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福栖の北の山を歩く(たつの市)



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平成26年5月3日(土) メンバー 私だけ

神姫バス福栖バス停〜福栖清水集落〜送電線鉄塔播磨線40〜41〜42〜43〜篠首〜鍋子坂〜JR姫新線千本駅


 前回の「千本駅の北の山を歩く(たつの市)」に続く「送電線播磨線を歩こう」の第二弾は、福栖清水集落奥から篠首までの予定だ。距離的にはさらに進めるだろうが、篠首から東側の送電線巡視路の取り付きが分からないし、テレビコマーシャルでよく聞く『ご利用は計画的に』ではないが、計画外の行動が身の破滅に直結するのは山歩きでも同じだ。特に単独行では絶対に守らなければならない。

今回の山行図(GT730−FL+カシミール)

 ここはどこなのかなと参照しようとすると、なぜか決まってロストしているGPS(GNS1000+iPad)と比べて、値段は三千円ほどなのに、その正確さに驚かせられるGPSロガーGT730-FLだが、ロガー機能しかなく山行中は何の役にも立たない。

 ハンディGPSの日本語版は非常識な値付けで手が出ないし、安い英語版を買ってもうまく地図表示が出来なく、安物買いの銭失いになるのは目に見えているし、どうしよう。まあコンパスと地形図で何とかなっているのでこのまま行こうか。


前回の終了地点、新宮町福栖の清水集落の奥へ

7:46
 JR姫新線の姫路駅発6時56分の播磨新宮駅に乗車し、終点の播磨新宮を7:28分に下車(410円)。そして駅前で待つ新宮駅発7時37分のSPring8行きバスに乗換て、福栖バス停を7時45分に下車(250円)。

 福栖バス停は農業用ため池の福栖池の傍らにあり、すぐ北側の栗栖川に架かる橋を渡り、姫新線の踏切を渡り、新宮町福栖の森本集落の中で進路を西に取り、清水集落へと向かう。

神姫バスの福栖バス停から新宮町福栖の清水集落へと向かう

8:04
 2軒か3軒しかない清水集落と山裾との間の道を北へ進む。

清水集落を通過

8:12
 舗装道路は地道となり、「清水の湯跡」から北東に進路を変える林道を進むと、道端に関西電力の送電線巡視路標識が立っている。播磨線39は、ここから道を外れ往復200mほどの行って来いになり、今回の主題は送電線鉄塔ではなく、送電線巡視路巡りなので遠慮しておく。

ここから100mほど道を外れると播磨線39が立っているが、このまま道を進む


福栖廃寺跡と播磨線40へ

8:16
 道には落ち葉や枝が積もっているが、十分な幅があり車を乗り入れることもできるだろう。多少湿っぽい感じで、時期によればヒルがいてもおかしくない雰囲気だ。

道はさらに奥へと続く

8:19
 ついに車が入れる道は終わり、ほぼ流れのない沢を横切り山道となる。

車で入れるのはここまで

8:23
 かなり崩れているが、明らかに石畳の道跡だ。これから登る播磨線40が立つ尾根には福栖廃寺跡があり、清水集落からの参道なのだろう。

福栖廃寺跡へ登る石畳の参道と思われる

8:28
 石畳の参道(私の思い込みかもしれない)は、さらに谷の奥へと続いているように見えるが、「火の用心→40」の送電線巡視路標識が現れ、谷から右手へ離れる。

送電線巡視路標識に従いこの先で右手へ進路を変える

8:35
 ここは参道ではないな。参道ならもっと緩く付けられているはずだ。でも、参道が急にしろ緩いにしろ、山上のお寺に参るのは大変だし、そもそも造営や補修そのものが困難だ。

 神社なら、神様が降臨しやすそうな山の上に築くのも理解できるが、仏教寺院が山の上はどうなのだろう。そうか山岳仏教の寺院だったんだ。福栖廃寺以外に、近場の山上に福栖大日南廃寺と篠首十石廃寺もあり、修行僧が天狗のごとく寺院を結んで走りまわっていたんだ。

