武庫川渓谷、旧福知山線
廃線跡ハイキング その1
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1回目 平成20年11月29日(土) メンバー 私だけ
2回目 平成20年12月6日(土) メンバー 私と妻その1
JR生瀬駅〜旧福知山線廃線跡〜JR武田尾駅
旧福知山線廃線跡ハイキングコースは、あまりに有名で私のつたない解説など必要ないが、私の頭の中を整理するためにも一応書いておく。
尼崎〜池田間で営業していた摂津鉄道の跡を継ぎ、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道をとして計画された阪鶴鉄道により、1899年(明治32年)に福知山まで延伸された。その中でも武庫川渓谷沿いの生瀬〜道場間は多くのトンネルを要し、すさまじい難工事であった。しかし開通から8年後の1907年(明治40年)鉄道国有法により、強制的に全線が国に買収され国有化されてしまった。そして80年近くの間、単線非電化のローカル線としての営業を続けていく。
沿線の発展、旅客の増加による複線電化の要望から、武庫川渓谷沿いの路線を諦め、生瀬〜道場間に長大なトンネルを貫通させ、1986年(昭和61年)8月に新線に切り替わり、旧線は廃線となった。普通なら廃線跡のトンネルは閉鎖され鉄橋は落とされるが、なぜか生瀬〜武田尾間はレールが外されただけだった(武田尾〜道場間の橋梁は落とされ廃線跡の通行は困難という)。
生瀬〜武田尾間の廃線跡は風光明媚な武庫川渓谷沿いを行くこともあり、自然発生的なハイキングコースとなり、休日ともなれば多くのハイカーが真っ暗なトンネルや廃鉄橋を行き来し、非日常的なそして美しい風景を目の当たりにすることが出来る。なおJRは廃線跡を通るのは黙認しているようだが、どのような事象が発生しようとも責任は負わないという。廃止されてから20年以上、路盤・トンネル・橋梁の保守は全くなされてなく、このままでは遠くない将来に完全に閉鎖される日が来るだろう。
JR福知山線生瀬駅
9:16
山陽東海道線新快速、宝塚線快速、宝塚線各停と乗り継いで、私の住む姫路市からやって来たが生瀬駅は遠かった。降り立った生瀬駅はちょっと変わったデザインの白い駅舎で、周囲からは浮いて見える。駅前にはコープミニ生瀬があり、食料・飲料を調達できるが、営業時間は9:00〜23:00なので注意が必要だ。なお、トイレは廃線跡には存在しないので、特に女性の方は駅で済ませておくのが賢い。
生瀬駅から福知山方向に進み、JRの線路の下を通り抜けると国道176号線との十字路だ。交差点を直進すると、武庫川にかかる西宝橋を渡ってしまい廃線跡へは行けない。この交差点は左折する。
9:20
福知山線は生瀬駅を離れると、新線と旧線に分かれている。国道よりに旧線、その奥に新線が並んでいるが、この部分の廃線跡を歩くことは出来ない。
本格的な廃線跡を歩くのは、35年ほど前に奥多摩の水根貨物線跡を歩いたのが最初でそして最後だった。その時のことは忘却のかなたへと消えさってしまったが、トンネルがあって、レールが残っていて、犬釘を拾ったことだけがかすかに記憶の片隅に残っている。
歩き始めてすぐに廃線跡が現れ、今日の二度目の廃線歩きが楽しくなりそうな予感がする。
国道176号線歩きと廃線跡入口捜し
この記録を読み進めるとほとんどの写真に、変なオヤジが写っていることに嫌でも気付くことになる。単独行の私が彼をストーカーしていたわけではない。何を隠そう、彼は私自身なのだ。
その私が私を写すという複雑な手続きを要する行為によって、生瀬駅から武田尾駅の標準コースタイムの倍以上の、なんと4時間半もかかってしまった。従って、この記録に記載されたタイムスタンプは、ほとんど意味を成さないことをここに断っておく。
9:26
京都府宮津市を基点として大阪府大阪市北区を終点とする国道176号線は、国道にあるまじき狭さで県道、いや私の自宅前を通る市道よりも間違いなく狭い。右側には武庫川が、左側には山が迫り拡幅しようがないのか、狭い車道をダンプカーやトレーラーなどが走り、進行方向左側だけにしかない人同士がすれ違うのも大変な狭い歩道を進む。
歩道左側の山中を旧福知山線は通っていて、武庫川支流の太多田川の前後には城山トンネルと当田トンネルの2本のトンネルが存在した。そのうちの当田トンネルの福知山口へは行けたという記録もあるが、定かではない。
この部分は、1週間後の12月6日(土)に妻その1と再訪した時の記録だ。 9:21 そこから斜面を5mも登ると枕木も残る廃線跡だったが、尼崎側は草が茂り放題、福知山側も最近は誰も歩いたことがないような雰囲気。測量用の紅白ポールがぽつんと立っているのが印象的だったが、ここから進むのは諦め歩道に戻る。 |
