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銀の馬車道を歩く 第三章 市川町編



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平成22年4月24日(土)と30日(金)  メンバー おひとりさま

神河町〜市川町内の銀の馬車道〜福崎町

第一章 朝来市生野町編に戻る。

第ニ章 神河町編に戻る。

第四章 福崎町編へ進む。

第五章 姫路市北部編へ進む。

第六章 姫路市南部編へ進む。


銀の馬車道(再掲)

生野鉱山(朝来市生野町)と姫路の飾磨津(港)間を結ぶ、全長49kmの日本初の高速産業道路が明治9年に開通している。その名を「生野鉱山道」あるいは「生野鉱山寮馬車道」という。明治28年の播但鉄道(今のJR播但線)の開通により馬車道として役目は終焉を迎えたが、その道跡の大部分は国道や県道になり、一部は舗装道路となってもかつての馬車道の名残を色濃く残している。

この道の愛称を「銀の馬車道」と名付け、播磨地域の南北交流のシンボルにしようという地域づくりの取り組みが、兵庫県中播磨県民局を中心として行われている。私はこの49kmの道のりを自分の足で歩き、「銀の馬車道」ファンを一人でも増やせたらと、ここに全線を歩いた記録を公開する。

「銀の馬車道−公式サイト」銀の馬車道−日本初の高速産業道路−の行政区分ごとのルート図。

1 朝来市生野町地域 2 神河町地域 3 市川町地域

4 福崎町地域 5 姫路北部地域 6 姫路南部地域


屋形の町並みから鶴居駅へ

14:05
市川町に入ると、離れていた市川が猪篠川と合流し川幅が広くなってきた。そして左手から岩壁が近づいてくると、「立壁大師」と書かれた古い柵が道端に現われる。車で通りかかると一瞬で通り過ぎてしまい、いったい何なんだろうと疑問を抱いていたが、ついに晴らす日がやってきた。

場所は、播但連絡道路市川北ランプのすぐ北側だ。

国道横の「立壁大師」
十年来の謎がようやく解かれる時が来た

30mほど登るとお堂が建っていて、洞窟内の厨子に大日如来と弘法大師が祀られているというが、その前のお堂が洞窟を隠しているのか、その全容はうかがえない。でも、国道沿いの灌漑用水の安全を祈願して建てられたことが分かった。

立壁大師のお堂
中に石製の厨子がある

立壁大師縁起概記

 屋形太郎大夫山(1046番地の3)の一郭、通称「立壁」の洞窟内厨子に胎蔵界大日如来・弘法大師の合祀がなされている。厨子には安永8巳亥(1779年)の銘記あり。
 境内参道入口には文政11年(1821年)11月吉日大師願主、中村の石灯籠1帰がある。
 際立つ岩壁下部は国道312号線に接し、直下は屋形村灌漑用導水路(現在300mに亘り暗渠化)の擁護、村内39丁部に及ぶ治水を現出し現在に及び草創より七難即滅、七福即生、殖産の礎として尊崇を集めているところである。

平成14年8月吉日  啓白

祭祀
一、年 祭  3月21日
一、月例祭  毎月21日  (屋形郷大師講)

15:14
立壁大師で一休みした後、市川北ランプ出入口へ進むと、なんと歩道は地下道へと続きランプ進入路の下を潜り抜ける。

地下道を出た先には歩道はなく、これまた歩道のない国道川側へ渡る横断歩道へと歩行者を誘導している。まあ信号機があるので安全ではあるが、それならランプ出入り口の北側にも横断歩道を設ければすむ話だと思うのだが。

地下道のある市川北ランプの進入路交差点

横断歩道を渡って歩道のない川側を右側通行を守って進んでいくと、左側に歩道が現われた。危険な歩道のない右側をそのまま進むか、はたまた危険を冒して国道を渡り左側の安全な歩道を進むか、判断に迷ったが危険で安全な後者を選んだ。

15:20
だがその判断が誤りであったことにすぐに気づかされた。「銀の馬車道」は国道を西へ離れ屋形の集落の中を進むのだが、その入口には横断歩道はなく、またまた交通量の多い国道を渡る羽目に陥ってしまったのだ

