ったが、周囲に茂っていた笹がきれいに刈られ左斜めに擬木の緩い階段道が見えている。

その道を行くと三番目の四阿があり、すぐ上に三角点標石が埋まっていて、その横に「八重鉾山 62.0m」と書かれた古そうな山名板も置かれている。なお周囲は木々のため展望はよくない。

八重鉾山頂上

16:45
すぐ北側にJRの新幹線と在来線の線路がある八重鉾山頂上から、「城東支線 二」送電線鉄塔・印鐸(いんたく)神社石段下を通り麓にある「太神宮」の前に下山。

ようやく六つの山を登り終えた

16:49
四郷町山脇の集落の中の狭い道を抜け、東のバス通りの姫路市営バス「山脇」バス停に着いたが、無常にもバスは4分前に出たところ。次便までは36分ほどある。

結局バスを諦めJR御着駅まで歩き電車で姫路駅に帰ったが、幸いにもバスよりも早く帰ることが出来た。

本当はもう一山、48.6m三角点がある元取山へも登りたかったが、登ってしまうとこの辺りに来る機会がなくなってしまうので、次回の楽しみのため残しておくことにした。



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