山行記録にもどるホームにもどる



銀の馬車道を歩く 第二章 神河町編



スポンサード リンク




平成22年4月24日(土)  メンバー おひとりさま

朝来市生野町〜神河町内の銀の馬車道〜市川町

第一章 朝来市生野町編に戻る。

第三章 市川町編へ進む。

第四章 福崎町編へ進む。

第五章 姫路市北部編へ進む。

第六章 姫路市南部編へ進む。


銀の馬車道

生野鉱山(朝来市生野町)と姫路の飾磨津(港)間を結ぶ、全長49kmの日本初の高速産業道路が明治9年に開通している。その名を「生野鉱山道」あるいは「生野鉱山寮馬車道」という。明治28年の播但鉄道(今のJR播但線)の開通により馬車道として役目は終焉を迎えたが、その道跡の大部分は国道や県道になり、一部は舗装道路となってもかつての馬車道の名残を色濃く残している。

この道の愛称を「銀の馬車道」と名付け、播磨地域の南北交流のシンボルにしようという地域づくりの取り組みが、兵庫県中播磨県民局を中心として行われている。私はこの49kmの道のりを自分の足で歩き、「銀の馬車道」ファンを一人でも増やせたらと、ここに全線を歩いた記録を公開する。

「銀の馬車道−公式サイト」銀の馬車道−日本初の高速産業道路−の行政区分ごとのルート図。

1 朝来市生野町地域 2 神河町地域 3 市川町地域

4 福崎町地域 5 姫路北部地域 6 姫路南部地域


「ヨーデルの森」は裏口から

10:03
生野峠から南へ国道312号線をほんの少しだけ下ると、朝来市生野町から神河町に入り、神崎農村公園「ヨーデルの森」の裏口へ続く道が分かれている。でも、すぐ先でゲートが閉まっている。

ルートマップ(2 神河町地域>)によると「銀の馬車道」は「ヨーデルの森」の西端を進むように見え、もしかすると有料区域に入ってしまうのでは。ゲートは当然カギが掛けられているものと国道を進もうとしたが、駄目元でゲートへまで行ってみると、『ガチャ、開いちゃたよ』。

なにも表示はないし、すぐ下で作業している人もいて、ここからの入場がだめなら声を掛けてもらえると判断し入っていくが、何事もない。「そうかヨーデルの森は入場無料になったんだ。それともただのは鹿除けゲートだったんだ。まあいいか。」

「ヨーデルの森」裏口ゲートを開けて入る

ゴールデンウィークの狭間の平日なので入場者は疎らなヨーデルの森。そして、ここは「アルパカ牧場」だ。南アメリカ大陸原産のラクダ家の家畜で、ヨーデルの森のメインキャラクター。後姿の黒いのはアイちゃん、茶色いのがたいよう君、顔が見えない白いのはシュガーちゃん、そして灰色と白の混ざったのがでユウキ君かな。皆さま御年1歳半。去年なら可愛らしかったようだが、今はもうほとんど大人。

アルパカ牧場

園内を流れる追上川の岸辺は、羊たちのレストラン。彼らを放しておけば草刈の手間が要らない。ルートマップによると、羊たちの上の道が「銀の馬車道」のようだ。

「銀の馬車道」は川岸上の道のようだ

10:23
園内観光を20分で終え、正面ゲートより出園。過去に冬季は入園料が無料になった時期があったが、今は冬季割引(12月から2月、50%引き)のみで無料はなくなったよう。そして今日の大人料金は800円だったが、入園料金のみの設定しかないので、………。

神崎農村公園ヨーデルの森 正門から出園

入園料金
おとな(中学生以上)800円
こども(4歳以上)400円
シルバー(65歳以上)600円
      ※年齢確認できる証明書等をお示しください。
 
障がい者手帳をお持ちの方
※障がい者手帳をお示しください。
下記の料金に割引させていただきます。
おとな(中学生以上)400円
こども(4歳以上)200円
 
団体(15名様以上)
おとな(中学生以上)600円
こども(4歳以上)300円

10:28
乗用車800台、大型バス15台収容可能な無料駐車場と正面ゲートの間の道を、国道と反対方向に進み播但連絡道路沿いの道に入る。裏口から園内西端の道を進めば、この奥のゲートに至り、念のためにゲートの施錠状況をチェックしたところ、開いていた。

ヨーデルの森からは播但連絡道路脇の道を進む


アナザーストーリー(ヨーデルの森に入らない場合)

私の「銀の馬車道を歩く」は、第一次から第六次までの延六日間に及ぶ踏査の成果をまとめたもので、この節は最後の第六次踏査によって見出したものだ。

第一次踏査平成22年4月24日JR播但線 生野駅〜鶴居駅徒歩
第ニ次踏査平成22年4月30日JR播但線 鶴居駅〜姫路駅徒歩
第三次踏査平成22年5月 2日JR山陽本線 姫路駅〜飾磨津(港)サイクリング
第四次踏査平成22年5月 4日姫路〜生野 往復ドライブ
第五次踏査平成22年5月 8日JR播但線 福崎駅〜寺前駅輪行サイクリング
第六次踏査平成22年5月15日JR播但線 生野駅〜鶴居駅徒歩

ヨーデルの森裏口から入らずに、そのまま国道312号線を行くと歩道が無くなってしまう。この消えたり現われたりする国道の歩道設置要件だが、通学路に指定されている部分は必ず設けなければならないように感じた。でも行政界の生野峠に歩道があるのに、ヨーデルの森脇にはないなど、訳が分からない。すぐ横を大型トレーラーが疾走すると体が吸い込まれそうな恐怖感が湧き恐ろしい。道なのに人が歩くことが許されないのではと思いながら歩くのは、精神的によくない。

ヨーデルの森に入らずに進むと「ドライブイン播但」と「立喰うどんそば 焼肉 喜楽」の向かい側に、南向きに「銀の馬車道」の案内板が立っているが、それより前に東側の山裾の段差の上に、なにやら白っぽい看板が立っていることに気づくかもしれない。

ヨーデルの森裏口近くの国道312号線脇に立つ
「銀の馬車道」の案内看板(南側から)

あまり関係ないが、「銀の馬車道」の物語設定で、『オス。S字カーブで転倒!気づいたら現代の車道に』のお馬さんは「ハヤブ」、『生野の造り酒屋の長男。竹やぶの穴に落ち、現代にタイムスリップ』した男の子は「銀太郎」、『姫路城の近くに住む小学5年生』の女の子は「未来(ミキ)」だ。そして、もう一人というかもう一匹の羽根の生えたパチンコ玉みたいのの名は「シルバ」なのだが、この案内板に名前は載っていないし、物語設定もされていないという、可哀相な存在だ。

銀の馬車道
(旧生野鉱山寮馬車道)

(お馬さんは)ハヤブ、(男の子は)銀太郎、(女の子は)未来“ミキ”

