銀の馬車道を歩く 第四章 福崎町編
平成22年4月30日(金) メンバー おひとりさま
市川町〜福崎町内の銀の馬車道〜姫路市北部
第一章 朝来市生野町編に戻る。
第ニ章 神河町編に戻る。
第三章 市川町編に戻る。
第五章 姫路市北部編へ進む。
第六章 姫路市南部編へ進む。
銀の馬車道(再掲)
生野鉱山(朝来市生野町)と姫路の飾磨津(港)間を結ぶ、全長49kmの日本初の高速産業道路が明治9年に開通している。その名を「生野鉱山道」あるいは「生野鉱山寮馬車道」という。明治28年の播但鉄道(今のJR播但線)の開通により馬車道として役目は終焉を迎えたが、その道跡の大部分は国道や県道になり、一部は舗装道路となってもかつての馬車道の名残を色濃く残している。
この道の愛称を「銀の馬車道」と名付け、播磨地域の南北交流のシンボルにしようという地域づくりの取り組みが、兵庫県中播磨県民局を中心として行われている。私はこの49kmの道のりを自分の足で歩き、「銀の馬車道」ファンを一人でも増やせたらと、ここに全線を歩いた記録を公開する。
「銀の馬車道−公式サイト」銀の馬車道−日本初の高速産業道路−の行政区分ごとのルート図。
1 朝来市生野町地域 | 2 神河町地域 | 3 市川町地域 |
4 福崎町地域 | 5 姫路北部地域 | 6 姫路南部地域 |
ようこそ! 柳田國男生誕の町 福崎町
9:13
姫路駅からの播但線始発列車を鶴居駅で下車し、歩き始めてからもう少しで3時間になるころ、ようやく市川町と福崎町の境に着いた。
同じ神崎郡に属する市川町もそうなのだが、福崎町も平成の大合併などどこ吹く風で、自主路線を貫いたかのように見える。が、実は市川町は大河内町に振られ、福崎町は香寺町に振られた結果のようだ。振られたもの同士がくっつくのも虚しいのか、くっついても双方に利がなかったのか、当分このままなのかな。
市川町 82.70km2 13,870人(平成22年4月末)
福崎町 45.82km2 19,699人(平成22年4月末)
福崎町は、市川町に比べて人口は多いのに面積は狭い。そんなわけで地形的な要素もあるが、福崎町に入るとそこは町だった。
9:26
「銀の馬車道」案内板があるはずなのだがと探しながら行くと、次の交差点へ着いてしまった。おかしいなと引き返すと、マサキ医院の狭い植え込みの中に「銀の馬車道」案内板が立っていた。
「銀の馬車道」
生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道:という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。
ここは、福崎町内の馬車道です。福崎町内の馬車道は約7kmの道程です。
民俗学者柳田國男の生家や大庄屋三木家がある辻川界隈までは南方約1kmです。市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)
9:30
井ノ口交差点。右側の広い道が国道とばかり思っていたが、左の福崎市街への細い方が国道312号線とは知らなかった。右へ行くと大型店舗が並び、左手は柳田國男の生家のある辻川へと続く「銀の馬車道」だ。
9:36
「←柳田國男生家と記念館」の案内板が打ち付けられた明治時代に創業した松岡百貨店が、辻川北交差点の一角に異彩を放っている。営業は朝の7時から夜の8時までの「よろずや」、今のコンビニのような存在だ。
「銀の馬車道」は、この交差点を東へ辻川通りへと入っていく。かつて江戸時代から明治時代には、辻川通り界隈には商店が建ち並び、旅館や郡役所、大庄屋三木家もあり、福崎のメーンストリートだった。
ただし東向きの一方通行の道は狭く、車で来たなら、もう一つ南の辻川交差点から東へ入ったほうが賢明だ。
この交差点にも「銀の馬車道」案内板が立っている。
「銀の馬車道」
