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銀の馬車道を歩く 第五章 姫路市北部編



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平成22年4月30日(金)  メンバー おひとりさま

福崎町〜姫路市北部の銀の馬車道〜姫路市南部

第一章 朝来市生野町編に戻る。

第ニ章 神河町編に戻る。

第三章 市川町編に戻る。

第四章 福崎町編に戻る。

第六章 姫路市南部編へ進む。


銀の馬車道(再掲)

生野鉱山(朝来市生野町)と姫路の飾磨津(港)間を結ぶ、全長49kmの日本初の高速産業道路が明治9年に開通している。その名を「生野鉱山道」あるいは「生野鉱山寮馬車道」という。明治28年の播但鉄道(今のJR播但線)の開通により馬車道として役目は終焉を迎えたが、その道跡の大部分は国道や県道になり、一部は舗装道路となってもかつての馬車道の名残を色濃く残している。

この道の愛称を「銀の馬車道」と名付け、播磨地域の南北交流のシンボルにしようという地域づくりの取り組みが、兵庫県中播磨県民局を中心として行われている。私はこの49kmの道のりを自分の足で歩き、「銀の馬車道」ファンを一人でも増やせたらと、ここに全線を歩いた記録を公開する。

「銀の馬車道−公式サイト」銀の馬車道−日本初の高速産業道路−の行政区分ごとのルート図。

1 朝来市生野町地域 2 神河町地域 3 市川町地域

4 福崎町地域 5 姫路北部地域 6 姫路南部地域


いつの間にか姫路市に入っていた

11:33
今は神崎酒造の醸造所となっているが、旧姫路藩西光寺野人参役所跡に着き、いつの間にか福崎町から姫路市に入っていることに気づいた。どこから姫路市だったのか引き返してみたが、結局分からなかった。

文政2年(1819年・江戸時代後期)から、姫路藩の財政再建のため、この西光寺野で高麗人参の栽培を試み始め、栽培技術の向上のための役所を設けた。その役所の名前が人参役所で、けして金時人参の生産性向上のためのものではなかった。

しかし、畑の土作りに2年、種を蒔いてから収穫までに6年、合計8年間もの年月を要する高麗人参栽培に嫌気がさしたのか、姫路藩から派遣されていた岡庭家は廃藩置県後に、一年勝負の酒造業に商い替えをした。よほど高麗人参の栽培が辛く嫌だったのだろう。

以来、岡庭家は酒造業を営み、今は神崎酒造有限会社と名を変えたが「龍王の舞」を代表とする純米酒を作り続けている。その純米酒「龍王の舞」だが、「銀の馬車道」ラベルバージョンが存在するようで、是非とも飲んでみたいのだがどこで売っているのだろう。

旧姫路藩西光寺野人参役所跡、今は神崎酒造

神崎酒造前の人参役所解説板

西光寺野人参役所跡(岡庭家)

 姫路藩家老河合寸翁は、藩の財政建て直しの一環として西光寺野の開発を手がけ、文政2年(1819年)には朝鮮人参の栽培を試みた。その後、この地に人参役所が設けられ、藩から薬用人として派遣された岡庭小平太・小兵衛父子などの努力で、人参栽培は明治初年まで続いた、
 人参役所は明治4年(1871年)の姫路百姓一揆によって消失し、明治8年に岡庭家は郡内初の酒造業に転じた。現在の建物はその時に再建されたものである。
岡庭家の東方約200m、長池の堤防下に土中に少し埋もれた顕彰碑がある。碑文は一部しか判読できないが、河合寸翁の西光寺の開発の功績を讃えたものである。

平成15年3月  姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会

11:44
良質の瓦製造用粘土を求めて、文化2年(1805年)に姫路藩御用瓦師がここ(今は姫路市になっているが、当時は神崎郡船津村)に窯を開いて以来、昭和の始めまで多くの瓦屋が軒を並べ「神崎瓦」の名前が広まったという。今は神社仏閣などを対象とした高級瓦の製造に特化している光洋製瓦株式会社、松岡瓦産業株式会社、そして小林伝統製瓦の3社しか残っていない。

古めかしい大沢公民館の前に「船津瓦発祥の地 馬車道跡」の石碑があり、当時はここに馬車用の休憩所、つまり今の高速道路のサービスエリアに相当するものがあったのだ。姫路の飾磨津(港)を早朝に発ち、生野には日が暮れてからようやく着いた49kmの道程に何カ所あった休憩所の一つで、茶店があったみたいだ。

