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黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第五弾
「峯相山鶏足寺」



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平成25年5月25日(土) メンバー 私だけ

石倉峯相の里駐車場〜開山堂・観音堂〜鶏足寺跡〜とんがり山〜石倉生産森林組合倉庫


黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第五弾は峯相山鶏足寺跡

 標高244mの峰相山は姫路市の西部、山陽自動車道と国道29号線が交わる地の北方にある。かつて山上には、神功皇后の三韓征伐に由来する日本最古の寺院なのではと一部で言われている峯相山鶏足寺の、壮大な伽藍が建ち並んでいたという。

 だが天正6年(1578年)に、織田信長が羽柴秀吉に命じた中国攻めに無謀にも反抗し、果敢に立ち向かった鶏足寺はあえなく焼き討ちにあい、一宇を残すことなく全山火に包まれ、その長い歴史を閉じ二度と再興することなく今に至るという。

 その焼き討ちの手先となって働いたのが、姫路城生まれの軍師黒田官兵衛だという。いかに主君たる秀吉の命令とはいえ、生れ育った地の寺院を焼き払うのは嫌だったことだろうと同情を禁じ得ない。

 
今回の山行図
(iPad+GNS1000+FieldAccess HD)
鶏足寺跡の範囲は兵庫県立考古博物館兵庫県遺跡地図より

 今回の山行は、7年前の「鶏足寺跡を登り、とんがり山でラーメンを炊く」と全く同一コースで登ってみた。

 ところで、峯相山は三方から峰が集まっているので「峰の相う山」から「峯相山」になったという説があるようだ。なお、このページでは「峯相山」と「峰相山」をごっちゃに使っているが、特にこだわりがあるわけではなく、どちらで検索してもこのページが出てきたらよいなという下心がなせる業だ。でも、案内板などで使われていない「嶺相山」はさすがに使っていないが、こんな話題を出すのも「嶺相山」で検索する人にもいるかなという、さらに腹黒い下心があるからだ。


石倉峯相の里から開山堂・観音堂

8:37
 偶然同じ方向に用があった妻その1に送ってもらい、「石倉峯相の里」の駐車場に到着。乗用車なら3〜40台は止められそうな広さがある。

 駐車場の片隅に案内板があるが、残念ながら鶏足寺跡については一言も書かれていない。

石倉峯相の里の駐車場から歩き始める

8:42
 後ろに見えるのは「峰相上池」で、さらに上部には「新池」もある。

石倉峯相の里を行く

8:45
 バーベキュー場を過ぎ、コーヒーとかぜんざいとかを頂くこともできる管理研修棟も横目に通り過ぎ、開山堂を目指す。

「石倉峯相の里」管理研修棟

8:48
 石倉峯相の里を過ぎても簡易舗装の車道は続き、車でも容易に入れる。

 背後に見える高架は峰相大池の上を通る国道29号線のバイパスで、とんがり山南側をトンネルで貫いている。さらに奥に見える高架は山陽自動車道だ。

石倉峯相の里を過ぎても簡易舗装の道は続く

8:51
 駐車場から14分で舗装道路は行き止まりとなり、開山堂の扁額の掛かるお堂がある。そして乗用車数台分の駐車スペースもあり、その右奥には獣除けフェンスに扉があり、峰相山へダイレクトに登れるというが、そのコースでは鶏足寺跡を通らない。

開山堂まで車で入れる

 開山堂から観音堂へ登る石段入口の反対側に峰相山鶏足寺由来の石碑がある。三韓征伐の年代が未確定のため、鶏足寺が開かれた年代も明確に記載されていない。鶏足寺の終焉は天正6年(1578年)8月10日で、黒田官兵衛が31歳のとき、有岡城の戦いで幽閉される前のことで、その当時は小寺姓を名乗っていた。