「銀の馬車道」は、明治の初め生野と姫路市飾磨港の間の約49kmを結ぶ道として作られた別名「生野銀山道」、「生野鉱山寮馬車道」とも呼ばれました。馬車専用道路で、「日本初の高速道路」です。
生野(朝来市)から市川町屋形を経て南下してきた馬車道は、この角を東へ向かいます。その先の馬車道沿いには、柳田國男生家跡(石碑)や大庄屋三木家があり、熊野神社の横から西光寺を通り姫路市へとつながります。※この道路元標は、大正9年(1920年)に位置が定められ、大正11年(1922年)にその場所に作られたものと考えられているもので、旧田原村内の道路の起点を示すものです。
■柳田國男生家(県指定文化財)
文化勲章を受章した民俗学者柳田國男(旧姓松岡)は医師であり国学者の松岡操の六男としてこの家に生まれました。もとはこの街道沿いにありましたが、現在は鈴の森神社の近くに移築されています。
國男はこの生家を「日本一小さい家だ」といい、そこから民俗学への志も源を発したといってよと著書「故郷七十年」の中に記しています。■大庄屋三木家住宅(県指定文化財)
三木家は英賀城主の後裔で秀吉の中国地方遠征後、この辻川に移り住み、姫路藩の大庄屋として地域の政治・文化の中心でした。古い建物は300年以上にもなります。平成16年に建物を譲り受け、現在は福崎町所有となっております。
柳田國男は10歳の頃1年間預けられ三木家の書物を読み耽っていました。福崎町/辻川界隈
見所満載の辻川界隈
辻川北交差点から東へ、一方通行の「銀の馬車道」そのままの道幅を保っている辻川通りを300mも行くと、広い通と交差する。福崎町の名誉町民第1号であり、そして福崎町最大の観光資源たる柳田國男の生家へと観光客(普通の観光客は徒歩や播但線で来る人は少なく、そのほとんどが自家用車でやってくる)を導く重要な道路ではあるが、辻川通りの雰囲気をかなり害していることは否めず、生家近くに設けられら観光客用駐車場もなんだかなと思うのは、徒歩旅行者の私だけが感じることができたものだろう。
9:45
そして、その広い通りを北へ150mも行くと、広くはないが狭くもない駐車場と立派なトイレがある「辻川山公園」だ。駐車場の東奥から柳田國男の生家へと続く遊歩道の入口に巌橋が架かっている。本来は「銀の馬車道」が岩尾川を渡る地点に架かっていたものだが、石橋のままでは道路を拡幅できない事もありここに移築されたものだ。
「辻川の南を流れる岩尾川(雲津川)という綺麗な細い川が流れている。北条の方から来る所に橋があり、その橋は私の見ている間に石橋にかけ代えられたのでよく知っている。それは姫路からくる国道がついた時のことであった。」(『故郷七十年』より)
柳田國男さんの辻川の思い出の中に巌橋があります。明治6年(1873年)以降、この馬車道(播磨「姫路」〜生野)として整備されました。その頃に石橋にかけ代えられた事を記しています。その後、道や雲津川の歴史の中で石橋の幅が広がりアスファルトがひかれたりと幾度となく変遷をとげてきました。
平成11年度の雲津川の改修時に川幅が広がり、元の場所に残す事が出来なくなりました。部材は保存しておき、このたびの整備に合わせて石橋を移設復元しました。安住の場として國男さんゆかりの辻川の地に・・・平成13年3月 福崎町教育委員会
ちょっと坂道を登り、東屋をぐるっと巻くと、柳田國男(明治8年〜昭和37年)の生家がある。東北地方の伝承を記録した「遠野物語」の著者として、民俗学者として有名な柳田國男はこの家で生まれ、9年間ほどを過ごしという。辻川通りから移築されてはいるが、鈴の森神社の鎮守の森を借景に、昔からここに建っていたかのように違和感を全く感じない。
今日は普通の金曜日だが、隣接する「柳田國男・松岡家顕彰記念館」、「神崎郡歴史民俗資料館(旧神崎郡役所」ともども、「祝日の翌日(重なる時は翌日及び翌々日)」と「月曜日」と「12月28日〜1月4日」は休館日なので、「昭和の日」の翌日に当たる今日は閉まっている。
でも、雨戸の閉まっている柳田國男の生家は休館日か、閉館時間しか見られないので貴重な風景ではある。負け犬の遠吠え、負け惜しみである。
