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庄山城跡(姫路)に石垣を求めて・完結編



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平成21年3月21日(土)  メンバー おひとりさま

豊国バス停〜城山東峰〜城山三角点峰(193.9m)〜庄バス停



庄山城の石垣遺構

姫路市の東部、山陽自動車道と播但連絡道が交差する南東側に193.9m四等三角点標石(点名:豊國)が埋設された山がある。山上には中世山城の遺構が残り、東麓の城山中学校の入口には次のような解説板が立っている。

庄山城跡

姫路市を代表する中世山城の遺構で、14世紀に赤松貞範によってはじめて築城されたという。
城跡は谷外小学校の北の城山(標高194m)の山頂から山腹一帯にかけて構築されている。縄張りは、東西500mにわたって連続する稜線上に置かれた主郭部を中心に左右両翼に張り出した尾根と南にのびる支脈を利用して諸郭を配している。山頂から山腹にかけて石垣、土塁、堀切2本、井戸2基、城戸跡などが残っている。

平成8年10月  姫路市教育委員会


飾東郡庄古城図

私はこれまで、庄山城跡があることから安易に庄山と呼んできたが、

『庄山城』は『庄』にある『山城』を意味するもので、けして『庄山』にある『城』ではないのは誰にでも分かることで、これからは地元の方々の呼ぶとおりに、山の名は『城山』と、山城の名は『庄山城』と呼ぶことにする。

山行概念図(2万5千分の1地形図:姫路北部)

私はこれまでに、庄山城跡のある城山には2回登っている。

1回目 平成16年1月18日(日) 姫路市東部、石積山と庄山
2回目 平成16年9月25日(土) 庄山城跡(姫路)に石垣を求めて

5年ぶりとなる今回の山行目的は、前回に捜し出すことができなかった石垣遺構を見つけることにあり、見つけ出すまでは下山をしない不退転の決意で臨む。なおこの石垣遺構の存在は、山城愛好家の間ではよく知られていることであり、単なるハイカーの私にとって遺構の存在などあまり興味はないのだが、彼らに見つけられたものが私になぜできなかったのか、ほとんど自己満足の意地の世界だ。


いつものラッキー工芸から登る

庄山城跡のある城山の南麓を国道372号線が通っているが、バス路線は北側の旧国道側になる。姫路駅前からの神姫バスは清住、姫路セントラルパーク、小原、社、社(法華山一乗寺経由)行きの5系統あり、1時間に3本ほど運行されている。

9:26
法華山一乗寺経由社行きの神姫バスは、途中の道路工事のため少し遅れたが、谷外小学校南の豊国バス停に到着し、私一人を降ろし走り去っていく。

豊国バス停から走り去る神姫バス

9:31
城山城跡のある城山に登る前の準備運動がてら、谷外小学校から西へ100mほど行った三叉路に立つ、姫路市最古の道標へ表敬訪問する。

写真では分からないが、300年以上も前に彫られたとは思えないほどくっきりとした文字で、容易に読み取ることができる。その当時は、この右側の細い道が西国三十三番箇所26番札所法華山一乗寺と27番札所書写山円教寺をつなぐ巡礼道として、大勢の人々が行き交っていたに違いない。

姫路市最古の道標(右側)

豊国の道標

姫路市指定文化財

延宝5年(1677年)に造立されたこの道標は(右側)は市内に現存する道標としては最古のもので、市の文化財に指定されている。
西国霊場の巡礼を無事になしとげた人がそれを記念して、巡礼道(丹波道)沿いのこの地に建てたもの。


  (梵字) これより右ハしょしゃみち 延宝5年

  (梵字) 奉納西国卅三所巡礼成就攸 9月18日  

左側の道標は文久3年(1863年)の造立

姫路市教育委員会

庄山城跡のある城山は、かつては山城愛好家の間で話題に上るぐらいで、私がこの山に登ったのも彼らからのメールがきっかけだった。それが今なぜか、一部のハイカーの間で注目を集めるようになり、何本もの登山ルートが見出されている。