開山堂横に建つ石碑

峰相山鶏足寺古蹟由来

 峰相山と言うは東西両嶺相合う峰の様子から言う。鶏足寺と言うは釈迦十大弟子の迦葉が入定した印度伽耶城の東西鶏足山に似ている処からで西峰の主峰は250mにして風早嶺と称し梢下に神岩大黒岩と名付くる奇岩等多く現出す。
 神功皇后三韓へ派兵の砌り新羅の王子を伴い帰朝す皇后帰洛の途次当国播磨に王子を留め給う王子此の山に草庵を結び十一面観世音菩薩を祭祀給うこれ即ち峰相山鶏足寺の起りなり。その後宮中にまで鈴声聞こえ錦繍金玉二丈五尺の幡降り下る斯くして奇瑞興り大いに発興す。
 即ち奈良朝には金堂講堂法華堂常行堂五大尊堂一切経堂鐘楼勧請神堂五重塔三重塔宝蔵及び僧房300余等々広壮なる寺観を誇る。平安初期より衰微の兆見え天正6年8月10日小寺氏により堂舎悉く焼亡さる。
 然して現在は堂塔伽藍の跡礎石若干残すのみ。尚竜野市誉田町井上の観音像は等寺焼亡の際難を免れし御本尊と推定される。当寺の縁起由来については峰相記播磨風土記播磨名所図絵等に詳述してある。

平成5年4月吉日 峰相観音講一同


 開山堂の横には石仏や五輪塔が集められていて、周辺から出土したものだろう。中にただ丸いだけの自然石もあるように見える。

開山堂横に集められた石仏や五輪塔

頭のない石仏や頭だけの石仏

9:00
 参道入り口には百度石があり、手摺のある坂道が奥へ延びている。

手摺が新しかったり、信心する人が多いのか

9:05
 樋滝の滝行場があったりして、さらに登ると風変わりな岩がしめ縄を巻かれ鎮座している。三回拝むと鼻血がでるという千僧塚で、感受性の高い私(小心者の臆病者)なら一回で鼻血どころか吐血・下血しかねないので、拝むのは遠慮しておいた。

左手に千僧塚、奥に観音堂

千僧塚 攀じ登ったらどんな罰が当たるのかな

千僧塚

 一千数百年のわたり峯相山鶏足寺の十一面観世音菩薩をはじめ、峯相山有縁無縁の諸聖霊追福の為に光明真言の秘宝を修せしめ永年にわたり守護されてきたと伝えられ、三回拝むと鼻血がでると、いわれる程の力を持っていると、されてきました。
 いつの頃か転倒し苔むす日々で長年放置されてきましたがこの度「千僧塚」として開眼供養し後世にその名を残さんと欲す。

平成14年4月22日 観音講一同


9:08
 この地に旗めいている幟は「奉納 南無十一面観世音菩薩」のみで、これまでの黒田官兵衛由来の地なら必ずあった幟「その男、天下に秘す野望あり 2014年大河ドラマ 軍師官兵衛」は1本もない。鶏足寺を焼いたことの良し悪しはあっちに置いといて、黒田官兵衛が大活躍したゆかりの地には間違いないし、ここに幟を立てても良いのではないかと私は思う。

 400年以上も前のことだし、地元の方々の黒田官兵衛に対する悪感情も薄れてきているだろうし。

 そしてここが、現在の宗教施設の最奥にある観音堂。階段を上り入り口に手を掛けるとすぅーと開いてしまった。不用心というか大らかというか。

十一面観世音菩薩を祀る観音堂


感動の峯相山鶏足寺跡へ

9:10
 ここまでは7年前と同じだったが、これから先は未知の領域に足を踏み込むことになる。なぜならば獣除けフェンスの扉へと続く道など7年前にはなかったからだ。

7年前にはなかった獣除けフェンスの扉への道

 扉の場所は同じだが、なんかすごくグレードアップしている。片開きだったのが両開きになっているし、幅も車が通れそうだ。でもその先は普通の乗用車では登れないだろう激急な斜面となっていて、6輪以上の装輪車か装軌車両しか入れないな。

 この先に鶏足寺跡があるという表示はないが、「この扉から出て下さい。必ず締めて下さいね。 NPO法人石倉企画」という木板が下がっている。

獣除けフェンスの扉を通り鶏足寺跡へ

9:16
 この道は6年前にもあったが、良くなっている。フェンスも道も良くなっているし、これなら鶏足寺跡も6年前の木が茂り草ぼうぼうから変わっているかもしれないな。