送電線巡視路としては規格外に急な登り

8:39
 送電線巡視路の守護神「プラ階段」が現れた。現れたが、私の登ってきた方とは違う方から登ってきているようにも見える。どこかでコース取りを間違えたようだが、いまさら正しいルートを探すまでもないな。

送電線巡視路に付き物のプラ階段が現れた

8:44
 尾根に登り着き、鞍部の西側が福栖廃寺跡だ。人工的地形なのか定かではないが、平地は十分広くここならお堂を建てることもできただろう。

 ところで、廃寺の名前になっている福栖だが、天和2年(1682)に千本村が千本上村と千本下村に分村し、明治8年(1875)に千本下村が福栖村と改称している。ここにあった寺院がいつごろ廃されたのか知らないが、明治8年以前ならば福栖廃寺という名前は矛盾するので、明治8年以降に廃寺となったと考える。

 がしかし、廃寺の名前のネタ元の兵庫県遺跡地図によれば、現在の地名を機械的に用いているだけで、昔の本当の寺院の名前ではない。また同地図によれば平安時代の廃寺で、そんな千年も前の名前が今に伝わっているはずはない。

尾根の鞍部の福栖廃寺跡といわれる平地

8:48
 スギ植林に面白いものが残されている。鉄製の1本棒の梯子のようなもので、下端は二股になり地面に差し、上は幹に固定されている。調べてみると枝打ち用の足場で、今はアルミ製が主流となり3m×3本=6mのものもある。脚立や梯子とは違い、幹に沿わせ垂直にセットし使うと安全に作業できる。

残されていた枝打ち用はしご

8:50
 福栖廃寺跡のすぐ南側に関西電力送電線鉄塔「播磨線40」が立っている。送電線に支障する木が伐られていて、西側の遠望がある。ただし標高が低いため遠くまで見通すことはできない。

福栖廃寺跡のすぐ南の播磨線40送電線鉄塔


下って登って隣の尾根の播磨線41へ

8:58
 鞍部の西側低地に福栖廃寺跡があり、その東側高地に送電線巡視路標識が立っている。文字は完全に抜け落ち、ただの赤いプラ板と化しているが、唯一残った「白い葉っぱ型」は、ここから下れと言っている。標識板の方向や、「白い葉っぱ型」が標識板の右側に付いているのか左側なのか、水平なのか、右上がりなのか右下がりなのか、などの微妙な違いによりこれから先の巡視路の行方が分かる。

 まあ、そんなことよりも目の前に続く道を見る方が早いが、巡視路らしくない巡視路(これを行けばよいのだろうかと思う巡視路もある)も存在し、そういうところでは巡視路標識が唯一の道標というか、見過ごすとえらい目に合うというか、同じ送電線巡視路という名前でも、天と地ほども差がある。

この表示が消え去った送電線巡視路標識からわかることは
「この先に送電線巡視路が続いているが直進せず右へ行け、
そしてこの先は下りだ」と結構な情報量を持っている

9:00
 下り始めは、斜めに付けられた緩やかな道で、油断してしまった。

下り始めは雑木林の中の明るい緩やかな道だった

9:05
 雑木林の中の明るい緩やかな道は、植林の中の暗い急な道に変わってしまった。そばの木にすがりたくなるような急さで、これが本当に送電線巡視路ならば「プラ階段適応斜度だ」と文句を言いたくなる。

植林の中の暗い急な道に変わってしまった

9:11
 それでも道は明確で、どこが道なのか分かりにくい落ち葉の積もった雑木林のように思い悩むことなく、足元にさえ注意を払えばよいので精神的には楽かもしれない。

明確な急な下り道が続く。

9:14
 急な真っ直ぐ下る道のお陰で、谷底に着くのは早かった。チョロチョロの流れを渡る地点には白テープ二段巻のマーキングが付けられていた。

尾根から標高差120m程下り谷に下り着く

9:19
沢の左岸には道があるが、ここから上流側は不明確な感じ。道から降りてきた巡視路に向けて標識があり、なぜかタイヤが2本と土管が2本放置されている。ここから沢沿いに下れば鍋子集落へのエスケープルートだ。