船津 大沢公民館

石碑の裏面

船津瓦発祥の地
馬車道跡

船津連合自治会
船津御立自治会

船津瓦発祥の地
 文化2年(1805年)、姫路藩主の命により御用瓦師小林文衛門が良質の粘土の出る大沢に初めて瓦窯を築いた。後に、‘馬車道’が開通しここに休憩所(立場)ができてから「立場瓦」とも呼ばれた。

馬車道跡
 明治政府は、生野鉱山の再開発に伴い、資材や物資を運ぶために、生野から飾磨港まで馬車が通れる道を開いた。フランス人を技師に招き、当時の最高の土木技術を用いて明治9年(1876年)に完成した。
 この地が、往時の景観を最もよく残しています。

平成12年(2000年)9月吉日

12:06
後藤ダイカスト工場横は下り坂で、私と逆に生野へ向かう馬車にとっては大変なところだったろう。その先は広大な耕作地の中を行き、姫路市にこんなところがあるんのだなと感動してしまった。

福崎町内歴史探訪もよかったが、こんななにもない中を何も思い煩うことなく、のんびりと歩くのもいいな。

広大な耕作地の中を行く
遠くに見える建物は後藤ダイカスト工場

12:23
上野東交差点を通り過ぎた先の、焼野池の向こう岸に大きな杜が見える。どんな神社があるのか見に行きたいがちょっと遠回り過ぎるな。しかし、今この記録を打ち込みながら調べてみても、神社も寺もなさそうで、なぜにあそこだけ木々が残されているのかさらに疑問が大きくなってしまった。

焼野池の向う岸の杜は何なんだろう

12:38
遠くに見えていた畑山の山並みが、思いの他早く近づいてきた。正面のこんもりとした丘を城山(133m)と呼ぶらしく、ウエブで詳細を調べてみたら、なんとこの播州野歩記のページがヒットし、5年前に私自身が登っていることが分かった。そのときの記憶は完璧に忘却の彼方へと消え去ってしまったが、記録を残すことの重要性を再確認した。

なお、城山の頂上からは展望も何もなかったというが、麓から見て「そりゃ、当たり前だ」で、こんな山はよほどの偏屈者しか登らない。

正面の丘は城山(133m)だ
どうやら5年前に私が登っているらしい


太尾から南は県道218号線から市道に変わる

私の歩いてきた県道218号線(西田原姫路線)に、東側から県道117号線(豊富北条線)が合流して、ここから先の県道は西へ折れて播但自動車道の側道へとつながっている。で、ここから南の「銀の馬車道」は姫路市道になる。

姫路市道は市内に約9.600路線あり総延長は2,400kmを越え、市役所6階の建設総務課窓口で市道の道路台帳平面図を閲覧することができ、市道なのか否か、路線名や幅員、道路脇の溝が道路側溝か水路かの確認ができるという。そこまで暇ではないし、路線名をどうしても知りたいわけではないし、とりあえず市道には間違いないだろう。

12:42
城山の麓、太尾集落の外れに古い道標が立っている。いつの頃のか上部の傷が痛々しい、後期江戸時代のものだ。右は「姫路・広峰」、左は「丹波・北条」、歩いてきた道は「但馬・宍粟」と指し示しているのか。

道標の写真を撮っていると、姫路発の北条行きの神姫バスが道標の通りにやってきて走り去っていった。

太尾の道標

道標

右面‥天保三年任辰十二月 服部藤四郎
左面‥ひめじ ひろみね
正面‥たんば ほうでう
背面‥たじま 志そう

天保3年(1832年)

平成19年3月  豊富中学校区地域夢プラン実行委員会

12:46
太尾の集落の中を行く道は「銀の馬車道」時代と変わらない広さで、立ち退きに応じなかった家があったためか旧カーブが一箇所ある。それほどの狭隘区間でもないが、1時間に上り下り各1、2本の神姫バスが行き来していて、曲がり角内側の電柱は擦られまくっている。

