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日笠山に起き上り古木を訪ねて



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平成18年6月24日(土)  メンバー 私だけ

黒岩十三仏〜日笠山〜起き上り古木〜一本松

2万5千分の1地形図「加古川」を参照すること。


黒岩十三仏詣で

毎朝の通勤列車の車窓から、JR曽根駅が近づいてくると南に日笠山の山並みが見えてくる。3年前の8月の熱い日に1回登ったことがあるが、その日笠山に今年の2月8日『起き上り古木』なる新名所が突如出現したという。

死者行方不明者あわせて96人の犠牲者を出した平成16年10月の台風23号が襲ったときに倒れた木なのだろうか。暴風が一晩に数え切れない本数の木々をなぎ倒し、いまだにその傷跡が至るところに残っているが、その中の1本が自らの力で起き上るとは誠にお目出度い、是非とも見に行かなくては。

3年前に日笠山に登ったとき、「黒岩十三仏」なる磨崖仏があるということを知ったが、ウェブで調べても明確な情報は皆無だった。それが今調べるて見ると、石仏の写真もあり所在場所も明確に分かるようになっている。おまけにそこからでも日笠山に登れるということで、今回の登山口は黒岩十三仏に決定。

8:50
日笠山(62.2m三角点)のほぼ真東、天川の右岸沿いに国道250線が南北に走っているが、住吉神社への石段のすぐ南側に下の写真の階段がある。なにも標示は出ていないが、ここが黒岩十三仏への入口だ。交通費節約のためJR曽根駅から40分ほどかけて歩いてきたが、最寄り駅は山陽電鉄の山陽曽根駅からなら10分もかからないだろう。

国道250線脇のこの階段を登ると

草が茂った先に黒岩十三仏がある

国道からも見えるだろうが、草が茂り案内類もなく磨崖物自体も小規模で彫が浅く視認しがたく、事前情報なしには見つけるのは難しい。

刻まれてから500年、元々彫が浅く線刻のような部分もあり、全体的に磨耗・風化が激しく近くによっても判然としない。「高砂市指定文化財 黒岩十三仏」の標柱が立つだけで、解説板もなく草が茂り放題で世間から存在を忘れ去られているかのようだ。


上段に5仏、下段に8仏が彫られた「黒岩十三仏」

日笠山東側、浜国道(250号線)に面したところに、通称「黒岩さん」と呼ばれる十三体の仏像を岩に刻んだ磨崖仏があります。長方形の面には上段に五仏、下段に八仏の座像が刻まれ、銘文から永正2年(1505)のものとわかります。
十三仏は室町時代の仏教思想のうち死者の回忌をつかさどる仏をあらわしたもので、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閃・大日・虚空の仏菩薩のことをさします。
言い伝えによると、鎌倉時代中頃に時光上人(時光寺開基)が生身の阿弥陀如来を拝む誓いをたてて、この地で百日座禅を組んだとき読経のかたわらに爪で刻んだといわれていますが、実際は室町時代中頃に一人の尼さんが逆修供養のため、一生かかって刻んだものだそうです。

高砂市のホームページから無断引用

磨崖仏から石段を登っていくと修行大師像や大師堂、真っ赤な鳥居・社・石仏などが斜面を切り開いた狭い雛壇のような敷地に所狭しと祀られている。住吉神社とは敷地がつながっていないのが、ここはなんという所なのだろうか。

磨崖仏の上の神社?

さらに石段を登ると道に出る

神社?の中の石段を登っていくと、日笠山東側の住宅地の間を登る車道に出る。頂上までこの舗装道路が続いていて、日笠山だけなら車でも登ることが出来る。


日笠山頂上風景

住宅地を抜けて、ボタンザクラの花見の時期だけ開放される高砂市の配水場脇の緩やかな道を登っていくと頂上はもうすぐだ。

右側の配水場がボタンザクラの名所

日笠山(沿革)

(一)、日笠山貝塚
日笠山の東山麓に位置する貝塚で調査時には40m×10mの範囲に貝塚が広がっていた。1963年より三次にわたる発掘調査が実施され縄文時代の前期と晩期にかけ、およそ4000年の間に形成された貝塚であることが判明した。貝塚から縄文土器、石器類と共にイノシシ、ニホンジカなどの獣骨、その他魚骨、貝類が発掘された。第一次調査では晩期に属する屈葬の人骨一体が検出された。(この出土遺物は市教育センターで保管展示されている)

(ニ)、舎人媛御陵(日笠山一号墳)
昔から舎人媛御陵と云い伝えられ墓標も建てられていました。日本書紀推古11年の条に※「舎人姫王○於赤石仍葬干赤石檜笠岡上」との記載があります。このことから故亀田次郎(曽根町出身国文学者)が「舎人姫檜笠岡御墓考」で詳細に謹逑されています。墳丘が工事等により削られているため、規模は明確ではありませんが、竪穴式石室を持つ前方後円墳であります。