私は、最初は三角点標石のある西峰へ突き上げる尾根を登り、谷外小学校の児童たちと先生が造ったケルンのある東峰から南のラッキー工芸の前へ下りた。2回目はラッキー工芸から東峰に登り、小学校の北東へ下る谷(庄山城の大手道だがとんでもなく荒廃している)を下山した。その中で唯一道らしさがあったのはラッキー工芸ルートのみだった。

同じ山に登るなら、新たなルートを探し出すのを常としている私だが、ラッキーと言う言葉になぜか惹かれてしまい今回もラッキー工芸ルートで登ることにした。

9:44
谷外小学校前の細い道を引き返し、さらに東へ進みバス通りに出て横断歩道を渡ると「看板 店舗内装 ラッキー工芸株式会社」に入ってしまう。

庄山城跡のある城山への登山口は横断歩道を渡る前の、バス通りに出る直前の路肩ブロックに鉄板を斜めに渡したところだ。そこには「城山ラッキー登山口」なんていう案内はない。

城山ラッキー登山口(仮称)

9:47
右下にバス通りを見ながら進むと、左へ直角に道が分かれている。ここにも何も案内はないが、最初の左へ入る道なので間違いようがない。

ここを左へ曲がると山道が始まる

9:49
背丈ほどのササが茂る中を、細いが明確な道が続いている。さすがに播州の明神山や雪彦山のように大勢のハイカーが登る山ではないので、普通のハイキング道しか歩いたことのない人にとっては、このまま進んでも大丈夫かなと思わすような道ではある。

ササの間の道を進む

9:53
下の写真では、草薮の中を登っているように見えないこともないが、私は明確な道を辿っている。ただし3月でもこの有様なので、夏から秋にかけてはさらに草が生い茂り、冬から春までの期間限定ルートだ。

結構眺めはよかったりする

9:55
このルートが完全に閉じてしまわずに、通行可能な状態になっているのは地元の方か好事家か、誰かが最低限の手入れをしているように見える。普通なら赤ビニールテープのマーキングなのに、ここは木の枝に優しい??包帯が結ばれマーキングとなっている。最初はまさか包帯とは思わなかったが、包帯入れも枝に刺してあったので間違いない。

天然素材の綿から作った包帯は人には優しいが、木にも優しいかはどうかは私には分からない。でも、結んだ人の優しさは感じられるが、これも山に残してはいけないゴミだ。

枝に優しい包帯マーキング??

9:57
今も道を覆い隠そうとしているコシダは、夏なるとにオオシダに変わるわけはないが、倍から3倍の背丈になってしまう。その代わり、秋になっても蜘蛛が巣を張れる余地がないので、その点では歩きやすいかな。

日当たりのよい中・急斜面はシダが繁茂し、平・緩斜面はササに覆い尽くされ、まあ緑溢れる豊かな自然と直に触れ合える素晴らしい登山道だと思えば、思えないこともない。

コシダだろうな

前に来たときは笹原の中に山中生活者の生活痕があったが、今は小さな空き地があるだけだ。

10:01
こんなシダやササの茂る道を藪道だと言う人がいるが、今の時期は本当の藪ではないと私は思う。もうすぐササの緑色の葉が茂り道を塞ぎ隠し、そのときは本当に藪と呼べるものとなり、緑の海を泳ぐ、いや溺れるように進むのがまた楽しい。

快適なササの間の道を行く

10:04
ササ、シダ、ササときて今度はまたシダだ。ここの足元は狭く深くえぐれていて、登るのはどうにかなるが、下るときに油断していると1歩で1m近く落ち込むかもしれない。ここだけは細心の注意を要する。

このシダを越えれば楽しい岩場登りだ

10:11
いよいよ庄山城跡のある城山のラッキールートは、森林限界を超えて岩稜帯に突入した。ちょっと大げさだが、地味の乏しい岩山を薄く表土が覆った山なので、尾根が狭くなると岩場が露出しちょっとした岩登りが楽しめる。

藪も楽しめ岩登りも楽しめる一粒で2度美味しいアーモンドグリコのような山だ。

岩稜帯に突入

10:15
両手両足を総動員することもなく、包帯マーキングの助けを借りることもなく、明白な道を辿るだけだが、一気に広がった眺望を楽しみながら登るのは楽しい。やはり山登りには眺望があった方が面白い。