スグソコ→

市川流域アメニティ推進協議会

コースマップでは「ヨーデルの森」の中を行く地点なのだが、かつては何かが存在していただろう空き地の奥の、石垣の上を「銀の馬車道」が通っていたようだ。どうもコースマップは本来の位置というよりも歩きやすいルートを選んでいるようだ。

解説板の前が試掘した跡

解説板の前と、もう一箇所南よりの地点も試掘されている。

試掘跡に立つ「銀の馬車道」解説板

銀の馬車道(旧生野鉱山寮馬車道)

 銀山生野のまちと飾磨(姫路)の港を結ぶ最新型の馬車専用道路として3年がかりで整備され、明治9年に完成。
 今では、大部分が国道や県道になっています。

《マカダム道路》
 「銀の馬車道」の整備では、道路を水田より60cm高くし、あら石、小石、玉砂利の順に敷き詰めて打ち固める「マカダム式道路」工法が採用されました。当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がなめらかに走行できました。
 この馬車道により、物資を早く効率的に輸送でき、生野から飾磨までの輸送経費が8分の1まで低減したと言われています。

@路盤部 耕土取除きの上、上砂混じり粗石
A表層部 3cm程度の小石、厚さ15〜20cm
B目つぶし砂利 1cm程度の豆砂利と砂
C水田より60cm高くする

【「銀の馬車道」断面標本】
 兵庫県では、平成18年11月に、「銀の馬車道」であったと推定される場所の試掘調査を実施しました。
 調査の結果、完成から100年以上が経過していること、及び地形の制約(山あいの傾斜地を造成)から標準的な「マカダム式道路構造」と若干異なる点がありますが、谷側に設けられた石垣の打込の礫石、自然土壌の上に盛られた礫石まじりの人為土壌、旧路面と考えられる整地土や砕石など、明治の人々が手がけた道路造成の様子がよみがえりました。

市川流域アメニティ推進協議会 朝来市・神河町・市川町・福崎町・姫路市・兵庫県


解説板の試掘の時の様子

このまま国道を南下すると、2kmほど先の播但連絡道路神崎北ランプまで歩道はなく、ヨーデルの森の裏口から入り園内を通り抜けさせてもらうのが、安全のために一番よいと思う。なお、ヨーデルの森の営業開始時刻は、3月から11月の土日祝・春休み・GW・夏休みは9時30分、それ以外は10時となっている。


播但連絡道路沿いを進む んっ「馬宿り」てなんだ

播但連絡道路沿いの神崎北ランプまでの2kmほど道のりは、通り抜けた車は数台、歩く人は皆無。道幅は「銀の馬車道」時代よりも拡幅されている部分もあるが、結構よい雰囲気。通行量も少ないし、アスファルトをはがしマカダム式舗装に戻し「銀の馬車道」シンボルロードにできないかな。

10:32
大歳神社の石鳥居が道脇に立ち、その横には「銀の馬車道馬宿り」なる案内板が立っている。「馬宿り」をウエブで調べてみると、Yahoo!での検索結果はわずか94件で、1位はなんとこのページ自身(平成22年5月16日時点)。そして、2位以下もそのほとんどが「銀の馬車道」関連サイトばかり。

馬を連れた客を専門に泊める宿泊施設としての「馬宿」がここにあったわけではなく、「銀の馬車道」周辺の既存施設を活用した休憩所という意味で「馬宿り」という言葉を創作したみたいだ。

猪篠(イザサ)の大歳神社

初めて現われた「馬宿り」案内板

(銀の馬車道馬宿り)

神河町指定文化財 『大歳神社』

一、鎮座地猪篠字西山
一、祭 神大年神・素箋鳴尊
一、創立年不 詳
一、本殿建築享保5年(1720年)
  (神河町指定文化財)
一、造 作嘉永7年(1854年)
一、拝殿並びに覆屋改築
  昭和63年(1988年)
一、由緒 
  創立年月は不詳なれども、元禄7年(1694年)当地の里人らによって社殿建築の議が起こり、その後27年を経た享保4年(1719年)に至り漸く三木の棟梁坂井市之門とその一統により7ケ月延1500人をかけて創建されたものである。

猪篠(イザサ)区

この大歳神社近くの、播但連絡道路高架下を抜けて行く林道の先に、八幡山(775m)への登山口があるという。2009年に地元の方によりルート設定がされというが、私が8年前に道なき道を適当に登ったときは苦労の連続で、下りの伐採地では枝打ちされ厚く積もった木々に足をとられて転がってみたりして大変だったことを思い出した。

大歳神社から八幡山に登ることができる

10:42
すぐ横を播但連絡道路が通っているのに、その間に背丈ほどの石積みが残っている。銀の馬車道時代に築かれたものと思うが、この石を運ぶことにも馬車が使われたのだろう。

馬車道ができる前の江戸時代の地方街道は、馬が通れるぐらいの幅2mもない狭い道で、荷物は馬の背に載せるか、人が天秤棒で担うか、背に負うかぐらいの選択肢しかなかった。もちろん牛車も人が引く大八車もあったが、長距離輸送は劣悪な街道事情が許さなかった。

当時の物資輸送手段は海運及び高瀬舟による舟運が主流だった。生野鉱山でも市川を利用した舟運を企画したときもあるようだが、一年を通じて安定した水量が得られないことと、岩盤からなる川底の浚渫費も膨大になることから断念した。それから「銀の馬車道」着工1年前の、明治5年に新橋・横浜間で鉄道が開業しているが、その当時の費用対効果計算から断念している。

明治時代の石垣が残っている

10:57
生野義挙に勇んで参集したが、夢破れて落ち延びてゆく際に、この地で撃たれ倒れた若き義志士二人の墓が祀られている。すぐ上を通る播但連絡道路の擁壁を、墓所が捻じ曲げているところを見ると、昔からの場所にあるようだが、一年中、騒音・振動・排気ガスにさらされて安らかに眠れないような。こんなところよりも、近くのもっと環境のよいところに移したほうがよいと思うが、自分たちの先祖が義志士二人になしたことに対する贖罪感が、移設を許さなかったのだろうか。

「生野義挙志士」の石碑

2枚目の馬宿り案内板

(銀の馬車道馬宿り)

史跡

中條右京(但馬出石藩士21才)
長曽我部太七郎(阿波18才)の墓

文久3年(1863年)10月14日死亡

 幕末の尊皇攘夷運動の高まりとともに、全国各地騒乱が相次いで勃発した、そのうち天誅組、生野の変、天狗党が三大蜂起として有名である。
 この地は生野挙兵を企てた沢宣伝嘉、平野国臣、南八郎(本名河上弥市)等36名のうち計画に失敗し追上峠から姫路街道を落ちていった中條、長曽我部両名が農兵の銃弾で斃れたところである。
 なお南八郎等13名は朝来町山口の通称『山伏岩』で全員が自刃して果てた。現在義挙を称える碑が建立されている。