県指定文化財 柳田國男生家
指定年月日 昭和47年3月24日
所有者・管理者 (財)柳田國男・松岡家顕彰会柳田國男は、明治8年(1875年)にこの家に生まれ、幼時10年間をここで過ごした。
彼は、この家を「日本一小さい家」といい、それ故に起こった家族の不幸から『故郷70年』の中で「この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよい」と語っている。
平面構成は、4帖半2間と3帖2間の整形四間間取り、田の字型である。江戸時代中期(18世紀中頃)の建築と考えられ、当時の一般農家の基本的平面計画を示す民家としても貴重である。平成5年11月 兵庫県教育委員会
第四次踏査と第五次踏査で、開館している柳田國男の生家を訪れているが、雨戸が開いているだけで外観的にはあまり変わりはない。なお生垣内に入るのには「柳田國男・松岡家顕彰記念館」と共通の入館料(大人200円、学生150円、生徒児童100円)が必要だ。でも家の中は土間に入れるだけで、畳の部屋には入れず、入館料を払う価値を見出せるのは柳田國男のファンだけかもしれない。
柳田國男の生家と「柳田國男・松岡家顕彰記念館」の間の奥に、木造2階建ての洋館風の「福崎町立神崎郡歴史民族資料館(旧神崎郡役所)」が建っている。この建物も辻川通りから移築されたもので、こんなに何でもかんでも移設移築しなくてもよかろうと思うのは私だけだろうか。おまけに顕彰記念館裏の狭苦しいところに押し込まれているし、意図が分からない。そのうち辻川通りに現存する「大庄屋三木家住宅」や「旧辻川郵便局」も、ここに持ってくるに違いない。
館内は館名の通りに民俗資料や雑多な事物が展示されていて、面白いといえば面白いが、何処にでもあるといえばあるものが多く、建物自体の魅力に展示物がぼろ負けに負けている。なお、入館料は無料だが、休館日は顕彰記念館と同じだ。
県指定文化財 旧神崎郡役所
(福崎町立神崎郡歴史民族資料館)指定年月日 昭和62年3月24日
所有者・管理者 福崎町この建物は明治19年(1886年)、神東(じんとう)・神西(じんせい)郡役所(明治29年神崎郡役所と改称)として建設され、以後、当地方発展の中心的役割を果たした。もと福崎町辻川道北にあったが、昭和57年現在地に移築し、神崎郡歴史民族資料館として利用されている。
建物は木造二階建て・下見板張・ペイント塗・日本瓦葺、基礎には花崗岩を用いている。玄関部はギリシャ建築様式を取り入れた二段式で、1階部は角柱でドリス風柱頭飾、2階部は丸柱でコリント風柱頭飾とするなど、外部の意匠に特色をもつ明治建築物である。平成元年10月 兵庫県教育委員会
なお「柳田國男・松岡家顕彰記念館」は、柳田國男の旧姓が松岡で、早世した3人を除く男兄弟が4人いる事などなど、最低限の事前学習なしには楽しむことはできない。
辻川通りへ戻るも、まだまだ見所、食べ所満載
辻川山公園駐車場から「もちむぎのやかた」へ直行する歩道もあるが、あえて広い道を戻り辻川通り(銀の馬車道)に復帰する。
辻川通りに出て3軒目が、大正時代に建てられた「旧辻川郵便局」で、国登録有形文化財なれど、今なお難波不動産商事が入居する現役の建物だ。「国登録有形文化財」登録制度とは、主に明治以降の建築史的・文化的意義のある建造物に対して、緩やかな規制のもとで幅広く保護の網をかけることを目的としているので、不動産屋さんが営業していても不思議ではない。
国登録有形文化財 旧辻川郵便局
所有者 三木素位
登録年月日 平成20年7月23日
所在地 福崎町西田原字道北1107-1元大庄屋三木家の9代当主拙ニ(せつじ)氏が大正11年に辻川郵便局長就任を機に「馬車道」沿いに建築されたと考えられます。建物の特徴は擬洋風建築とし外壁は下見板張りで上げ下げ窓を備えており、屋根と玄関及び掲示板の庇にそれぞれ異なる飾りつき板が施されています。さらに軒裏に郵便局のマーク「〒」をデザインした菊の花、桜の飾り彫りを施していいます。