屋形集落への分岐点に横断歩道はない

15:21
横断歩道まで引き返すのも癪なので、車両の通行が途切れたときに国道を渡り屋形への脇道に入る。

脇道出口になにか案内板があるな

「銀の馬車道 屋形区」の案内板が立ち、この屋形集落への道が「銀の馬車道」であることが分かる。そして、この脇道出口のシケインさえなければ、脇道と国道は真っ直ぐにつながる事から、この脇道がかつては国道であった時代があることは容易に想像できる。

そして、屋形集落の皆様の我侭ぶりも伝えられている。屋形は但馬街道の宿場町として栄え、江戸末期には9軒もの宿屋があったという。だが町中を行く但馬街道は狭く、そのままでは「銀の馬車道」を通すことは出来ず、現在の国道ルートを通るバイパスが計画された。そんなことになっては宿場町である屋形の経済が成り立たないから、家屋の移転費用は町で持つからバイパスは止めてくれと嘆願書を出し、バイパス案は無事にとり止めになった。

そして月日は巡り昭和45年(1970年)、一般国道312号線として指定され、屋形の集落を通る「銀の馬車道」もそのまま国道となり交通量は増大し事故が相次いだ。これは困ったと、今度はバイパスを通してくれと陳情し昭和51年(1976年)に無事にバイパスが完成した。

誠に我侭なことだが、そのときどきに応じて臨機応変に「賢者は考えを変えるが、愚者はけっして 変えない」とも言うし、よいことではと思う。

市川町の力の入れ方が伝わってくる
「銀の馬車道」案内板

15:31
古い家並みが続く屋形の中に、唐突に「銀の馬車道」案内が立っている。この路地の先には市川町立屋形保育所があり、表側の表示は「飛び出し注意!」になっている。それの裏面を利用したものだ。でも保育園児に「飛び出し注意!」が読めるかどうかが心配だし、崩れかけた土塀にはたして補修する時がくるのかもさらに心配だ。

この案内板だけ見ると
左の保育所へ行く道が「銀の馬車道」みたいだな

15:33
風情のある屋形の家並みが続く。でもこの道幅で国道に指定するとは、ここをバスやトラックが走り抜けていたなんて信じられない。

この狭い道が6年間も国道に指定されていた

歴史ある町並みを花々で彩ろうと、地域の方たちが、中播磨県民局の助成を得て企画したのが「花宿場町」で、地元の200軒にプランターを配り花を育て始めた(「神戸新聞 地才地創 わたしたちのたからもの」より)。2007年に始まった企画は4年経ても廃れることなく、益々盛んになっている。

銀の馬車道を彩る花宿場町の花々

15:39
屋形の集落から、本日の終了点となる鶴居駅へは市川を渡らなければならない。そこに架かる橋は、昭和8年に日本の持てる橋梁技術をありったけ投入して架橋した「屋形橋(全長139m、幅5m)」だ。橋の形式は業界用語で「下路鉄筋コンクリートアーチ橋」というものらしいが、橋が架かった当時は鶴居駅寄りに連続してもう一つアーチがあったという。

上流側に人道橋も架かっていて、狭い屋形橋を無理して渡る必要はないのだが、人が写り込むことで、その大きさが良くわかり、「なんだ、屋形橋たいしたことないな」と判断を下す人も多いだろう。でも昭和8年と言えば今から77年前のことで、いまは半分になってしまったが当時のままの姿を保っているのは凄いことなのだ。わずか38年前に新大阪岡山間が、35年前に岡山博多間が開通した、山陽新幹線のトンネルや高架橋のコンクリートがぼろぼろと崩れ続けているのとは大違いだ。

屋形の集落と鶴居駅をつなぐ屋形橋

15:45
屋形橋を渡り、真っ直ぐ進むと鶴居駅は近い。ビールの自販機が置かれた酒屋さんを横目に見ながら、そして駅前広場の馬宿り案内板を横目で見ながら、駅舎へと足早に進み時刻表を見ると、あと10分たらずで姫路駅行きの電車がやってくる。

姫路駅・寺前駅間の電車区間は無人駅でも自動券売機が設置してあり、ワンマン運転の電車でも車内の整理券発行機から整理券を取ることはない。そして仮に下車駅が無人駅でも回収箱に切符を入れればすむので、ワンマン列車のバスみたいな整理券発行機と運賃投入箱がいるのか非常に疑問だ。