猪篠区



2.5kmほどの国道312号線歩き 但し歩道あり

11:03
播但連絡道路神崎北ランプ入口の交差点からは、国道312号線を歩く。歩道があるのでのんびりときょろきょろしながら歩けるが、見所は少なく退屈な区間だ。

神崎北ランプ交差点は、銀の馬車道からみるとシケイン状に道が捻じ曲がっているが、本来は真っ直ぐに国道312号線とつながっていて、かつてはここから北の銀の馬車道も国道だったのだろう。

神崎北ランプからは国道312号線歩きだ

左手に市川の支流になる「猪篠川」を見つつ、延々と国道を進む退屈な道行きが続く。生野で別れた市川は山を一つ越した西側に渓谷を刻んでいる。「銀の馬車道」の約20年後に開通した播但鉄道は、その渓谷に橋梁を5本架け、隧道を3本貫いて開業している。土木建築技術の進歩によるものだが、当時の弱力な蒸気機関車では生野峠越えが叶わなかったのだろう。

11:16
何かイベントが発生しないかな。このままならHPに書くことがなく、何でもいいから自らパフォーマンスを演じなければと思いながら歩いていると、国道脇に地蔵堂が祀られている。六地蔵かと覗き込んだら、台座こそ6基だが、お地蔵さん8体がぎゅうぎゅう詰めにされている。どのような経緯があったのか知らないが、両端のは蓮華座の高さが少々高く、後から仲間入りしたに違いない。

国道脇の地蔵堂

中には8体ものお地蔵さんが

11:28
七宝寺参道口を通り過ぎ、西側に大山小学校が見えるところに「大山城址」の案内板が立っている。頂上までの道はないが、堀切と土塁の残る明確な山城跡を見る事ができるという。

大山城跡と案内板

大山城址(東方城山山頂)

 大山城は貞治元年(1362年)ころ赤松直頼によって構築されたと伝えられている。播磨赤松氏が但馬山名氏の侵攻に備えた最前線の砦で当時、この大山城を中心に粟賀から真弓峠にかけて幾たびか戦いが繰り返されたと記録にある。
 山頂には階段状の砦の跡が残っている。

神河町文化協会


11:38
この「杉歩道橋」が現われると、「かんざき大黒茶屋」まで歩道が無くなる国道312号線としばしの別れとなる。車で走っていると何も気にならない存在の歩道だが、歩いてみるとその存在の偉大さ、安心さに驚いてしまう。

階段の床タイルがぐらついて、「コワッ」という思いをするほど長く補修がされていない歩道橋を渡らずとも、すぐ近くの横断歩道を渡ればよいのだが、ここから東側の杉集落への細道(もちろん旧銀の馬車道)へと入る。

この杉歩道橋で国道と別れ東側の杉集落へ入る


唯一当時のまま残る「銀の馬車道」

11:47
歩き始めてから5時間近く、大年神社でしばしの休憩をとる。この神社の境内には集落名の由来となっているのかもしれない樹齢300年近い「夫婦杉」が寄り添うようにそびえている。

静かなひと時を過ごしたかったが、なんと明日は神崎町議会選挙の日で定数15名に16人が立候補し熾烈な選挙戦を繰り広げている真っ最中。集落に入ると選挙カーから連呼の声が鳴り響き、まるで真夏のアブラゼミのような賑やかさ。

なお選挙結果は、最下位当選者と次点者は同一得票数でくじ引きになったという。

大年神社の夫婦杉

“夫婦杉”

 本殿を前に仁王のように並び立ち出迎えてくれるこの2本の巨杉を「夫婦(めおと)杉(すぎ)」と呼び境内内の空気を神聖なものに感じさせてくれます。
 長寿と繁栄を映し、この間をくぐり廻ると縁結び夫婦仲むつまじく家内安全を願します。
 感謝の気持ちがあると願い事がきっとかないますよ。

大年神社
〜「夫婦杉の里」・杉区〜

妻杉(左) 高さ約31m 幹回り4.1m(目通り)
夫杉(右) 高さ約33m 幹回り4.9m(目通り)
樹齢約270年(2010年)

12:02
縦に積み重ねた米俵に乗った大黒様が目印の「かんざき大黒茶屋」が見えてきて、国道312号線に合流するが、「銀の馬車道」はここから左にそれてさらに細い道へ入っていく。お腹もすいてきて、大黒茶屋に直行したいが「銀の馬車道」のメインイベントが前方に待ち構えているので、まだお昼ご飯は食べられない。

かんざき大黒茶屋手前でさらに脇道に入る

12:08
集落を抜けると、ここが「銀の馬車道」で唯一昔のままに残り、歩くことも車で走ることもできるところだ。畑川原池という小さな溜池沿いの、なんてことのない地道だが、ここが「銀の馬車道」そのままという。

でも可能な限り直線にすべく設計したはずが、溜池沿いに急カーブを描き、果たしてこの溜池の歴史は「銀の馬車道」よりも古いのかという疑惑もあり、本当に「銀の馬車道」なのだろうか。ルートマップでは『昔のまま現存する馬車道(原川原池沿い)』となっているので、そうなのだろうが、何か怪しい。

原川原池沿い「銀の馬車道」といわれる道

でも道の池と反対側は石組みになっていて、可能な限り農地を潰さないように配慮した形跡があるし、その石組みも古そうだし、溜池の堰堤としては破格な幅でもあり、「銀の馬車道」だったのは真実かもしれない。

道の外側の石積み
(桜並木の緑が濃くなっているのは第六次踏査で撮影したため)


かんざき大黒茶屋

12:14
溜池を巡る「銀の馬車道」の先は、板金塗装牛kエ自動車の敷地になっていて、休日は国道への出入り口にロープが張られている場合もあるが、歩く分には何も問題はない。そして、国道を北へ戻ると大黒様がおにぎりを掲げた「かんざき大黒茶屋」だ。

一目で分かる「かんざき大黒茶屋」に戻る

昼食の前に、お店の表にある2枚の「銀の馬車道」案内看板を紹介しよう。1枚目は普通サイズのもので、銀の馬車道の由来などの全般の解説と、近場の案内が少しだけ記載されている。

かんざき大黒茶屋前の案内看板 その1

「銀の馬車道」

 生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。
 ここから見える池のほとりから、法楽寺裏参道北にある、いぼ地蔵への小道は、当時の「馬車道」の面影を色濃く残す、数少ないポイントのひとつです。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)

もう1枚は、生野から姫路までの、銀の馬車道にまつわる事柄が写真を使って解説している。

かんざき大黒茶屋前の案内看板 その2

銀の馬車道

 「銀の馬車道」は、明示の初め生野と飾磨港の間約49kmを結ぶ道として新しく作られ別名「生野銀山道」、「生野鉱山寮馬車道」とも呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用の道路です。
 完成から約100年がたった今では、道の大部分は車が走る県道や国道に変わり、一部は新幹線姫路駅になっています。しかし。「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、往時の面影を残しています。
 豊かな暮しを夢み、ファイトを燃やした昔の人たちの気持ちになって。「銀の馬車道:をたどってみませんか!