鍋子集落へ下る道に出た

9:21
 次の東側の尾根へ登る送電線巡視路は、谷の上流側にはないと思い込み下流へ下っていくと、すぐに石積遺構が現れた。こんな山奥の谷に住居を構えることもないし、棚田を開くわけもない。おそらくこの上に祭祀施設があったのではないかと思う。

それなりの規模の石積遺構だ
祭祀施設があったのだろうか

9:25
 石積遺構を通り過ぎようとしたが、上に何かあるのでは登ってみると、地形図の九十九折れの道の登り始めと思われる道があった。送電線巡視路標識はなく、送電線巡視路ではないと判断したが、尾根に登る道には違いないし、登ってみる。

石積遺構に登ると尾根に登る道があった

9:29
 九十九折れの道は明らかに重機により切り開かれた、幅の広い道だった。古い石積み遺構から始まる最近切り開かれた道は、その切り開かれた目的は分からない。

幅広の九十九な道で尾根へ登る

9:32
 自動車では登れないが、装軌か装輪運搬車なら余裕で登れる道が続く。地形図だと途中で途切れているが、このまま尾根まで行けるのだろうか。

送電線鉄塔建築のための道かな?

9:41
 九十九な幅広の道は唐突に終わってしまった。地形図通りに5回目の折り返し地点から先には何もない。途中に尾根へ登る道があったのかと引き返してみたりもしたが、それらしきものは見いだせなかった。

5回目の折り返し地点で唐突に道は終わってしまった

9:50
 谷まで戻って送電線巡視路の登り口を見つけるのも面倒だと、雑木林藪に突入し、地形図にある破線道を目指して等高線沿いに南へ行くと、すぐに境界調査の切り開きが現れた。

 急斜面に真っ直ぐに付けられた切り開きは、足場が崩れやすく登るのが大変。端に寄り木々に掴まりながらも登るのも大変。

雑木藪に入るとすぐに激急な境界調査の切り開きが現れた

9:58
 激急な境界調査の切り開きは15m程登るとさらに急になり、一歩登るたびに二歩分は足元が崩れ、さっぱり登れない。それでも木々に掴まりながら登っていくが、疎らになってきた雑木の中に活路を目指し水平移動していくと尾根に出た。

 黄色やピンクのマーキングがあり、この尾根を登れば送電線鉄塔に至るのは間違いなさそう。

マーキングのある尾根に出た

10:03
 急な尾根だが、踏み跡があり登るのに困難はない。

このまま尾根を登れば送電線鉄塔に行き当たるはず

10:08
 明確な尾根を登って行くとプラ階段が現れた。地形図では、谷型地形の西に沿って破線道があり、それが送電線巡視路と思っていたが、どうやら違うようだ。

プラ階段が現れ、この尾根が送電線巡視路になっている事が分かった

10:19
 数少ない倒木がプラ階段に倒れ込んでいるが、跨ぐのが面倒なだけだ。これが枝葉が付いている新鮮な倒木だと、迂回しなけらばならず面倒だわ、進路を見誤る恐れもあるし厄介だ。

右側を行けばよいのに
律儀に左に乗り越えまた右に乗り越えている

10:23
 尾根が緩くなり、送電線鉄塔播磨線41に着いた。私は南西側からに支尾根を登ってきたが、東南東方向の主尾根に道や踏み跡や切り開きがあったかどうかは気が付かなかった。

 紅白に塗り分けられた大鉄塔というが、この色は紅色というよりは朱色だが、赤色が退色したわけではない。

 航空法施行規則第百三十二条の三(昼間障害標識の種類及び設置基準)に『最上部から黄赤と白の順に交互に帯状に塗色すること』とあり、この場合の黄赤はインターナショナルオレンジとも呼ばれ、東京タワーの塗色にも使われている。

 東京スカイツリーも本来は紅白に塗り分けなければならないが、例外規則があり『高光度航空障害灯又は中光度白色航空障害灯を設置するものを除く』とあり、航空障害灯を設置することによりスカイツリーホワイトと名付けられた青みがかった白色に塗られている。