昭和31年に福崎郵便局と改称され、玄関扉に福崎郵便局の文字が残っています。郵便局舎だけでなく、大正12年から電話交換業務も開始しており、昭和35年に郵便局の場所が変わりますが昭和42年まで電話交換業務が行われていました。辻川区
銀の馬車道
辻川郵便局の隣が「大庄屋三木家住宅」だ。400年以上前に建てられた土蔵など、ほとんどが江戸期の建造で、通りに面した部分だけは、細い道を「銀の馬車道」に拡幅したときに作り直されている。
建物の傷みは激しく、修復工事を始めようとしているが、10億近い費用と10年以上の歳月を要するといい、いま福崎町では、大庄屋三木家住宅を「なんとかしようや!」という『なんとか庄屋募金』が絶賛開催中。
銀の馬車道沿道
「大庄屋三木家住宅」(県指定文化財)明治初年、新政府は生野銀山を国有化するとともに、最新設備を導入して銀の増産を計画しました。必要な物資を生野へ、また産出された銀を姫路市の飾磨港まで運ぶために「日本最初の高速産業道路」が明治9年に完成しました。辻川地区内の馬車道建設にあたったて、三木家をはじめ沿道の人々は田や住宅の一部を売り、道路拡幅等に協力しました。
三木家の表門や土塀や厩などはその時に作り直され、現在のようになったということです。
三木家には馬車道に関する資料として、明治7年の「馬車道潰地絵図」や明治8年の「馬車道潰地書上帳」が残っています。福崎町/辻川界隈
県指定文化財 三木家住宅
指定年月日 昭和47年3月24日
所有者・管理者 三木美子 平成16年11月から福崎町三木家は、英賀城主の後裔で秀吉の中国地方討伐後、この辻川に移り住んだと伝えられる。江戸時代には代々姫路藩の大庄屋をつとめた家柄である。
住宅は、表座敷・副屋・離れ・内蔵・米蔵・酒造蔵・角蔵・厩・表門等からなる。
表座敷は文文2年(1737年)頃、離れは安永2年(1773年)につくられている。土蔵造りの蔵は、元禄10年(1697年)建設の内蔵、正徳3年(1713年)に建設、文政10年(1827年)に造替された酒造蔵など建設年代が明らかである。
いづれも旧態をよく残しており、近世大庄屋の屋敷構えを示す貴重なものとなっている。平成5年11月 兵庫県教育委員会
巌橋、柳田國男生家、柳田國男・松岡家顕彰記念館、神崎郡歴史民族資料館(旧神崎郡役所)、旧辻川郵便局、大庄屋三木家住宅と続き、「銀の馬車道」歩きだったのか、福崎町歴史探訪だったのかボーッとしながら歩いていると、大きめな「銀の馬車道」案内板が立っている。
場所は「もちむぎのやかた」の裏側で、「もちむぎのやかた」は辻川通りに背を向け、玄関は北向きに柳田國男の生家の方を向いている。
生野〜姫路へ、現代に面影のこす昔さがしの道
銀の馬車道■日本初の高速産業道路(福崎町・辻川ルート)
「銀の馬車道」は、明治の初め生野と姫路市飾磨港の間の約49kmを結ぶ道として作られた別名「生野銀山道」、「生野鉱山寮馬車道」とも呼ばれました。馬車専用道路で、「日本初の高速道路」です。
生野(朝来市)から市川町屋形を経て南下してきた馬車道は、辻川を東へ向かいます。その通り沿いには、柳田國男生家跡(石碑)や大庄屋三木家があり、熊野神社の横から西光寺を通り姫路市へとつながります。柳田國男生家(県指定文化財)
文化勲章を受章した民俗学者柳田國男(旧姓松岡)は医師であり国学者の松岡操の6男としてこの家に生まれました。もとはこの街道沿いにありましたが、現在は鈴の森神社の近くに移築されています。
國男はこの生家を「日本一小さい家だ」といい、そこから民俗学への志も源を発したといってよいと著書「故郷七十年」の中に記しています。大庄屋三木家住宅(県指定文化財)
三木家は英賀城主の後裔で秀吉の中国地方遠征後、この辻川に移り住み、姫路藩の大庄屋として地域の政治・文化の中心でした。古い建物は300年以上にもなります。平成16年に建物を譲り受け、現在は福崎町所有となっております。