「銀の馬車道」の実感ルート
 旧鉱山寮生野支庁(生野のまちなみ)→盛明橋(市川を渡る。当時の技師長、朝倉盛明に由来)→生野峠(旧来はS字カーブ)→観音橋(神河町)→屋形(市川町)→辻川(福崎町)→西光寺野の人参役所跡(姫路市船津町)→生野橋(もういちど市川を渡る、現在の橋は3代目で初代の上流側に設置)→右岸に馬車道修築碑→姫路市東方(旧城下町へ)→姫路駅(大きく西に曲がる)→播磨街道(亀山本徳寺)→飾磨津物揚場(飾磨港)

「日本初」のハイウエー
 「銀の馬車道」の工事は3年がかりで行われました。道路を水田より60cm高くし、あら石、小石、玉じゃりの順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、車や馬車がなめらかに走行できました。この馬車道により、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1になりました。

明治時代につかわれた「馬車」
 当時の馬車は木製の2輪車でした。積み荷も少なく、荷台の先にカジ棒をつけていたので四つ角では大回りをしなければ回れませんでした。
  @車輪/樫の木製:径約1m(設置部は鉄板)
  A車台/樫の木製:長さ3m、幅1m
  B木枠/取外し可能:長さ2.5m、幅0.9m

「銀の馬車道」の起点(生野鉱山)
 生野鉱山は平安時代に拓かれたといわれ、室町年間に、山祐豊によって本格的に開発されました。その後、織田信長や羽柴秀吉によって治められ、銀を中心とした経済基盤がつくられました。江戸時代には、シルバーラッシュ(大量採掘)がおこり。生野から姫路の飾磨港を結ぶ市川沿いは、大いに栄えました。そして明治期、政府により鉱山の大規模な近代化が図られる中で、物資輸送用の産業道路(銀の馬車道)が鉱山寮生野支庁と飾磨港の間に整備されました。市川流域は近代日本の産業経済を支える流域として発達し、それはすごいにぎわいだったそうです。

生野「盛明橋」界隈
 「馬車道」は、生野町の南側から市川に架けられた橋を渡ります。この橋は、完成当時の鉱山寮生野支庁長であった朝倉盛明氏の名をとって「盛明橋」と名づけられました。昭和5年に老朽化が激しくなり、すぐ下流に2代目が架けられました。
今は、平成11年に建設された3代目の盛明橋がほぼ元の位置に架かっています。

「生野峠」界隈
 生野峠は急勾配のため、馬は重量物を積んでは登れません。それで、道の途中からS字にカーブしながら登りました。生野峠の[馬車道」は、明治28年に「生野−飾磨港」間の鉄道開通と共に廃止され、現在は国道312号線として使用されています。

神崎「観音橋」界隈@
「馬車道」は、神河町猪篠(いさぎ)を過ぎると南に向かってゆるやかに下り、同町大山の入口で昔からの但馬街道に入ります。杉、中村、吉富。粟賀をへて福本に至りますが、修築の時に拡張、橋梁の新築、改修工事が行われたものと考えられます。

神崎「観音橋」界隈A
 「馬車道」は、廃止後90年の間に県道・国道に姿を変え、昔の面影はなくなっていますが、ところどころわずかですが、その跡を見ることができます。越知川は川幅が広く盛明橋と同程度の橋が架けられ、橋を渡ると「たじま、たんば、たんご」と書かれた古い道標が立っています。

市川「屋形」界隈
 「馬車道」のルートは、当初は屋形の集落を避けてバイパスを新設する計画でしたが、「貴重な田畑がつぶれてしまう」「生野街道の宿場である屋形が、バイパスによって錆びれてしまう」との理由から、地元が強く反対しました。
再三の嘆願書が飾磨県や鉱山寮生野支庁に提出されています。それには、「集落の中を通る従来の街道を広げるのでバイパスは中止してほしい。道を広げるにあたって、家屋の移転は地元で負担する。」としています。
 この熱意が実り、バイパス計画はとり止めになります。この古文書には家屋の移転に対する手当てとして、20円が飾磨県から屋形に支払われたことが示されています。

福崎「辻川」界隈
 「馬車道」は、辻川北野線の交差点で左に曲がります。「柳田國男生誕の地の碑」や「大庄屋 三木家」、「大正初期に立てられた郵便局」や「巌橋」を通り、東に進み5車線ある交差点を横断します。しかし、現在は「馬車道」の特徴である上り、下りの道が中国縦貫道路によって切断されています。

姫路「生野橋」界隈
 明治9年、「馬車道」の完成を祝って生野橋のたもとに建てられた記念碑。修築としたのは旧街道を利用した工事だったからでしょう。碑は、鉱山もしくは飾磨津あ(港)付近に建てるのが妥当と思われますが、あえてこの地を選んだのは、「生野橋」の架橋が最も難工事だったということではないでしょうか。現在の生野橋は昭和43年に架け替えられた3代目です。初代の生野橋は右岸に橋台の石垣と河中に橋脚の跡が残っています。

「姫路城外濠」界隈
 「馬車道」は、生野橋を渡り、ほぼ国道312号線に沿って南下。砥堀では、路面は国道より1m高くなっています。花田町を左に見ながら進むと、やがて野里に入り、写真の城東小学校前に出ます。小学校の西側の姫路城外濠は「馬車道」修築の時に半分が埋め立てられましたが、当時の名残りを留めています。

姫路「飾磨街道」界隈
 「馬車道」は、北条口付近よりJR姫路駅構内を斜めに横断し、南畝町で飾磨街道に入り、一直線に南下して飾磨津(港)物揚場に達します。昭和45年頃の新幹線工事によって姫路駅周辺の「馬車道」の面影は、なくなってしまいました。飾磨地区では「馬車道」よりも「播磨街道」のほうが名前が通っています。

「馬車道」に触れる
 「新たな発見、新たな挑戦、新たな交流を目指してさわやかな汗を流そう」と企画され、神崎郡と姫路市から6チームが参加し、平成10年の1月1日午前9時30分に旧銀山跡をスタートし、姫路港までの生野街道・飾磨街道をできるだけ忠実にたどりながらタスキをつなぎました。

市川流域アメニティ推進協議会
朝来市・神河町・市川町・福崎町・姫路市
※詳しいパンフレット等は各市役所・役場まで。

それでは店内に入り、お昼ご飯を食べよう。飲食部門のメニューは各種のそばとうどんだけだが、物販部門ではおにぎりやお菓子やお土産品まで扱っている。

注文したのは550円の「肉そば」で、盛り上がりというか豪華さ感に欠ける写真写りだが、美味しかった。

第一次踏査で食した「かんざき大黒茶屋 肉そば(550円)」

第六次踏査で大黒茶屋に寄ったとき、メニューが変わったのか「銀の馬車道 駅そば(中華麺)肉入り550円、あげ入り500円、具なし400円」というのが増えていて、それを肉・天ぷら入りで注文したが値段は700円とサービスしてくれた。おそらく私が徒歩旅行中であることを見抜いていたものと思われる。