太尾集落の中を行く「銀の馬車道」
昔のままの道幅だ

12:57
太尾集落を抜けると、東側は姫路市立豊富球場や墓地、西側は相変わらずの広々とした耕作地が広がる。レンゲの花が綺麗なのだが、お腹が少々すいてきた。

姫路駅から乗った寺前駅行きの始発電車の中で食べた、コンビニおにぎりが朝食だったので、そろそろお昼ご飯を考えなくてはいけないが、飲み物の自販機は所々にあるが、コンビニも飲食店も福崎市街を出てからは一軒も見かけなかった。まだザックに忍ばせた非常食を食べたくなるほどの空腹ではないので、もう少し先に行ってみよう。

レンゲの花が綺麗だな

13:05
お腹が空いてきたのと、もう一つ問題を抱えていた。ちょっとに前に「何も思い煩うことなく」などと書いているが、人間は煩悩にまみれて生きるものなり。この道が本当に「銀の馬車道」なのか、ウォーキングマップを見ると間違いないのだが、なにか証拠が欲しくなてきた。

そんな、私の思いを見透かすかのように、「銀の馬車道」の幟が道端のちょっとした空き地にあった。「不法投棄禁止 見ています 違反すれば法律により処罰されます。」の警告板の睨みなどどこ吹く風で、空き地は不法投棄物の廃材にまみれていて、掲げられた幟も、風で支柱にぐるぐる巻きになりゴミみたいになっていた。それを、なんとかほぐし写真をパチリ。一枚の写真の中には色々な演出が込められいるのだ。

レンゲ畑が終わるところに
「銀の馬車道」の幟がはためいていた

左手に豊富小学校、豊富中学校を見て、県道373号線と交わる金竹交差点を過ぎると、交通量が一気に増えてきた。

東から神谷川が「銀の馬車道」に寄り添うように近づいてきたが、その間には堰堤があり車道からは見ることはできない。堰堤上の歩道なら車のことなど気にせずに、神谷川の流れを見ながら歩けるだろうが、それでは僅かではあるが「銀の馬車道」から離れることになる。急に完璧主義者になった私にとって、許すことはできない。

13:21
その神谷川の堤防に、法華山一乗寺と書写山円教寺を結ぶ巡礼道の、今よりも川幅が狭い神谷川に架かっていた石橋の親柱だったのだろうか、石碑が立っている。

神谷川堤防に立つ巡礼橋の石碑

巡礼橋の石碑の解説板

巡礼橋の碑

 神谷川の堤防に立つ明治17年につくられた碑。堤防下のバス道は、明治初めに建設された馬車道のあと。道の反対側には、清水が湧きそばに地蔵堂がある。宝暦12年(1762年)の地蔵をまつるが北向きにお堂があるのは珍しい。巡礼は、書写、広峰から東進し、巡礼橋を通り、神谷川に沿って南山麓を東に神谷の谷間に入り、法華山一乗寺へおまいりしていた。巡礼道は、信仰の道であり、観光の道でもあった。付近の家々は、昔は屋号(御東・油屋・カマス屋・タドン屋・桶屋・木屋・筆屋・古屋・新屋など)で呼ばれ、巡礼が通っていた頃の賑わいを偲ぶことのできる場所である。巡礼橋は巡礼に還元する意味もあり、当時としてはめずらしく、総石造りであった。現在、神谷川が拡幅され、鉄筋コンクリート製になっているのが惜しまれる。

平成19年3月 豊富中学校区地域夢プラン実行委員会



県道218号線が戻ってきた

13:36
何回目になるのか、御蔭交差点の先でまたまた播但自動車道と交差する。途中から播但自動車道の側道に成り果てていた県道218号線が、「ここから銀の馬車道に戻ってもよいですか」と頭を下げてきた。まあ許してやるか。

播但自動車道と交差する手前で
側道になっていた県道218号線が銀の馬車道に復帰する

13:44
市川沿いに歩いていたはずが、どこで別れたのか忘れてしまったほどの久方ぶりの市川だ。でももうすぐ2時になるし、お腹の虫が鳴き出したし、「おっ、あれはもしかして」。

市川と久しぶりに再会するもお腹がすいたな

13:55
「やったぁ、ラーメン屋だ」。隣に寿司屋もあるが、一歩でも近い尾道ラーメンに入店。

市川沿いの尾道ラーメン

注文したのは、もちろんビールと尾道ラーメン。すぐさま出てきたアサヒビンビール、五臓六腑にしみわたり、生まれてきてよかったなとしみじみと思う。

待つことしばし、尾道ラーメンの登場。しょうゆ味のラーメンの具はネギとチャーシューと煮卵、空腹の私にとっては何でも美味しかったろうが、ことのほかの美味しさだった。

尾道ラーメン(550円) 美味しかったよ

(尾道ラーメンのお品書き)