 では東京タワーも規定の航空障害灯を設ければ、好きな色に塗ることが出来るのではと思うが、東京タワーなりのこだわり、あるいは後からの法改正に対して意固地になっているのかもしれない。それとも羽田空港の進入離陸経路と関係があるのかもしれない。

尾根に立つ播磨線41は紅白に塗られた大鉄塔だ


三角点(福栖大日南廃寺跡)へ寄り道して次の送電線鉄塔42へ

10:33
 送電線鉄塔は尾根に立つのに、その高さが禍して送電線直下の木々と干渉することもなく、木々が切られているのは鉄塔敷だけ。つまり展望はない。少々の休憩ののち440.0m三角点(四等三角点、点名:中村)を目指し送電線鉄塔から離れる。ここから三角点までの標高差は50mもなく緩やかな尾根だろう。

三角点へ寄り道をしよう

10:35
 予想通りの緩やかな尾根だ。どの山に登っても同じだが、ここも下草が全くない。本来なら笹ぐらいが茂っていてもおかしくないのだが、鹿さんたちの仕事は徹底している。

緩やかな尾根を北の三角点目指す
必要性は感じないが所々にマーキングが付けられてる

10:39
 次なる送電線鉄塔への案内が立っている。赤い表示板の下に白線が2本あるものと、ないものの違いが分からない。そして薄れて掠れて読みがたいが、下側の標識には「←43 42→」と書かれた跡がある。跡があるが、43は次の次の篠首中村集落の東の山にあるはずで、読み間違いかな。

 しかし、ここから東を見ても次の送電線鉄塔が立つ支尾根らしきものは見えないな。まあ、三角点へ行って戻ってから考えればよいか。

ここから東の支尾根へ進むと播磨線42だ
でもその肝心の支尾根が見えないな

10:45
 440.0m四等三角点(点名:中村)に到着。三角点廻りは大きく切り開かれていて、ここが福栖大日南(ふくすおおひなた)廃寺跡という。だが、人工的な地形改変を感じ取ることはできなかった。

 そしてこの廃寺の名前も、所在地がたつの市新宮町福栖大日南なので「福栖大日南」廃寺なだけで、本来の寺院のものではない。それから、通ってきた「福栖」廃寺跡の所在地は新宮町福栖福栖なので「福栖福栖」廃寺跡というのが命名規則に沿っていると思う。

440.0m四等三角点(点名:中村)
ここが福栖大日南廃寺跡だという

 さて引き返すかと、やってきた尾根を下っていくと次第に雰囲気が怪しくなってきた。なんか似ているがどこか違うような、そして東側を見るとすぐ近くに尾根があり黄色のマーキングが見える。あの尾根も歩けるのかと、ぼんやりと眺めていたが、はたと気づいた。私が間違った尾根に入っているんだ。もう少し進めば急下りになり、否応にも気づくことになるが、その前に分かったのはすごい進歩だと自画自賛しながら正規ルートに復帰する。

11:02
 絶対に支尾根の入口らしくない関西電力送電線巡視路標識のすぐ南に、マーキングがあり、絶対にここが支尾根の取り付きだと確信できるポイントがある。木々の間に踏み跡もないが行ってみよう。

このマーキングのところが支尾根の取り付きだ

11:04
 少し支尾根を進むと道が現れ、振り返ると送電線巡視路標識がその道の入口に立っている。つまり送電新巡視路は最短距離で支尾根には入らず、少し行き過ぎてから斜め45度に支尾根に取り付くという、高等技術を駆使している。

送電線巡視路標識から直角ではなく、斜め45度方向が支尾根だった

11:07
 尾根の真ん中がえぐれている。この溝が自然要因により発生したものとは思えないので、人工的なものなのだろう。例えば六甲山みたいに、長い年月にわたり毎週末ごとに何百人もが行き来すればこのような溝になる。でも、仮にこの尾根が福栖大日南廃寺跡への参道だったとしても、そんなことはあり得ない。

 かつて山地が人工的に改変されたのは、鉄穴流し(かんなながし)による砂鉄収集があるが、水源もないこの尾根で行われるわけない。残るは林業の搬出作業だろうが、私には分からない。