まあ、寺前駅以北の気動車区間の無人駅には自動券売機さえもない駅が存在するので、車内発行の整理券の意味もあるが、腑に落ちない。

鶴居駅に到着し、本日の銀の馬車道歩きは終了
急いでいたのか写真の水平がだめだな

ビールを取るか、馬宿り案内板を撮るかどちらかにするか迷った。でもビールはいつでもあるが、この案内板は次に来た時まであるとは限らない。自動車がぶつかって壊してしまうかもしれない。

鶴居駅前の馬宿り案内看板

銀の馬車道 馬宿り 鶴居地区

@ 鶴居水路
 寺前駅東付近の市川から取水する、延長約5kmのかんがい用水路として区の農業を支えています。水利権について苦労した先人たちの記録が、古文書として保存されています。

A 屋形橋・道路元標
 屋形橋は、建設当時では珍しいアーチ橋でありました。橋西詰交差点には、大正9年(1920年)に道路の正確な距離測定のしるしとされた道路元標が残っています。

B 橋本忍生家
 「羅生門」「7人の侍」「私は回になりたい」「砂の器」「八甲田山」などの、多くのシナリオを生みだした日本を代表する脚本家の生家があります。また、故郷を想い鶴居小学校の校歌を作詞されております。

C 稲荷神社
 稲を守る神として信仰されており、寛政6年(1794年)から続いている秋祭りでは、神輿や屋台が練り合わされ、長持ち祭事も奉納されています。

D 鶴居清水
 名将と名高い室町幕府播磨守護の赤松円心が、飲んだろされる名水として古くから伝えられています。
 そばには、日の元地蔵と刻まれた石地蔵が祀られています。

E 稲荷山城跡・登山道
 地域では、「城山」と呼ばれており、赤松円心の孫永良三郎則綱が南北朝時代後半(1336年〜1392年)に築城し、播磨北部の守りの要所とされていました。
 山頂への道も整備され、ここからの眺望は一見の価値があります。

鶴居区・銀の馬車道ネットワーク協議会

15:53
やって来た姫路駅行きは、銀の馬車道ラッピング電車だった。3編成あるラッピング電車は、登場順に、赤色は1号、青色は2号、黄色は3号と、1両だけの鉱石の道・銀の馬車道ラッピングディーゼル車は4号と呼ばれている。

姫路駅行きは「銀の馬車道」ラッピング電車2号だった

かくして9時間近くに及んだ、私の銀の馬車道第一次踏査は終った。


第六次踏査で立ち寄った播但連絡道路市川サービスエリア

第二次踏査を報告する前に、第六次踏査で播但連絡道路市川サービスエリアに『徒歩』で寄り道した時のことを記す。市川サービスエリアに平成21年10月26日に「銀の馬車道」を紹介する展示ブースがオープンし、そしてレストランでは「銀の馬車道」の名を冠したメニューが新たに加わったという。これは万難を排しても、従業員入口からもぐりこむことになっても、歩いて行かねばならない。

屋形への道に入らずに、国道312号線を南に700mほど進むと、山裾に市川サービスエリアが見えてくる。そして廃貨車が置かれた南側の道がサービスエリアへと続いている。

山裾にある建物群が市川サービスエリア
この貨車の横の道を行くと

突き当たりが近づくと「……禁止」というの見えてきて、進入禁止か立入禁止かと、入れないのかと半分諦めるも、さらに近づくと「不法投棄ゴミ禁止」だった。

こんなところに着き

別段、関係者以外駐車禁止の表示もないし、駐車スペースも十分空いているし、ここまで車で来てサービスエリアだけを利用することも出来そう。但し、すんなりと入れたらだが。

従業員の車かな

左手奥に進むと、サービスエリアへと登る階段が現われ、扉があるわけでもチェーンが張られているわけでもなく、逆に「いらっしゃいませ」の表示があるわけではないが、出入りは自由。でも、納品業者の人も荷物を抱えて、この階段を登っているのだろうか。

手摺のある擬木の階段がある

途中に踊り場がある、結構長い階段だ。

階段を登って行くと

播但連絡道路公式HPのSA・PAガイド 市川サービスエリアに記載されている北行SAと南行SAを行き来する地下道へと階段は通じていた。銀の馬車道展示ブースとレストランは北行側にあるので、地下道には入らずに左手の階段をさらに登る。