道もよくなっている

9:19
 行く手が明るくなってきた。まだ尾根に辿り着く分けはなく、ワクワクしてきたぞ。

6年前と道や行く手の雰囲気が違うぞ

9:20
 中世城郭研究家の木内内則氏の描いた「峯相山鶏足寺の想像復元図」が掲示されたその横は、削平地となっている。

峯相山鶏足寺の想像復元図 木内内則作
石倉生産森林組合

 この植林の中の削平地は6年前と同じだな。何も知らないでやってきたら山城跡と勘違いしそうだが、こんな戦略的意義のない山奥に山城を造っても、誰にも相手にされず無視されるのが落ちだな。

植林の中の削平地

 削平地の中には堂宇の礎石とした上面が平たい石がゴロゴロと、一部は地面に埋まっている。ほじくり返せばいろいろな遺物がでてくること間違いなしだが、私の土地ではないし、止めておこう。

間違いなく堂宇の礎石だ

 二番目の削平地は奥行きがある。80mほどもあろうかという平地は先で左に回り込んでいる。もう一段上は背丈よりも高く見通せないが、7年前とは明らかに違う。

二段目の削平地は奥行きがある

9:34
 シェー!!、感動し思わずやってしまった。なんて広さだ。何段にも連なる削平地の草木は刈られ、7年前に見ることが叶わなかった鶏足寺跡の全景が目の前にあるのだ。

 石倉生産森林組合は素晴らしい。ブラヴォー!! ハラショー!! ヴンダバー!! トレビアン!! グレート!! ファンタスティコ!!。

ここが鶏足寺跡だ
ここに金堂・講堂・法華堂・常行堂・五大尊堂・一切経堂・
鐘楼・勧請神堂・五重塔・三重塔・宝蔵が建っていたんだ

 7年前は酷かった。下の画像のように草木が茂りまくり、緑の海を泳ぎ石垣や石段を確認できたが、全体を見通すことは出来ず、こんなにも大規模な削平地が広がっているとは想像もできなかった。

7年前の草木の茂る鶏足寺跡

 生産森林組合による道標が、切り倒された丸太に付けられている。峯相山から下山してきたハイカーのために「開山堂→」、「石倉峯相公園→」と指しているが、開山堂からここまでの案内は全くなく、この地を広く公開するのはもう少し先にするのだろうか。

下山者向けの道標?

 社団法人姫路青年会議所による鶏足寺縁起の解説板が立っている。5年前の平成20年に建てられたもののよう。

 案内板の横の石垣は、400年間崩れることなく形を保ち続けている。

鶏足寺縁起の案内板と今なお残る石垣

鶏足寺の縁起

 鶏足寺は神功(じんぐ)皇后が新羅の王子を日本へ連れて帰るときに、王子が「日本へ無事に渡り着くことができれば一伽藍を建立したい」と神功皇后に希望しました。無事に来日し播磨にとどめおかれた王子は、峯相山に草庵を造り千手陀羅尼を一心に誦し、数百年後の敏達天皇の10年(581年)に至って一堂建立を果たしたのが始まりと「峯相記」に記されております。その後鶏足寺は豊臣秀吉の命を受けた黒田官兵衛の軍勢によって全山焼き討ちにあい焼失しました。

平成20年7月 社団法人姫路青年会議所

 植林の中の削平地から数えて、5段目か6段目になる平地だ。石垣は崩れかけ、土砂も流れ往時の姿ではないだろうが、400年たっても寺跡の名残を残している。

 あれ、同じ時期に同じような経緯で廃城になった但馬の竹田城は、築城時のような姿を今に伝えているところを見ると、ここは土地が緩かったのか土木技術が劣っていたのか、城と寺では力の入れ方が違っていたのだろうか。

5段目か6段目の削平地だ

 下段にもあったが、ここには色付けされた「峯相山鶏足寺の想像復元図」が掲示されている。裏を見ると「平成25年3月19日」と書かれていている。

 人知れず鶏足寺跡の整備を続けている石倉生産森林組合は、最終的にこの地をどのように紹介する積もりなのだろう。偶然訪れる私のようなハイカーから噂が広がるのを待っているのだろうか。

 それとも、どこぞからの資金で整備をしていて、そのどこぞがすでに土地を入手していて、鶏足寺再興計画が着々と進行中だったりして。

色付けされた「峯相山鶏足寺の想像復元図」

 草木が生い茂っていても、やろうと思っていたことがある。瓦探しだ。でも探し始めて1分も経たないのに、瓦の欠片を見つけてしまった。埋まっていたわけでなく、ポンと置いてあるというか、落ちているというか、その気になって探したら幾らでも出てきそう。

