弁天岩から荒地山横断、そして迷いの森へ
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平成18年5月14日(日) メンバー 私だけ
荒地山 | あれちやま | 549m |
なかみ山 | なかみやま | 549m |
2万5千分の1地形図「西宮」、「宝塚」を参照すること。
今日は六甲だ、弁天岩だ、荒地山だ
週末の土曜日・日曜日の天気予報は雨だったので油断していたが、土曜日になっていきなり日曜日の予報が「曇り後晴れ」に変わってしまった。日曜日は土曜日に引き続きサイトの更新(「関西の野外彫刻」の在庫品が50ほども貯まり一気に片付けようと思っていたのだが)をする積もりだったが、こうなったら山に登らなくてはならない。
今回は行き先は直ぐに決まった。このサイトの掲示板への投稿者ルーン氏のLoon's trail 雲の行くまま・・気の向くまま・・の保久良神社〜水平道〜打越山〜荒地山〜弁天岩・ナマズ石を歩くことにした。しかし同じコースでは二番煎じになるだけで面白くないので、逆周りをしてみた。
9:37
JR芦屋駅から歩き始め、途中のコンビニで食料・飲み物を調達し、阪急芦屋川駅のガード下を通過。芦有バスを待つハイカーが北側の広場に50人ほどたむろしている。有馬温泉から歩き始めようとしているのか、はたまた東お多福山か。
芦屋川沿いの道を「高座の滝」・「ロックガーデン」へと向かうハイカー達が大勢歩いている。私にとって気温が20度を超える今日この頃は、ハイキングに最適の時期は過ぎさったと思うのだが、世の中はこれからがハイキングのハイシーズンへと突入しようとしている。
9:46
高座の滝方面との分かれ道に着いた。そこでは、バギーに子どもを乗せたお母さんも休憩している。これからどこに行くのだろうか。まさかロックガーデンではあるまい。
マイナーな芦屋川沿いの道を行く人などいないと思っていたが、前方を単独者が三人歩いている。そのうち一人は女性のようだ。
迷いようのない一本道を進むと「ドリームランド山芦屋」という動物霊園があり、その先が車道の終点になる。まだ動物霊園には空きがあるように見える。
自然にやさしく包まれた地。
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芦屋動物霊園
…連絡先の住所、電話番号は省略…
水車谷堰堤の横から登りはじめる
9:52
登山口がある「水車谷堰堤」横の広場に着いた。堰堤からはいつもより大目の(今回が2回目だが、多分多いと思う)落水だが、今日は太い流を渡渉する予定はないので大丈夫だ。
先週登った播州の山は、まだ早春の野山の風物詩コバノミツバツツジが咲き誇っていたが、ここ六甲山の麓ではモチツツジが歓迎してくれた。前夜の雨粒が淡いピンク色の花弁から滴り、何時になく美しいモチツツジだ。
登山口から地面をボルト止めした崩落地の間を行く石段道を登りきると、芦屋川の右岸を行く山道だ。川向にはマンションが建ち車の走行音も聞こえてくるが、そんな雑念を払うことが出来れば、砂防ダムからの落水の音も滝の音に聞こえ、どこか山奥の渓流沿いの道を登っていくような気になるから不思議だ。ただ道がよすぎるのが玉に疵だが。
10:02
左手の山肌に向かって、鉄柱をロープの手摺で結ぶ送電線巡視路(緩やかな尾根でも九十九に登るのが普通な送電線巡視路としては、破格の極めて急な直登で、いつか登ってみたいルートだ)が城山へと登っていて、「火の用心 39→」に『城山へ20分』と書き込まれている。
ちなみに「火の用心」の標識は関西電力の送電線巡視路(送電線の重要な構成要素で年2回草刈が行われている)の道標で、「39」は鉄塔の通し番号(電源側の方が若い)で、尾根の上に立つ古めかしい構造のアングル製環境調和緑色塗耐張2回線送電線鉄塔「広田西線 三九」を示している。
10:03
送電線鉄塔「広田西線 三八」の脇を行く。地形図には送電線の経路(鉄塔が明示されていたらさらによいのだが)が記載されているので、山中では明確に現在位置を特定できる数少ないポイントだ。
緩やかな新緑の中を行く道は、所々にモチツツジの鮮やかな花が咲き、楽しく歩ける。時たま散歩の人と行き違い、写真を撮っているとハイカーに追い越される。
10:19