で、これのどこが銀の馬車道風なのかは聞き漏らしたが、姫路駅ホームの有名な立ち食いそば「まねき食品の駅そば」と同じような中華麺と和風出汁のコラボレーションだが、不味いわけではないが麺にこしがないというか全般的にインパクトに欠ける味で、もう一工夫が必要と感じた。

第六次踏査で食した「銀の馬車道 肉・天ぷら入り駅そば(中華麺)」

(かんざき大黒茶屋の飲食部門メニュー)

うどん
かけうどん400円
きつねうどん500円
わかめうどん500円
昆布うどん500円
月見うどん500円
肉うどん550円
天ぷらうどん650円
カレーうどん600円
冷しうどん550円
銀の馬車道 駅そば(中華麺)
肉入り550円
あげ入り500円
具なし400円
アイスコーヒー350円
コーヒー300円
そば
かけそば400円
たぬきそば500円
わかめそば500円
昆布そば500円
月見そば500円
肉そば550円
天ぷらそば650円
冷しそば550円
ソフトアイス
バニラ220円
抹茶220円
柚子ピール220円

12:51
今日はどこまで歩こうかと考えながら店を出るも、もう一品を注文するのを忘れていたことに気づいた。でも、ここはドライブインのようなものなので、酒類の取り扱いのないのが残念だったが仕方があるまい。


しばしの国道歩きと「いぼ地蔵」

13:04(第一次踏査時の通過時刻)
第一次踏査では国道横の鳥居脇で「春日神社」石碑が倒れているのに気をとられ、馬宿り案内板があることを見過ごしていた。そのことに第六次踏査で気づき、すぐ近くだし、なにか感じるところがあり寄り道してみた。

春日神社 国道横の鳥居と馬宿り案内板

「銀の馬車道」

春日神社
神河町指定文化財

本殿・拝殿は江戸時代中期に建立
古い立派な社殿に7躯の神像郡等が祀られています。

吉冨区銀の馬車道馬宿り

(『神像郡等』の「郡」は「群」の間違いだと思う)


参道を進むと木製の鳥居から緩やかな石段が始まる。神社やお寺の石段といえば急なのが当たり前だが、ここは誠に緩やかで途中に踊り場さえあり、一段一段登っていくだけで心が落ち着いていく。

緩やかな春日神社の石段

石段を登り切るとそこは絵馬殿で、古そうな色が抜け落ちた絵馬ばかりが掛けられている。「ん、あの左奥のはなんだろう」。

古い絵馬の中に

「そうか、この絵馬が私を呼び寄せたのだ」と納得したが、世の中には科学的に説明のつかないこともあるものだ。でも、でも、昔の絵馬に比べたら情緒がないというか、絵馬のようで絵馬でないというか、いや馬が描かれているから絵馬には違いないか。

そこには「銀の馬車道」絵馬が

奉納

住民安泰
美しい里づくり

吉冨区地域サロン 銀の馬車道 平成18年10月吉日

13:12
第一次探索に戻って、この「いぼ地蔵」へ行く東へ入る脇道、いやこれも「銀の馬車道」なのだが、馬宿り看板は南向きに立っていたりして、生野から姫路を目指して歩いていると見逃しかねない。特に車で行くと、脇道が住宅の陰になっていたりで分かっていても通り過ぎてしまう。

脇道の向かい側には、フォークリフトに「バーベキューコンロ 本体 10,000円 少し浅めサイズ」を載せた「細岡鉄工梶vがあるのだが、道よりも一段低くあまりよい目印になっていない。

「銀の馬車道」はここで国道から東へ離れ、いぼ地蔵へ

曲がり角のゴミ集積所脇に立つ馬宿り看板

「銀の馬車道」

いぼ地蔵
山側南へ400m

岩肌から湧き出る清水の効能が伝えられています。

吉冨区銀の馬車道馬宿り

山裾の緩やかな登り坂を行くと民家はすぐ途絶え、「銀の馬車道」らしさ溢れる道になる。でもこの登った分はこの先で下ることで帳消しとなってしまう。今の国道と同じに真っ直ぐに道を通せば、なんてこともなく平坦な道にできるのに、何でわざわざこんな難所を造ったのか。

地上げに失敗したためだろうかとも思ったが、封建時代がまだまだ居座る明治の初めに、官営道路である生野鉱山道・生野鉱山寮馬車道の行く手を遮ることができるものなど絶対にいない。険悪な地形が待ち構えているわけでもなく、私の出した結論は「いぼ地蔵」を通る道は「銀の馬車道」ではなく、今の国道312号線から越知川を渡る観音橋に続く道が「銀の馬車道」だ。

13:19
でもこの道は、「銀の馬車道」はこんな道だったんだよと言われれば、誰でも信じてしまいそうではある。山側の岩場には天然の祠があり、中には6基の五輪塔が祀られている。名前も何も見当たらないが、地元の方々は大切にしているものだろう。

道から一段上に岩穴が
(前に植えられた木が邪魔だな)

岩穴の中には6基の五輪塔が祀られている

13:23
そして岩穴から10mほど離れて「いぼ地蔵」が祀られている。写真のようにお堂の下の岩肌は濡れていて、名前の通りにいぼに効くといい、赤穂義士の大石内蔵助と妻りくが京都・山科に向かう際に立ち寄り、道中の安全を祈ったと伝えられている。(神戸新聞110年 地才地創 わたしのまちのたからもの より)

神河町吉冨の「いぼ地蔵」

銀の馬車道

いぼ地蔵尊

平成5年8月23日 戸田組 仲屋組


いぼ地蔵

 神戸新聞社創刊110周年記念事業「私の町の宝物」の応募3,026件の中から「110選」に選ばれました。

平成20年11月吉日 地域サロン 吉冨区

そして「いぼ地蔵」の周辺を彩るのは、花の色が春を待つ少女の頬の色に似て、ロゼッタ状の葉を袴に見立てて名付けられた「少女袴(ショウジョバカマ)」。ピンク色の可憐な花は、花びらを落とすと一気に茎を40〜60cmに伸ばし、林床をおおう植物から突き抜けた実から、糸くずのような種が風に飛ばされるという。

少女袴(ショウジョバカマ)

これで一人でもだますことができたら嬉しいのだが、ほとんどの読者は気づいているだろうな。でも世の中には奇特な植物愛好者がいて、HPにこの花を何の疑いもなく、真剣に「少女袴」と紹介している。まあ、これまでの私が綴ってきた文章の中にも沢山の誤りがあるのも事実で、他人事ではないのだが。

そして、この「少女袴」も「いぼ地蔵」とともに地元の方々が大切に育てているものだろう。

「いぼ地蔵」から表通りに出るまでは、古い石積みの擁壁があったりしてそれっぽい雰囲気になっている。ただ、元々は雑木林だっただろう山裾は、戦後の針葉樹しか眼中にない馬鹿げた造林政策により植林されたため、当時とは様変わりしているのは間違いない。けして私がスギ・ヒノキ花粉症だから言うのではないが、目の前の利しか見ていない政治家に、長期的視野に立つ政策など立案できるわけがないし、責任などどこ吹く風の高級官僚にしても同様だ。