この地下道は南行きのサービスエリアに行くのか

ここは展望デッキかな。

地下道に入らずに左の階段を登ると

さらに階段を登ると、そこはサービスエリア内の駐車場だった。

ありゃ不思議
そこは市川サービスエリアの駐車場だった

営業時間8時から20時の、神姫バス関連会社のシンキ興業が運営するお土産・物販店とレストランのある「市川神姫レストラン」の中に、銀の馬車道展示ブースがあった。でも、あまり見る価値がある、あるいは初めて見るものはなくちょっとがっかり。でもここで6枚セットの銀の馬車道ウォーキングマップとパンフレットを入手できたのでよしとしよう。

銀の馬車道展示ブース

さて、お目当てのレストランは展望もよく、広々とした快適なものであった。どのSAでも同じだろうが、ここも食券を自販機で買い、料理が出来たら自分でテーブルに運び、食べ終えたら返却口に返すというフルセルフサービスだ。

眺めのよいレストラン

そして食べたのは、地元の特産品を活用した「銀の馬車道夢街道(1,100円)」だ。基本構成は「市川町地卵の出し巻き、神崎町のゆずのデザート、生野黒川渓谷のあまごの甘露煮、四季折々の炊き込みご飯、福崎町のもち麦麺」だが、時期によりその内容は変わる。今日は炊き込みご飯がちらし寿司、ゆずのデザートがサツマイモのデザートにと変更になっていた。

もち麦麺については、次章で詳細に記述する予定なのでこの章では触れないが、写真の蕎麦のような色をしているが“もち麦麺=うどん”だ。味のほうは、サービスエリアのレストランにあまり期待をしてはいけない見本のような、まあこんなもんかなという程の………ごにゅごにょ。美味しく頂きました。

銀の馬車道夢街道

(市川神姫レストランのメニュー)

月見うどん420円
きつねうどん420円
かき揚げうどん580円
山菜うどん450円
カレーうどん580円
すじ玉うどん680円
モーニング・ドリンク150円
  
月見そば420円
たぬきそば420円
かき揚げそば580円
山菜そば450円
カレーそば580円
すじ玉そば680円
コーヒー・ドリンク300円
  
しょうゆラーメン420円
しょうゆチャーシュー麺650円
みそラーメン580円
みそチャーシュー麺700円
もちむぎ麺(温)650円
モーニングA300円
  
しょうゆラーメン定食800円
みそラーメン定食850円
ちらし寿司セット850円
銀の馬車道夢街道1100円
モーニングB580円
  
とんかつ定食900円
和風とんかつ定食900円
野菜炒め定食850円
からあげ定食780円
季節の天ぷら定食980円
銀の馬車道清流の里980円
朝定食580円
  
かつ丼850円
みそかつ丼850円
親子丼700円
牛丼600円
カツカレー850円
ビーフカレー600円
大辛ハパネロカレー650円
  
ライス150円
いなり寿司150円
生玉子50円
お子様セット450円
ホットケーキセット530円
ノンアルコールビール(キリンフリー)
 350円

最後の「銀の馬車道」踏査になるかもしれないので、家族のお土産に買ったのが、パリッとした最中の皮と、餅入りの餡が美味しい「銀の馬車道 つくりゃんせ 合わせ最中」(6ケ入り1050円)。

銀の馬車道 つくりゃんせ 合わせ最中


銀の馬車道第二次踏査の始まりは鶴居駅から

6:25
銀の馬車道第二次踏査も、姫路駅から播但線寺前駅行きの始発で、鶴居駅に到着。上りでも下りでも、行き違いや追い越しがない限り、駅舎側の1番線ホームに電車は止まるみたいだ。

姫路駅発、寺前駅行きの始発列車で鶴居駅に下車

今回の私はマスクをして両手に杖を持ている。マスクは、国道沿いに車の排気ガスを浴びながら歩くことが健康に悪影響を与えそうな気がして、去年に大量のマスクを備蓄したこともあり使ってみた。これは結構よかった。

両手に持つ杖は、ノルディックウォーキング用ポールで、両腕そして上半身の筋肉を使い、足腰に対する負担を軽減し長時間の歩行を可能にするものだ。但し上半身を十分に鍛えておかないと、下半身と共倒れになりかねない。