川向こうに巨大なコンクリート構造物の筒が見えると、「←阪急芦屋川 ↑行止り危険 弁天岩・奥池→」という公設ぽい表示板があり、左手の谷沿いに道が見えるような気がする。表示板に落書きがないところを見ると、本当に行き止まりになっているのだろ。
10:23
道脇に東屋が建ち、その横の塩ビパイプからチョロチョロと水が出ている。標示はなかったが、ここが「陽明水」なのだろう。生水にからきし弱い私は、舐めることも触れることもなく、写真を撮るだけだ。
10:34
今度は「宝泉水」で表示板もあるが、残念ながら枯れている。ここまでの道はこの泉まで来る人のためか、どんな些細な登りでもきっちりと石段が組まれていて、篤志家によると思われる補修が続けられている。
10:39
芦屋川支流の「道アゼ谷砂防ダム 堤高12m 堤長42m 昭和51年3月完成」を越すと、『ト』の字分岐がある、右よりも正面の方の道が明確だが、足元の岩に消えかけた赤色矢印があり、右が弁天岩へと行く道だ。おそらく真っ直ぐ行く道は、さらに奥にある砂防ダムへと続いているのだろう。
『ト』の字分岐の先は、地形図では芦屋川の右岸に『がけ(岩)』印があるところで、山道は高巻いていくので俄然山登りらしい雰囲気になる。
10:47
高巻いて行くと、道の山側に小岩のある好展望地がある。岩に登っても登らなくてもあまり変わらないが、芦屋の市街地・大阪湾が眼下に広がっていて、まだ高度は低いが素晴しい眺めだ。ここで3人組が追い越していったが、直ぐに戻ってきて展望所の背後から山側の分岐道に入り登っていった。
実は彼らが登るまでその道に気が付かなかったが、「芦屋川駅→」と書かれた案内板に小さな字で「西へ荒地山」とも書かれていている。この荒地山への直登ルートも行ってみたいが、今日は「弁天岩から荒地山」なので川沿いの道をそのまま進むことにする。
せっかく登ってきたのに、展望所からは下りに下る。川向こうにあった車道は、いつの間にかこちら側へと渡り、ヘアピンカーブの急坂をエンジン音を轟かせて車が走っていく。そしてまた一登りすると、
ナマズ石・弁天岩
11:02
あの地震のとき荒地山から落ちてきたという「ナマズ石」が道端に斜めに突き刺さるように鎮座している。ナマズ石保存会なるものが存在するようで、この大岩を小さく割ったり、またよそに持っていこうなどと思う反対勢力が存在しているのだろうか。
この地を訪れた皆様へ
この石は1995年1月17日の阪神淡路地震によりこの場所に出現しました。
あの地震で移動した石では最大のものです。重さは500トン(推定)、大きさは長さ8.6m、幅6.9m、厚み4.1m、もあります。
元は荒地山(標高546m)の山頂付近(東肩部・通称ナマズすべり)にありましたが、地震の大きな揺れで動きだして、樹木をなぎ倒しながら山肌を数百メートルもころがりこの場所に止まりました。
この石を「ナマズ石」と呼んで、阪神淡路大地震の証として後生に残し、未来の人たちに見ていただき、地震の防災について考えてほしいと願っています。
ナマズ石保存会
ナマズ石保存ご記名板の設置は2000年11月末で終了しました。
その間、合計5861名ものご署名をいただくことができました。
日本全国より、遠くは海外より驚くほど多くの方々に訪れていただき、ご署名をたまわり本当にありがとうございました。
ナマズ石から数分行くと、今度は由緒のある弁天岩がある。登山道の脇に「白山大神」と「白神大神」を祀る祭壇のあるオーバーハングの岩があるが、それは弁天岩ではない。車道脇にある表が平たい大岩が弁天岩で、その岩の上に重なる大岩を割ろうとしたのかクサビを打ち込む矢穴が十数個開けられている。
と、ここまでは一回歩いた事があり新たな発見もなくただ歩いただけだったが、ここから先は我が未踏の地でどんなところを登るのかワクワクしてきた。
石切道跡を登り荒地山へ
11:15
「奥山精道線 カーブ5 兵庫県西宮土木事務所」のカーブミラー標識の裏から荒地山へと登る道が過去には存在した。その証拠に「注意 ハイカーのみなさまへ!! このコースは阪神大震災により、道が寸断されて危険ですので当分の間閉鎖します。 芦屋市」という標示板が草木に隠れるように横たわっていたり、「↑ 至 荒地山」という木柱も草の陰に立っている。