出土したというか落ちていた瓦の欠片

 この明らかに加工された石は、礎石なのだろうか。それともテーブル代わりに使われていたのかな。兵庫県立考古博物館兵庫県遺跡地図によれば、ここ鶏足寺跡は調査されていないようで、もっとすごいものが埋まっているんだろう。

大きな礎石だ

9:54
 削平地の最上部は、峰相山頂上から南西へ、とんがり山へと続く尾根にまで達している。

鶏足寺跡を上部から望む

10:05
 峰相山頂上からとんがり山へ続く尾根の道から、鶏足寺跡を見るとこんな感じで、近いというか木立の中へも鶏足寺跡の削平地が続ているのが分かる。

左:峰相山頂上 正面:鶏足寺跡 右:とんがり山

10:08
 峰相山方向に北東に進むと「←上伊勢 ↓とんがり山方面 長尾・太陽公園→」の案内板が立つT字路に突き当たる。とりあえず長尾・太陽公園方面に進み、以前から鶏足寺跡と言われているところと、峰相山の頂上へ行ってみよう。

旧山陽自然歩道に出た

10:09
 案内板から北東に進むと、祠が二つある広場に着く。ここが一般的に鶏足寺跡と言われているところで、確かに人工的な平たい地形で、ここも鶏足寺跡で間違いないが、寺跡の中心は南側斜面と思う。

一般的に鶏足寺跡と言われている祠が二つ建つ広場


大急ぎで大黒岩・とんがり山・神岩へ

 帰りも妻その1に拾ってもらう予定なので、寄り道をせずに「とんがり山」へ向かわなければならないが、久々にやってきたのだから峰相山の頂上へ行ってみよう。なお「妻その1」とは、私の家族構成を欺瞞するためで「妻その2」や「妻その3」がいるのではないかと思わせ、読者を欺くためだ。

10:17
 山陽自然歩道の道標には「峰相山山頂標高239.7m→」とあり、頂上には「火気厳禁 峯相山 石倉生産森林組合」とあるが、こんなにも頂上という言葉が似合わないピークも珍しい。周囲を木々に囲まれた、地面のわずかなでっぱりだ。とりあえず、「峰相山登頂成功 バンザーイ」。

峰相山239.7m登頂成功バンザーイ

10:25
 「とんがり山」への尾根の始まりは、鶏足寺跡の人工的な平地の中を行くので、どこでも歩けるためか明確な踏み跡はない。何度もこのルートを通っている私にとっては何てことないが、初めて歩く人は少し不安になるかもしれないな。

鶏足寺跡一帯の踏み跡は薄い

10:28
 鶏足寺跡を過ぎると尾根は狭まり、山道は常に明確で脇道もない。

とんがり山へ続く尾根の道

10:35
 「←左 大黒岩 峯相山 右→」の案内板があり、そのまま進むと尾根の突端に大黒岩が鎮座している。その大黒岩の上部は二つに分かれている。

 トラロープが張られた左側から回り込むと、間から手前側の岩には簡単に登れる。だが、奥側の岩は手掛かり足掛かりが乏しく、未だに登ったことはない。昔々に来た時は岩の間に木が生えていて、それを足場すれば登れたかもしれないが、今はすっかり枯れてしまい、私の体重を支えてくれるか怪しい。

大黒岩の手前の岩は簡単に登れる

 大黒岩入口には「とんがり山」への案内はなかったが、案内板の向かいの南西方向へ下る道があり、それが「とんがり山」への道だ。

10:44
  外界が時々チラと見えるぐらいの眺望不良の尾根道は、緩やかな登り、そして下りが続く。そんなどこといって特徴のない尾根道は、注意散漫・足元不如意・意識朦朧・此処何処私誰で歩くことができて大歓迎だ。

しばらく平坦な道が続く

10:47
 急がなくてはいけないのに、前の自分撮りから3分しか経っていないのにまた自分撮り。こんなことで、妻その1との逢瀬に間に合うのだろうか。

 木が邪魔をして私がよく写ってない。しかし、画像の主題は山道の紹介で、私は大きさ比較のために写し込まれる比較対象物にすぎないから、自己主張は最低限度に納めなければならない。