尾道ラーメン550円
尾道濃口ラーメン550円
尾道チャーシューメン780円
尾道みそラーメン650円
  
コーンラーメン600円
塩ラーメン600円
スペシャルジャンボチャーシューメン1200円
スペシャルジャンボラーメン950円
塩バターラーメン750円
みそバターラーメン750円
あんかけラーメン750円
カレーラーメン680円
トンカツラーメン700円
ミソホルモンラーメン830円
  
チャーハン530円
ミニチャーハン300円
ギョーザ280円
ライス 大230円
ライス 中180円
ライス 小150円
  
おでん各 100円
おつまみチャーシュー400円
コーヒー100円
380円
アサヒビール500円

14:33
尾道ラーメンを後にして、今日中に飾磨津(港)まで行くぞ。いや行きたいな、行けたらいいな、行けるかなと市川沿いの県道218号線を歩き始める。すぐ先で市川を渡る橋が「生野橋」だ。

生野橋はもう近い

14:43
生野橋を渡る前に、「銀の馬車道」時代の初代の生野橋、そして二代目の生野橋が架かっていたという100mほど下流へと寄り道する。

この寄り道には注意すべきことが一つある。この市川左岸側の橋の下には住人がいて、このときは茶色のぼうぼうの髪の毛の頭がごろりと、危うく叫ぶところだったが、たぶん生きていると思う。

渡る前に、左岸側の旧道を見に行く

旧道は、行く手を岸辺に迫ろうとする岩崖によって遮られ行き止まりとなり、そこには「砥堀水位観測所」が市川に橋脚を立ている。

旧道は砥堀水位観測所で行き止まり

川の中には水位計測装置のH鋼組みと、その先に二代目の橋脚の名残といわれるものがぽつんと二つ水面から先っちょを出している。でも、橋脚にしては細すぎるし、今の三代目生野橋に架け換えられてから40年も経ているのに、痕跡が残っているのも不思議だ。

今の水位観測装置は岸近くに設けられているが、以前は川の真ん中にあったのではと想像するのだが。

市川に残る旧生野橋の痕跡??
手前は水位観測装置

「銀の馬車道」は市川を二回しか渡らない。一度目は朝来市生野の盛明橋、そして二度目がこの「生野橋」だ。この周辺には生野という地名は存在せず、橋の名前の由来は「銀の馬車道」の出発地点の生野、そして「銀の馬車道」の正式な名称「生野鉱山道・「生野鉱山寮馬車道」によるものとしか思えない。


生野橋で市川を渡る

12:55
生野橋を渡ると、県道218号線は国道312号線を目指し真っ直ぐ西へと進むが、「銀の馬車道」は左に折れ、市川右岸沿いを進む。

そして、「銀の馬車道」時代の四角四面な石碑が道端に立っている。「銀の馬車道」を完成記念の「馬車道修築」石碑だ。起点でも終点でもないこの生野橋のほとりに立てられたのは、「銀の馬車道」のなかでも最大の難工事であったためだろうか。

初代生野橋が架かった当時の市川には渡し船があるだけで、架かる橋は一本もなく、生野橋周辺にも家など一軒もなかったという。

生野橋袂に立つ「馬車道修築」石碑

碑文は下になるほど読み難くなり、私の旧字体漢字の知識が生まれたばかりの子猫レベルなのも合わせて、正確度は80%以下。誰かがすでに碑文内容を記録しているのではとウェブを捜すが、何もでてこない。

これだけ写真を撮っておけば解読するのは簡単だろうと100回ほどシャッターを切ったが、フォーカス系が不調のカメラではピントが微妙に甘く解読できない文字があった。そしてこの石碑解読のためだけに、第七次踏査隊を組織し、1時間ほど石碑を睨みつけた。結論は百数十年前の石碑を読むためには、旧字体漢字への比類なき深き愛情が欠かせないことを理解した。でも今の私には、旧字体漢字を理解するための基礎的な漢字力もない。

そして細かな碑文を読み取るためには、光の当たりかたにより見え方が左右される写真撮影や目視よりも、拓本の方が適しているのでは思い始めたが、なかなかと奥の深そうな世界で、これも諦めた。従って、もうこれ以上の碑文の解読は行わない。