そして山歩きに使っているトレッキング用ポールでもそうなのだが、セルフポートレイト撮影用の三脚との相性が、長物と長物のつば迫り合いとなり最悪。結局、歩く分には足は楽なのだが、途中からポールを使うのを止めてしまった。

排気ガス対策のマスクをして
ノルディックウォーキング用ポールを持ち
早朝の鶴居駅から歩き始める

6:41
鶴居駅から東へ、市川に架かる屋形橋を渡り、宿場町だった屋形集落から「銀の馬車道」歩きを再開する。

北から来た「銀の馬車道」を道なりに進むと、西へ曲がり屋形橋へ行ってしまう。その曲がり角から南に路地みたいな狭い道があるが、それが南へ続く「銀の馬車道」だ。でもこの路地が6年もの長期間にわたり国道であったなんて信じられない。

この狭い道が「銀の馬車道」の続きだ

6:44
南無阿弥陀仏と刻まれた石碑の横に「銀の馬車道」案内板が立っていて、屋形の集落の中を「銀の馬車道」が貫いた由来が書かれている。

屋形の「銀の馬車道」案内板

「銀の馬車道」

 生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 この屋形の地区については、当初、集落を避けて新たにバイパスを設ける計画でしたが、これに対して地元住民が「宿場町である屋形が、バイパスによってさびれてしまう。」との理由から強く反対し、再三にわたり嘆願書を提出しました。
 この熱意が実り、バイパス計画は中止され、家屋の移転費用20円が播磨県から屋形に支払われるとともに、この馬車道が整備されました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)


6:46
一部は拡幅されているが、私が歩いているところからは昔からの道幅なのだろう。今となっては狭い道にしか過ぎないが、幅2mもない地道の但馬街道から、砕石舗装された道幅6mの「銀の馬車道」に変わり、多くの人々が行き来し大賑わいしたのはもう過去のことで、今は誰一人歩いていない。

「銀の馬車道」が通っていたと思うと
そんな風に見える屋形の町並みを行く

6:54
屋形南交差点から「銀の馬車道」は国道312号線に復帰するが、交差点に出るところが小公園になっていて、この交差点から「銀の馬車道」へ車は入れない。

屋形南交差点から国道歩きを再開する

屋形南交差点から国道を北に戻ると、屋形地蔵祭りの場面を描いた陶板画と、その横に屋形地区馬宿り案内板が立っている。案内板は「銀の馬車道」沿いばかりではなく、こんなところや駅前にもあるようで、全てを網羅することは難しい。

屋形集落の東側を通る国道沿いの案内板
(第五次踏査で発見し撮影)

銀の馬車道 馬宿り 屋形地区

@ 屋形地蔵祭
 享保10年(1725年)頃、子供の疫病流行により地蔵を御祀えいしたのが始まりです。毎年8月23・24日には、3体の地蔵を御祀りしています。北海道鶴居村の中学生との交流の場であります。

A 宝樹寺
 永正5年(1508年)建立された当寺は、明治時代に後進小学校や郡役所として利用されました。第20代住職の上野泰庵は、南米ペルーに始めて仏教を布教した一人です。
 境内には、9代福本藩池田氏の墓碑が残っています。

B 懐徳碑・妙見ふれあい広場
 懐徳碑は明治27年に、旧福本藩の「屋形地行所」跡に、旗本池田氏ゆかりの人たちによって建立されました。
 敷地には妙見堂が建立されていましたが解体され、現在は地域の憩いの公園として活用されています。

C 立壁神社
 参道入口には、文政11年(1821年)建立された、石灯篭があり、毎月21日に大日如来、弘法大師を御祀りしています。

D 石神神社
 承応3年(1654年)に建立され、現在の本殿は元文4年(1739年)のものです。
 昔、毎夜怪光を放つ夜光石がこの地にあり、祠を建てお祀りしたところ疫病もなく五穀豊穣にめぐまれたという伝説があります。いつの頃からこの御神体はなくなりましたが、秋祭りなど区民の守り神として親しまれています。

E 飯盛山城跡・登山道
 山頂には赤松満祐が嘉吉年間(1441〜1443年)に築いた山城跡があります。区民による登山道の整備もされ、頂上からは区全域が一望できます。