柳田國男は10歳の頃1年間預けられ三木家の書物を読み耽っていました。歴史民俗資料館(旧神崎郡役所/県指定文化財)
明治19年に神東・神西郡役所(後に神崎郡役所と改称)として建てられた建物です。昭和57年、現在地に改築・復元し、資料館として開館しました。ギリシャ風建築様式を取り入れた二段式の玄関や手作りの階段手すり、元郡長室の暖炉など、文化財的にもすぐれた明治建築です。鈴の森神社(狛犬)
「うぶすなの森の山もゝこま狗はなつかしきかな物いはねども」柳田國男は幼少の頃、狛犬にのって遊んだということです。
鈴の森神社にはヤマモモの大木もあり、國男少年の思い出が詰っています。市川流域アメニティ推進協議会
<朝来市・神河町・市川町・福崎町・姫路市>
10:30
「もちむぎのやかた」内のレストランは、11時にならないとオープンしない。30分待って、銀馬車御膳を食べるか、すでに福崎町歴史探訪で45分も費やしているので先を急ぐかの選択をしなくてはならない。
いくら食い意地の張っている私でも、ここでさらに30分を無為に過ごし、そして食べるのに30分もかけるのには躊躇してしまった。「銀馬車御膳は次の機会にしよう」。
もちむぎのやかた前では、「もち麦」が実り風に揺らぎ、傍らに解説板が立ていた。
ここでもち麦を栽培しています。
これであなたも「もち麦博士」
播州福崎もち麦の話
もち麦はどこから来たか
オオムギに属するもち麦は、紀元前3000年頃までに西南アジアで栽培化され、ユーラシア大陸全土とアフリカ東北部に伝播しました。モチ性のオオムギは日本・中国・朝鮮にしかありません。日本では中国地方・四国地方・瀬戸内海に面した諸県と九州北部の諸県に僅かに栽培され、自家用として食されて。「もちむぎ」「だんごむぎ」などとよばれていました。
当時、播州福崎でも、もち麦は古くから伝わって栽培され、「福崎町八千種で黒紫色の麦を粉にして「だんご」として食べていた」と聞きます。栽培は昭和30年頃には一度途絶えていましたが、昭和61年から鍛冶屋地区で試験栽培を行い、その後、生産組合中心に普及しています。もち麦=植物としての形態=
もち麦が裸麦であることや成熟してくると紫色が多いのは、脱穀しやすいこととモチ性とウルチ性を外見的に区別できるように選抜や育種がされた、と考えられています。
もち麦の加工・消費
福崎町八千種では、古くは製粉して「もちだんご」として食べられていました。現在好評を博している「もちむぎ麺」は、昭和62年から開発を始めて試食検討を重ね完成し、平成2年に設立された第3セクター「鰍烽ソむぎ食品センター」が発売元になています。関連商品には「もちむぎカステラ」「もち麦精麦」などがあります。また、町内の加工グループ「もち麦会」「ベジタブル会」「福崎加工研究会」では、もち麦を素材にした新しい郷土料理や加工品の研究を行っており、生産・販売・消費に町・農協・商工会など一体となった町ぐるみの取り組みがあります。
平成7年2月には、製麺が見学でき、もちむぎ麺の料理が食べられる特産館「もちむぎのやかた」がオープンしました。「もちむぎ麺」農林水産省食品流通局長表彰 受賞
(時:H5.3.17 於:'93ふるさと食品全国フェアー)
受賞理由:麺にならないと考えられていた「もち麦」を利用して作られた麺。もち麦独特の香ばしさをもち、コクがあってコシが強く、長時間煮ても煮くずれをおこさない。生産から商品化まで全て地元で行い、生産されるもち麦は転作作物である。健康によいもち麦
もち麦は、植物繊維のひとつであるβ-グルカンを多く含んでいるため、コレステロールを低下させる働きがあり、アメリカ・カナダ・オーストラリア等で健康食品として注目され、育成や栽培も始まっています。
β-グルカン含有量の比較 モチ 裸麦 4.0〜5.3% 水稲 0.1%前後
ウルチ 裸麦 3.1〜3.7% 水稲 0.1%前後