(三)、萬葉集、第七巻○旅の項の中に
印南野 往過奴良之天傅 檜笠浦波立見

(四)、菅公伝説
道真西遷の途次、日笠山に登られ「我に罪なくば栄よ」と小松を引いて植えられたのが初代の曽根の松だと云い伝えられています。その際にお座りになった腰掛岩があったと今に伝わっています。

(五)、夫婦岩
日笠山の北方字北山にニ箇の巨岩があり、夫婦岩と呼ばれています。古墳とか、古代信仰の巨岩だある等、諸説があります。この付近では、弥生時代の遺物も採集されており、古くから開けていた場所であったと考えられます。

(六)、黒岩磨崖仏(市指定文化財)
黒岩と呼ばれる磨崖仏なので、黒岩十三仏とも云われています。長方形二段に分れ、上段五仏、下段八仏を浮彫されています。永世2年(1574年)の年号が刻まれているところから、室町中期の作であることが判ります。又、時光寺の開山、時光上人がこの黒岩で、百日座禅を組み、海中から阿弥陀如来像を得た、喜ばれた上人が名号を称念しながらこの仏を刻まれたとも伝えらえています。傍に住吉の社を置けりと「巡筧図會」に記されています。

(七)、日笠山を詠
     堀川百首
 天つたふ時雨に袖もぬれにけり
 ひかさのうらをさしてきつれど
     日笠夕照
 日笠雲収風力輕 晴潮涵影晩潮平
 夕陽雖好未明罪 唯表丹心一片誠
     曽根小唄
 一、曽根は東に大塩は西に、中をつなぐは日笠山  野口雨情
 一、ぼたん桜の花さへ咲いて、春の日永は日笠山  野口雨情
日笠山の風光明媚は広く知れわたり。古代から多くの文人、歌人が集った。最近も野路菊の咲く頃、俳句の吟行が多く持たれています。

(八)、桜の名所
日笠山のぼたん桜は有名であり、夜おそくまで観客が絶えなかった。戦時中開墾されて多くが芋畑となり一時さびれたが30年前曽根商工会が行った桜の苗木を植えろ運動の展開により日笠山の桜名所が復活した。

高砂市 高砂市観光協会

9:08
頂上近くには休憩所やトイレがあり、四等三角点標石(点名:日笠山)はブランコなどの遊具の近くにある。頂上は広く平坦で、三角点標石からは展望はないが、端に寄ればそれなりの眺めが得られる。

日笠山の頂上

自動車でも登れる、標高わずか62.2mの日笠山に登頂記念プレートを付ける人はいないと思っていたのだが、以外にも6枚も下がっていた。「取るのは写真だけ、残すのは思い出と足跡だけ」を家訓としている私には、ゴミをわざわざ木の枝に吊り下げることなど出来ない。付けた人達は自分だけは特別でゴミを木からぶら下げてもよいと思い込んでいるのだろうか。

  1. 日笠山 正子と共に
  2. JS3UUU 日笠山 62.2M
  3. 牛谷山〜日笠山縦走 H18.4.6 いなみ野 園山会
  4. 日笠山 62m 2002.12.15 神戸ツキワ登山会
  5. 日笠山 (62m) JH3JFF
  6. 山想同人 峰

頂上南寄りに、1,100年ほど前に菅原道真が左遷されて大宰府に向かう途中にこの日笠山に立ち寄られ、腰掛けて休憩したという岩が残っている。菅公が本当にこの岩に腰掛けて休んだかどうかは写真も残っていなく私にはよく分からないが、私が腰掛けたのは下の写真のように明確な証拠が残っている。

腰掛岩

腰掛岩

菅公左遷の途次当地に立寄られ、この岩にお休みになって四方を眺め
   「我に罪なくば栄えよ」
と、小松を植えられた。
それが曽根天満宮の霊松、曽根の松であると伝えられているが万葉集には、

 印南野は往き過ぎぬらし天つたふ
   日笠の浦に波立てい見ゆ

と歌われ、往時海は入江をつくり美しい景観を見せていた。

高砂市 高砂市観光協会

ここまでは観光案内を長々と書いてきたが、ようやく山道に入る時がやってきた。


「夫婦岩」から「起き上り古木」・「馬坂峠」へ

9:22
日笠山頂上の北端から山道が始まっている。黄色い「全山縦走ハイキングコース 高砂市」と赤い「起き上り古木」の案内板が目印で、広くはないがよく歩かれた踏み跡が延びている。要望があって設置したのだろうが、至るところに周囲の雰囲気をぶち壊している、真っ赤な矢印が書かれた派手な「起き上り古木」の案内板があるのが私には非常に目障りに感じた。