屋形区・銀の馬車道ネットワーク協議会

7:01
屋形南交差点南東角の「銀の馬車道 花宿場町 屋形区 旧福本藩 屋形地行所 妙見ふれあい公園 池田氏 懐徳碑 平成19年度 銀の馬車道馬宿り 構想推進モデル事業 平成20年3月」の標柱に誘われ、妙見ふれあい公園に登ると思いのほか眺めがよい。さらに上部の飯盛山城跡まで登ったらどんな眺望が待っているのだろうか、一度登ってみたい。

なお、正面に見える尖がった峰は七種山と思うが、10回以上登った山だが東側から見るとあまり自信がない。

妙見ふれあい公園から西の山を見る
尖がっているのは七種山と思うが

7:09
山塊が東から迫り、市川にはさまれた狭隘部に、国道312号線と播但連絡道路が寄り添うように並ぶ。そして播州興業株式会社の看板が現われると、山側に続いていた歩道は途切れてしまう。いつの間にセンターラインもなくなり、道幅は国道にあるまじき狭さで「銀の馬車道」時代を髣髴させるよう。

JR播但線は、市川の西側の広々とした田園地帯の中を抜けているのに、国道も播但連絡道路も「銀の馬車道」の亡霊に見入れれたかのように、市川左岸に縛り付けれているのだ。

行き交うのが馬車ならのどかな風景だろうが、長大なトレーラーやダンプカーが爆音を響かせ、我が身のすぐ脇を疾走し、はっきり行って恐い。それは向うも同じで、対向車さえ鬱陶しい狭さの道に、人が歩いていることなど考えもしない場所に現われた私を、疫病神を見るような目で見ているに違いない。

ここから歩道が無くなる

7:25
15分ほどの、少しでも広いところで大型車をかわしながらのビクビクものの国道歩きは、ようやくこの先の播但連絡道路との交差橋の先で終わる。もっと狭いところでセルフポートレイトを撮りたかったが、三脚を立てるスペースもなく無理だった。

でも私が歩いている右側と、歩道が始まる左側の間には横断歩道はない。確かにこんな見通しの悪いところに横断歩道を設けるのは無理だが、歩行者が通ることなど微塵も配慮していない道路構造を改善しようとしない国土交通省のあり方に疑問を持った。誰かが犠牲にならなければならないのだろうか。

この交差の先の左側から歩道が始まる

交差を過ぎると、真っ直ぐに延びる国道312号線と、その西側を、これまた真っ直ぐな播但連絡道路がしばらく平行している。

7:37
長い直線部分が終わり、国道312号線と播但連絡道路が絡み合う大蛇のように何度も交差し始める。でも、歩道さえあれば、車のことなど全く気にせずに歩けるが、ドライバーはそうでもないみたいだ。そんなにオレンジ色のセンターラインを越えてまで、セルフポートレイトを撮るために歩くポーズを取る見るからに不審な私を避けなくても、よいと思う。

ちゃんと私は歩道を歩いているのに
そんなに避けなくてもよいと思う

そして全てのドライバーはこんな狭隘な区間は早く通り抜けたいと思い、歩行者など年に数人しかいないこんな場所に「銀の馬車道」案内板が立っている。

まじまじと案内板を見るのは、私が初めてではないかと思うほどだが、なぜか綺麗に保たれている。おそらく定期的に清掃しているものと思われる。

誰が見るのかな

「銀の馬車道」

 生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。

  @路盤部/耕土取除きの上、土砂混じり粗石
  A表層部/3cm程度の小石、暑さ15〜20cm
  B目つぶし砂利/1cm程度の豆砂利と砂
  C水田より60cm高くする

 マクアダム式道路(当時のハイウェイ)「馬車道」は、この最新技術を導入した日本で最も新しい道路でした。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)

播但連絡道路と国道の交差が、3箇所も連続する。この辺の道路の変遷を調べてみたら、播但連絡道路が開通する前も国道は現在のように曲がりくねっていて、連絡道路のために路線を変えたのはごく一部だけのよう。