石碑南面 確信を持って言えるが、誤読誤字が沢山ある

馬車道修築

技長 佛蘭西國人   シスレイ
通辧 鑛山寮十三等出仕技術
心得      浅田英吉
高嶋得三
主計 鑛山大属   齋藤善孝
鑛山権中属 津田壽昇

 但馬國生野諸山ハ大体金鑛ニシテ昔ヨリ世ニ名アリ然レドモ稼キ採ルモノ要法ヲ知ラス小利ヲ貪リ漸ク衰廢ニ赴ク
 朝議因テ官坑トナシ明治元年十月盛明命ヲ奉シコレヲ督セルヨリ以降但播暴民ノ災ヤ土人ノ【糸へんに介】榎ヤ外國人を狙撃スルヤ數難鍾テ至ル搶當刻苦コレニ六年盛明曾テ挫折セス豫ノ佛蘭西國ニ誂シ大器械ヲ調ヒ順次経営シ尽ク古弊ヲ除クヲ得タリ而シテ生野通路出入運輸甚ダ艱シ故ニ自ラ山川ノ形勢ヲ實檢シ方法ヲ立
 奏聞ヲ經テ六年七月此輩ニ授ケ馬車道ヲ築カシム是ヲ新廰ニ起シ播州飾磨津物揚場ニ達シ長十二里十五丁石ヲ疊ミ砂ヲ敷キ高低ハ平均シ川沢ニハ橋ヲ架シ夙夜怠ラズ三周年ニシテ功ヲセリ衆人称ス我國未ダ曾テ有ラサル也今官物ヲ逓送スル三年前ニ比スルニ費ノ省ク十ノ六七八居ル加ルニ土人商旅ノ福ヒヲ家ハ寂モ多シ寞ノ事体亦整フト云フベシ此後事業進々止マラズ終ニ万那ニ秀出スル大利益ヲ立シテ豊供カラスヤ因テ官事教員ノ記シ飾カ其勞ヲ慰スルノミ維時明治九年四月盛明任ヲ受テヨリ亦九年也

鑛山助正六位朝倉盛明誌

石碑北面

飾磨縣下姫路材木街
石工居村

毛平□刻

石碑西面

築造協輔
鑛山寮大属  小林八郎
鑛山一等少手 加藤正矩

石碑の脇に「銀の馬車道」案内板が立っている。白いものをデジカメで撮ると灰色になってしまうのは知識としては知っているが、そのために露出を補正するなどめんどくさ過ぎて私にはできない。あくまでも主目的は歩いた登った記録を『公開し自己顕示欲を満足』することにある、写真撮影はそのための手段の一つにしか過ぎない。

世の中には、趣味は写真撮影と言ってはばからない人が大勢いるが、写真撮影など目的達成の一手段にしか過ぎないと思っている私は少数派なのか。

馬車道修築碑の脇に立つ「銀の馬車道」案内板

「銀の馬車道」

 生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。
 市川の左岸を南下する馬車道のルートを決める中で、飾磨津(港)に至るためには市川を渡る必要があり、どこに橋を架けるかを調査検討した結果、この地が選ばれました。しかし、川幅は100mを越えており、橋脚を補強する必要もあったため、馬車道最大の難工事でした。
 そのため、馬車道の完成を記念する修築の碑が、関係者の中で一番印象に深かったこの地に建てられ、また、橋の名も「生野橋」と命名されました。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)

15:13
市川沿いを南進すると、そこはホテル街だった。「おひるねラッコ砥堀店」、「おひるねラッコ姫路ロイヤル店」、「ホテルファインガーデン姫路」、「ホテルサラベルナーレ姫路」と並び、昼夜を問わず愛が育まれ、日本の少子化対策の要となる重要な施設群だ。

市川沿いに建ち並ぶホテル・ホテル……

15:17
保城北交差点で、「銀の馬車道」は国道312号線を横切る。そして国道を横切った先で山陽自動車道と交差する。播但連絡道路とは数え切れないほど交差したが、山陽自動車道とはこれ一回きりだ。

保城北交差点で国道312号線を斜めに横切り
その先で山陽自動車道と交差する

第一章 朝来市生野町編に戻る。

第ニ章 神河町編に戻る。

第三章 市川町編に戻る。

第四章 福崎町編に戻る。

第六章 姫路市南部編へ進む。



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