尾根の真ん中に溝がある

11:10
 溝はさらにえぐれ、深くなってきた。不思議な溝だ。

溝はさらに深くなったが、雨水による浸食が働いているのだろうか

11:14
 送電線鉄塔播磨線43が見えてきた。前方が開けていそうで展望が期待できそうだ。

送電線鉄塔播磨線43だ

 展望はあるが、残念ながら標高が低くなり感動するようなものではなかった。

 ここで昼食にしようかと思ったが、今の時期、このような日当たりのよい開けたところではクマンバチがブンブンと飛んでいて落着けない。スズメバチと違いクマンバチはおとなしく、捕まえるようなことをしなければ刺されないのは知っているが、遠慮しておこう。
もっと高ければ大展望なのだが、ちょっと標高が低いな


送電線鉄塔43へ

11:23
 次の送電線鉄塔へは、この尾根を150m程行くと、尾根が左右に分かれるので、その左側を下ればよいだけで簡単だ。

播磨線43へと尾根を下る

11:26
 植林と雑木林に挟まれた尾根には、往々にして広い歩きやすい切り開きがあるが、この尾根でもそれが成り立つ。

見た目はすっきりしないが、快適な尾根を下る

11:28
 尾根が二方に分かれていて、その左右ともに道が付いている。左は、次の送電線鉄塔を通り必ず麓まで続いている道だが、右も麓まで続いているのだろうか。右の行先を先に調べてみよう。

尾根の突端で道は左右に分かれている
左は送電線鉄塔絵の道、右はどこへ行くのだろう?

11:31
 右手の小道を行くとすぐに、テレビ共同聴視設備があった。BS受信アンテナと篠首へ向けて再放送アンテナがあり、難視聴対策BS放送をUHFに変えて再放送しているのかな。1軒ごとにBS受信設備を設けるよりは安上がりかもしれないが、来年3月末で難視聴対策BS再放送は終了するがその後はどうするのだろうか。

 なお、小道はここまでで、麓までは続いてはいなかった。

右手の小道の先はテレビ共同受信設備でお終い

11:37
 尾根の突端まで戻り、今度は左手の送電線巡視路へ入る。巡視路らしい広い道だ。

尾根の突端から左の送電線巡視路に入る

11:40
 急な尾根道だが、一歩一歩に真心を込めて慎重に下れば何も起きないが、「まだお昼ご飯を食べてないな、次はどこを歩こう」などなどと考え事を始めると、いきなり落ち葉に足を取られウヮ!!となる。

今日最後の送電線鉄塔の立つ尾根は結構な急さだ

11:45
 尾根が緩やかになり、本日最後の送電線鉄塔播磨線43が見えていきた。なんか送電線の位置が低いな。

尾根が緩やかになり播磨線43が見えてきた

 思いのほか鉄塔敷は急斜面で、その上にがれていて鉄塔銘板を見ようとB脚へ下るのも、さらに尾根を下るのにC脚へ移動するのも大変。一旦滑り始めたら止まりそうもない。

鉄塔銘板のあるB脚から鉄塔敷出口のC脚の間は
がれた急斜面で少々怖かった


棚田跡へ下山、そしてコヤスノキの自生する天王山へ

11:56
 道は、麓を目掛けまっしぐらに尾根を下っていく。でも私は一歩一歩をさらに慎重に下る。まだ昼前だが、ここを下り切ったら本日の山歩きを切り上げる積もりだ。すでに歩き始めてから4時間以上がたち、まだまだ疲れていないと自分では思っているが、単独行での何気なく踏み出した一歩が命取りとなる。

山を下る最後の一歩まで
細心の注意を払わなければ単独行などできない

12:00
そのまま尾根を下って行くのかと思えば、尾根の西側斜面を斜めに緩やかに下っていく。

尾根をそのまま下ると障害物でもあるのか
尾根の西側斜面を斜めに緩やかに下る

12:05
 道路端に丸い反射板の付いたのが立っているが、その名前はデリネーターともデリニエータともいい、車両運転者に対して特に夜間に路端や道路線形を示すものだ。そのデリニエータが道の両側の立木に括り付けられている。