3箇所の交差のうち北側

3箇所の交差のうち中央

3箇所の交差のうち南側

7:59
一番南側の交差部の直前東側に三つの小さな社が祀られている。何度も何度もここを車で通っていたが、これには気が付かなかった。

社から見上げると墓標が3基少し間隔をおき、市川の流れを望めるように高みに並べられているが、播但連絡道路が邪魔をしているのではと心配だ。

一番南側の交差部北東に並ぶ三つの社

西川辺川北隣保のお地蔵様

 西川辺の亀山山麓に、小堂が並んでいる。南の方は蓮弁の台座に、高さ78cmの丸彫座像の地蔵が載っている。その下方は三界萬霊塔になっている。北の方は、弘法大師供養塔であるがともに天明4年の造立である。この年は天明大飢饉の2年目で、悪疫が流行した年である。どうもそれと関係があるのではないかと思う。

石像遺物の神崎郡誌(上)大沢政雄 著」より



内藤氏顕彰碑と西川辺井

 その昔、西川辺周辺の田は、東川辺にある栗待池と小畑川の水だけが頼りだったため、しばしば旱魃に悩まされていたそうです。そこで内藤治次郎右衛門は市川に堰を造って水を引くことを考え実行しました。それ以後、水不足で困ることはありませんでした。正保2年(1645年)85歳で亡くなりましたが、井堰を眺めるところに葬ってほしいとの遺言のとおりこの地に墓が建てられました。現在、西川辺井は立派なコンクリートの井堰になっています。

「碑文拓本」より  合掌


8:05
市川町役場のある市川町中心市街を国道312号線は抜けるが、取り立てて「銀の馬車道」の名残は残っていないようだ。写真も町役場だけを撮ったものしかなかった。

市川町町役場


JR播但線甘地駅(第五次踏査)

別件で立ち寄った市川町文化センターまでの30分ほどの寄り道は記載しないが、第五次踏査で立ち寄った播但線甘地駅周辺の様子を綴ろう。

市川町役場から西へ市川を渡った先に、JR播但線甘地駅がある。鶴居駅と共に「銀の馬車道」ルートから近く、49kmもある「銀の馬車道」ウォーキングを中断・再開するポイントに適している。

一日の乗車人数は1000人に足らない簡易委託駅ではあるが、私が期待するローカル線の駅舎像と一致し、昔なつかしい。ただし、真っ赤な自販機を京都のマクドの看板が茶色になっているように、もっと地味な色に替え(鉄道弘済会売店に戻せとは言わない)、建具をアルミサッシから木製に戻したらもっともっと雰囲気がよくなる。

JR播但線甘地駅

駅前には馬宿り案内板ではないが「銀の馬車道周辺ルート案内 市川町へようこそ」案内板が立っている。

甘地駅前に立つ銀の馬車道案内板

銀の馬車道 周辺ルート案内 市川町へようこそ

“日本初の高速産業道路”銀の馬車道

 “銀の馬車道”(正式名称:生野鉱山寮馬車道)は、明治9年(1876年)、明治政府により生野鉱山と姫路市飾磨港を結ぶ約49kmにわたり、当時のヨーロッパ最先端技術であるマカダム式工法を採用し整備された馬車専用道路であり“日本初の高速産業道路”といえます。
 生野鉱山で産出・精錬された銀などを港まで運ぶとともに、銀鉱石などの製錬・製鉱に必要な石炭や物資、そこで働く人たちの日用品などを運ぶ南北物流の基盤として、近代日本の黎明期を支えました。
 その後、更なる輸送力向上を目指した播但鉄道(現JR播但線)が明治28年(1895年)に開通、「銀の馬車道」の役割は徐々に鉄道へと移行し、その姿を消していくことになりました。今では大部分が国道や県道に変わりましたがルートをたどれば記念碑など当時の面影が残っています。
 明治という新しい時代に生まれた「銀の馬車道」、行き交う人々や馬車、そして鉄道の賑わいに思いを馳せながら、「銀の馬車道」沿線をたどる旅をここから始めてみませんか!

散策ルート@ 内藤利八顕彰碑
 明治27年、JR播但線の前身である播但鉄道の建設を手がけた郷土の先覚者です。

散策ルートA 甘地の清水
 昔、弘法大師が旅の途中にお茶をご馳走になり、お礼に泉を湧きあがらせたとの伝説があります。

散策ルートB 谷山やしろの杜
 横倉山観音堂や四国八十八箇所霊場石仏群などの歴史的な景観を楽しむことができます。

散策ルートC 小室天満神社の大クスノキ
 根回り7m、樹高30mの巨木です。町天然記念物に指定されています。

散策ルートD 屋形の町並み
 宿場町として栄えた屋形地区は銀の馬車道のルートであり、古民家が点在し、古い町並みの散策が楽しめまます。

散策ルートE 屋形橋
 明治8年、当時の最新の技術でつくられた橋です。近代化遺産に登録されています。


ウォーキング散策コース (全8km 所要時間約3時間※見学時間含む)