入って直ぐに「荒地山 芦屋市・芦屋市観光協会」という朽ちかけた道標があるが、登山道も同じく朽ちてしまったようで、道跡薄く踏み跡はなく、最近人が通った雰囲気は感じられず、ただ赤ビニールテープのマーキングがポツポツとあるのみ。唐突にコンクリートの堰堤が現われて右に行くのか左なのか、マーキングがなかったらここから引き返すところだ。
11:22
矢穴跡のある割られた石や、石組みのある古い道跡が現われた。マーキングは一直線に登っていくが、古い道跡は九十九に緩やかに付けられている。この山から切り出された石は大阪城の石垣に使われ、何百人もの石工が働いていた時があるのだろうか。
マーキングを辿ると雑木のない空間が連続するので道跡と分かるが、ここが昔はハイキングコースだったとは信じられない。
道跡が分からなくなっても、間隔を空けて付けられた次のマーキングを探し出すことが出来れば、誰でも歩けるが、このコースは万人向けとは言いがたい、が今日のルートの内で最も面白い核心部分ではあった。今日はどこの道を歩いていても人に出会ったが、ここだけは誰にも会わなかった。
11:45
楽しい楽しい道なき道を登る核心部分は、20分ほどで終わってしまった。そして、いきなり左へと90度の方向転換をして水平道を行く。上をみると石切り場だったのだろう岩場があり、道端に明らかに人の手が加わった岩が残されている。
岩場の下には明確な道跡があり、路面には石が敷き詰められている。その昔はこの道幅のまま麓まで下っていたのだろが、どんな経路で下っていたのか調べた人はいるのだろうか。
11:53
屑岩を乗り越えて、さらに水平道を5分も行くと、合流点に着いた。おそらく登っても登らなくても展望が変わらない岩がある展望所からの道との合流点と思われる。石に赤矢印が描かれ、下方向は「芦屋川」、上方向は「荒地山」、辿ってきた水平道方向は「弁天岩」となっている。
道も踏み跡も明確になった合流点から登り始めて直ぐに岩場が現われる。展望も直ぐによくなり、後を向いて展望を楽しむ時間が長くなってしまい、登ることが出来なくなってしまう。
12:18
展望の岩場登りを終えると、分岐点がある。左側は岩に×印があるが入っていくと、またもや好展望の岩場に出た。時間も丁度よいのでここで昼食する。最近の山行ではお昼御飯は歩きながらでも食べられる、コンビニおにぎりとサンドイッチという少し変な組み合わせが常食となっているが、今日もセブンイレブンのおにぎりとサンドイッチだ。過去にはストーブでインスタントや冷凍の麺類を炊いて食べていた時期もあるが、ガソリンストーブしか持っていなくプレヒートやなんやらが面倒で止めてしまった。「何事も単純に勝るものはない」を信条としているが、ただの面倒くさがり屋なのかもしれない。
12:29
10分足らずで昼食を終えて、再び歩き出す。荒地山まではさしたる登り下りはなく食後の散歩という感じで、道は明確で迷いようもないのかマーキングはほとんど付けられていない。
12:35
芦有ゲートへと遠回りして下る道との分岐点に着いた。ここには弁天岩からの登り口にあった芦屋市の注意表示板と対になる同じものが立っている。その表示板には手書きで「右に下ると阪急芦屋川にでます(2H)」と書かれている。ここから芦有ゲート経由で下った記録は私の悪人に神罰下る荒地山にあるが、荒地山からの下山に使うとあまりの長い行程で少々うんざりしてしまう。
注意表示板から5分も歩くと、岩梯子のある荒地山南斜面へと下る道と荒地山頂上への道との分岐点に出る。そこからさらに歩くこと数分で荒地山の頂上だ。しばらく誰にも会わなかったが、次々とハイカーとすれ違うようになった。
なかみ山を通り魚屋道へ下る
12:44
荒地山の頂上は木々に囲まれ展望はない。南側の木の隙間から大阪湾がわずかに垣間見られるだけだ。頂上は小広い平地で、お昼御飯を食べる人が大勢いて足の踏み場もないほどと聞き楽しみにしていたのだが、一人が休憩しているだけで、「噂を信じちゃいけないよ♪」の山本リンダの歌声が聞こえるような気がした。
六甲の山々には私の大好きな登頂記念プレートは数少なく寂しいが、ここ荒地山頂上も例外ではなくわずか1枚しか見つけられなかった。しかし人事ながら、このようなプレートを残すところを見ると、無用塾さんはまだまだ修験が足りず、開眼できるのはいつの日になることか心配になってしまう。先ずは自己顕示欲を捨て去ることをお奨めする。