古い石積みが残る道

この登り下りがある道は「銀の馬車道」ではないと力説した。でも「銀の馬車道」は、つい最近の明治の初めに開通しているので、詳細な図面や資料が溢れ返るばかりに存在するはずだから、「銀の馬車道」の経路は完璧に解明されているのが当然で、そうするとこの道は「銀の馬車道」になる、のかな。


神河町中心部粟賀町 銀の馬車道交流館

13:34
「いぼ地蔵」から表通りに出ると、そこは墓地への石段を含めればなんと六差路の信号機のない交差点だ。左右は旧国道で、右に進めばすぐに観音橋に出る。石段右側の道は播州犬寺とも呼ばれる金楽山法楽寺への自家用車参道だ(法楽寺への正式な参道は、南の越知川岸近くの仁王門からの250段の石段を登るもので、御利益も250倍になるかも)。その右の道は市川支流の越知川沿いへと下る。

「いぼ地蔵」から南に下ると複雑な交差点に出る。

大都会の真ん中に、こんな信号機もないこんがらがった交差点があったら大変だが、交通量は極少なく出合い頭の衝突事故なんか起きない。「銀の馬車道」へは、北の入口にあったものと同じ馬宿り案内板が立っている。

南側交差点にも馬宿り案内板がある

「銀の馬車道」

いぼ地蔵
北へ300m

岩肌から湧き出る清水の効能が伝えられています。

吉冨区銀の馬車道馬宿り

13:36
今なら橋脚もないワンスパンの橋梁になるだろうが、昭和4年に架け替えられた観音橋は橋脚が狭い間隔で並ぶ古めかしい装いとなっている。「銀の馬車道」時代の木橋はさらに多くの橋脚が立ち並び、ちゃんばら時代劇に出てくるようなものだったのだろうか。下を流れる川は、市川水系猪篠川の支流になる越知川。

私の横を「お願いします、お願いします」と連呼しながら、ゆっくりと通り過ぎて行った神河町議員立候補者は無事に当選を果たしているが、橋の上で歩くポーズをしている私を見てどの様に感じたのか知りたい。

昭和4年に架け替えられた観音橋

観音橋の生野寄りの袂には、次のような案内板が立てられている。

観音橋(越知川)右岸の案内板

「銀の馬車道」

 生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。
 この観音橋は、越知川橋ともよばれ、日本最初の高速道路ともいえる「銀の馬車道」の重要な橋の一つでした。
 今でも橋の南側交差点には、旧街道時代の道標が残り、法楽寺裏参道登り口から北へ、いぼ地蔵を経て、裏坂の池に至るあたりは、馬車道当時の面影を色濃く残しています。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)

粟賀町側の袂には但馬街道時代に架けられていた橋(大橋)の石碑と、古い道標が並んでいるが、後に立てられた銀の馬車道案内板も加勢して、ゴミゴミ感をアップしている。

観音橋右岸に古い石碑と道標があるが
狭苦しいところに集められている

そして、その案内板。

これで何枚目になるのかな
観音橋左岸の「銀の馬車道」案内板

銀の馬車道

中村区・神河町商工会
銀の馬車道交流館運営協議会
平成20年度「ひょうご」観光地活性化支援事業

大橋・道標・観音橋・高瀬舟津

旧但馬街道の大橋は、現在より約20m上流に架かっていて、安政4丁(ヒノト)巳(ミ)年11月再建、長さ33間、幅2間と示す『大橋』の石碑があります。
 現在の『観音橋』は、明治初年の『銀の馬車道』開通の際に補強して供用、明治36年には現在のルートに木橋が架設され、昭和4年に現在の永久橋として供用されました。その時に左岸側にあった旧但馬街道の『道標』も明治36年に移設され、犬寺(法楽寺)に因み『観音橋』と呼ばれるようになりました。その当時を示す橋脚立込穴(きょうきゃくたてこみあな)も右岸側に残っております。

13:45
人気のない「銀の馬車道」にして旧国道でもある道を進むと、今は神河中村出張所になった但陽信用金庫旧粟賀支店の1階を間借りするというか、母屋を乗っ取った「銀の馬車道交流館」がある。「銀の馬車道」の中心施設としての機能を有し、「銀の馬車道」の歴史や各種資料が展示されていている。

開館時間は11月〜3月は10時〜15時、4月〜10月は10時〜16時で、休館日は火曜日となっている。実は第一次踏査ではなぜか写真を撮ることを失念し、2回目はゴールデンウィークの真っ最中の5月4日(火)に訪れたら休館日で、ようやく3回目の訪問によって館内の写真を撮ることが叶ったのだ。

銀の馬車道交流館(但陽信用金庫旧粟賀支店)

館内の目玉は「銀の馬車道」時代の復元された馬車だ。お馬さんの造形は微妙だが、幅1m・長さ3m程の2輪の馬車はよく出来ていると思う。ただ積荷が鉱石になっているのは間違っているのではないだろうか。

大正11年に瀬戸内海の直島に精錬所が開所するまでは、生野において精錬していたので、生の鉱石そのものを生野から姫路の飾磨津(港)まで運んではいないと理解しているのだが、どこか間違っているのだろうか。

復元された馬車
積荷が鉱石になっているのは疑問

マカダム式道路の構造模型もあり、あら石・小石・玉じゃりの三層構造と路肩を石積みとしているのが分かる。

マカダム舗装は江戸時代のスコットランド技術者ジョン・ロウドン・マカダム《1756年(宝暦6年)〜1836年(天保7年)》により考案された砕石舗装で、ローラーにより圧し固めて施行する。いまも道路舗装に用いられているロードローラーのなかで三輪式のものをマカダム式ローラーと呼び、当時は馬牽きあるいは人力牽きのものが使われていた。そして昔から人力式の呼び名がコンダーラであることはよく知られている。

三層構造のマカダム式舗装模型

13:56
今日は鶴居駅までと決めて、銀の馬車道交流館より出る。

銀の馬車道交流館を出てまた歩き始める

交流館近くの粟賀小学校付近にも銀の馬車道案内板があるはずなのだが、第一次踏査では発見できず、ようやく第五次踏査で銀の馬車道から路地を20mほども入った、小学校裏門の敷地内にあるのを見つけることが出来た。

他の全ての銀の馬車道案内板は毎日磨かれているのでは思うほど綺麗なのに、小学校敷地内にあるため管理が行き届かないのかここのはひどく汚れている。設置以来誰も見る人はなく、誰も関心を寄せる人もなく、その存在を忘れ去られたかわいそうな案内看板だ。

第五次踏査でやっと見つけた
粟賀小学校敷地内の案内看板

「銀の馬車道」

 みなさんが通学している旧国道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、生野鉱山から飾磨津(港)までの約49kmの道路で、むかしは鉱石や鉱山で使う材料などを大量輸送するのに利用していました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)