START甘地駅(現在地)
   
@内藤利八(播但鉄道の創始者)顕彰碑
  (徒歩:約 5分)
A甘地の清水
  (徒歩:約35分)
B大歳神社
谷しろやまの杜 ※散策に1時間15分
  (徒歩:約25分)
C小室天満神社・大クスノキ
  (徒歩:約30分)
D屋形の町並み
  (徒歩:約10分)
E屋形橋
  (徒歩:約 2分)
GOOL鶴居駅

銀の馬車道ネットワーク協議会
(兵庫県・姫路市・福崎町・市川町・神河町・朝来市)

銀の馬車道案内看板の裏の「甘地駅前公園」の奥には、「銀の馬車道」にとっては刺客のような存在の、播但鉄道創設者である内藤利八氏の顕彰碑が鎮座している。

顕彰碑の趣意書を読むと、内藤利八氏は銀の馬車道を潰すだけでは飽き足らず、さらにさまざまな事業を起こし播州一円の開発と発展のために尽くした大人物だった。古きを壊し新しきを作らねば人類に進歩はありえない。そして古きを訪ね新しきを知ることの重要さを、「銀の馬車道」踏査によって知ることだできた。

播但線創設者 内藤利八氏 顕彰碑
(画像にマウスポインターを重ねると……)

 内藤利八氏は安政3年(1956年)1月6日神東郡川辺村(現神崎郡市川町東川辺で生まれる。幼時より学問を好み、寺子屋(長昌寺)住職より漢字の指導を受ける一方、早くから自由民権運動に加わっていた地元の大先輩でもあり、寺子屋の師匠でもあった岩崎兵三郎氏から語学や近代政治思想などの幅広い知識を吸収していった。
 政治家としての利八氏はこうした学問研究の中でしだいに育てれられていった。
 明治5年(1872年)学制施行と同時に村の小学校(市川町長昌寺に設置)の塾監となり、かたわら役場吏員としてシ地租改正の仕事などをし、翌6年には戸長として村政に参加する。
 明治14年(1881年)県会議員に当選、副議の要職に就く。
 翌15年(1882年)大隈重信の改進党に参画、同23年(1890年)7月、地元の熱い期待を背に日本政治史上初の衆議院選挙に兵庫7区より出馬、改進党議員として当選を果たす。
 播州、但馬の開発と発展のために、播州鉄道の敷設に尽瘁し、明治25年(1892年)に姫路〜寺前間を開通させ、さらに同28年(1895年)4月14日、飾磨〜生野間(49.2km9の全線を開通させた。同鉄道は明治39年(1906年)3月10日。和田山まで延長、山陰線と連絡させることができた。
 氏は地元の強い支持を得て、明治末年まで国会議員として国政に参画するかたわら、さきの播但鉄道敷設事業、さらに明治30年(1897年)姫路水力電気会社を設立し、発電と配電事業を起こし、同38年(1905年)関西電力寺前発電所を設立している。それらの事業に加えて、姫路商業銀行、播磨紡績等の会社創立に努めるなど、数々の業績を通じて播州一円の産業発展に大いに貢献した。
 大正10年(1921年)6月28日病歿、享年65歳。
 氏は国政と事業を通じて、わが国の近代化と播州一円の開発と発展のために、私利私欲を捨て、自ら常に清貧に甘んじながら尽瘁した生涯と  ここに町民こぞって、郷土の生んだ先覚者、内藤利八氏の多大な業績を心から讃えるとともに、長く後世に伝えるために顕彰碑を建立する。

平成3年3月吉日      市川町



もう少しで福崎町だ

8:51
岡部川に架かる落合橋を渡ると、市川町と福崎町の町境は近い。落合橋の手前に屋形の集落以来となる「銀の馬車道」案内板が立っている。ただ、内容はもう読み飽きたもので、新鮮味はない。

この先の落合橋を渡り500mも行くと福崎町だ

市川町最後の「銀の馬車道」案内板

「銀の馬車道」

 生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
 その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
 市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道」という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。

市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)

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