 この山が夜間登山のメッカなら理解できるが、そんなわけもないだろう。いや送電線鉄塔から東側が見えるので、初日の出を山の上から見る風習があるのかもしれないな。こんなマーキングは初めてだ。

デリニエータが立木に括り付けられている
この山道を車が疾走するのだろうか

12:15
 「火の用心」送電線巡視路標識の先で細い流れを渡ると、そこは石垣が組まれた棚田跡だ。5段ぐらいだっただろうか、今は草が生い茂る棚田跡を下りていく。

細い流れを渡ると棚田跡に入る

12:20
 棚田跡の中を適当に下ると作業小屋があったが、見通しが利かず、踏み跡もなくどこから外に出られるのだろう。

今は使われていない作業小屋があった

12:21
 結局、棚田跡に入るときに渡った流れの横に道があり、これで外に出られそうだ。

流れの脇に道があった

12:24
 獣除けの柵を開閉し、下界に復帰する。

山と人里の結界、獣除け柵を通る

12:27
 これも色が抜けかけているが、この先に送電線巡視路があることを教えてくれる。

篠首川に架かる小橋を渡る手前に「火の用心」送電線巡視路標識が立っている

 次なる送電線播磨線巡りのために、篠首から東へ続くはずの送電線巡視路の入口を探して中村集落近くまで北上したが見つからず、送電線と山裾が交差するすぐ南側にそれを見つけた。


天王山のコヤスノキ、牛頭天王社(丸山神社)

12:53
 三方から山に取り囲まれた篠首集落の中に、天王山と呼ばれる小さな山があり、山上に神社がある。ここを訪れたのは神社が目的ではなく、鎮守の森に自生しているというコヤスノキを見るためだ。

天王山と周辺の自然

天王山と周辺の自然

 天王山は郷土の生んだ博物学者大上宇市が珍木コヤスノキ(国内では岡山県東部と兵庫県南西部のみに分布)を発見した所で、山頂部にはツブラジイ(コジイ)の大木が沢山あり、市内では最も良いシイ林です。大上氏の顕彰碑とコヤスノキは山麓にあります。森や周辺ではホオジロ・コゲラ・エナガ・シジュウカラ・アオバヅクなど四季折々の鳥や昆虫も観察できます。

平成25年11月 たつの市教育委員会

13:00
 コヤスノキは、新宮町が誇る在野の博物学者「大上宇市(おおうえういち)慶応元年〜昭和16年(1865〜1941)」が明治33年(1900)に、この地で発見した樹木で、標本を受け取った牧野富太郎により新種として発表されている。そして兵庫県南西部と岡山県南東部にのみに分布している木だ。

 昭和9年(1934)にコヤスノキの生える社叢として、県指定の天然記念物になるはずだった。だが、調査時に成木は薪として伐られていて幼木しか残っていなかったため、残念がら県指定天然記念物からもれてしまい、今はたつの市指定天然記念物となっている。

天王山に自生するコヤスノキを見る

明治の博物学者 大上宇市

 大上宇市氏は慶応元年5月17日篠首のこの地に生誕する。
 明治7年篠首小学校に入学するが明治10年退学し、以後独学で漢文・英語・ラテン語を修めこの隔地に居ながら東京帝国大学・京都帝国大学の教授や中央学会の学者と交流を持ち明治中期日本の科学の黎明期に大きな功績を印す。
 例えば動物学では、哺乳類・爬虫類・両生類・魚類・昆虫学等に及び、特に貝類については、和名にオオカミを付したもの学名にハリマ・カシマを付けた氏の新発見にかかるもの20余種の多きにのぼる。
 菌類の新種の発見10余種、タキミシダ等に見られる分布学上の貴重な発見も多く、全国の研究家と標本の交換や同定(鑑定)の依頼も受ける。他に天文、地学、郷土史等の研究も手がける。学歴も師もなく、弟子もなく膨大な著作も刊行されることなく、明治の偉大な学者はこの地に眠る。