そして「次の機会」第四次踏査(5月4日・ドライブだが)が早くもやってきた。寺前駅前の余田屋さんで「銀の馬車道ラーメン」を食べてから、もう一食とお腹を膨らませて「もちむぎにやかた」を訪れた。
だが、ゴールデンウィークの真っ最中なのと、着いた時間が1時半と少々遅れをとったためか「銀馬車御膳」は売り切れ。仕方なく頼んだのは「ざる麺」。その見た目は「ざる蕎麦」とそっくり。
でも一口食べると、目からの「これはざる蕎麦だ」という情報と、蕎麦にはあるまじきコシの強い食感とが、一体私はなにを食べているんだろうという混乱を惹起してしまう。二回目からは、そんなことはないだろうが、面白い体験だった。目的の「銀馬車御膳」は、次の次の機会の楽しみとしよう」。
そして私の食い意地の強さにより「次の次の機会」第五次踏査(5月8日・輪行)が早くもやってきた。絶対に食べてやるぞと強い意志の元、折り畳み自転車で、レストランオープンの11時よりも20分も前に「もちむぎのやかた」に到着した。
そして開店し、一番乗りで入店し「銀馬車御膳」を注文。「季節焼八寸、揚げ物、もちむぎ団子あんかけ、茶碗蒸し。もちむぎ麺、もちむぎプリン、麦飯、香の物」と地元の産品と、もち麦を最大限に活用した内容は十分に満足できるもので美味しく頂いた。なお、「銀馬車御膳」に「かも鍋」をを追加した「やかた御膳」なるものもあるが、銀の馬車道の名前が入っていないので食べるわけにはいかなかった。
デザートとして注文したのは「もちむぎソフト」で、香ばしくこれも美味しかった。でも、もっともっともち麦の味を出したらと思うが、そんなことをしたら粉っぽくなるな。なお、もちむぎソフトはもち麦関連特産品やスーベニアを販売しているショップ部門の取り扱いになるが、レストランからも注文可能で、一つ280円。
もちむぎのやかたのお品書き(税込)
銀馬車御膳 1365円 季節焼八寸
揚げ物
もちむぎ団子あんかけ
茶碗蒸し
もちむぎ麺
もちむぎプリン
麦飯・香の物やかた御膳 2100円 銀馬車御膳に人気のかも鍋の
セットにいたしました。三味麺御膳 1785円 冷たい麺三種
天プラ、お造り
茶碗蒸しなど
バラエティにとんだ
人気のメニューです。天ざる定食 1470円 ボリュームのある
天ざる麺
造り、茶碗蒸しも
ついてます。鴨鍋 1050円 鴨ともち麦麺の
相性がぴったりです。
ご自分でたいて
ゆっくりとお楽しみください。
鴨鍋のあとには
雑炊セットがおすすめ!
315円鍋焼き 1050円 通し揚げの大海老
天プラがついて
ご飯もあり
色々な具材の味が
出ておいしい!もちむぎ みそかつ定食 1155円 日本産豚カツに
もちむぎ味噌を
たっぷりつけて。
もちむぎ麺付麦とろ定食 892円 大和芋のとろろに
こだわり卵を
そえて。
もちむぎ麺付天丼セット 1155円 大海老天プラ二匹と
野菜天プラいっぱい
もちむぎ麺付天丼 単品 682円 麦とろめし 472円 おむすび 315円 ご飯 210円 てんぷら麺 892円 通し揚げの
大海老
天プラ二匹鴨つくね南蛮麺 892円 鴨ロース
鴨つくね入り
大人気です。きつね麺 682円 ひきわり油で
揚げたきつね
二枚入りすじ麺 840円 じっくり煮込んだ
すじがたっぷりおかち麺 714円 おもち大好き
な方には
おすすめ揚げ出し麺 735円 根強い人気の
揚げ出し系カレー麺 840円 黒毛和牛の
すじ煮込み
カレー
じっくり味わい
下さいかけ麺 577円 何も入れない
そのままの
もちむぎ麺ちびっこセット 630円 ちびっこの大好きな
おむすびに
ソフトクリーム
おもちゃ付ミニ麺 472円 (きつねのみ)
こぶりな
もちむぎ麺
きつね一枚お子様ランチ 945円 ざるとろろ 735円 山かけ麺 798円 大和芋
たっぷりと
こだわり卵で天ざる麺 987円 人気の定番
メニューですおろし麺 714円 新メニュー
大根おろしなど
いろいろからみ
あって…。えびおろし麺 840円 大海老の
天プラに
こだわり卵と
大根おろしが
何ともおいしいざる麺 609円 もちむぎ麺の