岩場の中の九十九な道を登る

10:19
麓には谷外小学校、播但連絡道の向うには播州平野に浮かぶ山々が見え、そして遠くに家島の陰も見える。

眺めのよさでは桶居山、
高御位山にも負けない

10:26
ルート脇に見晴らしのよい尖がった岩がある。久しぶりにシェーをしようと岩に登ったが、座るのがせいぜいで立つことなどできない。一応岩の左右には狭いが土場があるので、真っ逆さまに麓まで転げ落ちるわけではないが、立つだけの根性が私にはなかった。

展望岩から西側尾根の、将棋の駒を立てたように見える岩場の様子が面白く、ボーッと5分ほど眺めてしまった。

西側の尾根も面白そう

10:34
道草でお腹が一杯になり城山東峰に到着。庄山城跡のある城山の中で一番の展望地で、南には仁寿山、小富士山、八重鉾山、南山、浦山、桶居山、高御位山、高山などなどたくさんの山が見える。

東峰から南を見る

山陽自動車道の北側は採石場で、山が切り崩されている。コンクリート原料の骨材は近代都市建設のためには必要欠くべからざるもので、そして大量に消費されるものだから、山を削るのも仕方がないことだと思うが、少し寂しい風景だ。

私の横のケルンは1983年3月(昭和58年)に谷外小学校6年3組の児童たちと担任の先生が思い出のために造ったものだ。

北側の山は採石場


執念の石垣遺構探し

その前に、蕾が膨らみ三分咲ほどになったコバノミツバツツジを、石垣遺構探しの前哨戦にと藪を掻き分けて写真に撮ってみた。

おしべが10本あるのでコバノミツバツツジに間違いないと思う。スミレ類の紛らわしさと対照的に、コバノミツバツツジ、ヤマツツジ、モチツツジ、ヒカゲツツジ、アカヤシオ、シロバナウンゼンツツジ、ミヤコツツジと私にも一目で同定できて、春の訪れを感じさせるツツジは大好きだ。でもヒカゲツツジだけは好きになれない。

コバノミツバツツジ

10:42
いよいよ石垣遺構を探しに東峰から北へ、丸太階段の痕跡が残る道を下る。

採石場を見ながら北へ進む

11:04
石垣遺構の大体の所在地は知っていたが、青紐、赤ペイント、タフロープなどのマーキングに惑わされあらぬ方向の藪の中をさ迷うこと20分、もっと時間がかかるかと思っていたが、意外とあっさりと石垣遺構を見つけ出すことができた。でも、これで明るいうちに家に帰れるが、最低2時間は探す覚悟で登ってきていただけに、少し拍子抜けしてしまった。

場所は190mほどの山城跡に特有な平坦なピーク(主郭)の南側に4mほどの段差があり、段差の下は幅5mほどの犬走り(帯郭)が延びている。その犬走りと主郭の間の段差に石垣遺構が残っていた。

ここへ誘導するマーキングは全くないが、東峰と北190mピーク間の最低鞍部を過ぎて少し登り、西側の薄めの雑木藪に入り、犬走りを見つけ出したのは50mほども入り込んだところだ。

右上に石垣遺構が写っている

何度も何度も石垣遺構、石垣遺構と書いてきた理由だが、約15個の一抱えほどの石が乱雑に積み重ねられた高さ1.5m・幅3mほどの石垣遺構があるだけで、大きな声で石垣とは言いづらい。でも、ここに500年ほど昔は山城があったのは事実で、石垣の跡に間違いないと思うが、この石垣遺構を探し求めて登ったら少しがっかりするかもしれない。

庄山城跡の小規模な石垣遺構


西峰への縦走

11:31
偶然に見つけ出した石垣遺構がどの辺に存在するのか、そして一番簡単な行き方を求めるのに、探し出すよりも時間がかかり、結局石垣遺構に1時間を費やした後、西峰への縦走を始めた。