緑濃い道を行く

「起き上り古木」の案内板

9:31
篤志家が手入れしているのだろう雑木で造られた緩やかな階段道を登っていくと「夫婦岩」があるピークだ。以前来たときは背の高いササに取り囲まれていたが、きれいさっぱりと伐られて大展望地に変身している。

おまけに手作りのベンチ・テーブルで休憩所がそこかしこに作られている。一升瓶のプラケースを利用したベンチや、竹と雑木で作られたテーブル・日除けはなかなかの力作だ。けれども、こんなことを書くと設置者は激怒し気分を害されるだろうが、私にはここにあるもの全てがゴミにしか見えない。

ここを登ると「夫婦岩」だ

夫婦岩近くの休憩所 その1

夫婦岩近くの休憩所 その2

夫婦岩近くの休憩所 その3

山道を手入れし夫婦岩周辺の木々を伐ったところで整備を終えていたらよかったと思うのだが、整備してきた人は世のため人のためと思い続けてきただろう。しかし、やってよい事と悪いことの区別がつかなかったのだろうか。

日笠山北側も同じような雰囲気で整備されているが、もうこの辺で止めて全てのゴミを山から下ろすことを希望する。公側も方々の山々でひどい整備をして、手入れすることもなく誰にも利用されることなく朽ち果てていくのを見かけるが、私は最低限の登山道補修以外は余分な施設を山に持ち込まないで欲しいと切実に願っている。

眺めが良くなった夫婦岩

9:50
夫婦岩ピーク(北山)から下り、隣の92mピーク(大北山)に登る。道端の木に赤ビニールテープが巻かれ「JS3UUU 大北山」と書かれている。この日笠山のピーク名は「まめのこずい姫路市の登山・山野草」に地図付きで詳細に紹介されている。

大北山ピーク

9:55
大北山ピークから馬坂峠に出る手前の道端に、本日のメーンイベントの「起き上り古木」が立っている。

起き上り古木

お願い

この木は2月8日(水)の午後3時30分頃に立ち上がりました。
それ以前は1年半程前から倒れていました。
もし倒れていた時の写真をお持ちでしたら公民館までお知らせください。

電話先 0792-54-3178

樹種はアベマキのように見え、樹勢は周囲の木々よりは弱そうだが葉を付けているので枯れることはないだろう。

起き上がった最大の原因は途中までしか倒れず、通行の邪魔にならなかったので伐採をまぬがれたことだ。山道に完全に倒れこんでいたら、1年半後に起き上がることなど誰も予想できないので、あっさりと伐採されてお終いだっただろう。

微妙な角度で傾いていたこの木が、冬場に樹勢が衰えてきて上部の重量が減ったこと、根が数百キロはあるだろう岩を抱え込んでいること、平成16年2月8日は姫路市のアメダスの記録によれば風速9m以上の強い風が吹いていたことなどの相乗効果で起き上がったと、思う。

二度と倒れることのないように支え木が何本も縛り付けられ、注連縄を巻かれ、お菓子缶の賽銭箱がおかれて、今は神木となっている。しかし幹の太さからすると、古木とはとてもいえないが、「起き上がり若木」では語呂が悪いし、有難みもないしで誇大表示の「起き上り古木」と名づけてしまったのだろうか。

10:08
起き上り古木から2分ほど下ると「馬坂峠」で、狭いが簡易舗装の道が登ってきている。なぜか道標(東:牛谷方面、西:大塩方面、北:牛谷まで20分、南:日笠山まで25分)にキャットフードを詰めた大きなペットボトルが吊り下げられている。ハイキング中にお腹が空いた人に食べてもらうための訳はないし、悪霊が峠を越せないようにするためのまじないの訳はないし、いよいよパラダイスに突入するプレリュードなのだろうと勝手に納得しておく。

馬坂峠

峠の前後に「はまタクシー」の看板が連続してるが、こんな山中では宣伝効果があるのだろうか。それとも疲れきって歩けなくなるハイカー目当てのものなのだろか。


パラダイス休憩所群から長勝寺坂へ

10:19
「つりがね坂」の木板が下がる道を登っていくと、送電線が横切る地点の南側の展望地に休憩所が設けられていて、ベンチの近くに「山道整備工具箱 宮丸」と表示されたロッカー状のものがある。ベンチの下の草が縞状に生えているのが不思議な感じするが、昔は畑で畝の跡なのかもしれない

馬坂峠から北も快適な道が続く

送電線南の休憩所

10:23
送電線鉄塔(飾磨港加古川線 三七)の横を通り過ぎて少し行くと真赤な「火の用心」送電線巡視路標識があり36へは左に入るように指示している。薄っすらとした踏み跡が見えないこともないが、草が茂り道をすっかり隠している。送電線巡視路では、入口付近は手入れせずに一般ハイカーが間違って入らないようにしている場合もあり、入っていくと以外によい道だったりするが、今回はパス。