もちもち感を
味わって下さい。冷やし五種麺 892円 トッピング
いろいろで
味わって下さい
県道218号線で姫路市へ行くぞ
10:33
今回は何も食べなかった「もちむぎのやかた」を後にして、辻川通りを東へ進み、どっちかなのY字路を右に進むと岩尾川で、辻川山公園に移設された石橋「巌橋」が架かっていたところだ。
巌橋から先も細い細い「銀の馬車道」が続き、これが本当に明治時代のメインストリートだったのか信じられないが、そうするとほかの道はどんだけ狭かったのだろう。
10:36
「銀の馬車道」は太い道に合流し、この先の田尻交差点で二桁県道(県道23号線)を横ぎる。下の写真では交通量は少なく見えるが、この先の交差点が鬼門のようで信号待ちの列が延びているし、右側の緑色シートの脇道から出てくる車も多く、この写真を撮るのに5分もかかってしまった。
この右手は福崎東交番で、窓からの視線を感じながらのセルフポートレイトであった。
福崎東交番の前にも「銀の馬車道」案内板が立っている。
「銀の馬車道」
生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道:という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。
ここから北方に、民俗学ゆかりの辻川界隈の町並みがつづき、当時の面影がしのばれます荷馬車
馬車道の荷物運搬は、上図のような二輪車でした。
荷台の先に舵棒をつけていましたので四つ角などでは大きくまわらなければなりませんでした。柳田國男生家と記念館
民俗学のふるさと福崎町が誇る民俗学者柳田國男、日本画家松岡映丘、歌人井上通泰、言語学者松岡静雄、医学者松岡鼎5兄弟の生家が緑あふれる自然のなかにたたずんでいます。市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)
10:45
「銀の馬車道」は池尻交差点で県道23号線と交差する。写真の日産チェリー福崎の右側の細い道(県道218号線)が、「銀の馬車道」の続きだが、この交差点は六差路?なので、信号の待ち時間が長い
私が写っていない写真がときどき現われるようになってきたが、ノルディックウォーキング用ポールとセルフポートレイト用三脚と、そして私を交えての三つ巴の格闘が佳境を迎え、いささかうんざりしてきたのだ。
10:53
県道218号線にして「銀の馬車道」である道は、は播但連絡道路と交差する。深くもぐる車道とは別に、ほぼ水平な歩道が設けられている。ここでノルディックウォーキング用ポールと写真撮影用三脚の相性の悪さに嫌気が差し、ポールをザックに括りつけてしまった。でも2段のポールは縮めてもあまり短くならず、まるでザックからアンテナを生やしているようだ。
ノルディックウォーキング用ポールが足への負担を大幅に減らし楽に歩けるのは事実なのだが、こんなセルフポートレイトばかり撮っている私には両立できないことは、山歩きでトレッキングポールを使っていて分かっていたことだが、何とかなるのではという考えは甘かった。
播但連絡道路の下をくぐってから、落ケ池を始めとして溜池が次から次へと現われるが、これらは市川左岸に福崎町から姫路市北部へ延びる河岸段丘「西光寺野」の開拓のために、明治40年代から始まった「西光寺野疎水」によるもので、「銀の馬車道」が活躍していた頃は松林が続くばかりの荒野で、民家も何もなかったという。
市川町の岡部川から取水し西光寺野の溜池まで、隧道を8本も掘り抜き、水路橋を5ヶ所も架けた総延長8.8kmに及ぶ「西光寺野疎水」は、「銀の馬車道」に次ぐ私の踏査の対象として必要にして充分なものだ。さて長靴を買おうかゴムボートにしようか。それとも水路隧道を抜けるにはスキューバダイビング技術がが必要かもしれないので、Cカードを取得するのが先か。
10:58