行深修験・悟道開眼 荒地山 549m H17.11.13 無用塾
荒地山頂上から「なかみ山」を目指し西へ進む。芦屋市域を緩やかに下り、神戸市域を緩やかに登り返す道で、地形図を見ると荒地山となかみ山は相耳峰に見える。
12:56
丸っこい岩が点在するピークに着いたが、ここが「なかみ山」の頂上なのだろうか。私見だが、昔は最高標高地点・ピークなどに頓着せずに特徴ある地形・岩などを「……山」と呼んでいたが、今はピーク至上主義がはびこり古来の山と現状の山が遊離していくような気がする。
さらに西へと進むと大岩場があり、西側の芦屋ゴルフ場がよく見える。ここから南へ下る道もあるように見えるが、さらに西へと進む。溝状にになった道を下っていくとT字路に突き当った。魚屋道に出たのかと思ったが道幅は狭く、左は「風吹山」、右は「芦有ゲート←15分」の案内板があり、どうも違うようだ。
風吹岩方向に進むと、今度は案内のないT字路に突き当り山勘により右に進む。なぜだか知らないがメインルートから離れた裏通りだと思うこの辺りも、ハイカーが明確な目的意識をもって右往左往している。どこへ行くのか分からずに歩いているのはどうやら私一人のようだ。道端に石を丸く配置し、その中にテーブル石?が二つ置かれている。ここはなんなんだろう。
13:18
新緑がまぶしい雑木林の中を行く道は快適で申し分ないのだが、初めて来た私にはどこを歩いているのかさっぱり分からない。ただもう少しで魚屋道に出るだろう事は確信しているので迷っているわけではないのだが、不思議の国のアリスになって「迷いの森」の中を歩いている気分だ。と、そんなことを夢想していると、突き当った小さな流の向こうに道があるようで、ハイカー達が行き来している。流を渡ると「太陽と緑の道」の魚屋道に出た。
ここから北に進み雨ケ峠から東お多福山、そして東へ下り芦有バスで芦屋駅に戻るのが当初のプランだったが、初めての道の面白さをさらに堪能するため、六甲前山から保久良神社へと下ることに計画変更。事前知識皆無の六甲前山の道、しかし道標が豊富な六甲山なのだから本当に迷うってしまうこともないだろう。
六甲前山を歩く
13:25
魚屋道を風吹岩方向に歩くこと5分で、六甲前山へ入る分岐点に着いた。道標には「打越山、住吉谷、八幡谷、十文字山」と書かれているが研究不足のためどんな位置関係にあるのか登るのか下るのかさっぱり分からない。分岐点にあるハイキングコース案内図も道だらけでさっぱり訳がワカメで困った、困った、こまどり姉妹。とりあえず案内図をデジカメで撮っておいて西へ「森林管理歩道」に入る。これで再び「迷いの森」に入る舞台は万端に整った。
森林管理歩道に入って直ぐの横池への分岐を見送り、西へと進んでいく。雑木林の中を行くほぼ水平の管理歩道は展望という言葉は無縁だが、気持ちのよい雰囲気のよい道だ。時々、身軽なハイカーや、どこかの山を目指して鍛錬しているのか巨大なザックを担ぎ喘ぎながら歩く人などと行き違う。
13:40
道の脇に送電線鉄塔が立っているが、茶色く塗られていて目立たず危うく通り過ぎてしまうところだった。送電線マニアでもある私にとって、フェンスに遮られることなく直に鉄塔と触れ合うのが、山に登る大きな目的の一つだ。可憐な草花などよりも比べ物にならない大きな感動を与えてくれる、あのアングルのゴツゴツした肌触りや鋼管柱のつるつる感などを思い出してまた山に登りたくなってきた。なお、この鉄塔は「新神戸線 四八」で、地形図を見ると七兵衛山の北側で破線道と送電線が交わっている場所に立っている。
13:46
分岐があり左は「八幡谷・阪急岡本」となっている。ハイキングコース案内図を見ると地形図には載っていない道だが、金鳥山から保久良神社へと行くようで、ここは左に曲がる。
13:51
下り基調の道を行くと、植林の浅い谷になにやら構造物がある。こんなんで雨露をしのげるのか心配になる簡単な庵で、資材置き場などではなく、生活感が漂いここを拠点に生活をしている人の住居のように見えた。夜中は真暗だろうし、通勤は不便だろうし近くにコンビニはないし私では一日も暮らせない。
次の分岐は「八幡谷森林管理歩道 至東灘区岡本町」方向、その次は「森林管理歩道 保久良神社・山本町」方向へと進む。大体どの辺りを歩いているかは分かっている積もりだが、こうも道と道標に頼りきりでは自律的な山歩きとは言えず、またもや「迷いの森」を歩かされている気分になってくる。