14:03
ウォーキングマップに記載されている交流館近くの「銀の馬車道」案内板は、この公民館の前に立つものかと思ったが、どうも違和感があり捜し続けた結果が上の案内板だ。

この案内板の銘茶「仙霊茶」のことは、寡聞にして知らなかったが、春日神社の北に「神崎ふれあい茶園」の案内があり、「茶園があるんだ、ふーん」と不思議に思った。

粟賀はかつては宿場町であったいう

宿場の町並みとお宝マップ
銀の馬車道馬宿り 粟賀地区

宿場町と仙霊茶発祥の地

 宿場町の存在は粟賀驛(粟賀馬屋)の石柱を中心に屋号中村屋、京屋、小松屋、伊勢屋等が介在し、街道沿いに栄えた往時の面影を今に伝えている。
 銘茶「仙霊茶」は享保元年(1716年)生蓮寺第六世空上海印和尚が当地の気候風土に目を付け、お茶を植えたのをきっかけにお茶の栽培が盛んとなり、享保10年(1725年)には、京都宝鏡寺の宮様から「仙霊」の銘と御真筆を下賜遊ばされた。
 それ以来、毎年菊、桐打った長持ちにて禁中にお茶を献上致しました。また、茶詰した袋に「仙霊」の印を押して、広く人々に頒布した模様です。

旧国道は、銀の馬車道の道幅6mとさほど変わらず、古い町並みが残っている。1間幅(1.8m)の但馬街道を一気にこの幅に広げ、そして馬車が行き来するようになったのを見た村人の驚きは、計りしれないものがあったことだろう。

総監督のお抱え技師のふるさとフランスは、メートル法発祥の地でありすでに用いられていたが、日本がメートル条約に加入したのは明治18年(1885年)と銀の馬車道が開通した後。果たして「銀の馬車道」は尺貫法かメートル法か、はたまたヤードポンド法のいずれに寄るものだろうか。次に歩くときには巻尺を用意ければ。

粟賀の町並み 右手前は屋台蔵か

14:12
神崎総合病院の東側を南下し、「銀の馬車道」に関係があるのか「馬橋」を渡り、ガソリンスタンドが一角を閉める福本交差点に着いた。これで何度になるのか国道312号線を斜めに横切る。

神河町中心市街を抜けて福本交差点

14:16
庚申堂の境内に推定樹齢300年・幹周り510cm・県内第2位のヒノキの巨木がそびえている。

庚申(かのえさる、こうしん)の日は、60通りの組み合わせがある干支の57番目で、60日ごとに巡ってくる。今年は1月10日(日)、3月11日(木)、5月10日(月)、7月9日(金)、9月7日(火)、11月6日(土)の6日ある。

ついで西暦年の下一桁が3か8の年の7月が「庚申の月」で、次は2013年7月。さらに西暦が60の倍数の年が「庚申の年」となり、次は2040年。そして宇宙が破滅するという「庚申の年の庚申の月の庚申の日」は、残念ながら何億年、何百億年待てどもやってこない。

古い中国の言い伝えに、庚申の日に寝ていると、体から「三尸(さんし)の虫」が抜け出て、紫微大帝という神様に、宿主の日ごろの悪い行いを告げ口し、聞いた神様は寿命を3年間縮めるというのがある。一つも悪いことなどしない人なんているわけもなく、1年で18年も寿命が縮められたら大変なので、庚申の日を寝ずに過ごせば「三尸の虫」は抜け出すことは出来ずに、神様にも告げ口をされることもなく長生きできる。

そんな庚申信仰が日本にも伝わり、60日ごとに集まり一晩中面白おかしく過ごそうというのが平安時代の上流階級に始まり、江戸時代には民間にも広がったという。その集まるところが庚申堂で、その境内にこのヒノキがそびえている。

庚申堂の大ヒノキ

郷土記念物庚申堂の大ヒノキ

指定対象 ヒノキ 1本
指定年月日 平成3年1月4日

 地域の人々の暮しを永年見守ってきたこのヒノキは、「庚申さんのヒノキ」と呼ばれ、地域のシンボルとして親しまれている。

兵庫県



寄り道 その1 福本藩陣屋跡

14:25
越知川西にある播但線寺前駅への向かう道との交差点の先に、福本藩陣屋跡の解説板が立っている。銀の馬車道馬宿りに指定されているが、少々離れているし、生野駅から歩き始めてすでに7時間以上が経過し足も疲れてきたし、第一回踏査では訪れなかった。

福本藩陣屋の解説板

播磨国 福本藩陣屋 南惣門址

 姫路城を築造した播磨国主池田輝政の四男で外様ながら、徳川家康の外孫として血脈を継承する元宍粟山崎藩主松平輝澄の嫡男松平能登守政直は、亡父の遺領を改め、寛文2年9月(1662年)神崎郡北部35ケ村に印南郡曾根村の相給を加えた領地1万石を賜りますが、寛文3年11月粟賀庄のこの地を在所に選び、陣屋を造営して福本村と命名し、寛文4年5月領地朱印状を奉じて、初御国入りを果たします。
 世に、粟賀候とも、福本松平候とも称された代々当主と御家中は、祖母の菩提を弔うとして法華宗の護持を誓った藩祖輝澄と家康公との約束を永世固守することで、家格の興隆と系譜の永続を願い、二代目で屋形に3千石、三代目で吉冨に1千石を分家させ、本家は旗本6千石と縮小しながらも、江戸では上屋敷・中屋敷・下屋敷を営み、交代寄合表御禮衆を務めます。
 七代兵部喜通の代に、王政復古がなされて府藩県三治制度に際した高直しで、再び1万5百石の大名家に復活して、福本藩庁を開きますが天皇に仕える立場では、松平姓を改め池田に戻し、八代但馬守徳潤の代に版籍奉還をします。
 この地は、近世1万石の大名、そして旗本交代寄合の陣屋として、また但馬街道の管掌を司る立場から、生野銀山防衛の直近軍事力の役割も果たしたようで、遺されている刑法局の日記類や監察日誌などで見られる治安維持の記録と実績では、神崎郡北部の政治経済の中心のみならず治安維持の上からも枢要の城でした。
 伝えられる数枚の絵図面からは、藩政初頭の縄張り全容が読み取れ、まち全域が城郭研究の上でも希少性の高い遺跡地と云われています。
 左は、明治3年(1870年)11月福本藩が宗家鳥取藩への合併に際し、実地測量のうえ作成した絵図面で、南北惣門之間往来5丁拾9間(約575m)表御門より練兵場山際までの見通し2百3十5間(約423m)と、陣屋の規模や藩士邸、役所の配置等を示しています。
 明治6年、生野銀山と飾磨津を結ぶ馬車専用道路の建設が、但馬街道の修築工事から始められ、陣屋の北惣門から南下し南惣門へ抜ける道筋としましたが、南惣門のカギ型曲折は馬車が通れず、大きなわん曲道路に改修されました。