こんな道を行く

10:52
 ようやく「とんがり山」の頂上が見えてきた。国道29号線から見る「とんがり山」は誠に尖がった山だが、ここから見ると、二つのピークを持つ双耳峰だ。

 右側に見える方が北側ピークで、256.7m四等三角点標石(点名:下伊勢)が埋設されているが、一般的にとんがり山の頂上と呼ばれるのは左側の南側ピークで、標高は三角点ピークよりも1mほど高い258mとされている。

 久々に私の写っていない風景写真を撮ってしまったが、なにか物足りないな。

とんがり山の頂上が見えてきた

10:58
 「とんがり山」頂上を尾根の肩とはせず、頂上とならしむためには、このままの平坦な道を歩むわけにはいかない。一旦下り、そして登り返さなければならない。

 まあ、大したことはないが。

とんがり山頂上への最後の登り

11:03
 見ての通りの展望のない三角点峰は素通りする。標高が少し高いし展望のよい南峰に三角点を設けるのが、普通の考えではないかと思う。このピークの方が狭いから、測量目的方向の木々を伐り払うのは簡単だけれど、今は航空測量・GPS測量なので見通しは関係ないな。

三角点標石が埋設されているが
とんがり山の頂上はここではない

11:06
 とんがり山頂上だ。西側の眺めが素晴らしい。

とんがり山頂上、向こうの山は的場山だな

 大黒岩への分岐点にもあったが、ここ「とんがり山」頂上にも雑木で造られたベンチがあるが、製作者は10年後にはゴミになるのが理解できないのだろう。

 10年以上前のことだがコムサロン21なる組織がなぜか「とんがり山」に目を付け、『山頂全体が亀岩だ』という珍説・奇説を繰り広げ、頂上付近の事物に西蛇ー台・ハート岩・東方台などとプレートを付け、展望の邪魔だと木々を伐採し、ふれあいポストを設置したりして危うくパラダイス化するところだったが、世間の冷たい目に負けたのか、今はその痕跡はない一つ残っていない。

よっこいしょとベンチに座ってみたが
ちょっと低すぎるな


神岩に寄り下山する

11:10
 激急とは、とんがり山南側登山道のためにある言葉だと私は信じている。トラロープというよりは、色が薄れて白黒のパンダロープ?になっているが、強度はまだあるかな、という固定ロープが張り巡らされ、周囲の立ち木とともに掴まりながら下りていく。

とんがり山の南側は激急

11:15
 激急な登山路の先に神岩が見える。

 神岩には、なんか稲に関係の神話があったようにな記憶があるが、播磨国風土記十四丘神話の稲が流れる着いた「稲牟礼丘」の比定地は、この間登った青山の「稲岡山」だし、何だったかな。

激急登山路から神岩が間近に見える

11:20
 頂上から10分ほどで神岩に降り立った。天気は良いし、眺めも良いし、お昼も近いし、今日はちゃんとお昼ご飯もザックに入っているし、ここでお昼ご飯を食べたいが、妻その1に合わせて下山しなければならない。

神岩から南を見る

 振り返ってとんがり山を見ると、尖がっている。大部分が緑に覆われているが、その本体は岩山だ。全ての木を伐採し土砂を取り除き、そして岩肌を削り形を整えればマッターホルンになるのではと来る度に思う。

神岩からとんがり山を見る

11:26
 神岩をそのまま下ることも出来るが、単独ピクニカーの私は敢えて西側の巻き道を選択し下っていくと、次のような案内板が木立の中に立っている。

 鶏足寺跡にもあったが姫路青年会議所による解説板で、「そうか、香稲だった」と思い出した。でも香稲ってなんだと調べてみたら紫色した古代米のことのようだ。でも、香米というのもあり、こちらは本当に香りがする米で、別物のよう。

亀岩の伝説?