9:32
中国自動車道が近づいてきた。収集してきた情報によると、国道から左に離れて廃線跡に入り、国道下を狭いトンネルで抜けるはずなのだが、あの有名な看板も見当たらない。
9:37
昭和49年、旧福知山線が現役だった頃の航空写真を見ると、線路は工事中の中国自動車道の北側で国道の下をくぐっていることが分かる。でも、もう中国自動車道の高架の下を過ぎてしまい、歩道橋の欄干に聞いたこともない案内板が下がっている。「JR廃線跡 入口→ 交通量が多いため約50m先の信号を渡ってください」、ちょうど真下を旧福知山線が通っていた辺りだが、案内板を深読みして国道を無理やり渡ればよかったのかもしれない。
50m以上はあったように思うが「木の元バス停前」という押しボタン式の信号があった。そこの横断歩道を渡ると、清瀬台へと続く橋の袂に左右に国道から離れ下る路地があった。右に下る路地なら遠回りになるが廃線跡へと行けたかもしれない。でも全く土地勘がないため、悲しいことに廃線跡から離れる左に進んでしまい少々彷徨ってしまった。
でも迷っているのは私だけでなく、中年夫婦のハイカーに出会い一緒に国道まで戻り、国道を引き返すと「木ノ元地蔵尊霊場」の大きな看板の向かいでようやく廃線跡へと続く道を見つけることが出来た。
9:50
国道から離れる道の、その道から離れる地道が廃線跡への道だったが。道路工事の真っ最中だった。道の片側にはバリケードが張られ、現状ここが唯一無二の廃線跡への入口だ。
この部分は、1週間後の12月6日(土)に妻その1と再訪した時の記録だ。 9:26 鉄道時代そのままのトンネルではないが、同じ位置にあって以前は通り抜けられたものが、今は完璧にコンクリを詰められて閉鎖されている。福知山線廃線トンネル群の将来の姿を暗示しているように見えてならない。 9:31 |
ようやく廃線跡を歩き始める
9:54
ついに私は廃線後へと足を踏み入れることが出来た。でも枕木もレールもなく、どこから見ても普通の道だ。これぐらいの路盤で重量84t・軸重15tのDD51が客車を引いて走っていたのが不思議だ。一緒に迷った夫婦のハイカーは先行してしまったが、入れ替わり立ち代り次々と新たなハイカーが現われては、追い越していく。
9:57
一番目の橋が現われた。車の誤進入を防ぐためか、車止めが立っている。
線路があったところには鉄板が敷き詰められていて、両側に欄干がある。この鉄板の上に線路は引けないし、鉄道橋で欄干のあるものなどあるわけはないし、何かの目的を持って廃線後に改修したもので、おそらく自動車を通行させるためではないかと思う。
9:57
1号橋梁の袂には、下の写真のように「橋りょう上歩行禁止!」の警告板が立っている。なぜかほとんどのハイキング記録では、この警告板が廃線後に設けられたものと勘違いし、ハイカーに対して橋を渡るなと指示しているものとしている。
そんなことはない。これは鉄道現役時代に保線作業員、あるいは不届きな侵入者を対象としたもので、ガーターと枕木とレールだけの鉄橋を渡るのは危ないから、橋梁脇の犬走りを通りなさいと親切に諭しているものだ。
しかし、犬走りに敷かれていた木板は20年の歳月で腐りかかっているので、今は鉄板が敷かれた橋梁を渡る方が安全だ。
この部分は、1週間後の12月6日(土)に妻その1と再訪した時の記録だ。 9:35
こんな責任逃れの警告板1枚でハイカーを追い返すことが出来ると、JRは本当に信じているのだろうか。この短かい1号橋梁を落とすことなどJRにとってはたやすいことだろが、それだけで下流側からのハイカーの99.99%までは排除できるはずだ。また丈夫なフェンスを設けるだけでも、ほとんどのハイカーはやってこなくなるだろう。 そんな誰でも思いつく対策など何もせずに警告板1枚だけで済まそうとするとは、本当に「安全を最優先する企業風土の構築」を実行できるのか疑問だ。 |
9:58
1号橋梁の下を流れるのは武庫川支流の名塩川で、橋下は出合淵と呼ばれている。
10:00
廃線跡の横に立つ電柱に「運転、交換、中継」と表示されたボタンが並ぶ箱が付いている。距離標や速度制限標識もそのまま残されているが、なぜレールの撤去だけで廃線作業を終わらせたのか、何かどこぞとの密約が交わされていたに違いない。
10:02
ついに枕木が現われた。一気に気分が高揚し、廃線跡歩きモードに突入。でもこの先に嫌というほどの枕木歩きが待っていようとは、この時点では露とも思っていなかった。
でも枕木は完全に土に埋まってその表面が見えているだけで、橋梁の鉄板と欄干といい、なにか人為的に土を入れた感じがしてならない。
10:04