銀の馬車道馬宿り

5月15日の第六次踏査では脇道に入らずに国道312号線を一直線に南下した折、県立神崎高等学校の南角に「←0.2km 福本陣屋跡」の案内があり、200mなら行ってもよいかと訪れてみた。

福本藩は、徳川家康が関ケ原の合戦に勝利をおさめてから60年後の寛文4年(1664年)から明治維新の廃藩置県に至るまでの長い年月に渡り、鳥取藩を主家とする池田家により統治されて続けた。1万石の小藩なので城を築造することは出来なかったが、陣屋形式の館を今の大歳神社の境内地に構えていた。

姫路藩の城主が次々と変遷していったのと違い、徳川家康のひ孫(祖母が家康の娘の督姫)に当たる池田政直を祖とする池田家は、幕府にとっては金庫のような存在の生野銀山への、要衝の地を任せうる数少ない存在だったに違いない。

大歳人神社(福本藩陣屋跡)

姫路城がその城跡を今も留めているのとは違い、福本藩陣屋は今は大歳神社となり、わずかに庭園(池)が当時の名残を留めているだけだ。

でも姫路城のように万人が見るだけで分かるあっけらかんとした城跡よりも、ほとんどの遺構が消えうせ想像の世界のみに生き続ける福本藩陣屋のほうが、マニアの情熱を掻きたてるものなのだろう。高校まで学んだ日本史は、どこの国の話かと興味も何も沸かなかず理科系と思い込んでいた私だが、地方史ほど面白いものはないと気づいた。しかし、私に残された時間は限りがあり、もはや深く追求することは出来ない。

大歳神社境内に立つ福本藩陣屋跡の案内板

神崎町指定重要文化財
「福本藩池田家陣屋跡」

 所在地 神崎町福本
 管理者 福本区
 指定面積 11,493m3
 指定年月日 平成13年10月2日

 福本藩池田家の創始は、寛文3年(1663年)池田政直から、明治3年(1870年)八代徳潤時代の廃藩置県までの206年間にわたり続きました。
 この陣屋跡は、神崎郡北部の政治の中心であった所です。
 福本藩は小藩であったため陣屋形式で、現在の大歳神社全体が藩邸跡で、社殿のところに藩主御殿がありました。
 月見灯篭が浮かぶこの庭園は、元禄年間に描かれた絵図面通りに現存する庭園として貴重なものです。
 庭園の形式は、池泉回遊式庭園とよばれ、池泉の規模や深さなどから考えて、舟遊式であり、園池には、蓬莱島を置き武運長久を祈る大名庭園としての特徴があります。

神崎町教育委員会 平易製16年3月

『文化財を破損した者は、刑法並びに文化財保護法により厳しく罰せられます。』

唯一見ることができる福本藩陣屋跡の遺構なのに、水草が茂り残念な状況に陥っている。

福本藩陣屋跡の池泉回遊式庭園の名残


寄り道 その2 徒歩で往復6kmはきつい寺前駅前の余田屋

JR播但線寺前駅は銀の馬車道から3kmほど離れているが、駅前の余田屋(よでんや)で「銀の馬車道ラーメン」なるものを食せるという。銀の馬車道から往復6kmもあり、徒歩による第1回踏査では断念せざるを得なかったが、第4回踏査(ドライブ)により、ようやく訪れることができた。

改装工事中の寺前駅の正面に余田屋がある。料理旅館を改装した店舗は普通のよくあるラーメン屋で、テーブル席と座敷があったりするだけで、「うゎっ、何だこれ」というようなものはない。そして店の裏側に3台分ほどの駐車場が用意されている。

寺前駅前の余田屋(よでんや)

「銀の馬車道らーめん 麦とろセット」を食べたがったが、その日は昼食をもう1回食べる予定なので、注文したのは「銀の馬車道ラーメン」単品。

ほどなく出てきたラーメンは、馬は馬肉の甘辛煮、馬車は2枚の「なると」、積荷はチャーシューと煮卵をイメージした塩味のもので、神河町特産の柚子の香が食欲をそそる。普通は「なると」を斜めに長円形に切るところを、馬車の車輪を意識して直角に丸く切るのがこだわり。美味しく頂きました。

余田屋の銀の馬車道ラーメン

(余田屋のお昼の部お品書き)

銀の馬車道らーめん650円
らーめん(しょうゆ)580円
ちゃーしゅうめん(しょうゆ)850円
カレーらーめん650円
とんこつらーめん650円
半ちゃーはん ※どのらーめんともセットできます
 200円
みそらーめん650円
ちゃーはん500円
だし巻き定食
※ミニらーめん・おにぎり(2ケ)・小鉢・漬け物付き
 700円
銀の馬車道らーめん 麦とろセット1000円
おでん定食750円
ぎょうざ(6ケ)280円
からあげ(とり)600円
あげ入り500円
ちゃーしゅう盛り800円
おにぎり(梅・こんぶ・サケ・明太子 1ケ
 100円
ご飯(おかわり自由)150円
おでん 一品100円から150円
トッピング コーン・バター・のり50円
      メンマ150円
      ちゃーしゅー270円
らーめんの大盛りはプラス150円

営業時間は昼の部は11時から15時、夜の部は17時から21時(ラストオーダー20時30分)、定休日は毎週水曜日(但し祝日の場合は翌日)。


国道312号線で市川町へ

14:32
福本南交差点で「銀の馬車道」は国道312号線に復帰し、この先の市川町に入ってからもしばらく続く。

交差点の南側国道と私の歩いている「銀の馬車道」は一直線につながり、北側国道が後から整備されたことがよく分かる。

福本南交差点で国道312号に戻る

14:47
播但線の「銀の馬車道」ラッピング電車は3編成あり、姫路駅に行くとかなりの確率で見ることができるが、神姫バスの「銀の馬車道」ラッピング車は少ないし、運行地域も限定されていて見ることは難しい。

しかし、国道312号線を歩いていると一日に何度も行き違うので珍しくもなんともなくなる。前方からやってくるバスを見て、もしかすると思いカメラを急いで取り出して撮ったが、1枚目は車両のお尻が画面からはみ出しているし、2枚目は電柱が邪魔だし、3・4枚目は離れすぎだし、動き物を撮るのは難しい。

ナンバーは「姫路200 か ・・32」、車両は日野レインボーRJ KK-RJ1JJHK改で、福崎駅前発の粟賀行きだった。

粟賀行きの「銀の馬車道」ラッピング神姫バス

14:52
越知川と国道312号線をまとめて跨ぐ播但連絡道路の橋梁(橋の名前は調べてみたが不明)を過ぎると神河町から市川町に変わるのだが、なぜか道路脇の標識は橋の手前が町境と主張している。

あの橋を過ぎれば市川町だ

第一章 朝来市生野町編に戻る。

第三章 市川町編へ進む。

第四章 福崎町編へ進む。

第五章 姫路市北部編へ進む。

第六章 姫路市南部編へ進む。



スポンサード リンク



山行記録にもどるホームにもどる本ページのトップ






;