金垣内池のほとりに、屋根掛けされた道標がある。「右 しん志ゆ 左 たしま」としか私には読めないが、この道を南に行くと「播州」、北に進むと「但馬」という意味なのだろう。
ここで重大な問題が発生してしまった。カメラのシャッターが切れなくなってしまったのだ。オートフォーカスでレンズの鏡胴が自動的に伸び縮みしなければならないのが、縮むが伸びなくなってしまったことによりピントが合わず、シャッターが切れないのだ。手で鏡胴を目一杯伸ばせばオートフォーカスが効くことを見出すまでしばらくかかってしまった。
故障したレンズは「キヤノンEF-S 18-55mm 3.5-5.6 IS」で、フォーカスフレキ(レンズ内部の配線部品)の接続不具合によるもので、修理には部品代200円と技術料5,000円に消費税がかかり5,460円だった。でも、なぜかズームが引っ掛かるとキヤノン側で判断し「メスヘリコイド筒」と「ズームリングユニット」を交換しているが、部品代はとられていない。
レンズの修理と同時にカメラ(KDX)のシャッターが寿命だろと取替えを依頼したが、シャッターユニット(3,000円)と前板ユニット(3,595円)に重修理の技術料18,000円と消費税で25,824円だった。キヤノンのデジタル一眼レフ入門機のシャッター寿命は2万5千回ほどを想定しているようだが、2倍以上は持ったことになる。でも合わせて3万円以上の修理代なら、欲しかった防水コンパクトデジカメを買える金額なので迷ったが、物を大事にすることの重要性を再確認することができたので、よかったことにしよう。
11:06
今度は中国自動車道の下をくぐる。歩道はこの先もないが、通行量は少ないし、大型車も入ってこないし、国道312号線の無歩道区間のような恐ろしさは全く感じられない。
11:19
西光寺野交差点を直進し、姫ケ池の堰堤を行く。この池の中に石灯篭がぽつんと立つ姫ケ池は「銀の馬車道」後に築造された物で、私の歩いている堰堤上の道は「銀の馬車道」ではなく、堰堤下の道も線形的に「銀の馬車道」ではありえない。つまりこの部分の「銀の馬車道」は堰堤の下に埋まってしまった可能性が大きい。
11:25
小さなお堂と火の見櫓が目印の上中島公民館の前に、福崎町最後の「銀の馬車道」案内板が立っている。「銀の馬車道」が銀の馬車道として活用されていた頃の、この西光寺野は無人の荒野が広がり、その当時のことを語り継ぐ人が元々存在しなかったためか、福崎町以南での「銀の馬車道」は盛り上がりに欠ける。
でもこの道幅といい真っ直ぐさといい、「銀の馬車道」であるのは間違いない。
「銀の馬車道」
生野鉱山から飾磨津(港)までの輸送路として造られた馬車道は、「生野銀山道」「鉱山寮馬車道」ともよばれ、全長約49kmにわたる道路で、フランス人技師レオン・シスレー氏を技師長として、当時の最新土木技術を導入して、明治6年に着工され、同9年に完成しました。
その後、明治28年播但鉄道(現JR播但線)が開通するまで、播磨と但馬を結ぶ産業道路として、市川流域の発展に大きな役割を果たしました。
市川流域アメニティ推進協議会では、この馬車道に「銀の馬車道:という名称をつけ、多くの人々に親しんでいただくための活動をしています。
ここは、福崎町のほぼ南端で、これより北7kmが福崎町の「銀の馬車道」になります荷馬車
馬車道の荷物運搬は、上図のような二輪車でした。
荷台の先に舵棒をつけていましたので四つ角などでは大きくまわらなければなりませんでした。柳田國男生家と記念館
民俗学のふるさと福崎町が誇る民俗学者柳田國男、日本画家松岡映丘、歌人井上通泰、言語学者松岡静雄、医学者松岡鼎5兄弟の生家が緑あふれる自然のなかにたたずんでいます。市川流域アメニティ推進協議会
(生野町・大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町・姫路市)
さあ、もう少しで姫路市だ。
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