六甲山のハイキングルートの裏通りなのだろうが、きっちりと整備され、多くの人たちが歩いているように見える。春の花の季節は終わってしまったのか、ただ気が付かなかっただけなのか、花に関しては寂しい道だ。
保久良神社へ
14:27
風吹岩から真っ直ぐ保久良神社へ下る道に合流。風吹岩からの道は2本下ってきていてK字形になっている。なぜかこの分岐には電柱「Eホクラ25」が立っていて、地形図には記載されているが実際には解体されてなくなっている電波塔へと電気を送っていたのだろう。
道は幅が数倍に広がり、一気にハイカーの人数が増えてきて、前後にいつも姿が見えるようになってきた。所々にモチツツジのピンク色の花が色を添えている。
ハイカー集団が道を逸れて行くので後を付けてみると、ベンチとテーブルがある広場で20人ほどのハイカーが休憩し、ここを目的地に登ってきた10人ほどの家族連れが楽しそうに談笑している。ちょっと単独の私には場違いな雰囲気だった。
14:43
「保久良神社を経て国鉄本山駅(2km)」という19年以上前に建てられた古い道標が立つ広場からは、石段の道が延々と保久良神社へと下っている。
14:49
石段の途中に展望広場があり、今日は霞んでいるが神戸市東灘区の町並みから、湾岸線の東神戸大橋・六甲アイランドがよく見える。
15:04
さらに石段を下り、人々が楽しそうにしている梅林を避けてようやく保久良神社に下山。グループハイキングの方々20名ほどが下山後のストレッチをしているが、ここはまだ阪急岡本駅までの標高差が150mもある山の中腹にしか過ぎず、後は舗装道路歩きだがここで気を抜いてしまうわけにはいかない。
保久良神社 御由諸
所在地 神戸市東灘区本山町北畑680番地
御祭神 須佐之男命 大歳御祖命 大国主命 椎根津彦命由 諸
創立年暦不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境の遺跡地にして其れらより発見されつつある石器時代の石斧、石剣、石鉋丁、石鏃類、青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土し西暦紀元前2,3世紀頃より西暦紀元3世紀頃のものにしてそのいづれもが儀礼的なものたることの考證せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたり證拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦769)等が祭祀したるとも神功皇后(西暦101)三韓の役の戦利武器をこ此の社地に収蔵し奉りしより起因するとも又社名の火倉“火の山”烽火場の地より起こりしとも称せられる。
尚祝部土器、玻瑠玉の発見せられてあり平安時代の延喜式(西暦927)には社格社名を載せ奉りてあり。
鎌倉中期の青銅製懸仏の発見されており摂津志には建長2年(西暦1250)重修の棟札の所持せる事を記載する等上代より祭祀の存続せる事実を実證しる資料となれり。
天王宮とも称せられ中古本荘近本庄の庄の氏神にして工業商業業者はもとより多くの崇敬の中心となる。
当社の位置は(海抜185m)後に六甲の翆巒を負い前には茅渟の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に燈明台ありて毎夜北畑天王講の人々交代して御神火を点じ近海を渡る船舶の航路安全を祈る灘の一つ火として崇拝せられ古来より航海者等の一針路となる。
これは祖神の代表的事蹟たる海路嚮導の行為を考え合すとき氏子人の祖神の御威徳を追慕する行事にして上代より現在に至るまで長年月の間一日として絶やすことなく奉仕し居れり。主たる祭日 1月1日 歳旦祭
1月20日 大俵祭
5月4日 例祭
5日 神幸式
7月14日 名越祭末社 祓御神社
御祭神 天照皇太神 春日大神
15:36
急な保久良神社への簡易舗装の参道を下り、住宅地の中だが的確な道標石柱のある路地を行き阪急岡本駅に到着。
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