送電線鉄塔の横を通過

ともに緩やかな「竹林坂」「花門坂」を登っていくとパラダイスは近い。

ここは竹林坂かな

10:34
いよいよパラダイス休憩所群が始まり、「第1休憩所」の「出合峠ベンチ」と名づけられたベンチで休憩する。花壇や菜園、物置小屋(友愛の山小屋)、雨水採集実験場などなどの、山の中にあるはずがないものが並んでいる。

地元の人たちの憩いの場としての機能を果しているのだろうが、山の中にこんな施設は要らない、と私は思う。地権者の方、または許可を受けた人たちがやっているのだから、部外者の私からはなにも言えないが、もう一度言う「こんなものは要らない」と。

第1休憩所の出合峠ベンチ

休憩所の前の「つまみ喰い農園」

10:47
第1休憩所で10分ほど休憩してから、2分も行くとベンチとテーブルだけの質素な「第2休憩所」だ。地元の方3人が休憩し歓談しているので写真は撮らなかった。

10:50
第3休憩所の手前にベンチとテーブルがあり、これから登る一本松がよく見える。

休憩所の間は広い道になっている

第2と第3の間の休憩所

10:51
最後の第3休憩所に着いた。ベンチとテーブルがあるが、古い時計やら得体の知れないものが置かれていて、非常に雑然としている。家から不用品を持ち寄ったかのように見えてしかたならない。

第3休憩所

10:55
第3休憩所から急な「息切れ坂」を下ると長勝寺坂だ。登り口には

お願い

パイプ物資等を坂の上まで持って上って下さればありがたいです。

ご協力お願いします 宮下

なるものがあるが、もう必要なものはないのか資材は置かれていなかった。

息切れ坂を下る


一本松、そして下山

昔、北側の牛谷の児童達は、峠を越え山の南側にある小学校に通っていたそうだが、北浜トンネルがある今は峠越などする人などはいるはずもなく、荒れている。

長勝寺坂の峠(北側から)

10:59
ここにも道標があるが(北:JR曽根駅、南:北浜方面、東:日笠山)これから登ろうとする一本松方向の案内はない。案内はないがしっかりした道は登っていて、親切にも真新しいトラロープさえ張られている。北浜トンネルの上部は山肌を削った人工的な崖の上を行き高御位山から桶居山方向の眺望が広がっている。

一本松への登り始め

崖上の展望のよい道を進む

崖上から外れた道は、草木が両脇に生い茂るジャングルのようなところを行くが、道自体は明確で草木を掻き分けていくようなことはない。日笠山から長勝寺坂までの整備され尽した道と比べると、近くからウグイスの鳴き声が聞こえてきたり、蛇も出てきたりでより自然に親しめそうだ。

見通しも展望もないが

道は明確だ

11:14
背丈の低い草木が覆う一本松の山上に出ると、見通しも展望もよくなる。ツツジが多く早春に登ると見事な景観を楽しむことが出来そうだ。

道は北と南に分岐し、北へ行く道は西へも分岐がある。今日は踏み跡が一番はっきりした南側へ三角点を通って下る予定だが少しだけ分岐へ入ってみる。西へ進むと道はすぐに下り始め高坪山から南山への送電線が貫く山並みが広がる。北へ進むと道は明確だが、草木が左右から覆いかぶさりどこへ続いているのかさっぱり分からない。

西へ行くと展望が広がり

北へ行くと草木が深くなる

南へは極歩きやすい道が続いていて、道端に四等三角点標石(点名:北脇)がある。ここが一本松の頂上になると思うのだが、登頂記念プレートを吊るすのに手頃な木もあるのに1枚も下がっていない。不思議だ。

南へ進む道は

三角点の脇を通る

11:30
三角点を過ぎると平坦だった道は下り始め、展望のよさそうなところにシートを敷き昼食を取る。

11:45
日笠山東側の住吉橋の東のセブンイレブンで買ったおにぎりセットを食べて、下山再開。

南へ下る道は

展望のよい岩場が続く

日笠山には岩場のルートはないのかと思っていたが、この一本松から南へと下るルートは岩場が続き結構面白い。一番最後は後ろ向きに三点確保で下る大岩場で、消えかけた赤ペンキのマーキングが薄っすらと残っている。

12:04
大岩場を下ると、最後は雛壇状の墓地の最上部に下り立って下山終了。

この岩場を下ると

すぐに墓地に出る

帰りは北浜トンネルを抜けてJR曽根駅に戻ったが、4時間ほど歩いただけなのに疲労感は強く、低山歩きの季節が過ぎ去ったことを強く感じた1日だった。



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