亀岩の伝説

 この先にある亀岩のくぼみには、年中枯れることなく小水がたまっています。
 祟神天皇の時代(前84年)にその亀岩に香稲(かしね)が4本はえ、その稲の種を天皇の命により諸国に耕作しました。
 以後、諸国に流布した香稲はこの岩に生えていた4本の香稲の種子であったといわれております。

平成20年7月 社団法人姫路青年会議所


11:27
 神岩の下は少し急になるが、その先は私の大好物の緩やかな尾根道だ。

このような美しい山道を歩くために
私は山に登るのだろう

 このまま行くと、尾根の突端にある石倉の稲荷神社まで、途中藪を漕いで行けるというが、私は実行したことがない。

11:35
 東側へ下れと、行く手を塞ぐようにトラロープが張られている。私は素直にその意図に従い、進路を東へ変え尾根から離れる。

トラロープが張られていて、ここで東へ尾根を離れる

11:38
 真っ直ぐな急な下りだ。九十九に道を付けるという優しさが欲しかったし、丸太階段道にもして欲しかった。でも真っ直ぐが一番山肌に傷を付けないし、風化は進んでいるが、この固い地面に丸太階段を設けるのは不可能だ。

尾根から真っ直ぐに下る
とんがり山からの下りほどではないが結構な急さだ

11:45
 尾根から下り始めて10分で麓に着いてしまった。そこには「←峯相山登山口 神岩・トンガリ山・尾根コース」と案内板が立っている。

麓に下り立った

11:48
 「姿は京都の山城、味は姫路の太市」と言われる「太市の筍」の竹林だ。完璧に手入れされた竹林で育つ筍を、一度食べてみたいものだ。

綺麗に手入れされた竹林だ

11:49
 地形図では、峰相山大池から峰相上池へは直線道路しか描かれていないが、実際には西側の山裾沿いにも車道が通っている。

 その車道から峯相山・とんがり山尾根コースへの分岐点には、屋根付きの「ようこそ ようこそ 峯相の里山へ」の案内と、その手前に「火気厳禁峯相山登山口(神岩・大黒岩コース)神戸森林事務署 石倉生産森林組合」の案内板もある。

ここがとんがり山登山口への入り口だ

11:54
 車道を5分も進むと、峰相山大池の北側に「峯相山登山記帳所」のある石倉生産森林組合倉庫だ。明示はされていないが、この倉庫前の空き地もハイカーの駐車スペースとして解放されている。

 ここで妻その1と落ち合うことになっているが、まだ来ていないようだ。

石倉生産森林組合倉庫に到着
ここで妻その1と落ち合う予定だ

 登山記帳所に、引用元も作者も分からないが、次なる文書が掲示されている。それによると、峯相山の頂上近くにあったお堂2基の寄進者が、太陽福祉グループ代表の財団法人「姫路社会事業協会」理事長の門口堅蔵氏だと知ったが、彼の最終目的は鶏足寺の完全再興なのではと期待している。

登山記帳所にあった鶏足寺跡関連文書

 史跡
1. 古刹鶏足寺跡を訪ねて
峰相山鶏足寺
 『播州名所巡覧図絵』(1894)に「峰相山鶏足寺跡は、打越村より下伊勢村へ越えるところの嶺、石倉村に礎(いしずえ)多く残れり」とある。峰相山は、打越・石倉・下伊勢・上伊勢にまたがる(標高2397m)尾根伝いに自然歩道が、書写山から峰相山を経て林田方面へと通じている。
 頂上には、中世の山城跡があって、遠く瀬戸内海が樹木の間から一望でき、また姫路城が見える所もある。これより、尾根伝いに西へ下ると、山頂に五輪塔や経塚があって門口氏により2基のお堂が建てられている。
 南面石倉側には数段の敷地(寺跡)があって、崩れかけた石垣や石段が残っている。
 以前には瓦片や須恵器片、灯明皿のかけらなどを見かけたこともある。
 鶏足寺は、神功元年(201年)新羅の王子の創建といわれ、奈良時代(神護景雲のころ)(767〜769)には金堂・講堂・法華堂・常行堂・五大尊堂・鐘楼・一切経堂・宝蔵一宇・僧坊300余りがあり、別院は太市の観音寺・根本寺などがあったが、やがて鎌倉時代の末期には衰徴したと『峯相記』にある。
僧坊跡
 峰相山の南面、石倉側の西寄りには、僧坊跡と思われる敷地が数ケ所あって、そこには井戸らしき窪みがあり、五輪塔の笠石や瓦片などが出土した。
 近くの斜面や頂上に、扁平な川原石を敷き詰めた墳墓が数基あり、少し下伊勢側に下ると、崖下から湧水が出ている。

 直ぐ後に、妻その1と落ち合うことができ、私の「黒田官兵衛ゆかりの山シリーズ第五弾」は滞りなく終演を迎えたが、次なる第六弾は実現するのだろうか。



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