峰々をつなぐ稜線は、相変わらずの藪っぽい道だが明確な切開きが存在し、今の時期は通り抜けるのに何も問題はない。それに、つい最近道に張り出した小枝を剪定ハサミでチョキンチョッキンと切ってくれた篤志家のおかげか、快適ともいえるほどの道だ。

今は見通しもよいし、けして藪ではない

11:32
所々に赤く塗られた境界杭が打たれていて、切開きは地籍調査のために開かれたのかもしれない。これまでに1回だけ地籍調査の現場に出くわしたが、人が絶対に通り抜けられない藪を、3人ほどで綺麗に切開いているのを見たことがある。

ここにも包帯マーキングがあった

11:35
庄山城跡のある城山は、東側半分の稜線が不自然にまっ平らで、こういうのを山城業界では削平地と呼び珍重するように聞くが、わがハイキング業界にとっては山らしさのない変化のない詰まらないところにすぎない。

でも、一度山上の草木を全て伐り刈り取りとったら、かつての山城の全容が明白となり、石垣こそないが和田山の竹田城のような秀麗な山城跡が出現するかもしれない。

削平地の中を行く快適な道

11:38
道なき道と比べたら、この道はまるで大名道のようなものだ。木々の隙間に身をこじ入れ、背丈を越すシダの下を埃まみれになりながら泳ぎ、激下りでサルトリイバラにがんじがらめに絡めとられ、笹竹の中に身を投じるなどの経験を積み、本当の藪がどのようなものかを理解すれば、この道が藪道でないのは明らかだ。

そう思うのは私の勘違いで、普通のハイカーの皆様はこういうのを藪道と呼ぶのかも知れないが、たとえ藪道であったとしても歩くのが楽しい道であるのは間違いない。

トンネルみたいな道だな

11:40
両側に雑木の茂る削平地の中を行く道は、展望はない。この地において1530年、小寺政隆が立て籠もる庄山城を浦上村宗が攻撃し、小寺政隆は善戦虚しく落命し一族・家臣数百人が討ち死にしたと言う。姫路城が不戦の城と呼ばれるのと対照的な、血染めの歴史を持つ城だ。

山城跡らしさ溢れる道だ

11:45
削平地が終わり本来の自然の地形と思われる下りになり、四等三角点標石のある西峰が見えてきた。

いつの間にか中央のピークは過ぎてしまった。中央ピークから南側の尾根にも連郭式の郭跡があるはずで、探索しよとしたら猛烈な本当の藪を体験・満喫できるに違いない。そして運がよかったら山城愛好家をもうならせるような、世紀の大発見が待っているかもしれない。でも、私は遠慮しておく。

西峰への下り

11:46
こんなにも東と西の風景が違う山も珍しい。東側の人工地形の詰まらない道を抜けると、一気に展望が広がり気持ちも晴れやかに爽快になってきた。どうも私には山城跡は向いていないようだ。

三角点標石のある西峰だ

11:50
やはり山歩きは、歩くこと自体が楽しくなくてはいけない。周囲の風景を眺めながら、道端の草木を愛でながら行くのが野歩記だ。

今日の登りはあのピークまでだ

11:52
三角点ピーク手前の登りはシダの中のしっかりした踏み跡道だ。

もうすぐ西峰かな

11:55
193.9m四等三角点標石(点名:豊國)のある西峰に着いた。ここは出丸があったくらいだから展望はよくなくてはならないのだが、周囲の木々のため叶わない。

そろそろお昼近くになり、ここで食べてもよいかなとは思うが、もっと展望のよいところへと、道なりに南西へと下る。

1回目はこの西峰へ南からの直登尾根を登ってきた記憶があり、ピーク近くになると切開きがなくなり木々の間を適当に登ったはずだ。

展望不良な三角点標石のある西峰


庄大歳神社へ下山

11:58
まだまだ広い尾根には、一応道は続いている。そして視界は木々に塞がれている。

これ以上はないぐらい地味なヒサカキの雄花が咲いている。それでも雌花よりは何倍かは派手だが、春になりこの花が咲いているのを見つけても少しも、嬉しくなれないのはなぜなのだろうか。