新宮町小中学校教職員が
昭和29年に建てた大上宇市顕彰碑

13:08
 コヤスノキを見たので後は帰るだけだが、折角ここまでやってきたんだ天王牛頭社(丸山神社)へ登ってみよう。「なんか凄い石段だな。何段あるのかな?」

天王牛頭社へ登る石段

13:15
 数えながら登ったら二百三十八段もあった。山登りよりもしんどかった。

山上の山王牛頭社


鍋子坂を越え、JR姫新線千本駅へ

13:45
 お昼ご飯をお堂の軒下で食べ終え、西側から登ってくる車道で下山する。今日は妻その1の迎えが期待できず、自力で公共交通機関を使い帰宅しなければならない。

 神姫バスならば東側の揖保川沿いの香島橋バス停か、南側の今朝降りた栗栖川沿いの福栖バス停だが、どちらへ行っても1時間から2時間はバスを待たなければならない。また、たつの市コミュニティバスならば篠首内にバス停があるが、本日の最終便が出た後だ。

 次はJR姫新線だが、最寄の千本駅は運転間隔が2時間、ちょっと遠いが播磨新宮駅なら30分間隔なので、最終的には播磨新宮まで歩くことになるだろうか。

 篠首から南の福栖へ抜ける鍋子坂は、急で道幅が狭く普通車でも離合が難しいが、歩いて登る分には緩やかな坂道だ。

13:56
 鍋子坂の峠の地蔵は文政4年(1821)のもので、200年近く峠を行き交う村人の安全を見守り、悪疫が峠を越えて入り込まないよう目を光らせてきた。

鍋子坂のお地蔵さんは文政4年(1821)生まれだ

14:12
 鍋子坂を下り谷間の鍋子集落に入ると、木造平屋建古民家風のお堂がある。室内に三体の石仏が祀られているという「どうでんさん」だ。山上の廃寺跡は平安時代のもので、ここの石仏は鎌倉時代だという。そしてここに石仏が移されたのが幕末から明治時代の初め頃という。

 お堂近くの谷川を北に500mも遡ると、地形図で九十九折れの実線道の起点に石積遺構があり、そこに山上の廃寺跡から降ろされ祀られていたのかもしれない。

鍋子集落のどうでんさん

どうでん(堂前)さん

 このお堂の中には、どうでんさんと呼ばれる石仏が3体(阿弥陀三尊像)まつられている。主尊の阿弥陀如来(像高77.8p)は定印を結び、大きめの白毫と肉髻珠をつけ、底部には深さ約18pの内刳りをもつ。右側の勢至菩薩坐像(現像高52.2p)は合掌印をむすび、左側の観音菩薩坐像(現像高53.5p)は宝髻を三角帽子状につくり、左手に蓮華をもつ。三尊とも流紋岩製で、鎌倉時代中期前半の造顕と思われ、当地方では最古の石仏である。
 当石仏は鍋子村北方山上の寺院の本堂前にあった(堂前さんの名の由来)。当寺が廃寺となり、残された当石仏がいつの頃からか中腹の堂床に移され小堂に祀られた。しかし、その小堂が焼失してからは村の若者が力比べで当石仏を抱え上げたりしていた。その後、幕末〜明治前期頃に鍋子村の女力士(鈴木氏の先祖)が現在地に背負って降りたという伝承が残っている。

平成9年3月 新宮町観光協会・新宮町教育委員会

 国道192号線に出る前に、千本駅と播磨新宮駅の時刻表とその距離を勘案してみると、千本駅を14時58分に出る播磨新宮行きに間に合いそう。これで国道を歩く距離が三分の一になる。

14:42
 国道を避けて田畑の中の旧道を行くと、目論見通りに列車が出る16分も前に千本駅に到着。

JR姫新線千本駅に到着

 次回の送電線播磨線を辿る山歩きは、篠首集落から一気に揖保川沿いの平見まで抜けようと計画しているが、篠首へ行く交通手段が一番の問題で、逆に平見から歩き始めようかとも考えているがどうなることになるやら。



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