線路だったところは草が茂り、転落防止柵のある犬走りだけが歩くことが出来る。紅葉が彩る山と武庫川が織りなす風景が美しい。
10:07
自然の岩を利用した見張り台が残っている。保線作業の安全を保つために使われていたものだが、登って見ると、よく育った木々のため見通は悪い。
10:08
この辺りは敷地に余裕があるため犬走りが広く、歩くのが楽だ。
枕木の間隔は歩幅よりも狭く、歩くときは歩幅を意識的に枕木間隔に合わせなくてはならず、またバラストと枕木にわずかでも高低差のあるところでは躓かないように気を配らなければならず、平地歩きのなのにいつもの倍の疲労感を感じる。
「おっ、何か見えてきたぞ」。
10:09
2号橋梁(再掲:私が便宜上付けた橋梁名で、一般には通じない)が現われた。構造的には1号橋梁と同じだが、少し長く少しカーブしている。橋の下は武庫川支流のどん尻川だ。
この部分は、1週間後の12月6日(土)に妻その1と再訪した時の記録だ。 9:43 旧福知山線は武庫川岸に高い護岸を築いて通されている。どれくらい高いかは上から見下ろしただけなのでよく分からないが、10m近くはありそうだ。その護岸の上から河原に下りることは結構簡単で、ほったらかし歴20年を越えるが、まだまだしっかりしたタラップや鉄梯子が所々に設けられている。高所恐怖症でなければ下りるのはたやすく、高座岩と直に触れ合うことも可能だ。 |
北山第1トンネル(318m)または新3号隧道
10:13
廃線跡の数々のトンネルのうち生瀬駅から三番目の、通り抜け可能な北山第1トンネル前に着いたが、対岸の岩肌に鉄骨足場が張り付いている。その上の山肌ににも数箇所同じようなものがある。
廃線跡の擁壁にも試掘坑みたいなものがあり、これらのものは、ここに造る計画だった幅160m高さ73mのダムの地質調査のためのものだが、幸いにも計画は頓挫したようだ。
10:14
さて、いよいよ一番目のトンネルとの対面だ。1899年(明治32年)に阪鶴鉄道により開通したときは、このトンネルだけは存在せず、線路は川側の狭い部分を通っていたといい、今でも踏み跡が続いている。
このトンネルは護岸維持困難・落石防御不能・線路線形不良の三重苦から逃れるために、国鉄買収後に2年の歳月をかけて1923年(大正12年)に開通したものだ。
10:23
このトンネルは枕木は土砂で埋められていて、見えないか、路面と面一になっているので普通に歩くことが出来る。但し曲線トンネルで長さは300m以上あり真っ暗で、何かしらの携帯照明器具が必要だ。
でも必要以上に常識外れに明るいものだと歩きやすいだろうが、廃線トンネルを歩く情緒というか非日常空間の雰囲気が損なわれてしまう。足元だけがぼんやりと見える、電池の切れかけた古い懐中電灯ぐらいが最適かと思うが、この廃線跡を紹介するほかのサイトは明るいのを持ってけとアドバイスしている。
私は常にザックに入れている、LEDと白熱球併用のちょっと古い暗めのヘッドランプを使ったが、手に持つものよりもカメラの操作はしやすいし、顔を向けた方向が勝手に明るくなるのでヘッドランプをお勧めするが、家庭にある懐中電灯でも十分だ。
写真は外部ストロボの光量を頼みに撮ったもので、肉眼ではこのような風景は見ることはできない。
10:28
枕木が見えているが、土砂に埋め込まれているので躓くこともない。
デジカメのオートフォーカスを働かすためにはある程度の明るさが必要で、外部ストロボのAF補助光でも有効距離は知れている。そのことに始めは気付かずに、遠く離れてシャッターをリモコンで操作しようとしても、カメラはオートフォーカスに失敗しイヤイヤと答えるばかりだった。カメラが故障したのかと焦ったが、私が近くに立つか、ファインダーの中心に床や壁を持ってくることでようやく撮れる事に気付くのに、大分時間がかかってしまった。
この部分は、1週間後の12月6日(土)に妻その1と再訪した時の記録だ。 9:50 |
10:31
全長318mのトンネルに入ってから15分をかけ、ようやく出口が近づいてきた。こうして一番目は写真撮影に悪戦苦闘したが、路面は平坦でトンネル群通過の目慣らし足慣らしとしては最適なものだった。
10:32
トンネルの出入り口をポータルとトンネル隧道界では呼ぶと聞く。元々ポータルとは、港(port)から派生した言葉で、門や入口を表し、特に豪華な堂々とした門に使われた言葉である(ウィキペディアより)。これが大正鉄道トンネルの代表的なものかどうかは分からないが、尼崎側と同じ意匠だ。
なおポータル左側の標識は「トンネル内照明なし」だが、当然にしてハイカー向けではなく列車や機関車の運転士向けのものだ。
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