ヒサカキの雄花

12:03
アカマツの生える狭い尾根になり、雰囲気も展望はよくなってきたが、お昼ごはんの適所がない。このまま神社まで下ってしまうのか。せっかく山歩きらしくなってきたのに、お腹が減ってきて頭の中はお昼ごはんが渦を巻き、山歩きを楽しむことができない。

庄大歳神社へ下る尾根

12:06
ここもよさそうだが、あの先もっとよさそ。でも展望はどうかな。

考えるのお昼ご飯のことばかり

12:09
庄山城跡のある城山の肩というよりは肘くらいまで下ってしまった。南東に下る尾根にもルートがあるように見えるが(概念図の黄緑点線)、尾根から右に急降下し庄大歳神社へと下る明確な道が分かれた先の、展望ぼちぼち・日当たり良好・風はそよそよの狭い平地で昼食を食べる。

ここがよさそうだな

今日のお昼ご飯はファミリーマートの「人気のおかずと俵おむすびの組合せ もりもり俵弁当 455円(税込)」だ。五つも入っているおむすびが小食の私には多すぎるし、おかずも多すぎるし、次からはこの半分のにしよう。

ファミリーマートの「もりもり俵弁当」

年齢を重ねると月日の経つのが早く感じるというが、なんか時間の経つのも早くなり、眺望を楽しみながらお昼ごはんを食べただけで1時間があっという間に過ぎ去ってしまった。

13:06
ここからは、尾根をそのまま下りずに、庄大歳神社へ降下する道を下りることにして、重い腰を上げる。尾根から南西へ外れる道は、明らかに人の手が入ったもので、これが庄大歳神社まで延びていればよいのだが。

尾根から庄大歳神社へ下る道

13:08
一応、木々の間に隙間があるので道なのだろうが、ステップが切ってあるわけでもなく、一歩一歩を慎重に下る。

まだまだしっかりした道だ

13:13
丁寧に道を辿って下ってきたはずだが、どこかで逸れてしまったのだろうか。木々の間に空間があるので道なのかもしれないが、かなり怪しくなってきた。そしてかなりの急傾斜地に突入してしまったので、一歩一歩をさらに精神を集中し慎重の上にも慎重に下る。

道は藪に戻ろうとしているのか

13:20
完璧に道を見失ってしまい、もう木々の弱点を突いて下るしかない。本当なら、登り返して正しいルートを見つけるのが正しいのだろうが、木々の間隔は十分に広くこのまま適当に下ってもどこかに下山できそうだ。

最後になって俄然楽しくなってきた

13:24
ひょっこりと道に飛び出した。道といっても地籍調査のために最近切開いた感じで、幅は広いのに全く踏まれていない。おまけに写真奥のマーキングから先は行き止まりで、その先は藪があるだけだ。

道?に復帰

13:28
地籍調査の切開きは短く、すぐに石仏が祀られた空き地に出た。私の右側は弘法大師で、周囲のは観音様。ここを一巡すれば西国三十三箇所・四国八十八箇所そして秩父三十四箇所観音霊場を遍路したと同じご利益があるという、欲張りなものだ。

観音霊場巡りの石仏広場

13:38
今日2度目の、首筋に入ったゴミ取りをして石仏が並ぶ参道を下る。でも、こういうのはお寺の付属施設のはずで、庄大歳神社というよりはその東隣のお寺に下りるのかな。

今に前に倒れそう

石仏が並ぶ道を下る

13:46
下り立ったのは庄大歳神社で、その東隣には曹洞宗祥瑞山医王寺が敷地を接して並んでいる。庄大歳神社の拝殿には絵馬がたくさん掲げられ、古いものは合戦物が多く、新しいのは干支の動物達が描かれたほのぼのとしたシリーズものだ。

半分は干支の動物

残る半分は合戦もの

庄大歳神社

播但自動車道沿いに南へバス通りを目指し、バス通りに出てからは西に進み庄バス停に着いた。でも、東の豊国西口バス停のほうがずっと近かったことに気付いたのはこの記録を綴っているときだった。



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